二.五 ター・カー

 一九八二年 四月

 ユッタナー・ラータナワニットの養女のナンタワン・ラータナワニットは、あの左右田恒久と週末に会えると思うと嬉しくて仕方が無かった。今も、居間のソファーに座ってぼんやりと彼の事を考えていた所、どうやら口元が緩んでいたらしい。

「どうしたんだいチェリー(ナンタワンの愛称)、なんだかこのところ結構ニヤニヤしているようだけど、何か良い事でもあったのかい?」

 通りかかった母親のマライにニヤニヤしていると言われてしまった。

「メー・カー(お母さま)、ニヤニヤだなんて」

「じゃあなんて言うんだい?ニコニコなら良いのかい。で、何かあったのかい?」

「うん、ほらダム(サマートの愛称)が東京でお世話になったソーダー(左右田)の家の息子のツネヒサ―(恒久)さんがバンコクに出張で来ていて、週末に彼を観光に連れて行くことになったの。私の日本語の勉強にもなるしね。彼、住井物産と言う商社に就職したのよ。日本で一、二を争う総合商社で入るのはとても難しいらしいの」

 ナンタワンは母親と兄のサマートには何でも話していた。

「あー、何年か前にサマートの所に十日ほど泊まっていたあの日本人かい?あの時は始めなんだかみすぼらしい格好で来たけど、サマートの結婚式の時は見違えるように素敵だったね。そうかそれでチェリーは嬉しそうにしているんだね。チェリーはまだその日本人のことが好きなのかい?あの時彼に会ってからと言うもの、一段と熱心に日本語を勉強していたものね。でも、もう忘れていたと思っていたよ。今度は二人で会うのかい。良かったね」

 そう言いって母親はナンタワンの横に座り、優しく抱きしめてくれた。

「なぜだろうね、忘れられないの」

「別に忘れる必要なんかないと思うけど、チェリーがもし傷つくようなことがあると心配だね」

「傷つくも何も、お付き合いをしているわけではないから。でもお付き合いが出来るようだと嬉しいな」

「チェリーと付き合いたいと言う男の子はごまんといるのにね。そっちには全く目もくれないんだから……。そう言えば、彼はどうしたの?」

「彼って?」

「うん、チェリーがまるで奴隷の様にこき使っているチュラの先輩。なんて言ったかね」

「あー、デーン(キティー・ウイラワンの愛称)の事?奴隷の様にこき使ってなんかいないよ。メー・カー(お母さま)、人聞きが悪いじゃないの」

「えー!ああ言うのを奴隷の様にこき使うって言うんだよ。

 彼は、あの大きくて重そうなアタッシェケースの親戚みたいな携帯用の電話機を肌身離さないように持っていて、チェリーが彼に連絡すれば、試験の時以外は何をおいても、何時でもすっ飛んで来て、お前の言う事なら何でもやってくれるじゃないか。無理難題を言っても、いつもニコニコしながらね」

「うん、デーンは元気にしているよ。勿論デーンの事は大好きだけど、ツネヒサ―さんとはちょっと違うの」

 母は、外出しようとしていたところらしく、しょうがない子だねと言わんばかりに首をわずかに左右に振りながら、地上への階段の降り口の方に歩いて行った。


 ナンタワンは、母親のマライとは血も戸籍も繋がっていない。父親のユッタナーとは戸籍だけつながっている。ナンタワンが一才の頃に実の両親がマライの目の前の交通事故で亡くなってしまい、殆どかすり傷程度であったナンタワンとお手伝いさんをマライが引き取ってくれ、ユッタナーがナンタワンを養女にしてくれたのだ。

 マライには子供が出来なかったと言う事もあったが、まるで実の子のようにありったけの愛情を込めて可愛がってもらった。勿論ユッタナーにもだ。ユッタナーには本妻の子供が三人いるが、彼ら以上に可愛がってもらったと思っている。

 本妻の子たち、とりわけ長男のニポンに虐められることがあったが、常にサマートが庇ってくれたし、父親のユッタナーもそうしたニポンをよく叱っていた。ニポンはそう言う事もあったのかちょっとぐれたようになってしまって、遂には勘当されてしまった。

 マライはともかく優しくて、今まで一度も怒られたことは無く、今考えて見れば、マライはそれこそまるで自分の「奴隷」のように面倒を見てくれたのだ。もっとも、マライにはナンタワンの実の親の時からのお手伝いさんと、もう一人お手伝いさんがいて、物理的にはこの二人に身の回りの世話をしてもらっていた。

 マライは、ユッタナーのお妾さんだ。お妾さんはもう一人いて、彼女はサマートの母親だ。サマートの母親のパッサミーは、マライとは違ってユッタナーの会社で経理の仕事を長い間やっていたのであまり家にいることは無く、したがってサマートは若い頃はマライの家で過ごす事が多かったのだ。

 ナンタワンとサマートの母親たちは、妾同士と言う事なのか反目しあう事もなく結構仲良くやっていたが、本妻のユッピンとは遠慮があったのかそれなりに距離を保っているように見えた。

 ユッピンはかなりに恵まれた環境で育ったようで、また彼女の父親には妾が五人いたのであまり抵抗感が無かったのか、妾たちと軋轢を生むような言動は無く、少なくとも表面上は上手くやっていたようだ。


 二年ぶりに会った恒久は、学生時代のラフな身なりとは違い、スーツ姿にネクタイとすっかり若手ビジネスマン風で、物腰はいかにも日本人のサラリーマンのイメージとぴったりであった。

 思えば、あれはナンタワンがまだ高校の三年生の時だった。サマートが日本の大学に通っていた時に下宿をさせて貰っていた家の息子が、卒業旅行とか言ってひどくみすぼらしい格好で現れた。タイ人でそんな恰好をしている人は、道路で寝泊まりしている物乞いぐらいだ。

 だが、笑顔が素敵だったし、何せ本物の若い日本人の男性だったし、もちろん日本語を喋るし、ともかく興味津々だった。

 所が、無精ひげはきれいに剃り、髪の毛はさっぱりと短くし、タキシードに身を包んだ姿でサマートの結婚式に現れた時は、恒久とは気が付かずになんと素敵な人だろうと見とれていたら、彼の方が近づいてきた。

 傍まで来てにっこりと微笑んだ瞬間、≪あ、ツネヒサー(恒久)さんだ!≫と、気が付いた。

 ナンタワンが心を奪われたのは、その時以来だ。

 何とかして二人だけで会ってみたい。サマートに是非とお願いをすればきっと助けてくれるとは思う。でも、これは彼と自分の二人だけの問題だ。自分で何とかしようとナンタワンは心に決めていたのであった。

 所が、いざ彼に会って挨拶をした後、恥ずかしくて何にも言えなかった。サマートが助け舟を出してくれて話の接ぎ穂を拾ってくれたりしていると、今度は恒久がいろいろと質問をしたり話題を提供してくれたりしているうちに、やっと落ち着いて話が出来るようになった。途中でサマートが気を利かしてくれたのだと思うが席を外してくれたので、これを逃したらと思って思い切って誘うことにした。

「ツネヒサ―さん、バンコクには何度か来ているようですけど、もしこの週末に仕事が入っていないようでしたら、バンコク市内でも、郊外でもどこか案内しましょうか?私は、ちょうど六月から二年生の授業が始まるので今は暇にしているものですから。それに、ツネヒサ―さんと話していると日本語の勉強にもなると思うので。あ、すみません、勝手に勉強の相手をさせてしまうみたいで」

 ナンタワンは口がカラカラに乾き、心臓が口から飛び出しそうだ。

「あー、ありがとうございます。日本語の勉強の相手なら時間があればいつでもしますよ、サマートさんにはタイ語の勉強の相手をいっぱいしてもらいました。おかげさまでそこそこタイ語が出来るようになりました。週末は、仕事はどこも休みなので、どうしようかと思っていた所でしたので、お願いできますか」

 ツネヒサ―さんは、大きな白い歯を見せながらにこやかに応諾してくれた。ついに二人で会う事が出来ると思うとすっかり有頂天になってしまい、なんて素敵な人なんだろうとボーッとして見とれていた。

「それで、何処か良いところありますか?」

 恒久が、にこやかに聞いた。

「え?あ、あのー、そうですね、タラート・ナーム(水上マーケット)とかはどうですか?」

 ナンタワンは狼狽しながら、苦し紛れに思いつきを言った。

「水上マーケットって、ダムヌンサドゥアックとか?」

「あ、言った事有りますよね」

「そうですね……」

「あのー、それではター・カー水上マーケットと言って、有名なダムヌンサドゥアックやアムパワー水上マーケットに近くて観光化されていない、地元向けの小さな水上マーケットがあるんです。お月様の満ち欠けに関連した日にしか開かれないので、今度の週末に開いているか調べないといけないのですが、もし開かれていれば行ってみましょうか?

 サムットソンクラーム県と言う所に有って、ここからは車で一時間半から二時間ぐらいの所です。お昼前ごろには終わってしまうので、朝七時ごろホテルに迎えに行きますけど良いですか?ホテルはシーロム通り沿いのナライ・ホテルでしたよね」

 運良くちょうど次の日曜日は市場が開かれる日であったので、その朝、ナンタワンが七時にサマートが手配してくれた運転手付きのレンタカーでナライ・ホテルに着くと、恒久は既に正面の入り口の所で待っていた。真っ白なポロシャツにチノパン姿の恒久を見た途端、なぜかナンタワンはフワッと目まいがしたような気がした。

 ター・カー水上マーケットには、昨年十一月にチュラサート大の先輩のキティー・ウイラワンに連れて行ってもらった事がある。キティーが車をこれまでのベンツからBMWの七シリーズに買い替えたのでドライブにと言う事だった。

 それまで、聞いたこともない水上マーケットだったが、野菜と果物中心のこじんまりとして全く観光化されていない落ち着いた市場で、今の時期であれば果物が年間で一番多い時期なので結構賑わっているのではと思ったからだ。

 車の中で、恒久は日本語しか話さなかった。ナンタワンの勉強の為と思ったのであろう。簡単な会話であれば問題はなかったが、恒久の仕事の話や日本とタイとの経済関係、日本の企業の動きなどゆっくりと話しをしてくれたりしたが、日本語と言うよりむしろ経済の話しの内容が難しく、何度も質問しないと理解できなかった。

 恒久は、ナンタワンの質問の度に嫌な顔一つせず、優しい単語に言い換えてみたり、時には絵や図表を書いたりしてじっくりと説明をしてくれた。

 お陰で、アジアにおけるタイの経済的位置付けや日本企業がタイに投資する理由やサマートがなぜ工業団地を作って日本やほかの国の企業をタイに一生懸命呼び込もうとしているのかおぼろげながら分かってきた気がした。

 その中でこれからのタイの経済発展にとって海外からのヒト、モノ、カネ、技術などを伴う投資がいかに重要かと言う点についてナンタワンは特に興味を持ったのだ。

 ター・カー水上マーケットでは、岸辺に沿って設えられたテラスや階段で野菜や果物などを満載したボートや様々な食べ物の屋台ボートが行き交うのを眺めたり、時折甘い焼き菓子を買って食べたりした。

 午前中とは言え照り付ける四月の太陽はさすがにきつく、暑さに慣れない恒久が大丈夫か心配であったが、汗を拭きながら終始ニコニコと寄ってくる舟の人達と楽しそうに話をしていて、特に何も買っていないのに、気が付くとボートが二人の所に結構集まって来ていた。ナンタワンはその様子を見ながら、この人は生来人を引き付ける何かを持っているのではと思ったりした。

 昼前になると、客もボートも三々五々引き上げ始めていたが、恒久がクイティアオ・ルア(ボートで売りに来るわんこそばの様な小型のラーメンで、英語ではボートヌードルと呼ばれている)を食べたいと言うので、中細のライスヌードル(センレック)に透明スープ、豚肉と魚丸(ルークチン)を入れたのと、卵入り中華麺(バーミー)に透明スープ、チャーシューを入れたのを二人分たのんだ。ナムトックと言う豚の血を入れたスープにしてはどうか恒久に聞いたが、一度食べたことがあるけど普通のが良いとの事であった。

「タイ人なのに」と言われそうなので、ナンタワンも血を入れたスープはあまり得意ではないと言うのを恒久に内緒にしておいた。

 普通タイ人はラーメンに粉唐辛子をたっぷり入れて食べるが、ナンタワンは辛いのも得意でないので少しだけしか入れなかったのを、目ざとく恒久に見つけられて、

「あれ!ナンタワンさん唐辛子あんまり入れないんですね」と、言われてしまった。

「ええ、あまり辛いのは苦手で……」と言うと、

 結局、「タイ人なのにー」と、言われてしまった。

 別にそんなこと言われたって何でもないはずなのに、なぜか恥ずかしかった。

 そろそろ、自分たちも引き上げようとしていると、少し暗くなって来たと思ったら大粒の雨が降って来て、遂に本降りになった。

 運転手が待っている駐車場まで行くとずぶぬれになってしまうので、暫く待つことにした。

 雨が少し降りこんでくる所にいたので、ちょっと濡れてしまって寒そうにしていると、恒久が、「え、寒いの」と言いながら小さなリュックから薄手のパーカーみたいな物を出して肩にかけくれた。

 ふっと、彼の匂いがして体が熱くなった。

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