二.三 南サートン

 一九八〇年四月

 タイのお正月のソンクランが間近かに迫り、国花のゴールデンシャワーの黄色い花が、見事に房になって垂れ下がる四月の中旬、ユッタナー・ラータナワニット社長が珍しくサマート常務の部屋を訪ねてきた。

 サマートは三月末に父親の知人の娘アリッサラと結婚し、日本に新婚旅行に行って帰って来たばかりであった。週末に夫婦して父親のユッタナーの所に帰国の挨拶に行こうと考えていた矢先だ。

「社長、呼んでいただければそちらにお伺いしたのに」

 普段は、ユッタナーが用のある時は秘書が「社長がお呼びです」と言って来るのに、社長の方から出向いてくると言うのはいったい何事だろうかと言う面持ちで、苦虫を噛み潰したような顔のユッタナーに言った。ユッタナーは何も答えずにサマートのデスクの前に設えてあるソファーに腰掛けた。いつもなら、お帰り、新婚旅行はどうだったとか言うような事を聞くのだがそれも無かった。

 タナー・エンタプライズのユッタナー社長をはじめとした幹部の事務所は十五階建のTE(タナー・エンタプライズ)スクェアーの九階にある。

 TEスクェアーは、南サートン通りと言って、今やビジネスの中心になりつつあるシーロム通りと並行して走る、昔から西洋人が比較的多い通り沿いにあって、タナー・グループ傘下の主だった企業が入居している。

 いわばユッタナー一族の牙城である。社長室はこのビルの東南の角でサマートの部屋は北西の角と丁度ビルの反対側だ。

 サマートの秘書が慌ててユッタナーの後から入って来て、飲み物は何が良いか聞いたが、ユッタナーは「何もいらない。ドアを閉めて、誰も取り次がないように、電話もだ」と怖い顔で言い付けた。

 サマートはメモを手にし、何事かと身構えた。父親のこう言う厳しい顔は久しぶりである。仕事で何かあれば彼の部屋に呼びつけるのが普通である。と言う事は、ひょっとして唯一父親に報告していない「ニポンのあの事」かも知れない。

 あの話をロスでの留学仲間のパンヤー・ヌンサキットから聞いたのが一九七六年のことで、既に四年ほど経っているが、遂に親父の耳に入ってしまったのか?

 サマートは覚悟を決めた。

 すると、それまでの厳しい顔が急に思い直したように穏やかになり、サマートの方を見て、「新しい家の住み心地はどうだい」とユッタナーが聞いた。

「はい、ノーイ(妻のアリッサラの愛称)も喜んでいます。この週末にアリッサラと二人でお父さんの所に挨拶に行こうと思っていた所です。来週は、あちらのお父さんとお母さんを食事に呼んでいるので、お父さんの所に挨拶に行くと思います」

「うん、うん、サマックが電話して来てお前の所に来るので、その時に挨拶に寄ると言って来たよ」

 サマートは、ユッタナーの友人の石油の流通業で財をなしたサマック・ポーンワーノンの娘アリッサラと結婚して、シーロムの敷地内の今まで母親と住んでいた家の隣に、正式に婚約してから直ぐに建て始めた新居に住み始めたのだ。

 再びしばし沈黙が訪れた。

「新婚旅行気分のところ悪いな。お前、ヤイ(長男ニポンの愛称)のやっていることを知っているか?」

 やっとユッタナーは口を開いた。タイ語の動詞は時制による変化をしない。「やっている」と言うのが今の話なのか過去の話なのか分からない。前後の単語や文章、話の内容によって判断するしかないが、ユッタナーの質問は余りにも唐突で、前後の脈絡もない。

「えっ!何か最近の話ですか?」

 サマートは量りかねて聞いた。

 ユッタナーは、サマートの目をじっと見ながら「最近の事もあるし、ちょっと前の事もある」と吐き捨てるように言った。

「大分前のある噂のことであれば知っていますが、最近の話は全く聞いたことが有りません」

「その噂とはなんだ」

「すみません黙っていて」

「だからどんな噂だ」

 ユッタナーは語気を強めて聞いた。

「はい、ヤイが六、七年前の反日運動に裏で金を出して煽っていたと言う噂です」

 ユッタナーは苦虫を噛んだような顔をさらに歪めた。

「その他の噂は知りません。反日運動の話は留学仲間のパンヤーからロスで留学していた時に聞いたんです。その後の話は何も聞いていません。

 すみませんお父さん。ロスから帰って少ししてから、ヤイにはそういう噂があるから気を付ける様にと一応注意して置きました。ヤイは全く否定はしていましたが、そんな嘘の噂をお父さんに告げ口したりしたら承知しないぞと脅されました。脅されるのには慣れていますが、僕がお父さんに告げ口すれば一層僕に対して敵愾心てきがいしんを燃やしてしまうことになるので……。

 自分の口からお父さんに言う事は無いとヤイに見えを切ってしまったのですが、もし、またそんな噂が入って来たらその時はお父さんに言うつもりでした」

 サマートは、大きな体を縮めて弁明した。

「全く、ヤイの奴……。確かにわしみたいな一部の華人が日本の企業と組んで儲けているのを好ましく思っていなかったり、日本人に既得権益を奪われるのではと危惧している華人連中が裏で金を出したりして、反日運動や日貨排斥運動を煽っているらしいと言うのは知っているがね」

「お父さん、ヤイの気持ちも分からないではないです。お父さんは、昔からいつも僕には優しく、ヤイには特に厳しくしていたでしょう?

 小さいながらそれは僕にもわかりました。勿論僕は嬉しかったですよ。

 でも、ヤイはそういう事で僕の事をすごく恨んでいるんだと思います。小さい頃随分苛められました。お父さんが僕に優しくすればするほど、彼は僕に辛く当たる事が多かったような気がします。

 日本語なんか勉強させてお父さんはお前の事か嫌いだからだとか、ミオノーイ(妾)の子だとか言われたりしてね。ヤイのお父さんに対する反抗的な態度もそうした事の延長線上にあるんではないかと思います。

 お父さんが彼に厳しかったのは長男だから、期待が大きかったからだとは思いますが」

「と言う事は、わしの育て方が悪かった。こうなったのはわしが悪かったからだとお前は言うんだな?」

「すみません、おとうさん。そう思います」

「……」

 ユッタナーは黙ってサマートを見ていたが、怒った様子はなかった。

 サマートはいつも物怖じせずにはっきりものを言うたちで、ユッタナーはそういうサマートに信頼を置いているのである。

 沈黙がしばらく続いたが、サマートは沈黙に耐えられなくなってまた口を開いた。

「無論、全てがお父さんの責任であるはずはありません。どう育てても問題を起こす子は起こしますから。でも、僕がいなければヤイもあんなにひねくれたりしなかったのかもしれません……。

 と言う事は、やはり私を産ませたお父さんの責任になってしまいますね。

 あ、それとヤイがANU(オーストラリア国立大学)を卒業してオーストラリアから帰って来てからアジア・ライス・シンジケートに入れたでしょう?

 タナーグループを統括するタナー・エンタプライズにではなくて、そっちの社長にはしましたけど、彼は自分は外されたと思っているでしょうね。一方で私を、このタナー・エンタプライズに入れたでしょう……。すみません言いたいことは……」

「分かっておる!」

 ユッタナーは、それ以上言わせなかった。

 本来であれば、嫡出である長男のニポンがユッタナーの跡継ぎになるというのが自然で、タナー・グループの総本山のタナー・エンタプライズに入社させるのが順当である。だがユッタナーは、タナー・グループを将来さらに大きく育てることが出来るのは、攻めのタイプであるサマートではないかと考えたようだ。

 ユッタナーの次男のトンチャイはもともと農業に関心が強くタナー・クループ全体の経営には興味がなかったのだ。

「すみません。生意気なことを言ってしまって……。ところで、最近の事もと仰っていましたけど、何かあったのですか?」

「ああ、本当にお前、何も知らないのか?」

 サマートの目をじっと見て言った。

「はい、特に何も聞いていません」

 するとユッタナーは、悲しそうな顔でフーッと息を吐き、話はじめた。

「そうか。実を言うとヤイはかなり良からぬことに手を染めているらしいんだ……。警察のご厄介になるような事なんだよ。でも、警察のかなり上の方と手を組んでいるらしく表ざたになることはまずないんだそうだ。

 ある国会議員とも懇意にしているらしくてね。事もあろうに、マッサージパーラー、賭博、闇金それから地方からバンコクへ女を連れて来たり、海外への女の手配って言うから人身売買みたいな事まで、兎も角手広くやっているらしいんだ。さすがに麻薬だけはやっていないとは言っていたけどどうかね。麻薬以外の悪事は何でもござれで、まるでいっぱしのヤクザ者だ。そんなヤツをうちには置いてはおけない」

「そう言われてみれば、パンヤーがいつかヤイは結構ヤバイので気を付けた方が良いよと言っていました。その時はまた何か反日的な事をやろうとしているのかと思っていましたけど。」

「うん。ま、お前も気を付けて見ていてくれ」

「分かりました。警察のパンヤーに様子を聞いてみます」


 サマートが、ニポンの事を聞いて数日してから、ユッタナーがタナー・グループの幹部たち全員を TEスクェアー九階の役員会議室に集めた。憔悴して十歳ほども年を取ってしまったように見えるユッタナーが、立ち上がって皆の前で重々しく発表した。

「大変残念だが、事情があって我が息子のヤイ、ニポン・ラータナワニットを勘当する事とした。全てのタナー・グループの役職から外し、以後一切ヤイとタナー・グループとは関係が無くなった。皆にこれまで迷惑をかけてしまった事があれば許してほしい。今後もしヤイの関係で何かあれば必ずわしに報告する様にお願いする。以上だ。」

 それだけ言うと、ユッタナーは力なく座った。

 幹部たちは何が起こったのか分からないまま、ひそひそ話を交わしながら出て行ったが、残っていたサマートに社長室に来るように言った。

 まさか父親がそこまでやるとは思っていなかったサマートは、後ろ手で社長室のドアを閉めながら恐る恐る言った。

「でも社長、中には裏で警察なんかと組んでマッサージ・パーラーとかをやっている連中は結構いるし、勘当なんかしたらヤイは余計ひねくれて何をし出すか分からないですよ」

「そうかもしれない。だが、既にヤイ大変なことをしでかしてしまっている、これ以上何をしでかすと言うんだね?今やわしの息子でもないしタナー・グループの一員でもない。何をしでかしてもうちとは何の関係は無いんだ」

 ユッタナーは弱々しく言った。

「でも、今までは警察が遠慮して手を出さなかったけど、親父の影響力が無くなったと思うとヤイは危ないんじゃないですか?」

「いや、前にも言ったが、ヤイは力のある警察幹部や国会議員なんかと結託しているので、誰も手を出せないんだよ。警察の内部も色々と派閥と言うか利権グループに分かれていてね、同じ利権グループであればなおさらの事、別の利権グループだとしてもお互い不可侵が暗黙の了解なんだよ。例えばお前の友達のパンヤーのお父さんが、ヤイが結託している利権グループと別のグループだとしてもお互い直接手は出さないんだ。せいぜい、ヤイのやっている事を我々に告げ口するぐらいだね」

 ユッタナーは多少生気を取り戻してきたようだ。

「そう、パンヤーも警察内に利権グループがある様な事を言ってましたけど。それにしても反日運動に加担するのは分かるような気がしますが、そこまで悪事に手を染めると言うのは解せないですね。でも、ヤイに勘当を言い渡した時に怒っていたでしょう?」

「まー多少はね。だが、自分が何をしているのか良く分かっていてね。ま、それが救いと言えば救いだがね。自分でも悪い事をしていると思っているってさ。

 それで、ヤイの住んでいるスクンビットの宅地・建物、プルンチットにある商業用ビルとヤワラートの土地・建物と現金合わせて約一億バーツ(この時代のレートで約十億円)を、ニポンにくれてやったよ。

 幸いこの国は贈与税とかいうやつは無いしね。ヤイにしてみれば、勘当されたらまさかお金とかもらえると思ってもいなかったし、くれたとしてもそんなに沢山くれるとは思っていなかったらしいが、これで体よく厄介払いだねと言っていたよ。

 どうやら始めはギャンブルにはまってしまい、後はお決まりの転落の一途だったらしいよ。多額の借金が出来てしまったが、会社の金には一切手を付けなかったようだ。その代わりに人買いまがいの取引に手を染め始めてしまったのが事の始まりで、ひとたびあちらの世界に入り込んでしまうとしがらみが出来てしまったりして、抜けられなくなってしまったようだ。

 表の商売はそこそこだが、裏の商売はなかなか商才があるらしくてね、ついつい面白くなってしまって、気が付いたらすっかり顔役になっていたって事らしいよ。それから、お前に手を出すなと言おうとしたが止めたよ、返って刺激すると思ってね」

 目の前の父親のユッタナーは一見優しそうに見えるが、一族の名誉とビジネスを守る為には、悪く言えば「非情」、良く言えば「合理的」あるいは「プラクティカル」に振る舞う人である。ここまでグループをタイでもそこそこの財閥に育ててきたのは、疑いなくそうした彼である。

 一方で勘当しておき、もう一方で巨額な金をやると言う芸当はこの人にしか出来ないだろう。父親としては、そのお金で悪事から足を洗って欲しかったのかもしれない。しかし警察や国会議員を巻き込んだ悪事は、おいそれと手を引くわけにはいかないのではないか。

 サマートはもし自分がこの人の立場だったらどうしただろうと漠然と考えながら目の前の父親を見つめていた。

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