一.七 サイアム
合弁相手企業の社長のユッタナー・ラータナワニットが招待してくれた、サイアム地区にある店に入ると、左右田に負けず劣らずの大柄なユッタナーが、既にレストランの入り口に一番近い席に座って待っていた。見た所、五十才にあとひとつふたつといったところだ。
タナー・エンタプライズの創業者と聞いている通りに、脂がのりきって、自信に満ち溢れ、意欲満々の華人ビジネスマンそのものだ。湯飲みが既に空になっているところから見るとかなり早めに来ていた様子だ。
万事がゆったりとしたタイである。待つのも、待たせるのもマイ・ペンライ(気にしない)のお国柄で、約束の時間のかなり前から来て待っていると言うのは、駐在員の山崎が言っていた様に日本的ビジネスから学んでいるのではないかと思えた。
店に入るとユッタナーに、賓客を接遇するかのように抱きかかえんばかりの勢いで、奥の個室に案内された。
店は、中央に七~八人ほどが取り囲める丸テーブルが二卓と、両側の壁際に四人掛けのテーブルが三卓ずつ備えてあり、奥には七~八人ほど入れる大きめの個室と、源一郎が案内された四~五人用の小さめの個室があるだけと言う、中位の規模の店である。
店奥の鴨居のあたりに祀られた祠に灯されているローソクの明かりが映えて、むしろ逆に店全体の印象をやや暗くしていた。全体が紫檀や黒檀風の調度品が重厚さを醸し出すのと共に暗さを助長しているのであろう。
左右田はユッタナーから夕食の誘いがあるとは思ってもみなかった。住井本社での彼との合弁プロジェクトの担当とはいえ、ユッタナーにとって左右田はいわば若造である。山崎によると、菱丸タイランドの佐伯社長とは年も比較的近いためか仲が良く、時々会っているようであった。
「すみません、ラータナワニットさん。私みたいな若造を招待いただいて。ありがとうございます」
左右田は恐縮しながら、礼を言った。タイでは目上の人でも苗字ではなく名前で呼ぶ事が通常であるが、名前で呼ぶのに慣れない左右田は「ユッタナーさん」とは言いづらく「ラータナワニットさん」と苗字で呼んだのである。ユッタナーもそれを強いて直そうとしなかった。日本では苗字で呼ぶのが通常だと言うのを知っての事であろう。
「ノーノー。若造だなんて。菱丸の重要人物と聞いていたんでね」
ユッタナーは、笑いながら冗談口をたたいた。
「日本からだと言うので最近の状況を聞きたいと思ってね。特に、この所のベトナム戦争で直接、間接に日本からの輸出が増えて、多少は日本経済に好影響があると聞いているのでね。
タイも、あちこちに米軍の基地が出来たり、帰休兵相手の商売でそれなりに景気は良くなってきているんだが、戦争が終われば基地の後しか残らないんじゃないかと思うんだよ。もう少し経済の基盤に役に立つ事が出来ないかと思ったりしてね」
ユッタナーは、挨拶もそこそこに話し始めた。流石にやり手の華人ビジネスマンである。ただで若造に飯を食わせたりはしないのであろう。
「まあ、その話は後でゆっくりするとして、このレストランはチャイニーズだが、フカひれの専門店でフカひれとツバメの巣の料理が中心なんだよ。店はこのように小さいけど私は、味はバンコクで一番だと思っているんだよ」
ユッタナーはさすがに直ぐに本題に入るのはどうかと思ったのか、この店の説明から始めた。
いかにも脳みそが一杯詰まっているような鉢の大きい頭に、鋭い眼光、一文字に結んだ口は人を近づけない風情を醸し出している。
しかし、良く見るとその目の奥には慈悲深さ、優しさが宿り、口を開けば思いやり深く温かい言葉が出てくる。しかし、ビジネスともなると、そうした本来の優しさを封印してしまうのであろう。
日本では、いわゆるベトナム戦争「特需」は一九五〇年代前半の朝鮮戦争特需の時の様なインパクトはないが、繊維製品、雑貨、機械部品類など米軍の直接買い付けとアメリカ向け輸出と、同じく米軍の買い付け先である韓国や台湾向けの輸出が増加している状況などについて、左右田が説明した。
ユッタナーは、今のタイには米国が要求する基準の工業製品を造るだけの工業力が無いのが残念だ。日本の企業に来てもらって、お金だけでなくて技術やノウハウをどんどん持って来てもらうしかない。その為には政府に頼っているだけではなくて、我々プライベート・セクターも頑張らねば、と一瞬厳しいビジネスの顔が覗いた。
「所で、ラータナワニットさんのグループ企業はどのぐらいあるんですか?繊維だけでなくて、家電製品や石鹸、歯磨きなども日本企業と合弁でやっているそうですね」
左右田は口の中にわずかに残っているツバメの巣のスープのプリプリ、ツルツルした巣の部分の感触を舌で探し当てながら聞いた。
「そうだね」とユッタナーは言いながら持っていた茶封筒から書類を取り出した。書類のその表紙には、英語で「タナー・グループ企業リスト」とあった。
ユッタナーは、折から運ばれてきた幾重にも重なった山盛りの大柄なフカヒレの姿煮が平たい厚手の磁器の鍋風のお皿の上でぐつぐつと煮えたぎっているのを、左右田に取り分けながら問わず語りに、グループの由来を企業リストを見せながら、時折自分の身の上話やタイの経済的な背景などを交えて語り始めた。
ユッタナーがそもそも繊維関係の事業を始めたのは、一九四二年にアメリカでの留学を終えて帰国してから、繊維卸問屋をやっている叔父のキアットの所で仕事を習いながら、手伝いを始めたのがきっかけとなっている。
叔父の卸問屋は、バンコクの中華街のヤワラート通りに平行して走る繊維卸問屋が集中しているサンペン街にあり、叔父の中国名である「羅起亜」という商号で輸入物の卸売問屋をしていた。
太平洋戦争が終わって数年後にユッタナーは独立し、繊維と繊維製品の輸入・卸売商社である「タナートレーディング社」を設立。叔父のキアットから十パーセントの出資を仰ぎ、後は自分の貯蓄と父親からの借金で賄った。事務所兼倉庫は羅起亜の近くのサンペン街の裏通りに構えた。
この時代タイでは、繊維製品の輸入はほぼインド人が握っていたが、ユッタナーの語学力を生かしインド商人の向こうを張って、直接アメリカやヨーロッパから合繊織物の輸入を始めたのである。流石にインドからの輸入には手を出すことが出来なかった。タイでは国産の綿で綿織物を造っていたが、繊維製品の需要が増えるに連れて、綿織物の不足分とほとんどすべての合繊織物を輸入に頼るようになっていた。
叔父の卸問屋の羅起亜は、いわば二次卸商で、インド人の輸入商から品物を仕入れ、同じサンペン街にある三次卸商や地方の卸売商に卸していた。
ユッタナーのタナートレーディング社は、アメリカやヨーロッパから直接輸入した合繊織物を、羅起亜に全量卸していた。
ユッタナーが三十四才になった一九五四年に、綿中心の紡績、織布製造会社である「サイアムテキスタイル社」を設立した。
タナートレーディングが中核になった合弁会社で、日本の清水紡績、愛知通商、亜細亜紡績などの日本企業及び共産党政権の中国から逃れてきた華僑資本家とが参加している。それまで、輸入に頼っていた分を国内で生産・供給しようというものであった。
一九五九年には、ユッタナーはそれまでの繊維関係の事業で儲けた分のほとんどを注ぎ込み、持ち株会社的な「タナー・エンタプライズ社」をユッタナー個人の百パーセント出資で設立し、タナートレーディング社とサイアムテキスタイル社をその傘下に収めるような形にした。
タイは、一九五七年から五八年にかけての世界銀行の融資審査の為の「世界銀行経済調査団」の勧告によって、海外からの工業製品の輸入を抑えて、それを国内生産に置き換えようといういわゆる「輸入代替工業化」政策を導入し、それまでのタイ人優先主義から一転して、外国企業を積極的に誘致することと、国内の民間資本の投資を奨励することによって経済開発を促して行くことになった。これによって、タイの華人・華僑の経済活動が再び活発化する事となったのである。
ただ、外資を積極的に誘致しようと言っても、業種によっては外資の出資制限(タイ側マジョリティー)があることから、外国企業はタイ側の「受け皿」、即ちタイ側の合弁相手が必要になることが明らかであった。
ユッタナーは、そうしたことを見越して早々と、外資のタイ側の「受け皿」としての持ち株会社的なタナー・エンタプライズ社を立ちち上げたのだ。
出資制限のある業種の企業にタナー・エンタプライズ社がタイ側の持ち分の出資をすれば、外資系合弁企業の設立が可能となるのである。投資のための資金は、世銀融資で豊かになった国家財政の波及効果で潤沢となった金融市場から調達出来た。
六〇年代に入ってユッタナーは、手始めにそれまで輸入に頼ってきた冷蔵庫、扇風機、エアコンなどの家電製品をタイ国内で生産するために、日本との合弁企業を次々と設立した。日本側のタイへの進出の受け皿的要素もあったが、品質の良い日本製品のタイでの市場性に着目し、ユッタナー側から誘致するケースもままあった。同時期にユッタナーは輸送部門や不動産部門にも手を広げた。
一九六五年になって、ポリエステルやレーヨンなどの合成繊維の紡績、織布、染色加工を行う「AST(亜紡シンテックス・タイランド)社」を、タイ側がタナー・エンタプライズと羅起亜、日本側が亜細亜紡績、菱丸商事、菱丸タイランドによって設立した。
合繊の原料は菱丸商事を通じて亜細亜紡績から輸入し、製品の販売は主に羅起亜を通していたが、若干はサンペン街の二、三の有力な二次卸問屋にも卸していた。
今回の左右田のバンコクへの出張案件である「TAP(タイ亜紡ポリエステル)社」は、一九六六年に設立されている。
この他にユッタナーは、コメや砂糖の輸出会社、農畜産物の輸出会社など大小合わせて二十数社の企業を傘下に収めており、小規模ながらタイの財閥の一つとなっていたのである。
「ちょっと説明が長くなってしまったね。うちはまだまだ財閥としては小さい方でね、これからもっと日本の企業と組んで大きくしていこうと思っているんだ。うちは、菱丸とも組んでいるが、ライバルの住井物産とも結構付き合いがあってね。
実は、住井の現地スタッフに物凄く優秀な日本人がいて、彼との仕事がどちらかと言うと多いんだよ。まあそんなところだね」
「いやー、有難うございます。事前に色々お聞きしていた以上に広範囲に、ビジネス展開されている事がよく分かりました」
「ところで話は全く変わるがね、実を言うと若い頃アメリカに留学に行く途次にひと月ほど日本にに滞在したことがあるんだ」
ユッタナーは一通りタナー・グループの説明を終わった頃に、運んできたアワビの蒸し煮を取り分けようとするウエイトレスを制し、自ら左右田に取り分けながら続けた。
「大東亜戦争が始まる三年ほど前になるかな。日本に行ったことがあるんだ。それ以来すっかり日本びいきになってしまったんだ。
もっとも、シバザキ・シズコさんと言う、和服がとてもよく似合う女性と出会ったからというのが正直なところかな。浅草の雷門の辺りで出会って、あまり素敵なんで声を掛けてしまったんだよ。でもね、お父さんに反対されてしまってね」
ユッタナーは、少し恥ずかしげに笑いながら言った。
「シズコさんとは、それっきりでね。でも、恨んでいないよ。大切な娘を思う親の気持ちは理解できるしね。ただ、彼女は結婚して広島に行ったらしいんだよ。彼女から一度だけ手紙が来てね、結婚したって。でも住所は広島県としか書いていなかったんだ。原爆や空襲にあってないかが心配でね……」
ユッタナーは、沖縄の泡盛の源流ともいわれる「ラオロン」と言う焼酎がかなり効いてきたと見えて饒舌であった。
愛想のいい店主が自ら、エビのフカヒレソース仕立てと、フカヒレ入り焼売と、チンゲン菜のフカヒレソース掛けを運んで来た。
「そうそう、ハイスクールに行っている息子がいてね。彼は日本に興味を持っているので、日本の大学に行かせようと思っているんだ。これからタイと日本との関係はますます親密になっていくと思うからね。
今はまだ高校一年生なので先の事だけど、中学に入った時から日本語の勉強を始めてさせていてね。本人も日本語にすごく興味をもっていて、日本人の先生がとても上達が早いって言っているんだよ」
「それは良いですね。私に何かできることがあれば何でも仰って下さい」
左右田は、多少酔ってはいたが本心で言った。
「うん、実を言うとね。彼はサマート(薩明)と言うんだが、妻の子ではないんだ。いや、妻は妻なんだけどね……」
ユッタナーは口ごもりながら続けた。
「サマートは三番目の妻の子で、私の息子としてラータナワニットの籍に入れているんだ。結婚している本妻には長男のニポン(倪輔)と次男のトンチャイ(同柴)と娘のチャナ―チップ(柴那)の三人がいるんだよ。
二番目の妻とは子供が出来なかったんだが、たまたま縁があってナンタワン(南華)と言う交通遺児の女の子を私の養子にして、彼女に育ててもらっているんだ」
ユッタナーは紙ナプキンにそれぞれの漢字の名前を書きながら紹介した。
左右田は、自分には恒久と言う息子と香菜と言う娘がいて、妻は残念ながら一人ですと冗談めかして紹介した。
二人はお互いの意見が合ったりするとチャイヨー(万歳と言う意味。乾杯の時にも使われる)、チャイヨー、チャイヨーとラオロン焼酎で乾杯をした。その内、何にでも乾杯をし始めてしまったせいか、お酒が結構強い左右田でもかなり効いてきた。ユッタナーも少し体が揺れ始めていた。
「酔っぱらったついでに失礼な質問していいですか?」
「勿論、何でも聞いて良いよ。男同士隠す事なんか何もないよ。仕事以外はね」
ユッタナーは、楽しそうに言った。
「では、失礼ながら。ラータナワニットさん、ミストレス(妾)は何人いるんですか?」
左右田は、おずおずしたかのように身を低くしながら聞いた。
「はっ、はぁー、ズバリ来たな。実を言うとさっき話した二人だけなんだよ。私の友達で七人もと言う奴がいるけどね」
ユッタナーは笑いながら続けた。
「二番目の妻のマライは、私がちょうどアメリカ留学から帰って来て、サンペン街で叔父の繊維問屋の手伝いをしていた時の身の回りの世話をして呉れるお手伝いでね。ナコンパトムの近くの田舎の子で心優しくて可愛くて、彼女とはすぐ関係が出来ちゃったんだよ。さっき話したけどマライには子供が出来なかったんだんだが、ナンタワンと言う子を私の養女にして彼女が母親代わりに育ててくれているんだ」
二人はここでまた乾杯。
「後にユッピンと結婚してね。マライは悲しがったけど、彼女も僕と結婚できるとは思っていなかったんだ。可哀そうだったけど、住む世界が違うからね。彼女は、納得はしなかったと思うがその後もずっと一緒にいてくれたよ。
二人はここでまた乾杯。
「それから、本妻のユッピンなんだが、親父の親友の娘で、同郷のサラブリ出身の二人娘の下の子で大人しい性格の娘でね。なかなかの美人でもあったし、我々の両親たちがえらく熱心であった事もあったんだが、精米業をやっている彼女の父親の財力とコメの集荷力が魅力と言う事もあってね。
コメの輸出会社を設立する際にはユッピンの父親もに出資して貰ったし、輸出となると、私の父親がサラブリでやっている精米業からのコメだけでは足りなくて、ユッピンの父親の会社からも調達する事も必要だったんだ。
乾杯は無かった。
「それから、日本に留学させようと思っているサマートの母親の三番目の妻のパッサミーなんだが、私が一九四八年に初めて起業した繊維と繊維製品の輸入・卸売専門商社のタナートレーディング社の会計係だったんだよ。
取り立てて美人と言うわけではなかったんだけど、私と同じ潮州系の華人でやや気が強い所はあったが根は優しく、よく気が利いて何事も任せて安心だったんだ。会社で毎晩遅くまで一緒に働いていたら、何時の間にか彼女とも出来てしまってね」
二人はここでまた乾杯。
「そうそう、そう言えば、五月の中旬に日本に行く予定があるんだ」
ユッタナーは、最後のコースの冷たいツバメの巣の甘いシロップ煮を飲みながら話を続けた。
「菱丸とは別のビジネスなんだがね。二年ぶりなので楽しみにしているんだよ」
「そうですかあ。ラータナワニットさん結構日本びいきなんですね」
「そうだね。シズコさんとの事は別にしても、日本はあのアメリカと英国なんかと戦って、結果的にアジア各国は西欧諸国からの独立を勝ち得たんだ。それに、何せ歴史が古くて魅力的だからね。それと、アメリカでの留学時代に結構嫌な思いをしてね。実はあの白人連中に戦争を挑んだ日本人に共感する所が多くてね」
ユッタナーは、腕を組み真剣な表情で言った。
「そうそう、もし東京で時間があったら私の家に遊びに来て下さいよ。電車で都心から三十分位の所なんです」
左右田は、まさかユッタナーが本当に来るとは思わず、その時は半分お世辞のつもりで言ったのであった。
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