三.六 シー・タンマティラット
住井物産本社からバンコクに出張に来ている左右田恒久の先輩が、中国式の賭博をやりたいと言うのだ。元香港駐在でその当時マカオで結構良い思いをしたらしい。
タイでは競馬以外の賭博は禁止されているので無理だと言うと、「シドニーでさえ禁止されていたが、中華街でもぐりの賭博をやっていたし、ましてや何でもありのタイだ、無い訳ないだろうが、おまえ勉強不足じゃねーのか」と、凄まれたのだ。
この先輩、社内でも有名な、麻雀、競馬、競輪と賭け事なら何でもござれの遊び人で、放って置くと本社に帰って何を言われるか分からないので、サマート・ラータナワニットに相談しにきた。
「と言う訳なんだけど、もし危険じゃなければどこかないかと思って」
恒久は、断られるのを覚悟で聞いた。
「そうなんだ。困ったね。とんでもない先輩を持ったもんだね。違法な賭博で危険じゃない所って無いと思うけどね。ほら、麻雀やっていて手入が入って、逮捕された日本の商社の人達がいたじゃない。この間も新聞に載っていたでしょう?ま、念のためヤイ(長兄ニポンの愛称)に聞いてみるよ。その先輩何日にバンコクを立つの?」
「えっと、今日バングラデシュに行って、金曜日こちらに戻って来て日曜日には東京に帰る予定なんですって。だから、金曜日か土曜日しかないんです」
早速サマートが、ヤクザな世界に入って父親に勘当されてしまったニポンに聞いてくれた所、ニポンが案内してくれると言う事になった。
恒久は、こんな事でサマート兄弟を煩わせることになってしまい、何とも申し訳ないと思いつつ、先輩の勢いに気押されて結局連れて行ってもらう事になった。
金曜日の夜、恒久は、くだんの先輩とサマートと連れ立って、安全な店に連れて行くと言うニポンに引率されてヤワラート通りからソイ・シー・タンマティラットに入り、そこからさらに細い小路に入った。食べ物屋に混じって、数人の派手な身なりの女や、安っぽいサテン風の生地のスリップの様なものを着ている少女達がぼんやりと縁台に座っている何軒かの店がある。
サマートが、少女のいる店を見ながらニポンに「こういう店もやっているのかい」と、聞くと、「まさか俺の所は何時だったかランスワン通りの店に来てもらった様な超高級店しかやっていないよ。それにこんな子供みたいなのは犯罪的だよ、可愛そうに」と、いかにも自分は悪い事はしていないかのように吐き捨てるかのように言った。
「でも、そう言うのって、五十歩百歩って言うんじゃないの」とサマートが言うと、ニポンが睨んだ。
恒久の先輩はいかにも興味深そうに少女たちをジロジロと見ている。ニポンがその様子を見て、殆どが病気持ちだから近づかないようにと先輩の方を見ながら注意したので、恒久は、後で女を世話しろなんて言われたら困るので、大げさに「全員が怖い病気を持っているので危ないので近づかないようにと言っています」と、通訳しておいた。
細い道をさらに二度ほど曲がると、古びた二階家に着いた。
二階家の前に刺青の男二人が、中国風の瀬戸物の丸椅子に腰掛け、所在無げにタバコを吹かしていた。ニポンに気付くと、弾かれた様に立ち上がりあわててワイ(合掌)をした。
恒久の先輩は心なしか怖気づいた顔になっている。
刺青男の開けたドアを通って中に入ると、既にかなりの客が来ており、タバコの煙がもうもうと立ち込めていた。冷房はかなりきつく効いている。
「ここもヤイの店かい?」と、サマートが聞くと、「うんそうなんだ、俺のやっている中国賭博はここ一軒だけしかないんだ。他に行くともっと近代的に機械を使ったりする賭博場があるんだけど、何かあってもそこでは俺はお前達を助けてやれないからな。時々手入が有って、客も一網打尽にされたりすることがあるからね。ここなら、何があっても大丈夫。俺がいる限り絶対安全だからね。
ま、ここはサイコロ博打で全部手動なんでイカサマをやる可能性があるが、もし、ディーラーがうちに大損をさせるようなイカサマをやったら首では済まないから……。ま、そこそこの範囲で客もうちも大損をしない様な調整はここのボスの権限でやってはいるけどね」
ニポンが首をすぼめた。
恒久は要所、要所で先輩に、差支えのない範囲内でかいつまんで会話の内容を伝えていた。
全体を見ると、大きく四つの人だかりが出来ていて、手前の二つの台がファンタン(番攤)で奥の二つの台がタイサイ(大小)の賭博をやっている。
ファンタンは、ディーラーが碁石の山にお椀を上から覆いかぶせザクッと碁石を取り分け、取り分けられた碁石をディーラーが蟹を食べる時にホジホジする竹のヘラの様なもので四個ずつ取り分け、最後に残った碁石の数を当てるというゲームだ。この賭博場はチップではなくすべて現金で賭ける。
ディーラーが碁石をお椀に取り分けると、客は、盤面が幾つかに仕切られた升目に賭ける事になるが、基本は四角の盤面の東西南北の位置に一から四の単数の升目があり、そのどれかにお金を置いて当たると配当が三倍になり、数字の升目の仕切りの上にまたがって(例えば一と二の間に)お金を置くとその半分の配当になる。
客は色々な数字の組み合わせによって異なる配当の升目にお金を置いていく。この賭博場の一回の掛け金合計の最高額は千バーツだそうだ。ディーラーが頃合いを見て賭けを締切り、四つずつ取り分けて残った碁石の数によって、当たった者にはそれぞれの配当に応じて払い戻す。当たらなかったお金はディーラーが没収する。配当を配り終わるとまた碁石をザクッと取り分けまた賭けが始まる。
奥でやっているタイサイ(大小)は、ディーラーが三つのサイコロを壺に入れて振ってディーラー台の上に伏せたまま置く。客はサイコロの出目の合計数を予想して、ルーレットのテーブルに似た盤面の予想した升目にお金を置いて行く。ディーラーが賭けを締切り、壺を開き、出目に応じて当たったものに配当に応じて払い戻す。タイサイ(大小)と呼ばれるのは三個のサイコロの合計が四から十を小、十一から十七を大として、当たると倍になるのが基本のゲームだからで、ルーレットの様に数字の組み合わせで色々な倍率の掛け方がある。
ディーラー達はみな潮州語を使っているが、タイ語、潮州語、広東語などが客の間で飛び交って、さながら喧嘩でもしているかのような喧噪だ。
恒久の先輩が目を輝かせながら、「ここは良いねえ、機械じゃなくて全て手動だよ。機械の場合は殆ど八百長はないけど、逆に味わいが無くってね」と、いかにも遊び慣れた風に言って早速、タイサイの輪の中に入り込んだ。彼は、香港時代に広東語を覚えたらしい。
「恒久君はやらないのかい?」
ニポンが聞いた。
「ええ、オヤジがニューヨーク駐在の時に遊びに行った時に、何度か近くのアトランティックシティーのカジノに連れて行ってもらったけど、殆ど勝てる気がしなくてね。若く見えたらしくって、入る時にいつも止められてパスポートを提示させられ不愉快な思いをしましたよ。あそこは年齢制限が二十一才以上だったから」
「そう、ここは年齢制限なんてないけどね。少しスリルを楽しもうと言う程度ならいいけど。やらないに越した事は無いよ」
ニポンは、楽しそうに笑いながら言った。
「ここは、すべて現金取引みたいだけど、チップでやる所はあるのかい?」
サマートは、もうもうとしたタバコの煙に辟易しながらニポンに聞いた。
「ヤワラート地区にあるこうした中国系の博打場は十軒は下らないと思うけど、現金とチップとが半々ぐらいかな、大きい所はチップでうちみたいに小さい所は現金が多いよ。西洋博打の方はバンコク全体で五~六軒と言う所かな、現金よりチップの方がやや多いかな。うちの西欧博打の方はチップだよ。オヤジに言われているカジノの研究を本格的にするんなら、やはりマカオに行かなくちゃね。マカオには、つてがあるからもし行くんなら俺が案内しても良いよ」
ニポンは、水を得た魚のようだ。
暫く見学しながら、賭博場の経営の問題、ディーラーや従業員管理、賭博設備の調達、安全管理などについてニポンから説明を聞いたのち、三人で二階にあるニポンの部屋でビールでもと言うので、少し休むことにした。恒久の先輩は水を得た魚の様に、客の輪の中に入り込んで賭けに没頭している風だ。
「二ポンさんありがとうございます。ここではニポンさんがいる限り安全だと言っていたけど、警察の手入れがあるんですか」
恒久が心配顔で聞いた。
「時たまあるけど、実は、事前に分かるから大丈夫なんだ。設備なんかを押収されたりするから出来るだけ設備に金を掛けないようにしているんだ。ここがやられたら別の場所でやれば良いしね。面倒なのは担当の警察幹部が変わるとまた一から関係を構築しなくてはいけないことだね。警察も取締りをやっていると言う所を時々見せないといけないしね」
「馴れ合いも良い所だね。ところでさあ、親父はカジノの勉強をしておけって言っているけど、僕自身はカジノに投資する気はないよ。投資するお金があるんだったら、出来るだけタイの産業基盤の発展が促されるような分野に投資したいね」
サマートは確信を持った顔で言った。
「へー、それってどう言う分野だい?」
「例えば、電気・電子機器や自動車などの部品なんかさ。タイはまだそう言う分野が弱くてね。そこが強くなればもっともっとタイは発展すると思うんだ」
「でも、そんな事は政府がやる事じゃないのか?うちは、いや、おたくは民間企業でそんなことやっていたんじゃあ儲からないんじゃないの」
「いや、日本には世界レベルの中小企業の部品屋さんがごまんといてね、そういう所が大手の電機・電子機器や自動車メーカーを支えているんだ。そう言う部品屋さんとうちが合弁でタイに工場を建てて、技術を移転して貰うんだ。
今は、大手メーカーは重要部品は日本から輸入しているんだけど、そういう部品を作っている所に来て貰って、技術者なんかを訓練して貰ってタイで製造が出来る様になれば産業基盤の底上げが出来るんだ。うちは合弁企業に出資した分の見返りがあるっていう寸法さ」
「へえ、そんなに上手く行くもんかね。しかし、やはり親父の目は高いね。俺にはそう言った発想は全くないからな。兎も角目先の利益しか関心が無いから。お前が、タナー・グループを背負ってくれて俺も一安心だよ。俺にはやはり荷が重すぎるよ。
ま、これから今のコンドミニアムの件が片付いたら、また新たな真っ当な仕事をやろうと思っているんだ。例えばもう少し小規模のパタヤでのコンドミニアムや、商業ビルの建設や管理とかね。勿論おたくたちに迷惑が掛からないように今度はもっと慎重にやるがね。そして、出来れば徐々に裏稼業は減らしていくつもりだよ」
「それは良い、オヤジも喜ぶと思うよ。表の稼業なら何かあれば無理のない範囲で手伝うよ」
「ありがとう」
ニポンはお礼を言いつつ寂しそうにタバコの火を消した。
恒久は、二人の会話が微妙な内容になって来たので、ちょっと先輩を見て来ると言って一階に降りた。
方や妾腹だが財閥の後継者のサマート、方や嫡出で長男だが勘当されたヤクザなニポン。二人の間には、周りの者には推し量ることが出来ない愛憎、反発、緊張などが横たわっているようだ。
だが、少なくとも恒久の目には、今夜の二人は仲の良さそうな兄弟の様に見えた。
恒久が、バーで三、四十分ほどビールを飲んでいると、先輩が「いやあ、ありがとう。久しぶりに楽しかった。でも少し負けちゃったけどね」と、嬉しそうに笑いながら戻って来た。
「いやあ左右田君さすがだね。いやあ、あんなディープな所を知っているなんて」と、先輩からお褒めの言葉を頂いたが、全く嬉しくなかった。あんな所に案内出来なくても仕事には支障は無いし、何よりもあのタナー財閥の社長のサマートや勘当されたとは言えあのユッタナーの長男のニポンまでを巻き込んでしまった事を後悔した。
そして、サマートが、自分達がどういう人間かと言う事は内緒にしておいた方が良いと言うので、先輩にはただの友達だとしか紹介しなかった。
サマートやニポンには甘え過ぎてしまった。後悔先に立たずだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます