第三章 タマリンド(マーカム) 一九八六年

三.一  スクンビット・ソイ十一

 緋色が色鮮やかな鳳凰木(火焔樹)の花が散り始め、黄色い花弁に朱色の線の入った艶やかなタマリンドの花が咲き始めると、いよいよバンコクに本格的な雨期が到来する。

 ほぼ毎日一回か二回、一、二時間ほどの土砂降りの雨が降るのが雨季の典型だが、時折だらだらと一日中雨が降ったりすることもある。

 この頃は、ライチー、ドリアン、マンゴスチン、ジャックフルーツ、ランブータン、ロンガン(竜眼)、バンレイシ(釈迦頭)などが旬の時期で、一年のうちで一番果物が勢ぞろいする時期でもある。


 一九八六年六月。

《十九年ぶりのバンコクだ》

 会社が差し向けてくれた車の窓から外を眺めながら、左右田源一郎が一人つぶやいた。日本の援助で新しくなったドンムアン空港から、これまた日本の援助で出来た高速道路を走っている。冷房が良く効いていて外の暑さは感じられない。

 十九年前の出張の時は、高速道路はなく空港を出ると直ぐに見渡す限りの水田が広がっていた。車にはエアコンがついていなかったが、窓から入ってくる風が気持ち良かったのを覚えている。

 ところが、今車窓に見える景色は高速道路に沿って民家、商店、ホテル、工場、事務所のビルなどが建ち並んでおり、のどかな田園風景はすっかり姿を消してしまっている。

 高速道路はひどく渋滞して市内のスクンビット・ソイ(脇道)十一にあるエンバシー・ホテルにいつ到着するやらである。来る前から渋滞が酷くなっていると聞いていたものの、空港を出て高速道路に車が入った途端に、ピタッと止まってしまって長時間動かなかったのには驚いた。

 十九年と言えばほぼふた昔とは言え、渋滞と周りの景色の変わりように源一郎は唖然とした。

 当時、源一郎はタイでのポリエステル原綿生産プロジェクトを担当していたが、その次の年に日本と米国との繊維問題が勃発してから、対米の繊維問題を担当する課に異動となった。

 その時の米国の大統領選挙戦でニクソン大統領候補が、綿製品の日本からの対米輸出自主規制に加えて、毛や化合繊維製品に対する輸入規制強化を選挙公約として当選した。

 そうした事から、そののち数年間にわたって米国との繊維問題が継続し、源一郎も大変忙しい思いをさせられたのであった。

 その後、源一郎は一九七五年に菱丸ニューヨークに転勤になり八〇年に帰国したが、駐在時代に菱丸ニューヨークの事業内容を糸へん(繊維)から電気製品などに首尾よくシフトさせる体制を整えた実績を買われて、帰国後に電気機械部長に就任し、今年の四月には取締役で機械事業本部長に昇進したのであった。

 ところが、昨年一九八五年九月のプラザ合意(アメリカ・ニューヨークのプラザ・ホテルで開催された先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議での為替レートの安定化に関する合意)による国際的な通貨調整により、この時点で一ドルが二百三十五円から百六十円台の半ばと実に七十五円と言う未曾有の急激な円高が進んでしまった。こうした中で、源一郎はこれまでとは全く様相の異なる状況の把握に四苦八苦していた。

 今回、源一郎は、まずはアセアンでの機械類の市場性は如何にと言う事で、本部長自らアセアンを回ってバンコクにやって来た。

 源一郎が、一九六七年に初めてバンコクに出張で来た当時はまだ小学生であった息子の恒久が、今や、源一郎のいる菱丸商事のライバル会社である住井物産のタイの現地法人のタイ国住井物産(タイ住井)に駐在員として来ている。

 時の移ろいの速さは、自分の息子の成長でひしひしと感じているが、バンコクの目覚ましく急激な発展を見て、改めてその速さを源一郎は実感することしきりであった。

 息子と会うのは久し振りであったので、バンコクに着いた次の日の昼に、バンコクの中心街の一つであるプルンチット通り沿いにある「東京亭」で彼と落ち合う事にしたのだ。


 恒久は、一九八〇年に慶明大学を卒業して住井物産に就職し、昨年十月からバンコクに赴任して来ている。彼は、バンコクに駐在員として来る数年前からタイでの工業団地プロジェクトの仕事で、出張ベースでバンコクに来る事は多かった。

 ところが前任の駐在員が造成中の工業団地からの帰りに、国道三号線のスクンビット通りでトラックと正面衝突し、亡くなってしまった。そうした事から海外駐在には年齢的に若干若かったものの、急きょ後釜として送り込まれたのだ。

 そもそも恒久がバンコクに駐在になったのは、三年半ほど前に、タナー財閥の創始者であるユッタナー・ラータナワニットの妾腹の息子サマート・ラータナワニットが、出張にバンコクに来ていた恒久に「タナーナコン工業団地」の話しを持ちかけて来たからだと言っても過言ではない。 タイ語が堪能と言う事が考慮されたのは勿論だ。


「いやいやそれにしても驚いたね」

 源一郎は、少し凍ったお絞りをバリバリと開いて顔を拭いた。

「バンコクに来るのは実に十九年ぶりなんだよ。この辺りが中心部のひとつだと思うけど、高いビルがものすごく多くなったねえ。僕が始めて出張で来た一九六七年当時には三階建て以上の建物はあまりなかったよ。その分、お寺さんが余計立派に見えたもんだけどね。今やドンムアンからの高速道路も出来ているし、タイは急速に発展して来ているんだね。そう言えばさあ、あそこの角の何と言ったかな、何とか神社」

「あー、エラワン神社の事?」

「そうそうその神社。思い出したけど、この日本レストランって昔連れて来て貰ったナイトクラブの有った場所と位置関係が似ているような気がするんだ。そのクラブから出で通りの方を見ると、チラチラとロウソクの炎がお線香の煙の中に見えてね」

「へー、来た事あるんだ。この辺りにムーン・シャドーって言うクラブが有ったらしいよ。有名な「ムーン・シャドー事件」と言うのが有って、そのクラブのホステスが日本人駐在員をピストルで撃って殺して、自分も自殺したって言うんだ」

 恒久は、先輩から話を聞いていた様子だ。

「そうそう、その事件日本の新聞にも出ていたんだよ。一九六九年だったかな、結構衝撃的なニュースとしてね。それで、山崎君と言うその時に案内してくれたヤツが言うには、実は、その撃ったホステスって、その時僕についたホステスだって言うんだ。一回しか行っていないからあんまり覚えていないけど、確かホステスとしてはちょっと色が黒かったが、愛嬌は有ったような気がするよ」

 源一郎がニコニコで言った。


 源一郎は全く知る由もないが、十九年前に源一郎がチャルンクルン通り(ニューロード)で出会った果物売りのプラニー・ムーンポットジャーンが、夫の浮気を知って家を飛び出してバンコクに出て来て転がり込んだ先が、そのムーシャドー事件のホステスの「プン」のアパートであったのだ。


「へー、それって、何ていうんだろうね。奇遇とでも言うのか、日本人の間ではあの伝説とでも言うような事件の主人公と知り合っていたなんて。

 でもさー、撃たれたりしなくってよかったねえ、オヤジ」と、恒久に茶化して言われると、「おいおい、そんな昵懇な間柄に成る程滞在しなかったからね。残念ながら一回しか行っていないし。

 大体、彼女は、日本語はからっきしだし、僕もタイ語は駄目だしね。当時の駐在員の山崎君が通訳してくれたんだけど、話が長続きしなくってね」と、真面目に返した。

 しらふで息子と飲み屋の女の話をするのはなんとなく面映ゆかった。

 源一郎は目を細め、さらに真面目な顔になった。

「それでさあ、この円高だろう。これまで殆どアメリカやヨーロッパとのビジネスばかりだったたから、少しアジアも勉強しなくてはと思って今回フィリピン、インドネシア、マレーシアと回ってタイに来たんだよ。

 今後の経済的なポテンシャルはどうなのか、機械関係の市場性はどうなのかと言うあたりを現地の産業界、学界、日系企業、それとティプロ(特別法人国際貿易投資振興会)なんかと意見交換をして来たんだよ。それで、実を言うとさあ……」

 源一郎はこの円高で日本の製造業がどう動くか考えていた。既に海外への移転は必至だ。

「悪い、悪い、もう少し考えなくっちゃいけない部分があってね……。やはり、この所の為替調整による予想以上の円高が、メーカーさんの戦略にどう影響するかと言うのが一番難しい所でね。もうすでに一ドル七十円以上もの円高になっていて、まだまだ円高になりそうな勢いだろう?ちょっと考え直さなければいけないかも知れないな。バンコクのビジネスマンたちに話を聞いて見ないとなんとも言えないけどね。

 日本に帰ったら、今回ヒアリングをした結果と円高が今後どう推移するのかとを考え合せて、今後の機械類の市場の見通しを立てる必要があるんだ。

 今回は残念ながらユッタナーさんとサマート君に会う時間が無かったけど、今後の円高の行方によってはまた来年アセアンを回る必要があるのでその時に二人には会う事にするよ。

 三日もバンコクにいて一度も飯を一緒に食わないなんてって怒られてしまったけど、アポで日程がびっしりと埋まってしまってね。明後日にどうしても東京に帰らなくてはいけない用があるもんだから。レポートをまとめる前には電話で彼らの意見も聞いてみないとね。

「そうそうこの円高でしょう、大手のメーカーさんから中小の部品屋さんにいたるまで投資環境を調べに来る出張者が滅茶苦茶多くてね。おかげで忙しいったらないけどね。

 でも担当の工業団地への入居が増えそうなんで日本のメーカさん達には申し訳ないけどラッキーだと思っているよ。サマートさんは先見の明があったと言って喜んでいるよ。八二年の頃はこれ程の円高になるなんて誰も思わなかったもんね」

 恒久も忙しそうにしてはいるが、やりがいを感じているようで、源一郎は安心したと同時に、一人前の商社マンらしくなって、息子も成長したなと感慨もひとしおであった。

 レポートがまとまった時点で、恒久には差支えの無い範囲でアジアにおけるタイの位置付けとタイの今後のポテンシャル、工業団地の将来性などについて抜粋したものを送ってあげようと考えながら、はてどういう風にレポートをまとめようか考えていたら、どうやら恒久も円高の影響について何やら一生懸命メモをしていて、会話が途絶えていた。

「そう言えば、去年サマート君が社長になったんだよね。お祝いの電話をした時に『サマート君』なんて呼べなくなっちゃったねって言ったら、お父さん辞めて下さいよ、今まで通りでお願いしますっていわれちゃったよ。それからユッタナーさんにも電話した時に、余計な事だけど長男のニポンさんや次男のトンチャイさんはサマート君より年上のようだし、大丈夫なんですかって聞いたら、トンチャイはアグロ・ビジネスにしか興味が無くて、他の余計なビジネスを考えなくて済むと言って気にしていないとのことだったよ。で、ニポンの方はヤクザみたいなってしまったので勘当してしまったと言って、とても悲しそうだったよ。」

 恒久は、うーんと額にしわを寄せながら何度もうなずいていたが何も言わなかった。

 源一郎は、勘当せざるを得なかったのはきっとやむにやまれずしたことで、それこそ断腸の思いであったに違いないとは思うものの、彼の本当の辛さは我々には分からないんだろうなと思いながら、何とも言いようが無いという表情の息子の顔を見ていた。

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