一.九 ドンムアン

「あれ、左右田さん!タイ語の勉強ですか?」

 帰国する日の朝、左右田源一郎がスリウォン通りにある菱丸タイランドの事務所で、出張報告の為の資料を取りまとめる合間に英語・タイ語の辞書を見ている所に、タイ亜紡ポリエステルのスイットが入ってきて、嬉しそうに聞いた。

「ん?うん、ちょっと気になった単語があったんで………」

 左右田は何かを見透かされたかのようにきまり悪そうに答えた。

 スイットは、左右田がバンコクに到着して以来、折々に案内係兼通訳として外回りをする時に同行してくれており、二人はすっかり打ち解けた間柄になっていた。

「そう言えば、このあいだ二度ほどチャルンクルン通りで、左右田さんが道端に座って果物を食べたり、タバコをふかしたりするのを見掛けましたよ。声を掛けようとしたんですが、なんか果物売りの女の人の隣でくつろいでいるんで、邪魔しては悪いような気がして止めたんです」

 スイットが、何か物言いたげにニコニコしている。

「別に邪魔じゃないよ。声を掛けてくれれば良かったのに。あの果物売りの父親は日本軍の元将校だったって言うんだよ。ただ、結婚していた訳ではないみたいなので、あまり深くは聞かなかったんだけどね。もっとも、この辞書だけではそれ以上詳しくは聞けないけどね」

 左右田は、言い訳がましい口調になっている。

「そうなんですね。しかし、道端の果物屋と身の上話までするなんて、随分親しくなったんですね。あっ……、左右田さん、あの娘色白で随分可愛かったですけど、失礼ですが……まさかお二人出来ちゃったとか?」

 スイットはとても嬉しそうだ。

「まさかね。僕もそこまで勇気は無いよ」

 左右田は、スイットに心の中を覗かれたようでドキッとした。

 果物売りが日本の軍人の子である話を聞いてから親しみを覚え、仕事の合間に都合をつけて一日一回は果物売りの所に行くようになったのだが……。

 数日前に左右田は、近くのオリエンタル・ホテルの脇にあるオリエンタル・ピアーと言うチャオプラヤ川を行き来する水上バスの船着場で西洋人に、果物売りのプラニーと二人の写真を記念に撮ってもらい、昨日、出来上がった写真を二百バーツほどのお金と一緒に彼女に渡したのであった。

 社長の佐伯に現地事務所向けの報告書を提出してから、会社が出してくれた運転手付の車で左右田は一人ドンムアン空港へ向かった。 

 事務所からは、現地スタッフのワイが空港まで見送りに来てくれると言ってくれたが、そこまでは必要ないと言って断った。断ったのは、卑屈さが見え隠れするワイと空港まで一緒に行くのがやや気重であったせいもある。スイットも見送りしましょうと言ってくれた。しかし、土地柄、到着時の空港での出迎えは有り難いものの、実際見送りまでの必要は無かった。

 ものの十分もすると市街地を抜けて田園風景に変わった。今日は、朝から日差しが強く、夜明け前に雷を伴った強い雨が有ったにもかかわらず、あちこちが既にすっかり乾いていた。

 道路は、左右見渡す限りの水田の中を、まるで物差しで線を引いたように真っ直ぐにドンムアンに向かっていた。所々に街路樹が植えられている。道路の左手には水を満面にたたえた小川が流れている。いや、水は流れているというより、ただ溜まっていると言った方が正確かもしれない。

 小川と水田の水位が同じで、畦道がやっと見え隠れするだけで、その境界線は判然としておらず、曖昧模糊としたタイにふさわしい風景となっている。

 風は凪いで、ところどころに生えているヤシの木の葉は微動だにしていない。三月もそろそろ終わりを迎え、いよいよバンコクは一年で最も暑い季節を迎える。空は青く、遠くに積乱雲が立ち上がっている。照りつける太陽は窓から出している腕をじりじりと焼いた。

 この時期、稲は植わっていない。どんなに遅くとも二月の始め頃までには稲の刈取りは終わっており、本格的な雨季の始まる五、六月ごろにはまた播種が行われるのだ。

 水田には、水牛が少しでも炎熱を冷まそうとしているのか、水草の間から鼻と口と目と耳と角だけを出して、身じろぎしないでまどろんでいたり、少し浅い所にいる水位牛は、引っ切り無しにモグモグと動かしている口元からよだれが垂れており、耳は時折蝿を追う為かピクピクと動いている。水から出ている部分は、こびりついた泥がすっかり乾いており、ひび割れている。

 左右田は、そうした風景を眺めながら、帰ってからの部長と課長への報告の事をぼんやりと考えていた。山崎の、「予定通り」遅れてはいるが、「結局はなんとかギリギリで間に合わせる」のがタイですよと言うフレーズを使い、上司を安心させようか、多少だが遅れている事実だけを報告しようか迷っていた。 

 だが藤田部長の「おまえタイぼけしたんじゃねーの、お前の考えなんか聞いちゃいないよ、事実だけを言ってくれよ、事実だけを。判断するのは俺だ!」と言う声が聞こえたような気がし、一気に、現実に引き戻された。

 ポリエステル製造工場の進捗状況や販売会社、販路などの調査もほぼ順調に進み、「事実」だけの報告はなんとか格好がつき、長かった出張も「おまえ遊んでばかりいたんじゃーねーだろーな」と、部長に言われないで済みそうな気がした。

 やがて、車がドンムアン空港の敷地に入り、頂の部分だけ残した枝葉がちょうど仏塔のように、円錐形に刈られた植木が並んでいる駐車場の辺りを過ぎると、黄色に近いクリーム色の二階建ての空港ビルが見えてきた。ひと際高い六階建てのビルの上に管制塔が見える。

 無事出国手続きを済ませ、ホッとして煙草に火を点けた所で、バンコクに到着した時の税関検査のことを思い出した。西洋人は、フリーパスだがアジア人は必ずカバンを空けさせられていた。取り立てて何かに課税された訳では無いが、左右田も例外では無かった。

 物欲しそうな目付きで、あれこれカバンの中身を探ったりしながら、左右田をチラチラと見やったり、明らかに左右田の方に向けて顎をしゃくり、如何にも「こいつ」といった仕草で、仲間の税関吏数人となにやら喋っていた。特に目ぼしい物が無かったのか、乱雑になった衣類などをギュウギュウと押し込み、閉まらない蓋をそのままに行けという合図をした。

 その感じの悪さが、左右田にとってタイの第一印象であったが、十日ほどの滞在ですっかりその悪かった印象は薄れた。

 タバコを消して滑走路の方を見るとパン・アメリカンのボーイング七〇七が駐機している。

「あー、あれで帰るんだ」と思ったとたん、妻の初代と、十才になる息子の恒久や、九才の娘の香菜の顔がふっと頭をよぎり、胸がズキンとして目頭が熱くなり涙が溢れそうになったが、いかにもタバコの煙が目にしみたかのようなふりをして涙を拭いた。

 そして、上空を旋回するジェット機を見ながら大きく息を吸って、里心を追い出すように息を吐いた。香港に寄って、まだ何日か仕事をしなくてはいけないからだ。

 来る時も香港経由であったが、香港の「啓徳空港」に着陸するときのあの有名な「香港カーブ」を思い出して背筋が寒くなった。


 飛行機が香港に近付くと、機体は徐々に高度を下げ始め、所々岩肌を見せる大小の島々の上空を飛んでいる。やがて前方に木造帆船ジャンク小型舟サンパンが散らばっているビクトリア湾が、そして右下前方に香港島が現れる。

 香港島は岸辺近くに唐楼(八階建て位までの低層アパートなどのビル)が隙間なくひしめいており、その間にやや高層のビルが散見される。建物はせいぜい島の中腹三分の一ぐらいまでで、それより上は白い邸宅のような建物が、ポツポツと建っているのが見える。  

 海岸縁には所狭しと水上生活者達のサンパンと呼ばれる小型船が、空から見ると何かの虫の卵の様にびっしりとへばりついて連なっている。

 高度はぐんぐんと下がり、飛行機はやがて九龍半島の上空に入る。右手に見える半島の先端の尖沙咀ツィムシャツィあたりに建物が集中している。海岸線にはやはりサンパンが幾重にも連なりへばりついている。さらに高度が下がり、眼下には中層の建物が隙間なく立ち並び、既に窓から人影が見える程である。見た所、中国からの難民アパート群の様で窓や入口はただぽっかり穴が開いているだけで、中にはぼろきれや麻布の様な物で遮蔽してあるのが見える。

 飛行機はフラップを一杯に下しながら、ほぼ正面に見える高い山に向かって進み、あわや衝突しそうな所で、機体は大きく右に傾き急旋回を始める。旋回して下になった右側の主翼が建物の屋根に触ってしまいそうに近い。

 湾に突き出た滑走路が、右手の窓から前方にちらりと見えるが、滑走路までの距離は素人目に見ても極めて短く、そんな距離ではたして無事着陸できるのか心配なほどだ。

 ほぼ九十度近く曲がったのではないかと思う所で、機体が真っ直ぐに立てなおる。車輪が、真下の唐楼式アパートの屋上に干してある洗濯物を引っ掛けてしまいそうだ。道路を行き交う人や車が手に取る様に見えたかと思うと、高度はさらに下がり、やっと滑走路に入って激しいエンジンの逆噴射ともに、香港の啓徳空港にハラハラしながらも無事着陸したのであった。

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