四.二 ランスワン
雨季が本格化し、薄黄色に橙色の筋が入った可憐なタマリンドの花が満開となる七月のとある日―――。
左右田恒久が事務所のすぐ裏手にある露店のタイ飯屋で昼食を食べようと席を立ちあがろうとした時、ティプロ(国際貿易投資振興会)・バンコクの次長の高橋和夫が部下の武井健と小柄な眼鏡をかけた中年の日本人男性を伴って事務所に入ってきた。
「おう、出掛けるとこかい?すみませんねぇ、お昼になってしまったね。一寸紹介したい方をお連れしたんですよ」
「いやいや、大丈夫です。どうぞこちらへ、どうぞ、どうぞ。」
恒久は社長室の隣の応接室に案内した。昼時で事務所には恒久しか残っていなかった。
「へー、こんな立派な応接があったんだ!」
いつもは入り口近くの小さな会議室に案内されていた武井が、興味深げにギョロ目をさらにぎょろつかせながら応接室を見回した。武井は、ティプロ・バンコクで投資を担当しており、タイの投資庁(BOI)とのリエゾン(連絡係)をしている。
通常は社長と副社長の客用の応接室だが、社長は日本人商工会議所の定例の役員会で、副社長は日本からの客をゴルフに連れて行って留守にしていた。
「左右田さん、こちらバンドタイ工業の海外事業部長の林さんです。こちらは先程お話しした住井物産の工業団地担当の左右田さんです」
高橋はお互いが名刺を交換し一通りの挨拶を済ませるのを見計らって、訪問の用件を話し始めた。
「実を言うと、バンドタイ工業さんは生産拠点を一部海外に移転させる計画をお持ちで、林さんは移転先候補地の投資環境を調査するために昨日マレーシアからバンコクに入られたんです。ティプロのジョイント・プログラムに採択されて、うちの事務所でお世話をさせていただく事になったんですよ。武井ちゃんが担当でね。
このジョイント・プログラムって、武井から聞いていると思うけど、やむにやまれず海外に生産拠点を移転せざるを得ない中小企業の方々を現地で支援するプログラムなんです。左右田さんの所にお連れしたのは、工場立地を考える上で、もしあれば工業団地も候補に考えているって仰っていてね。それも出来れば日系のと言う事なんで、住井さんが日系では唯一なもんですから」
「はい、そうなんです。うちみたいな中小企業は海外に手足が無くって、どうしても海外に出なくてはいけないんですがどうして良いか分からなくてね」
林がニコニコしながら、待ちかねたように高橋から話を引き取った。
「社長からお前あちこち回って調べてこいなんて言われたんですけど、ただ飛行機に乗って飛行場に降り立っても、そこからどこへ行ったらいいか皆目見当がつかないですしね。
実を言うと住井さんには悪いんですけど、商社さんに始めっから色々とお世話になってしまうと全て商社さん経由になってしまって、自由度が無くなってしまう可能性が有るって聞いたんです。ティプロさんみたいな中立的な所だとそういうしがらみもないし、色々とあちこちを紹介していただけると言うので、とっても助かっています」
林はタバコに火を点けながら続けた。
「今回は、タイに来る前に台北とマニラとクアラルンプールを回ってきました。やはり、あちこち比較しないといけませんので。うちの会社も、最近の急激な円高で一部の製品はすっかり国内、海外共に競争力を失ってきています。で、否応なく無く海外での生産に活路を見つけなくてはならなくなってしまっているんです」
「ほう、国内でもですか?」
恒久の質問に、林はやや薄くなった白髪がちの頭を掻きながら続けた。
「ええ、うちと競合している台湾などからの輸入物は、円高になった分国内価格が下がっているものですから。輸出の方は、主に欧米向けなんですが、あっ!すみません」
林は慌てて会社のブローシュアを鞄から取り出した。
「すみません、うちの製品を先に紹介しなくてはいけないのに。うちの製品はこういう梱包機とか結束機と言ってカートンや荷物に帯ひもを掛ける機械器具メーカーなんです。例のプラスチックのひもを梱包のために自働や半自動でかけるやつで、小型のものから冷蔵庫を包む箱に掛けるような大型のものまで作っています。ま、センサー部分とモーター部分以外はどうってこと無いんですが、組み立てに人件費がかかってしまうんで、台湾製に太刀打ちできなくなってしまったんです」
林は温和な顔をやや引き締めて続けた。
「彼らもセンサーとモーターは日本製を使っているので、組立工程部分の人件費の差がどうしても出て来てしまうんです。最近、台湾も人件費は上がってきてはいますが、日本と比べるとまだ競争力があるんです」
「確かに、人件費は台湾に比べタイの方が大分安いですけど、センサーやモーターを日本から引いてきたりすると、総コスト面から言うとどうでしょう。人件費のメリットだけで動くのは危険ではないでしょうか?」
恒久は、人件費が安いだけで出てきて失敗するケースを見ていることから、やや疑問を呈するような口調で聞いた。
林はニコニコと受け流し、話を続けた。
「そう、人件費だけでは確かにメリットは少ないですが、輸出企業に対する所得税の免除や輸出品に使う部品に対する輸入税の減免などの優遇措置があると聞いているので、それらの措置がもし受けられるとどのぐらいメリットがあるのか調べられればと思いまして。それから、鉄板、ネジ、プラスチック部品、電線などが精度の面を含めてどのぐらいこちらで調達出来るかですが、値段的にこれもある程度メリットがあると良いと思っています」
林の説明が終わるのを待ちかねるように、高橋が話し始めた。
「実を言うと、ティプロの東京本部でバンドタイ工業さんの案件について事前に内容をお聞きして、ある程度可能性がありそうだという判断があって支援プログラムに採択したと聞いているんです。東京本部でリテインをしている民間の海外投資アドバイザーの方がある程度事前にお話をお伺いし、必要なアドバイスを差し上げたりもしているんですよ」
「なるほど、総合的に考えて、比較されているのですね。部品などの精度の面ですが、確かにタイはいわゆるサポーティング・インダストリー(部品産業)がまだ育っていないですが、一応それなりのものは手に入ります。ただ、どこまで求めるかですね、精度を」
恒久は林と高橋の説明を聞きながら、早とちりの意見だったと恥じいりながら、取って付けたように言った。
横合いから、武井がうずうずしながら聞いていたが、この時とばかり口を挟んだ。
「そうなんです、精度について林さんの工場でどこまで求めるかですがね。いや、これは人から聞いた話なんですが、日本の工業技術院の方がここの工業省の標準担当の課長に、メートル原器(摂氏零度の時に一メートルになるように設定された従来の長さの基準となる物、)は何処にあるか聞いたそうです。
そしたらその課長は、くるりと振り向きここにあるよと机の後ろにあるごく普通のロッカーから、がたがたとあちこちぶつけながら手づかみでホラッて出したと言うのですから。まあ、話し半分どころか、本当かなーとは思いますがね……」
武井はさも自分が見てきたかのように得意げに続けた。
「メートル原器って、通常ロッカーなんかに入れて置くようなものではないんですってね。こちらの大手企業は、工業省を当てにせずに自前で持っていてきちんと管理しているんですって」
放っておくと、武井の話は止まらなくなるのが常なので、恒久はここで食事に誘うことにした。
「高橋次長、話の続きは食事をしながらどうですか?林さん何かご希望ありますか?」
「長旅のようですので、やはり日本食が良いのではないでしょうか?」
武井は自分の食べたい日本食に誘導した。武井は、仕事熱心で非常に親切なのだが、こと食事の事となるとまずは日本食にこだわる。ただ、相手が希望を述べれば嫌な顔をせず従うという人の良さがある。
「そうですねー。久しぶりのタイですので屋台風のところでタイ料理も魅力的ですよね」
さりげなく林は、武井の球を投げ返した。
「屋台と言うとやはり衛生面で心配があるでしょうから、いわゆる屋台ではありませんが、そこのリージェント・ホテルの横の細い道を裏のほうに少し行った所に何軒かそれこそ屋台風のタイ飯屋があります。バーミー(タイ風中華そば)とかガイヤーン(タイ風焼き鳥)とかがあるんです」
恒久は、自分のお気に入りのタイ飯屋を推薦した。
で、「もう一つは、車で行く事になりますが」と、高橋が引き取った。
「今日は、女房が使わないと言うんで、車があるんですよ。ほら左右田さんも知っているでしょう?この前の通りのラジャダムリ通りを左に行って、ルンピニー公園の所のサラシン通りを左に入り、ランスワン通りの辺りに『陳利大飯店』と言うタイ風中華料理店があるでしょう?」
林の方を向いて、「こちらの方が衛生面では少しは安心だと思うんです。料理もなかなか美味しいですし。観光で来られた時に行かれたと言う有名なパイブーン・レストランはちょっと遠いですし、味はパイブーンに負けていないと思っています。
結局、高橋が推した陳利大飯店に腰を落ち着け、お皿や茶碗、箸を紙ナプキンで丁寧に拭きながら、恒久は高橋に質問した。
「前から高橋次長にお聞きしようと思っていたんですけど。林さんを前にして恐縮ですが……、円高で国内では産業の空洞化が議論になっているのに海外投資の手伝いをティプロがすると言うのはどう説明するんですか?」
「確かに、海外直接投資の支援は国内産業の空洞化を助長するとして批判するむきも有ってね。でもねー、止むに止まれず海外に生産拠点を移さざるを得ない中堅・中小企業の方々を支援するのは国益に反するものでは決してないんですよ。
企業ベースで考えると、工場を全部たたんで海外に出て行く場合は、確かに雇用は失われてしまいますが、不採算の部門を海外に持って行き、残る部門を付加価値のより高い商品に転換していけば、雇用はある程度守れる可能性が有るんです。
企業にとっては死活問題ですから、勿論海外に出て行くななどとは言えないですしね。従って、空洞化の問題に関しては、政府の役割が重要になってくると思うんです。
産業レベルで考えると高付加価値製品にシフトさせてより高度化させていく必要が有るので、国がそうした産業の育成策を取る必要があるんです。左右田さんも知っての通り、かつて日本は繊維産業が強かったですよね。それが徐々に香港、台湾や今やタイに移ってきているでしょう?代わりに高度成長期の重化学工業化政策、そして、近年は自働者や電機・電子、エレクトロニクスと代わってきていますよね。
その間雇用のミスマッチが起きるけど、困っている個人には職業紹介や職業訓練と言った手立てがあるし、困っている中小企業には低利融資や、海外に出ざるを得ない場合は、海外の情報の提供のお手伝いが必要と言う事になるんです」
高橋は、空(パッ)芯(ク)菜(ブン)炒めに入っているとびっきり辛い青唐辛子を噛んでしまったらしく、顔を真っ赤にしてせき込みながら水を飲んでからまた続けた。
「それに、海外への投資は、ただ出て行きっぱなしではなくて、現地での再投資分を除き、海外の子会社、支店からの収益や、株式とか債権の配当や利子などの投資収益が日本に戻って来るんです。
例えば英国、アメリカのように、貿易による収益(貿易収支)よりも海外投資による収益(所得収支)が上回っている国もあって、日本もいずれそうした成熟した時代が来ると思うんですよ。
話がちょっとそれたけど、海外投資を支援するってことはとても重要な事なんですよ。一方で、ティプロとしてはと言うか、日本は逆にもっと海外からの直接投資を促進してより高度な経営資源、技術などを海外から連れてくるべきだと思っているんですがね……。所で、賃金の話なんですけど」
高橋は、何時もの持論が出て来て話が止まらなくなりそうだと思ったのか、自ら話題を変え林を見た。
「七十年代の終わりごろから八十五年のプラザ合意までは大体一バーツ十円見当だったんですよ、ところが為替調整で今は一バーツ五円強と約半分になってしまったでしょう?例えばバンコクの最低賃金が今は一日七三バーツですが、一バーツ十円ですと七百三十円。所が、ここ一、二年に新しく出て来ている人たちは一バーツ五円で計算しますから、一日三百六十五円、ワアッ安いって事なるんです。倍の百四十六バーツ払っても七百三十円。しかし、ワーカークラスは工場の前に募集の張り紙を出せばあっという間に数百人の応募があるので今はあまり問題は無いんです。ただ、日本の企業が今やどんどんと押し寄せてき始めているので、技術者や職長・管理職クラスは人手不足になっています。新しく来た五円時代の企業はこれまで一〇円時代を経験してきている企業の給与の倍払ってもペイするもんですから、今までの倍近い給与で募集するんですね。
一〇円時代の企業はまさか今までの給与を全員急に倍にするわけは行きませんからね。するとほとんど同じ仕事で、今までの給与の倍もらえるとなれば当然そちらに行きますよね。いわゆるジョブ・ホッピングどころではないんですね。倍ですから。ホップ、ステップを通り越してジャンプになってしまうんです。結果的にいわゆる「引き抜き」になってしまうんですね。
ティプロでもこの間、筆頭クラスの現地スタッフを、新しく進出されてきたメーカーさんに引っこ抜かれてしまいました。うちは政府関係機関ですからもともとそんなには出せないんですが、それでも日本語が出来る優秀な人材でしたのでかなり優遇したつもりで月に二万バーツ出していたんです。
日系企業からオファーが有ったので辞めたいとそのスタッフが言って来たんですが、彼は貴重な人材で、現地スタッフの取りまとめ役的存在でもあったので、東京本部には給与を上げて貰うべく交渉しましたが、せいぜい頑張って二十%アップがマックスだと言われましてね。
私も、東京で予算を担当していたことがあるのでそんなところかなと思って、彼に聞いてみるとなんと倍の四万バーツのオファーだと言うので引き止めるのを諦めました。
日本では年功序列賃金だし、辞めて新しい所に移ると中間採用者は大体給与が下がるし不利なことが多いのであまり会社を移ったりしませんが、こちらは少しでも給与・待遇の良い方に移るのは当たり前の世界ですから致し方ないんですが、さすがに一気に倍と言うのはね。
私の前任の次長だった先輩が電話をしてきて、『駄目じゃないか、お前、スリチャイさんを他にとられてしまったらしいな!あれだけ彼は手放すなと言っておいただろう』って怒られたんですが、『いや倍の四万バーツで』と言ったら、『え、四万?そうかーそれじゃあしょうがねーな』と納得してくれましたけどね。だからと言って、倍の給与で引っこ抜かないようにとは勿論言うつもりは無いですが、そこそこ常識的な給与で、かつ始めは大変ですけど出来るだけ自社内で人材育成をしていくような事も併せて考えて行くと良いような気がします」
高橋は、言葉を選びながらそれとなく注意を促した。
食後、恒久と武井から、林にタイの工業団地の概要とタイ工業団地開発公社およびタイ国投資庁(BOI)の役割、投資に対する奨励策などを説明したあと、タナーナコン工業団地の概要をスライドを使って説明し、明後日に現地に案内する事としたのであった。
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