三.二  パホンヨーティン

 ユッタナー・ラータナワニットの養女のナンタワン・ラータナワニットは、一九八五年二月にチュラサート大学文学部日本語科を首席で卒業し、タイのBOI(タイ国投資庁)の新人募集に応募し、選考の結果めでたく同年八月一日付で採用され、日本企業のタイへの誘致を担当するジャパンデスクに配属された。

 BOIは、首相府直轄で、タイの投資奨励法に基づきタイへの投資の促進を担う政府機関で、 投資企業に対し、業種によって異なるが、機械類や原材料などの生産財の輸入税の減免や法人所得税の一定期間の免除などの優遇措置を与える事が出来る機関である。

 ナンタワンが、就職先としてBOIに興味を持ったのは多分に恒久とサマートの影響を受けている。

 二人との話を通じて、「タイの経済発展」にとって海外からのヒト、モノ、カネ、技術を伴った「投資」が果たす役割がいかに重要かと言う事と、「工業団地」が海外からの製造業の「投資」にとっていかに大きな役割を果たすかと言う事を認識するようになったからである。

 従って、就職先としてナンタワンが候補として考えたのが、一つはBOIでありもう一つは工業省管轄の「タイ工業団地開発公社」であった。工業団地開発公社は、工業団地の開発及び運営を担っている。

 どちらも公的部門としてタイの経済発展の役には立つが、強いて言えばナンタワンはBOIの方に入りたかった。BOIは日本からの投資誘致担当の部署での募集だった事と、工業省傘下の「開発公社」と比べるとBOIの方が女性職員や女性幹部の比率が多少多い気がしたからである。工業省自体、幹部を含め比較的男性の多い役所と言う印象であった。

 大学に入ったころは、漠然と女性の比率が多くタイ産品の輸出促進などをしている商務省に興味を持っていたが、商務省は海外との貿易部門以外に国内の商務関係の部門も多いし、貿易部門では英語で仕事をする機会が断然多く、日本語の出番はそれ程多くないようだった。

 BOIに採用された年の一九八五年の九月の「プラザ合意」によって急激な円高が昂進した。そうした中、日本国内で生産している企業、特に輸出企業は採算が取れなくなって、海外へ生産拠点を移さざるを得ない状況になった。そうした企業がタイへも投資環境の調査に来るようになり、ナンタワンのいるジャパンデスクに日本企業が続々と訪れるようになってきていた。

 一方、その年の十月に、数年前から工業団地の仕事で時々バンコクに出張に来ていた左右田恒久が、交通事故で亡くなってしまった前任者の後釜として急遽タイ国住井物産(タイ住井)の駐在員として赴任してきたのであった。


 一九八六年六月

 BOIに就職したナンタワンは、持ち前の勤勉さでタイの投資奨励法による投資企業に対する各種インセンティブなどもすっかりマスターし、急速な円高で相変わらず津波の様に押し寄せる日本企業への対応に追われて、気が付いてみたらBOIに就職してもう一年も経っていた。

 年にもよるが、雨季の始まりの頃に天が割れたのかと思わせるほどの激しい雨が降り、あっという間にあちこちの道路が冠水してしまう事がある。

 そんな大雨で道路が冠水して大渋滞になってしまったある日の午後、ナンタワンは約束していた日本の貿易投資の促進機関であるティプロ(国際貿易投資振興会)のバンコク事務所の所員との会合に大幅に遅刻してしまった。 


 BOIは、バンコクのビジネスの中心街からやや北側にある戦勝記念塔から北に走る国道一号線、またの名をパホンヨーティン道路を数キロ北上したタイ農業銀行(タイ・カシコーン銀行)ビルの十六階にあり、ラジャダムリ通りにあるティプロまで空いていれば三〇分もかからない。  

 この、国道一号線は、総距離ほぼ千キロあり、北のミャンマーとの国境の街メーサイまで続いている。


 バンコクのティプロには、日本の中小企業の対タイ投資のサポートをする担当者が置かれ、BOIと密接な協力関係にあった。担当は武井と言って、大きめのギョロ目で、しわがれ声が特徴的なとても快活なタイプで、一時間半以上遅刻したにもかかわらず、ナンタワンをにこやかに迎えてくれたのであった。

 もっともバンコクの大渋滞は洪水の有る無しにかかわらず有名で、渋滞で遅れたからと言って驚きはするが、怒る人はあまりいない。

 ナンタワンは、ティプロでの打ち合わせに行った帰りに、左右田恒久の所に挨拶に行こうかどうか迷っていた。ティプロが入居している住井ビルに、恒久の勤め先のタイ国住井物産(タイ住井)のオフィスがあるのだ。

 特に用事があるわけでもないのでアポイントもとっていないし、急の事なので忙しくて会ってくれないかもしれないと逡巡していた。

 恒久がバンコクに駐在して来た時に、遅ればせと言いながらナンタワンのBOI就職のお祝いと言う事で、ルンピニー公園に近いラマ四世通り沿いの「恵比須」と言う日本料理店で食事をした。

 個室で二人だけでの食事は夢のような時間であった。

 これからしばしばこうして彼と会えるのではと胸を膨らませていたのだ。

 ところが、BOIに就職して以来覚えることが大変に多く、かつ円高のせいで日本からの訪問客が引きも切らずで、週末はぐったりして出かけるのが億劫になってしまい、この所は恒久とひと月に一回も会っていない。

 一方の恒久も駐在直後と言う事もあるが、やはり日本からの来客が多く、さらにサマートのタナーナコン工業団地の第一開発区が今年の二月に予定通り完成したので、さらに忙しさが増してきているようであった。

 考えて見ると、彼と最後に会ったのはもう二カ月以上も前の事だ。

 ナンタワンは、勇気を奮いたたせてタイ住井に行ってみると、恒久は日本からの客たちを連れてシーラチャーの「タナーナコン工業団地」に行っていて、帰りには事務所には寄らずにそのままその客たちを夜の接待に連れて行くスケジュールとの事であった。

 恐らく夕食の後に、恒久は日本人駐在員相手のバーやカラオケ・クラブの密集しているタニヤ街に繰り出し、帰宅も深夜になるであろう。仕事中に電話はまずいので夜になってアパートに電話してみるのだが、あまり居たためしがない。かといって、あまり遅くなって電話をするのは、はしたない様で嫌だった。

 意を決して会いに行ったのに恒久がいなかった事で、何となく意気消沈してしまったナンタワンは、ティプロの事務所の裏手の駐車場に置いてあった自分のベンツに乗り込んでから大きく息を吸ってゆっくり吐いた。

 忙しくしていて居ないのは致し方無いのは分かっているが、久し振りに彼と会えるかもと言う期待が大きかっただけに、ただがっかりしてしまったのだ。

 これまで男の人に関してナンタワンは常に受身で、近づいて来た相手を適当にあしらっていれば良いだけであった。

 自分になびいてこない男はいなかった。

 だが、今回は違った。恒久の方からは全くアプローチしてこなかったのだ。

『何処か連れて行って』とお願いをするには、なぜか抵抗があった。自尊心が許さないと言うほどのものではない。驕りやうぬぼれから来るものでもない。お願いを拒絶されるのではと言う恐怖心からでもない。自分がお願いしさえすれば、恒久は必ず受けてくれると言う確信はあった。

 でも、それでは「つまらない」のである。

 兄がまるで妹に接しているかのごとくの優しさでだけでは満足出来ない。他の男達のように、「うるさく」言ってきて欲しいのに、何処か行きたい所がないかと聞いても、「さあー。そうだねー」と言いよどんでしまうことが多かったので、事前に色々と調べて、「此処はどうか?」と候補を用意しておくようになっていた。そうすると、さも其処へ行きたかったと言うように「良いですねー、其処にしましょう」である。

≪でも、私に会いたければ、何処か行き先の候補を調べてくるのに……。義理みたいなもので付き合ってくれているのかしらね?でも、義理でも会えないよりはよっぽど良いけど≫

と、何度思った事か。

 次の「観光案内」の約束が成立すると、心のざわめきは少しくやわらぎ、次回の「逢瀬への心待ち」がしばしの生きる糧になった。

 自分から好きな相手との距離を詰める事が、これほど大変で物狂おしい事だと言う事に初めて気が付いた。相手の一挙手一投足におののき、言葉の端々に不吉な影を探す。そうかと思うと相手の優しい一瞥に心を膨らますのだ。

 追いかける行為は、その行為自体に陶酔が内在し、相手に到達しなくても、追いかけると言う行為自体が目的化して、それが最終目的で得られる喜びの代償となりうる場合がある。また、相手が逃げれば逃げるほど、追う快楽が増すのである。

 ナンタワンは、いつかは恒久が自分を大人の女として扱ってくれるであろうと言う待望にひたすらしがみついていた。


 父親のユッタナーはサマートに、ナンタワンが大学を卒業したら、タナー・グループ内のどこか日本と取引をしている会社に就職させるようにと言っていたようだ。

 これまで欲しいものは何でも買ってもらえ、したい事は何でもさせてもらえていたが、考えて見ると全てユッタナーとマライとサマートが「あてがってくれていた」のだ。

 そのサマートが、「ナンタワン、で、どういう仕事をしてみたいんだい?やはり日本語を生かした仕事が良いんじゃーないか?ちょっと心当たりがあるんだけど話して見ようか?」と、聞いてきたのである。

 希望すればきっとグループ内のどの会社にでも入れて貰えるだろう。

 でもそれは、「選択」とは言えない。単なる「あてがい扶持」である。その会社では、ユッタナーやサマートの手前、決して邪魔者扱いもされないが、必要とされることもほとんどないであろう。

 そう言えば、ナンタワンが二十歳になったある時、それまで一度も運転はおろかハンドルも触った事など無かったのに、サマートが、はいこれ!ナンタワンの免許証と言って、車の運転免許証を「くれた」のである。二十歳になった時に撮った記念の写真を使っていた。

 だって運転なんか出来ないのにと言うと、じゃあこれから練習しなさい、何時か必要になるからと言われたのである。そう言えば隣の邸宅に住んでいる警察の物凄く偉い人がさっきサマートの所に来ていたけど、その人が「くれた」のだろうと思った。特に違和感は無く、そういうものだと思っていた。

 運転は結局プロの教習員にひと月ほど毎日来てもらって覚えた。

 自分が何かを選択する前に、何でも「あてがってくれる」のが当たり前と思っていたのだ。

 だが、恒久が現れてからと言うもの、ナンタワンの気持ちが少しずつ変化して行った。

 先ず「選択」される側に初めて立ったのだ。一方的に恒久の事を思っても、相手が「選択」してくれなければ思いが遂げられない。これまでは男が幾らでも言い寄って来た。相手が自分を選択していた。それを適当にあしらっていれば良く自分から「選択」をする必要性を感じたことは無かった。

 ところが、選択されたいと思った時に、初めて何かを選択する事の重要性に気付いたのだ。

 自分は財閥一族の娘なので、就職しなくても食べて行けると漠然と思っていたが、まず自分で仕事を「選択」し、自分の意志で働きたいと思うようになったのである。

「サマート、有り難いけど、いずれはグループ企業のどこかに戻るとしても、はじめはどこかタイの経済発展の役に立つような公的部門に勤めてみたいので自分で就職先を探したいの」

 断固とした態度でナンタワンは言った。

「分かった、偉いナンタワン。で、どこを受けようとしているの?」

「うん、受かったら教える」

 サマートにどこを受けるか言えば、恐らく彼は自分に内緒でその会社に渡りをつけて無理やり押し込むに違いないと踏んだのだ。

 サマートは、「分かった」とあっさりと引き下がった。失敗したらどうせどこかグループ内の企業に押し込めばいいとでも考えているのであろうと思った。


 ナンタワンがシーロムの家の門扉の近くに来て、クラクションの合図でお手伝いに門を開けてもらおうと思った所に、キティー・ウイラワンが前に止まっていた車から出てきた。

 キティーは、チュラサート大学の経済学部を卒業し、今や彼の父親の興した飼料、倉庫業を手伝っている。ナンタワンより二年先輩で、ナンタワンが入学してきて直ぐにナンタワンを見初めたのであった。ナンタワンを見初めたのは何もキティーだけではない。大学中の男達の目を奪ったのだ。中でもティーが一番積極的であった。

 後に、キティーがナンタワンに告白したところによると、初めて彼女を見たのはチュラサート大学の大講堂の前の王様たちの銅像のある所であった。

 キティーが、ピンク色のブーゲンビリアが咲き乱れる花壇の縁に腰掛けて友達と駄弁っていた時だ。

 長い髪をポニーテールに結んで、大学の制服の白の半そでブラウスに黒のスカートと言う出で立ちのちょっと澄ましたナンタワンが、何冊かの教科書を重そうに抱えながら一人で歩いていた。ナンタワンを見たとたん、キティーの目はナンタワンに釘付けとなってしまい、まるで夢を見ているかのように口をただパクパクと動かしていた。

 声を出したかったが、声が出なかったのである。その時言おうとしていたのは、『俺が待っていたのはあの娘だ。俺は絶対彼女と結婚するぞ』だったそうだ。

 キティーは、ナンタワンが恒久の事を思っているのは知っていた。そうだからと言って、ナンタワンを諦められなかったようだ。

 そんなキティーに対してナンタワンは兄の様に接していた。ただ、サマートによると召使の様にとか、母に至っては奴隷の様にとか言われている。確かにキティーに甘え過ぎているとは思っている。

 時折、ナンタワンの方から手を絡ませたり、腕を組んだり、抱き着いたりすることが有る。さすがに抱き着いたりした時には、抱きついてくれるのは本当に嬉しいんだけど、恋人と勘違いするんでお願いだからやめてくれよと悲しそうな顔をして言うので、またわざと抱き着いたりすると、辛そうにしているので、デーン(キティーの愛称)の事は大好きよと言うと、嬉しそうにしている。

「やあ、チェリー(ナンタワンの愛称)今日は物凄い雨だったね。どうだったかなと思って」

 キティーは何時もの様に優しく言った。

「うん、ティプロに行ったんだけど結局約束の時間に一時間半以上も遅れてしまったわ。武井さんは全然気にしていない風だったけど、タイ人だから遅刻しても仕方がないって思われるのがとても嫌だったの。日本人って時間にうるさいでしょう?」

 ナンタワンはキティーを見て「ホッ」として笑顔で答えた。

「そうなんだ。日本人ってなんかすごく真面目で、几帳面で、一緒にいると疲れるって日系企業に勤めている先輩が言っていたよ」

「そうね、人にもよるみたいだけど、サマートはそういうのが好きみたいよ」

 ナンタワンがあまり抑揚のない調子で答えると、

「何か疲れたみたいだね。じゃあ、チェリーの顔が見れたから僕はこれで帰るよ」

 キティーが優しく言った。

 キティーは、今日の様に、疲れもあって元気のない時は察し良く一人にしてくれるし、一緒にいて欲しい時はいつまでもいてくれるし、来てほしい時は何を置いても何処にいても飛んできてくれる。

 我が儘は分かっているが、邪魔になってそれらしい素振りをすれば、帰ってくれると言うとても都合の良い相手である。時々察しが悪い時は「家に帰ったら」と言うと、「うんそうだね、疲れたから帰るよ」とニコッとするものの、悲しそうな後姿を残して帰るのをみると「悪かったなー」と思うが、ついついまた甘えてしまうのである。

 いくら冷たくしても、一瞬悲しそうな顔をするものの、すぐに起き上がりこぼしの様に快活にふるまうのが煩わしい時もあるが、一緒にいて楽しく何よりも頼りがいがあって常に安定したキティーは、ナンタワンにとって極めて貴重な存在になっているのだ。

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