第四章 マリ(ジャスミン) 一九八七年~一九八八年

四.一  シープラヤ

 一九八七年七月

 思わぬ時間にスコールに見舞われる本格的な雨季の真っただ中、左右田源一郎は、フィリピン、インドネシア、マレーシアを回って再びバンコクを訪れた。前回、機械事業本部長に就任して早々に、機械類の市場調査の為アセアンを回ってからちょうど一年がたっている。

 ちょうど一年前と比べ一層の円高で、一ドルが約一六〇円から一五〇円前後となっているが、そのさらにその一年前のプラザ合意時は二五〇円であったので、この二年でほぼ百円もの激しい円高となっている。こうした状況下で、日本の輸出中心の製造業は採算が悪化したことによって、海外への生産拠点の移転が急務となっており、必然的に源一郎の担当している機械類の市場展開に影響して来ているのだ。

 源一郎は息子の恒久を伴ってラータナワニット親子と夕食をとるべく、かつて出張に来た時に行ったことのある、チャルンクルン通りに近いシープラヤ通り沿いの日本食レストランの個室に陣取った。源一郎としてはタイ料理といきたいところだが、彼らは日本料理がことのほか好みなのだ。

「ところで、東京のお宅で世話になっている時は、奥さんの手前あまり仕事の話はしなかったけど、既に聞いているかも知れないが、例のタイ亜紡ポリエステルはおかげさまでその後大変に上手く行っていてね。

 亜細亜紡績から送られて来る副社長もミスター犬山から数えて今や四代目だ。あのあと、タイ系のタイメロン社もポリエステル原綿の生産を始めて、タイは輸入に頼る必要のない体制が整ったんだよ。

 最近は、逆にタイ全体でむしろ繊維製品や、衣類などの輸出に力を入れようとし始めていてね。それはそうとソーダー、またアセアンをぐるりと回って来たって言うじゃないか。で、どうだったんだい?タイはどうかね、他のアセアンと比べて」

 ユッタナーは待ちかねたように聞いた。サマートは早速手帳を広げてメモをする用意をしている。

「はい、商務省が繊維製品の輸出促進に相当力を入れているって恒久から聞いています。それで、今回は、アセアンと言っても、マレーシア、インドネシア、フィリピン、タイの四か国だけですけど、今後の機械製品の市場がどう変わって行くかと言う事を中心に調べて来たんです。前回の調査で、実を言うとタイの経済的ポテンシャルは四か国のうちでは一番低い印象だったんです。ところが、最近の急激な円高の影響で日本からの投資がどうなるかによってはタイが結構高くなるのではと思い始めたんです」

「おいおい、けなしたり持ち上げたり、どっちなんだい?」

 ユッタナーは、真剣だ。

 源一郎は、鯖の塩焼きを突っつきながら続けた。

「プラザ合意による通貨調整で、一ドルが百円もの円高になってしまって、日本にいる特に輸出向けの製造業が、先行きを物凄く心配しているんです。ドルベースでの輸出価格を

 上げないと、円での手取りが減ってしまいますからね。でも、輸出価格を上げてしまうと、その分価格競争力を失ってしまいますから。

 日本人は昼夜を分かたず働いて、生産の効率化などによって濡れ雑巾を絞る様にしてコストをして、当面の円高を克服すると、皮肉なことに競争力がまだ残っている思われてか、またさらなる円高になってしまうという、いたちごっこみたいなことを繰り返しているんです。

 ユッタナーさんもサマート君も「川柳」ってご存知だと思いますけど、『働いて円高にして首をしめ』と言う川柳が、先月の日本の経済紙の社説に取り上げられていましたけど、まさに言い得て妙なんです」

 ユッタナー親子は感心して聞いている。

「恐らく日本の製造業は一層のコストダウンを図る努力はするでしょうけど、それも限界があると思うんです

 そうるすと、自動車の様に消費地に近い所で生産する方が輸送などのコスト面や技術的にメリットのある産業は、アメリカやヨーロッパに工場を移すでしょうけど、例えば国際競争の激しい電機・電子製品などは、どこか製造コストの安い所に工場を移そうとしますよね。では何処へか、ということなんです」

 源一郎はメモを見ながら話を続けた。

「それで、日本の企業は何処に生産拠点を移すかと言うと、まず、韓国、香港、台湾、シンガポールといったアジアNIEs(アジア新興工業経済地域)ですが、既に人件費が高くなりすぎてこう言った所で生産して輸出するには、コスト的に合わなくなって来ているんです。

 で、回ってきたアセアン四ヵ国ですが、まずマレーシアはどうかと言うと、確かにまだ日本企業が出て行く余地はあると思いますけど、ある程度飽和感か出てきているし、人口が千五百万人程度と労働力自体も多くない事もあって、人件費もかなり上がってきています。またブミプトラ政策(マレー人優遇政策)や、宗教の違いもありますが、いかんせん部品産業や、中小企業分野が余りにも脆弱なんです。殆ど無いと言うに等しいんです。そうすると、部品の全てを日本あるいは他の国から引いて来なくてはならなくて、その分コスト高になりますよね。

 インドネシアは、法制度整備が思った以上に遅れている事と、特に構造的な汚職の問題が深刻です。また治安の問題、産業集積がバラバラでかつあまり集積が見られない、宗教が違う、インフラが未整備と言った問題があるんです。ただ、人口と資源は魅力ですけどね。

 フィリピンは、政治的にとても不安定だし、治安の問題が特に深刻で、かつ税制、インフラ、特に交通・運輸関係のインフラの問題が大きく、さらに電力不足や、労働倫理上の問題があるといった種々の問題が山積み状態なんです。では、我がタイはどうでしょうか」

 源一郎は、考えながらお茶を飲んだ。

 サマートは、しきりにメモを取っている。

「タイも他の国と同様に、インフラ、法制度、税制、幹部クラスの人材不足と言った様々な問題を多かれ少なかれ抱えていてはいますよね。従って、どの国も問題の所在は少しずつですが違ったりしますけど、投資環境的には似たり寄ったりと言った所だと思います。

 一見、四ヵ国は同じような投資環境と言えますが、タイをもう少し良く見てみると、まず労働力、特にワーカークラスの賃金はインドネシア、フィリピンよりは若干高い程度ですが、マレーシアと比べるとかなり安いです。ごく最近タイに進出してきた電子機器メーカーさんの話だと、タイ人労働者はこの四カ国の中では一番真面目で、器用なんだそうです。特に女性はね。ワーカーの採用試験で、茶碗の中の豆を箸でつまんで、一分間にいくつ別の茶碗に移せるかって言うテストをしたんですけど、タイの女性は、それはみんな器用につまんで見せたそうですよ。勿論、他の三ヵ国は中華系でなければ箸の文化が無いので比較できませんけどね。

 それとタイの治安は、インドネシアやフィリピンと比べると、何と言っても非常に良いようですね。恒久に聞きましたけど、バンコクでも通常日本人が立ち回るような所では殆ど危険は感じないそうですね。

 それからタイは「夜の投資環境」が最も優れているんだそうですね。ある中小企業の社長さんが、大切な社員が熱帯の異国の空の下で、精神を正常に保って行くには夜に気楽に一杯やれる環境が大事なんだと言っていました」

 ユッタナーとサマートはニコニコ顔だ。

「それで、あれやこれやを考え合わせると、お世辞抜きで日本企業の新たな投資先としては、タイが一番良いのではないかと思っている企業さんが多いんです。箸で豆をつまむ試験をした電子機器メーカーさんによると、特にタイのここが優れているからと言うことではなくて、逆にあそこの国は駄目、この国は駄目と消していく消去法で、残ったのがタイだったと言っていました。 

 もしそう言う事で、タイに輸出志向型の日本の企業や台湾、香港あたりからの企業が来るとなると、輸出主導の経済発展が期待できるかもしれないと思いましてね。そうすると、新たに工場を建てて工場設備を入れるとなると、まず機械設備などの資本財の輸入が増加し、次に部品などの生産財の輸入が増える事になります。と言う事で、私の部門の機械事業にとっては、タイが一番のお客さんになるのではないかと言う寸法です」

 源一郎は話し終えて、少し冷えて来た茶碗蒸しを食べ始めた。

「ただ、そうなるとタイの貿易赤字はますます拡大してしまう事になりかねません。でも、ここで対日赤字拡大反対運動をやると、日本からの投資が来なくなってしまう可能性があります」

 恒久が待ってましたとばかりに話を引き取った。

「おいおい、脅すじゃないか。でも、ツネヒサーの言うとおりだ。ただ、タイ政府としては、対日赤字は困ると言わざるを得んだろうな」

 ユッタナーは真剣な顔だ。

「はい、政府が事あるごとに言うのは致し方ないですが、七〇年代の様な日本製品ボイコット運動や反日デモみたいになるとまずいんです……。しかし考えてみると輸入が増えるのは消費財ではなくて機械設備などの資本財ですから、七〇年代とは違いますよね。設備機械などは一般大衆の目に触れる事は無いですから、それはあまり心配する事は無いかも知れません。と言うか、今やラータナワニットさんたちのお蔭で、消費財は全ての分野に日本とタイの合弁企業のタイで生産された日本ブランドの製品が溢れていて、これらをボイコットするとタイの消費経済が成り立たなくなってしまっていますけどね」

 ユッタナーとサマートはニヤニヤしている。

「一方、輸出志向型の企業が増えれば、一時的には工場立ち上げの為の資本財の輸入が増えて貿易赤字が増えても、工場が立ち上がって輸出の為の生産活動が活発になれば輸出が増えて、貿易赤字分が全てとは言いませんが相殺されて行くんだと思います」と、恒久が言うと、「なるほどね、でもそう簡単に行くかね。今度は日本から生産の為の部品などの輸入が増えるのでは無いかなあ」と、サマートが手帳を置いて質問をした。

「そう、対日赤字はある程度増えるかもしれませんが、そうなったとしても、アメリカやヨーロッパへの輸出が増える事になればタイのトータルの貿易赤字は減って行くんだと思うんです。ただいずれにせよ国内の部品産業、いわゆる裾野産業の育成が今以上に必要になると思います」

 源一郎は息子が結構勉強しており、的確な意見が言えるようになっているのを見て、目を細めた。

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