四.三  スクンビット・ソイ三十九

 今年の雨期の始まりは、日本の梅雨を思わせる様に長雨が続いて始まったが、七月に入ってからまるで四月半ばのソンクランの時分の様に、ひどく暑く全く雨の降らない日が何日間が続くことがあった。

 そんな暑い日が続くある週末、左右田恒久はサマート・ラータナワニットに連れられて、スクンビット通りのソイ(脇道)三十九の奥にあるタイ古典舞踏(タイダンス)学院の発表会の会場に来た。ユッタナー・ラータナワニットの養女のナンタワン・ラータナワニットが子供の頃から習っていたタイダンスの発表会であった。

 会場に到着した時は、発表会はまだ始まっていなかったが、楽器演奏が既に始まっていた。

 ユッタナーとナンタワンの義母のマライは既に来ていて、最前列に陣取っていた。

 恒久とサマートが席につくと、華人系とおぼしきサラリーマン風の五、六人の若い男性たちがサマートを見つけ丁寧にワイ(合掌)をしながら挨拶に来た。

 サマートによると、彼らはナンタワンのいわば親衛隊みたいな連中でナンタワンをまるで女王様の様に崇めているのだそうだ。

「先頭に来たのが、キティー・ウイラワンって言うんだけど、チュラサートで学部は違うけどナンタワンの二年先輩でね。ついこの間からタナー・エンタプライズで僕の下で使っているんだが、ナンタワンに首ったけでね。 

 それにしても、あいつを見ていると可哀そうでさ。あの気の強いナンタワンは恒久君の前ではまるで借りて来た猫の様に大人しいんだけど、キティーに対してはまるで女王様の様に振る舞って言いたい放題なんだ。

 ナンタワンは、ちょっと困った事なんかがあると直ぐにキティーの所に電話するんだけど、キティーは何があってもどこにいても全てをほっぽり出してナンタワンのもとにすっ飛んで行くんだよ。

 僕と会議をしている最中でさえもだよ。

 で、ナンタワンにしてみれば、恒久君とそういう風な付き合をしたいと思うんだけど、どうしてか出来ないんだってさ」

 二人の会話は日本語だし、座席が彼らとかなり離れているにもかかわらず小声で、先頭に来た、筆頭格の丸顔でいかにも優しそうな男を指して、同情するようにサマートが言った。

 恒久が「すみません私はちょっと」と、済まなそうな顔で言うと、「うん、それは良いんだ。仕方がないんでね。でも僕の口からナンタワンにそんな事は言えないよ」とサマートがいかにも恐ろしいというような顔で言った。


 いよいよ発表会がはじまった。

 始めの舞台は、アユタヤ国のラーマ王子とランカ国の魔王トッサカンとの剣の戦いのシーンだ。ラーマキエンと言うタイの古典民族叙事詩をモチーフにしたコーンと言う仮面舞踏劇の一場面である。

 ラーマ王子側の白猿ハヌマーン率いる猿軍団と、トッサカンの魔王軍団とがにらみ合う中で、王子と魔王の二人が様式化されたゆったりとした戦いを演舞している。

 舞台の右端では、楽隊がコロコロと転がるような旋律とリズムのラナート(木琴)に加え、金属的な旋律とリズムのコーンウォン(十六の音階順に円形に並べられた銅鑼)と、リード笛、大小の太鼓、シンバルなどのリズム楽器などで、荒々しくかつ軽快に奏でることによって戦闘の激しさを演出している。時折、歌舞伎の「ツケ」のように、足などで床をドンと叩く音で、戦闘の舞台にメリハリをつけているようだ。

 猿軍団および魔王軍団はすべて仮面をつけているが、ラーマ王子および妻のシータ妃の二人だけは仮面をつけておらず、宝石が散りばめられた先端の尖った仏塔の形をした冠を被っている。一方の魔王トッサカンも尖塔風の冠をつけているが、緑色の牙のある醜い鬼のような仮面をつけている。

 お決まりの演技は、組体操よろしくラーマ王子が向かい合った魔王トッサカンの左足の太ももに左足を乗せて立ち、そのままラーマがくるりと観客側に振り向きざまに右足の甲をトッサカンの右の二の腕に乗せ、右手には剣を持ち、左手は頭の位置まで上げて手のひらを上に向け、外側を指している指先を反らすポーズで一瞬見えを切り、トッサカンがラーマを抱えたままでぐるりと一回りして、正面でラーマが反らした左手の指先は今度は上を指して手のひらを外側に向けた形で一瞬見えを切ってから床に降りる。この仕草で、ラーマがトッサカンを退治した事を表しているようだ。

 遂に、トッサカンは退散し、拉致されていたラーマ王子の美しい妻シータ妃が救出されたのであった。


 この仮面舞踏劇がモチーフにしている「ラーマキエン」は、インドを発祥に東南アジア一帯に広まった「ラーマーヤナ」と言う一大叙事詩のタイ版「ラーマ王子の物語」を題材にしたものだ。王室の守護寺のワットプラケオの回廊の壁画にラーマキエンの百七十八場面が描かれている。物語を一言でいうと、アユタヤ国のラーマ王子がランカ国の魔王トッサカンにさらわれてしまったシータ妃を、途中で出会った西遊記の孫悟空のモデルと言われる白い猿のハニュマーンと猿の軍団などと共に、ランカ国から救出して再びアユッタヤー国に帰ると言う話である。


 いよいよナンタワンが火渡りをするシータ妃を演じる番だ。

 魔王トッサカンから無事救出されたシータ妃だが、長い間トッサカンのもとに幽閉されていて、トッサカンに純潔を奪われたのではと言う噂が立ったことから、誤解を解くために、神々を証人として純潔を証明するための火渡りをする事になったのだ。

 シータ妃の衣装は白っぽい生地に金糸や銀糸で刺繍が施された至極豪華絢爛で、清純さが表れている。

 シータ妃が火を渡り始めても、熱さを感じている様子はなく、楽隊の奏でる音楽と、歌うような朗誦と語りの中で、シータ妃の悲しみ、慈しみ、憐み、歓び、王子への愛などを、しなやかかつ優雅に顔、頭、美しく反らせた手や指、腕、足など体全体を使った踊りで表現をしている。

 ここでのお決まりのポーズは、妃が火の中で片手を頭の位置まで上げ、手のひらを上に向けながら外側を指している指先を反らし、もう片方の手の指先を反らしままま開くようにしながら腰の位置あたりで指をすぼめ、手のひらを外側に向けた形で指は上を指し、足は指を反らせた片足を後ろにゆっくりと跳ね上げ、腰をぐっと下げたポーズだ。歌舞伎の「みえ」みたいなものの様にみえる。

 こうして、難なく火渡りが無事済みシータ妃の貞操が守られたことが証明されたのだ。

 シータ妃を演じるナンタワンのひたむきな王子への愛の表現の美しさは、彼女自身の華麗さや燦爛たる衣装の美しさだけによるものではなく、彼女の自分に対する情念がこもっているような気がして恒久は息苦しさを覚えた。

 しかし、さすがにそれはうぬ惚れ過ぎと自戒した。

「なんか、ナンタワンの舞踊を見ていたら、彼女の恒久君に対するひたむきな思いを見ているようで可哀想になってね」

 帰りの車の中でサマートがボソッと言った。

「やめてくださいよ、私としてもつらいんです」

「ごめんごめん、もし恒久君がナンタワンと一緒になりたいって言うんなら、認めてもいいと思っていたんだが、他に気になる人がいるんなら仕方がないよね」

 サマートは、最近かなり太ってきた体をゆすって笑いながら言った。

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