一.五 ナコンパトム
プラニー・ムンポットジャーンが十五才になった時に、叔母のモンテワンが、母親と日本人である父親との出会いや離別についての経緯を詳しく話してくれた。
自分の子供のように育ててくれた優しい叔母のモンテワンは、話し好きだからと言う事もあるが、ともかく話がとても上手で、時折いかにも自分がそこにいたかのように、今考えればきっと憶測を含めて大袈裟に話をしてくれたのだろうと思っているが、その語り口には真に迫るものがあった。
プラニーの母親は、ラチャマイ・クンサラワニットと言い、ナコンパトムに近いワンウイチャイ村の小作農家の三人娘の真ん中の子であった。ワンウイチャイ村は、ナコンパトムから南東十キロほどの距離にある五十戸ほどの川沿いの小さな農村である。
ラチャマイは小学四年を卒業して以来、父親の農作業や家事の手伝いをしていた。ある時、村長が、ナコンパトムに最近設営された「日本軍」の病院で、掃除・洗濯や食事の用意の手伝いが必要になった。
この村からも一人出して欲しいと、ナコンパトム市から言われている。無理にとは言わないが、ラチャマイなら年頃も丁度良いがどうだろうか、と言ってきた。
一九四二年七月、ラチャマイが十九歳の時であった。
ラチャマイの母親は既に亡くなっていた。三才上の姉のマライは、既にバンコクに出て裕福な家の「お手伝い」をして家に仕送りをしていた。一つ下の妹のモンテワンは、ラチャマイと一緒に農作業や家事の手伝いをしていた。ラチャマイとしては給与を呉れるとの事であったし、少しでも家計の助けのためになればと思ってそれに応じた。
後で分かったが、給与と言っても殆ど子供の小遣い程度しか支給されなかった。だが、彼女の食費が掛からない分、残してきた父と妹の生活はすこし楽になった。
ラチャマイの家はいわゆる小作農家で、畑の持ち主であるこの村の村長から僅かばかりの土地を借りて、米と野菜などを育てていた。家族が食べるだけでやっとであった。
ただ、ナコンパトムがあるタイの中央部は、イサーンと呼ばれる東北タイと比べると土地が肥えており、悪いブローカーに騙されて娘がバンコクで苦界に身を投じさせられるようなことは、比較的少ない方であった。
その病院は、日本軍の泰国駐屯軍(後の第十八方面軍)直轄の兵站病院であった。病院の院長は「イシヤマ・チュウサ(石山中佐)」と呼ばれており、ラチャマイは「イシヤマ」の部屋の掃除や洗濯の世話をする係りであった。
「イシヤマ」は、兵隊ではなく「軍医」で、彼女には優しくしてくれたが、全く言葉が通じず、ただお互い目礼を交わすだけであった。「軍医殿」が何か用事がある時は、病院の守備隊の誰かに言い付けていた。
次の年の七月までの約一年間、ラチャマイはイシヤマ軍医と直接言葉を交わすことが一度も無く過ごした。兵隊たちはカタコトだがタイ語を比較的早く話すようになったが、イシヤマは、全くタイ語に興味を示さなかった。
他の村からもラチャマイほどの年頃かそれよりやや若い子供たちが、働きに来ていたが、食糧や軽い軍用資材などの運搬をさせられていた。それから比べると彼女は運が良かった。
この病院は、元々ナコンパトムの市民病院であったものを、日本軍が徴発してナコンパトム兵站病院としたものである。院長の「イシヤマ」の宿舎も、病院から二、三キロ離れた地元の有力者の邸宅を徴発したもので、他の軍医数人と住んでいた。
日本軍は、真珠湾攻撃の次の日の一九四一年十二月八日の早朝に、タイに進攻した。タイ進攻の目的は、タイ国自体の占領が目的では無く、マレー(現マレーシア)での作戦をスムーズに運ばせる為と、英国軍の支配下にあるビルマ(現ミヤンマー)への侵攻作戦を遂行する為と言われている。
タイへの進攻は、タイの東部国境および南タイの各地の海岸からと、バンコク南部のバンプー海岸から行われた。進攻の当初、各地で小競り合いがあり双方に死者も出たが、三日後には「日タイ攻守同盟」の仮調印がなされ、進駐が本格化した。
日本軍はタイの各地に駐屯したが、マレーおよびビルマでの作戦遂行のためにはタイの安定が重要と認識されていた為、日本軍としては出来るだけタイで悶着を起こしたくなかったことは容易に想像できる。
「日タイ同盟条約」などがその年の暮れに結ばれ、国同士では「日本軍の進駐」が正式に合意されたが、タイの国民にして見れば実質占領のような状態は不愉快極まりなかったに違いない。
ラチャマイが病院で働き始めて十ヶ月ほどしてから、正式な守備隊の隊長が着任した。一九四三年五月の事であった。隊長と言うから、口髭をはやした年寄りかと思ったが、若い青年将校であった。
『サッワディー(こんにちは)・クラップ。イシヤマ・チュウサに会いたい』
何と驚いたことに、その若者はタイ語でそう言った。ラチャマイはまさかそれがタイ語とは思わなかったので一瞬とまどったが、大きい目をさらに大きくして「ちょっと、お待ちください」とまさに言おうとした時に、「イシヤマ」が部屋から出てきた。若者のタイ語はやや発音がおかしかったが、正確であった。
若者とイシヤマは、いかにも旧知の間柄のように親しげに挨拶を交わしながら、院長室に入って行った。
ラチャマイが丁度院長室の前の廊下を掃いていると、院長が顔を出して、彼女に何か言おうとしたが止めて、大きな声で廊下の端の方に向かって「何か」言った。廊下の端の扉の向こうから、「ハイ、ただいま」と言う声がした。
お茶でも頼んで、それに対して分かりましたと返事したのだろうと思った。
彼女は、廊下を掃くのを止め、台所でお茶を淹れようとしている兵隊に、自分が淹れるからと、手振り身振りで伝えた。その時、心臓の鼓動が早くなっているのを彼女は感じていた。
『コォプン(ありがとう)・クラップ(ございます)』
ラチャマイがお茶を置いて戻ろうとすると、若い隊長が丁寧な発音で礼を述べた。
『マイペンライ(どういたしまして)・カー』
声はかすれ、口から心臓が飛び出んばかりであった。
若い守備隊長は佐藤孝信と言った。
佐藤は、愛知県豊橋の出身で、陸軍士官学校の五十四期生である。
彼は、第十五師団の少尉として中国の南京の近くで治安維持活動を行っていたが、所属師団が一九四三年一月に編成されたタイ国駐屯軍に編入されたのに伴って、同年三月にナコンパトムの師団直轄の第百四十八兵站病院の守備および周辺地域の治安維持隊長として赴任してきたのだ。
佐藤の所属していた第十五師団本体は、暫くして佐藤と守備隊員を残してそのままビルマ方面に転戦して行った。
普段は恥ずかしがり屋のラチャマイが何時に無く積極的であった。
彼女は受付近くの佐藤守備隊長の詰め所に朝、昼、夕方とお茶を届けたり、用もないのに詰め所の前をウロウロとしたりした。
村一番の器量よしと言われたラチャマイだ。佐藤のほうもすっかり目を奪われてしまった。
若いラチャマイと佐藤の二人がお互い強く惹かれあう様になるのに時間はかからなかった。
二人の愛は、ただでさえジリジリと焦げてしまいそうな炎暑にあえぐ内陸のナコンパトムの街を燃やし尽くしてしまうのではないかと思えるほどの激しさであった。
夕暮れ時には、街の中央を流れる川の岸辺で、二人は仲良く何時間も座っていた。二人の後ろ姿は、真っ赤な夕焼け空に黒く映える影絵の様に寄り添ったまま動かなかった。
お互い会っている時は時を忘れるほど心は満たされ、世の中に不可能な事など無いという気持ちになるが、ひとたび離れると何もかもが困難なことのように思え、心は空ろになり、時は遅々として進まなくなってしまう。
佐藤は、中国でタイに転進する事に決まってから、中国人の知人からこっそりと英語・タイ語の辞書を手に入れ密かに勉強していた。
日本の軍人が、敵性語である英語が書いてある物などを持っている事自体が非国民と言われるので、細心の注意が必要だと佐藤が言っていたが、ラチャマイは戦う相手を良く研究しないで戦うなんてどう言う事だろうと思った。佐藤は、中国語も直ぐに覚えたようだし、タイ語を覚えるのも人一倍早かった。
もっとも、激しく思いを寄せ合う二人には言葉は要らなかった。
年が明けて少し経つと、バンコク方面から重装備の日本の兵隊が、鉄道でカンチャナブリ方面に続々と向かって行くようになった。車は殆ど無く、牛や馬も荷物を引いていた。ラチャマイでさえ、何か大きな作戦があるのではと思うほどであった。
「ねえ、西の方に軍隊が移動しているみたいだけどあなたも行ってしまうの?」
ラチャマイは不安そうな顔で佐藤を見た。
「分からないけど、僕はこの病院を警備する為にいるので、この病院がなくならない限りはここにいると思うよ。去年の十月に泰緬鉄道が開通したので、人や物資の移動が多くなったせいではないかな」
佐藤自身どうなるのか全く分からなかったようであった。
一九四四年の四月のことである。
五月になると今度は逆に北西のカンチャナブリの方から傷病兵が続々と戻ってくるようになった。殆どの兵隊は栄養失調で、怪我と言うよりも激しい下痢や高熱に侵され痩せ細っていた。
ラチャマイも病室の方の手が足りなくなり、手伝いをするようになった。日本語なので何を言っているのか皆目見当がつかないが、ラングーン、マンダレー、インパールと言う地名みたいな名前が兵隊の口からよく出ていた。
雨季が本格的になって、やや涼しくなってきた頃、佐藤に異動命令が出たようだ。
「ラチャマイ。ちょっと北の方面に行って来るよ。大丈夫直ぐ帰って来るから。石山中佐や他の軍医たちと一緒に行くんだ」
佐藤は、極めてさりげなく平静を装っている風であったが、そのキリリとした顔がやや歪んでいるように見えた。
「……」
ラチャマイは何も言わなかった。と言うよりも何も言えなかった。兵隊の動きからひょっとしたら何処かに行って帰ってこないかも知れないと思ったりしていたが、直ぐに否定した。佐藤がいなくなってしまうという実感が湧かなかったのだ。でも、もしそうなっても佐藤の前では決して涙を見せまいと彼女は決めていた。
出発を翌日に控えても、佐藤は医薬品や包帯、脱脂綿や手術道具などを列車や馬車に積み込む為の指図で、夜遅くまで忙しそうにしていた。病院に徴用されてきた他の子供たちはすっかり眠り込んでいたが、ラチャマイは眠らずに聞き耳を立てて佐藤が来るのを待っていたところ、深夜になって、外で物音がするので出てみると佐藤が待っていた。
次の日、いざ佐藤が出発する時に、ラチャマイは微笑みながら、「絶対帰って来てね。ガルナー・サンヤー・ナカ(約束して下さいね)」と言って佐藤の目をじっと見つめ、クルリと踵を返し病室の方に走った。別れ際に涙を見せたくなかったのだ。
二人が出会って一年と二ヵ月が経っていた。
一九四四年の七月の事であった。
佐藤が出て行ってから半月もしない内に、ラチャマイの父親が肺炎で亡くなってしまった。
その後も、ナコンパトムの病院に兵隊たちが続々と戻ってきたが、やはり殆どは怪我と言うよりはマラリヤや赤痢と栄養失調で痩せ細った病人ばかりであった。
ラチャマイは兵隊たちの世話で毎日朝から晩まで働き通しだった。忙しくしていれば佐藤のいない寂しさや父親が亡くなってしまった悲しさが多少は紛れた。
佐藤が去ってからひと月半ほどしてから、つわりが来た。佐藤の子だ。
初めてのあの時……。
別れる前の最後の一晩だけだった。
ラチャマイは幸せでいっぱいであった。唯一残念であったのは、佐藤が自分の子供が出来た事をまだ知らないことであった。
父親が亡くなってしまって、家に一人残ってしまった妹のモンテワンはかねてから言い寄られていた隣村の男とその年の十一月に結婚した。
ビルマから帰ってきた兵隊の中の優しそうな人を探しては、佐藤の消息を聞いてみたが誰一人知らなかった。それでも臨月の大きなお腹を抱えながらも聞いて回っていると、昨年(一九四四年)十月ごろにメイミョー辺りで佐藤に遇ったと言う兵隊がいた。
既に、その辺りは英国・インド軍が迫って来ていたが、傷病者の手当てで軍医が残っていたために佐藤も残っていたようだ。その後、敗走を続ける日本兵は、多くはビルマから陸路でタイの方に逃げてきているはずとの事であった。
次の年の一九四五年四月にラチャマイは、妹の嫁ぎ先のムックレック村で、娘のプラニーを出産し、そのまま妹の所に世話になっていた。
その年の八月になって日本軍は連合軍に無条件降伏をした。
終戦と聞いてラチャマイは居ても立っても居られず、小さい娘を妹に預け、市に返還された病院に佐藤が戻ってくるかもしれないと思い、雑用係として病院に雇ってもらった。
だが、ナコンパトムにいた日本兵は、病人を含め殆どがバンコクの方に移って行ってしまい、新しくナコンパトムに来る日本兵は殆どいなかった。多くの日本の兵隊は収容所に入れられてしまったようであった。
このまま病院にいてもらちが明かないと思い、日本人収容所を見て回ることにした。隣の県のノンタブリのバーンブアートンに日本人収容所があると聞きつけて行って見たが、将兵はおらず在留邦人だけであった。また、バンコクから北東に百五十キロほど行った所のナコンナヨークの収容所にも行って見たが無駄足であった。
バンコクの「戦勝記念塔」近くの収容所にも行ってみたが、そこではオランダ兵と言っているがインドネシア人とオランダ人の混血の兵隊や、インド人の衛兵にいやらしい事を言われて苛められた。
タイで抑留された日本兵は十八万人とも言われていて、探し当てるのは殆んど不可能に近い状態だと言われていた。
衛兵達に写真を見せながら聞いたがろくに見もせず、「いない。あっちに行け」と今にも殴られそうな勢いであった。
遠くから収容所の様子を見ていると、どうやらそこに収容されている元日本兵は、朝になると港に作業員として駆出されている様子で、収容所から出てくる兵隊の様子を何日か見ていたが、佐藤はいなかった。
そこで昼食時、川沿いの港の作業場に物売りのふりをして日本人捕虜に近づき、写真を見せて聞いていると、物珍しそうに何人か近寄って来たりした。
十日間ほどそんなことを続けていると、ある日そのうちの一人が、佐藤少尉の事は良く知っている、マンダレーで少尉たちと合流してから一緒にチェンマイを目指した。
だが、タイ国境まであと百五十キロぐらいのケンタングと言う街の近くで少尉は敵機の機関砲に足を撃たれ、さらに高熱と下痢で亡くなってしまったと悲しげに言った。
確か、一九四五年の一月頃だと言っていた。
間違いであって欲しいと思って何度も確認したが、顔も名前もこの写真の人で間違いないと言われてしまった。
ただ、ラチャマイは佐藤が亡くなったのが間違いないと聞いても暫くの間は信じられず、必死にそんな事は有り得ない、嘘だ、彼は必ず帰って来ると約束したんだから、と心の中で否定していた。
だがその内、人の声も顔も景色も何か遠くに感じられ、だんだんと暗い海の底に落ちて行くような感覚を覚え、それからほぼひと月ほどはまるで真っ暗闇の中に居た。どこでどうしていたか殆んど覚えていなかった。
叔母によると、母は時々戻って来ていたが、最後にバンコクに行くと言ってからひと月ほどして帰って来た母は、もぬけの殻の様でその間の記憶もあまり無かった。
どうしたのか聞いてもポカーンとしているだけであったが、ふた月ほどしてからやっと少しづつ正気を取り戻し、収容所回りをしていた事や佐藤が死んでしまったことなどをポツポツと話したようだ。
母は食欲が無く、食べてもすぐもどしてしまった。プラニーの為にも元気にならなくてはと叔母が言うと、いっときは「そうね、頑張るわ」と言いながら食べるのだが、直ぐにお腹かいっぱいと言って横になってしまったそうだ。
バンコクにお手伝いに出ている伯母のマライも心配をして、色々な漢方薬をいっぱい持ってお見舞いに来てくれ、帰る時にはこれで美味しい物を沢山食べさせてやってくれと、お手伝いのお給金では稼ぐことが出来ないほどのお金を置いて行ってくれたそうだ。
戦争直後で物が無い時代にもかかわらず、伯母は身なりもとても良く、良い生活をしている様に見えたらしい。
母のラチャマイは、少し良くなったように見えたが、深い悲しみが体を蝕んでしまい、生きる望みも失ってしまったのであろう、遂に自分を残してあっという間に亡くなってしまったとの事だ。
一九四六年、プラニーがまだ一才の時であった。従って、プラニーには母親の記憶は全く無い。
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