四.七 ラチャプラソン
雨季もたけなわ。
「暦の上」での雨季の始まりは、僧侶がお寺にこもって修行を始める陰暦八月の満月の日(新しい暦で七月ごろ)のカオパンサー(入安居)の日からだ。その前日にはアサラハブーチャ(三宝節)と言う、お釈迦様が二五〇〇年ほど前にインドのベナレスで初めて弟子たちに説法を行い「仏・法・僧」の三宝を確立した日とされている。この日とカオパンサーの日には、人々がお寺にタンブン(参拝とお布施をして徳を積む事)しに行く重要な仏教日となっている。
暦の上でも雨季を迎えた、曇り空のある日—―。
ナンタワン・ラータナワニットとナリサ・ムンポットジャーンは誘い合わせて、ナリサの事務所からほど近いラチャプラソン交差点の近くにある、簡単なタイ料理が食べられるビュッフェ食堂でお昼を食べていた。
ナンタワンは交通遺児で、ナリサの大伯母のマライ・クンサラワニットに娘として育てられ、ナリサは、マライの姪のプラニーの娘で、赤ん坊の頃はマライの家でナンタワンと姉妹の様にして育ったのだ。
ただ、当時は、ナンタワンは、年が近い事もあってどちらかと言うとナリサの姉のマユラの方と仲良く遊ぶことが多かった。ところが、年齢が上がるにつれ無意識に少しずつマユラの方から距離を置き始めていた。同じ館に住んではいたものの、住む世界が全く違っていた。片や養子とは言え富豪のユッタナー・ラータナワニットの娘であり、片や田舎を飛び出て来た道端の果物売りの娘である。
四年ほどしてランシットに移り住んでからも、マユラは時々母親に連れられてナンタワンの所に遊びに来ていたが、ますます開くお互いの違いから、付き合いは少しづつ表面的な物になって行った。
中学を卒業してからマユラは繊維工場で縫製工として働くようになって、ますますナンタワンとの社会階層的な距離が開いてしまい、遂にはすっかり疎遠になってしまった。
一方のナリサは、四才の時にナンタワンの所を離れたので、一緒に遊んでいたと言う記憶はあまり無かった。その後、ナリサ自身は家族たちのお蔭でそこそこの教育を受けることが出来たことから、幸いナンタワンとの距離を姉のマユラほどは意識しないで来ていたのだ。
ある時、ナリサが「ジャスト」の駐在員事務所に就職したと聞いて、ナンタワンは喜んだ。少し前に、恒久がそのジャストの駐在員を連れて、BOIの自分の所に投資についての優遇措置について聞きに来たことがあった。
ジャストが日本の有名な音響機器やテレビなどのメーカーで、タイで現地法人を設立して、サマートが力を入れている「タナーナコン工業団地」に入居して、テレビをタイで組み立てる計画があると言う事を聞いていたからである。
そうした事がきっかけとなって、ナンタワンとナリサは時々食事を一緒にするような仲になったのであった。
ナリサは日系企業の事務員となった事で、ナンタワンとの階級的な距離が僅かとはいえ縮まったのだ。
姉のマユラはと言うと、相変わらず縫製の仕事を続けているが、根っからのまじめな性格もあって、今や縫製ラインの管理者に抜擢されるまでになっている。妹が日系企業の事務員になって、大学にも通っている事が、姉としての彼女の誇りであり生き甲斐でもあるのだ。
「ねえ、ピー(お姉さん)。ピーには漢字で羅南華と書く名前があるでしょう?私は華人系ではないので漢字の名前がないから作ろうと思っているんだけど、漢字で何か日本人みたいな良い名前ないかな」
ナリサが冷たい冬瓜スープを飲んでいるナンタワンに聞いた。
「レック(ナリサの愛称)の苗字は何て言うの?」
「苗字はムンポットジャーンと言うの」
それを聞いたナンタワンは暫くスープを飲んだり、カオガパオカーイ(鶏挽肉のバジル炒めご飯)を食べたりしながら、メモ帳に名前の候補を色々と書いたり消したりしていた。
「候補が出来たわよ。苗字のムンポットジャーンのムを使って、日本語でムと読む「武」にしたわ。名前のナリサは二つとも日本人の女の子の名前らしくて私はどちらも好きだけど、どう?」と言って見せたのが、武奈梨沙と武那梨沙であった。
「わーなんか素敵。那梨沙の方が良いかなー。武那梨沙かー良いなー。ありがとう、でもピー凄い」
「どういたしまして。中国語も結構勉強させられて、色々な漢字も結構覚えさせられたからね」
二人がナリサの名前を書いたメモ帳を見ながら話していると、「あれー!ナンタワンさんとナリサさんじゃないか」と言う声が後ろから聞こえてきた。
なんとそこには、左右田恒久が驚いた顔をして立っていた。
ナンタワンが、「あれ、ツネヒサーさん」と言ったのと同時に、ナリサも、「あっ、ジームさん」と言ったまま三人の間に一瞬沈黙が訪れた。
三人にとってこれは「大事件」である。
ナンタワンはナリサと恒久を、ナリサはナンタワンと恒久を交互に見比べ、一体この二人はどう言う関係なんだろうかとそれぞれが思いを巡らせていた。一方、恒久はナンタワンとナリサがまさかお互いが知り合いだったとはと、あ然としていた。
「驚いたよ、二人は知り合いだったの?」
「ええ、ナリサとは親戚みたいな関係なの」
と、ナンタワン。
「えっ、それではナリサさんもタナー一族ってこと?」
恒久が聞くと、ナリサが「いいえ、でも遠い親戚みたいなの。ちょっと複雑で、ネ!」と、ナンタワンの方をチラッと微笑みながら見て答えた。
「そうなの、小さい頃一時期シーロムの家で一緒に育ったの。ナリサ達がランシットに引っ越してからは本当に時々会う程度だったけどね。最近は、私がこちらの方に用事で来た時は、時々こうして一緒にお昼を食べたりしているの。それで、二人はどうして知り合ったの?」
ナンタワンが一番聞きたいことを恒久の方を向いて聞いた。
「仕事の関係でね、ほらナリサさんがいるジャストはうちが手伝っているサマートさんのタナーナコン工業団地に入居予定で、それで知り合いになったんだ。僕らは事務所が近い者同士だしね」
恒久は、今度はナリサの方を向いて、「ナンタワンさんのお兄さんのサマートさん知っているでしょう。彼が学生時代にうちに下宿していたもんだから、ナンタワンさんとは僕がバンコクに来るようになって、サマートさんの所に遊びに行った時からなんだ」
恒久は何だか言い訳をしているような気分になって答えた。
「ピーとジームさんがまさか知り合いだとは思わなかったわ。驚いたー!」
ナリサは二人をまじまじと見比べながら言った。
「私もホント驚いたわ。ジャストは、BOIでは私の担当で、ジャストにレックがいるのも知っていて、ジャストのタナーナコン工業団地入居の準備をツネヒサーさんが手伝っていると言うのも知っていたけど、全然結びつかなかったわ……。
あ、ねえツネヒサーさんそこに立っていないで一緒に食べましょうよ」
ナンタワンは、料理の入った皿とスープのカップを持ったまま立っている恒久に目の前の席を指差した。
三人は、顔では笑っていたが、それぞれ別の事を考えていた。
恒久は、ナンタワンともナリサともいわゆる恋人同士だと思っているわけでは無いが、何となく二人が恒久に対して好意以上の感情を持っている事に気が付いているので、二股的になっているのが気がかりであった。
ナリサにしてみれば、容貌と言い、家柄と言い、教育の程度と言い、何もかも全てがナンタワンに勝てる物を持っていない。ちょっと勝負あったかな。ジームさんの私に対するまるでお兄さんの様な接し方は、ナンタワンと付き合っているからなのか。確かに、会っていてもいつも彼の心がどこか遠くにあるような気がしていたのはそのせいだからかな。
で、《ちょっと、ショック》と、ナリサは思っていた。
一方、ナンタワンにとってはもっと深刻であった。初めからどこか近寄れないと言うのか、中に入れて貰えないような雰囲気が漂っているのだ。きっと誰か好きな人がいるのではないかとは思っていたのだ。ナリサと彼が知り合ったのは、彼女がジャストに勤めはじめてからだろうから、まだ一年も経っていないので、自分達が知り合った当時はナリサの事を思っての事ではないのは確かだが……。でも、気になるのはナリサがジームさんとかあだ名で彼の事を呼んでいた事だ。相当親しくなければあだ名なんかで呼ばないはずだ。
ナンタワンに、生まれて初めて嫉妬あるいは羨望と言うような感情が生まれた。これまでナンタワンは経済的にせよ、容姿にせよ、勉学にせよ、男友達にせよ、人に嫉妬したり羨んだりするような状況に陥った事は無かった。いや、一つだけある、実の親を持っている人達に対してだ。だが、それも養父のユッタナーと養母のマライの実の親以上の溢れる愛情に包まれ、そう言った嫉妬や羨望の気持ちは今やすっかり寂滅してしまっている。
あれ以来、ナンタワンは、ナリサと恒久との関係が気になって落ち着かなかった。
《あの二人ってどんな関係なんだろう。ツネヒサーさんは彼女の事をどう思っているんだろう。レックは、「ジームさん」とかあだ名で呼んだりして相当親しそうだわ。私って嫉妬しているのかしら、嫉妬心って怒りの一種だって言う人がいるけど、どう考えても怒りではないような気がするわ。むしろ落胆と言った感じ。レックに対しては特に怒りは無いし、むしろうらやましい気がする。羨望かなー》
ナリサと恒久が知り合いであったことが発覚して以来、ナンタワンは悶々とした日々を過ごしていた。恒久本人に問い質すのが一番早道だが怖くてできない。ナリサの事が好きだと言われてしまったら立ち上がれないかも知れない。ひと月ぐらいしてから、結局ナリサに直接聞くのが一番と思い、ある昼休みに会って聞くことにした。
「ねえレック、ツネヒサーさんの事をジームさんって呼んでいたけど、あなた達どんな関係なの?」
ナンタワンは、ナリサに自分の嫉妬心を悟られないように、出来るだけ優しくかつさりげなく直球を投げた。
「あー、ほら彼ってジーム(笑顔)が素敵でしょ?それで、一人で勝手にジームさんと言うあだ名にしていたの。だからいつも心の中でジームさんって呼んでいたの。で、ある時、間違えてジームさんって呼んでしまったのよ。説明したら、結構気に入ってくれたんでジームさんと呼ぶ事にしたの。二人の関係?そうねー、関係と言うような関係があると良いのだけどねー。事務所が近いので時々お昼を食べたりするだけ。私……、ピー(お姉さん)だから告白するけど、ジームさんの事が大好きなの。でも、彼は私の事をまるで子ども扱いで妹ぐらいにしか思っていないの。
ところで、ピーは彼と知り合って随分長いんでしょう?付き合ったりしていないの?なんかさー、彼ってどうも誰か好きな人がいるみたいで、好きな人はピーじゃないかと思っていたんだけど」
ナリサは、窺うようにナンタワンの目を見た。
ナリサの話を聞いてナンタワンは多少ホッとしたものの、それでもまだ落ち着かなかった。
《レックに対するみたいに子供扱いさえもしてもらえていないし、妹とさえも思ってもらえていないわ。ただ、サマートの妹とかユッタナーの娘ぐらいの扱いだわ。そう考えるとやはり嫉妬なのかなー。よくお坊さんの説教で、嫉妬すればするほど自分が不幸になる、世の中には自分より幸せな人はごまんといる、そういう人たちに嫉妬したり羨んでいたら、自分は自然にごまんと不幸になるって言っていたけど……》
ナンタワンは、自問自答していた。
「残念ながら違うわね。いわゆるお付き合いと言う感じではないわね」
ナンタワンは寂しげな声でボソッと言った。
「ピーもジームさんの事が好きなの?」
「分かる?でも、全然相手にもされなくって、私もきっと誰か好きな人がいるんじゃないかと思って。レックの事かなと思って焼きもち焼いていたのよ」
「えー、ピーが私に焼きもちだなんて有り得ないわ。と言うか、逆に誰もがピーに焼きもちを焼いているのよ。だって、大学の時だって男の人を独り占めしてたって言うじゃない?だとするとやっぱり他にいるのかなー、好きな人。あ、そう言えばこの間私のお祖父さんは日本人だって事、彼に言ったの」
「え?それで彼なんか言っていた?」
「へー、そうなんだって言っていただけ」
「ふーん」
ナンタワンは、ナリサに日本人の血が流れている事は知っていた。日本人の血が流れていると言う事で、恒久が親近感を覚えてしまうのではと、また嫉妬心が起きてきた。
《ほんの些細なことなのに焼きもちを焼くなんて。こんな苦しい気持ちなんか嫌だし、口惜しい気がする》
ナンタワンに自己防衛本能が芽生えたのか、目の前の苦しい現実から逃避するかのように、出来るだけ恒久の事を考えないようにしようとその時決心したのであった。
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