一.四 バーンラック


 気温がやや低めの、乾季が終わる時分にあたる三月は、色々な果物が徐々に出回り始める時期だ。 だが、いずれも本格的に「旬」を迎えるのはまだ少し早い。

とは言っても、果物売りにとっては、バナナ、パイナップル、パパイヤ、スイカ、マンゴーなどは多少収穫量が減る時期はあっても一年中出回っていて、何時でも商売になるので有り難い。


 果物売りのプラニー・ムンポットジャーンは、いつものように天秤棒と果物を入れる平たい編み籠を持って、衣料品卸売り市場のボーベー市場近くにある友達の家を朝十時ごろ出発した。

 大通りでサムロー(トゥクトゥク)を拾い、運河を埋めて広がったばかりのシーロム通りから程近いバーンラック市場でスイカ、マンゴー、パパイヤと蘭の花を仕入れ、また昨日と同じチャルンクルン通りのスリウォン通りの近くに陣取った。

 毎日ではないがソーダーと言う日本人は、昼過ぎ頃に自分の所に来てはスイカを食べ、旨そうにタバコを吸ってから帰って行く。

 時々、会社の同僚のような男と連れ立ってそばを通る時が有ったが、寄らずににこやかに彼女に会釈をして通り過ぎて行った。ある日その場所にそのまま夕方ごろまで居たら、彼がまたやってきたが、タバコを隣で吸うだけで帰っていった。

「あの男、あんたに気があるんだよ。良いねー、若くて美人だと」

 時々隣り合ったりする事のある年上の果物売り仲間に冷やかされた。

 プラニーは左右田が来るようになって、彼が自分の過去と何とはなしに結びついているような気がしていた。

 それは、彼が日本人かも知れないと思い始めた頃からで、それまで封じ込めていた日本人の血が騒ぎ始めたからだだろうと思っている。

 彼はかなり大柄で体型はスマートであった。明らかにタイ人と違って鼻は全体にやや細めで鼻背も若干高いが、二重の目はやや大きめで色の白さを除けばタイ人に見えない事は無い。

 短髪のスポーツマン・タイプで、さっぱりと清潔感に溢れている。取り立てて男前と言うわけではないが、話す時は笑顔を絶やさず温厚そうで、大きい目には優しさが潜んでいた。

 プラニーは、ソーダーが来るのを待つようになった。


 夕刻に店仕舞いをしようと思っていると、また雲行きが怪しくなり始めた。商店の軒下に避難しようとしていたところ、目の前をちょうど娘のマユラと同じぐらいの年恰好の女の子が父親に連れられて通り過ぎた。

 ナコンパトムの家を出てから週に一度は叔母のモンテワンの所で世話になっているマユラに会いに行っていたが、このところ会いに行っていない。

 プラニーは軒下で、激しく降り出した雨をぼんやりと見ながらナコンパトムの家を飛び出して来た時の事を思い返していた。


 あれは二ヵ月ほど前の、年が改まったばかりの事だ。

 朝方は結構冷え込み、何かかけて寝ないと風邪をひきそうなくらいであったが、一月だと言うのに陽が出たら肌を刺すように日差しが強くて暑い日であった。

 プラニーは家を飛び出した。

 さし当たって何処へ行く当ても無かった。路線バスの停留所まで約二キロはある。じりじりと照りつける太陽で砂利道は焼け、足元から炎暑が上がってきた。熱風がプラニーを撫で、額から首から汗が流れた。

 だが、プラニーは暑さを感じなかった。まだ心臓のドキドキは収まっていない。

 ほぼ二才になる娘のマユラは、昨夜モンテワン叔母さんの家に連れて行った。叔母にはとてもよくなついていたので安心だ。マユラを預けた時点では、家出をするかどうかまだ迷っていたが、朝になって、夜遅く帰ってきて呑気そうにまだ寝ている夫のプチョンの顔を見て、家を出る決心が固まった。

《あの人が女をつくるなんて》

 プラニーは、母親が一才の時に亡くなってしまったので、ナコンパトムから北に十キロほど行ったムックレック村にある、母親の妹のモンテワンの嫁ぎ先に引き取られ育った。

 貧しかったが、叔母も叔父も彼女には優しく、叔母の子供や近所の子供たちと、裸同然で田んぼや畑を駆け巡りながら楽しい子供時代を過ごした。小学4年生を終えると、叔父の農作業の手伝いに専念した。

 プラニーは小さい頃から色白でとても愛くるしく、年がゆくにつれて村一番の器量良しと呼ばれるようになった。

 要らない憶測を呼ばないように、叔母達も自分も彼女が日本人との間に出来た子供である事は村の人達には内緒にしていた。

 十五、六歳ぐらいになると何人もの男がプラニーに言い寄って来たが、彼女は全く相手にしなかった。

 だが、十七才になって二つ上のプチョンが現れた時は違った。

 細おもてですらりとした彼はプラニーにとって初めて心を動かされた男性であった。

 彼は、母親の果物や野菜の仲買の手伝いをしており、バンコクから来る卸売業者にナコンパトム市内にあるタラート(市場)で売るための野菜を仕入れに、プラニーの叔母の畑にも買い付けに来るようになったのだ。

 二人は目が合った途端に恋に落ちた。

 プラニーが十八才の時に二人は結婚した。結婚してから、プチョンは自分の母親が持っていたタラートでの販売用区画の権利を譲ってもらい独り立ちし、次の年に長女のマユラが生まれた。

 タラートの朝は早い。朝四時には起き、まだ真っ暗なうちに車で三十分程の距離のナコンパトム市内に向かう。忙しい時はプラニーも同行する。

 タラートには、低いブロック塀で囲まれた八畳ほどの販売用の農産物を置いておく区画の使用権を持っている。

 先日、彼女がタラートに手伝いに行った時の事であった。プチョンが昼近くになると、「チョット出かけてくる」と言って、車で出て行った。

 タラートの客は通常朝は十時頃までで、後は夕方に来ることが多く、暑い昼間は殆ど来ない。

 昼間はタラートの仲の良い友人三~四人同士でお互いに留守番を立てて、留守番以外は家に帰るか、農家に仕入れに行くかしていた。

 昼当番を引き受けたプラニーは、自分の所の区画に置いた広さ一畳ほどの縁台にキャンバスで日よけを設え、娘のマユラと一緒に昼寝をしながら夫を待っていた。縁台には彼女の自慢の花柄のビニール・シートが敷いてあり、古びた三角枕を背もたれに使っている。

 夫のプチョンは何か果物でも仕入れに行ったのかと思っていた。夕方近くになって帰ってきたものの、車の荷台は空であった。「家にでも帰ってきたの?」と聞くと、「いや、ちょっとプアン(友達)の所へ行ったんだ」と、プチョン。

 プラニーは「おや……」と思った。

 彼は通常、プアンという言葉はめったに使わず、「デブッチョの誰々」とか、「ノッポの誰々」とかとチューレン《あだな》に身体の特徴をくっつけて呼ぶ癖があるからだ。


 次の日の十時過ぎ頃、日差しが強くなってタラートの客もそろそろ少なくなった頃、友達のグゥンがやってきた。グゥンは同じ村の出の幼馴染で、タラートの入り口近くで焼きバナナやサトウキビの絞り汁を売っている。

 後で話があるという。お昼時にプチョンにマユラを任せてプラニーはグゥンを訪ねた。

 グゥンは麦わら帽子をかぶり、顔中汗にしてバナナを焼いているところであった。

「何か飲むかい?」と、グゥンは言いながらサトウキビ汁を差し出した。プラニーはお礼の会釈をしながら日傘で日陰になっているグゥンの隣に座った。

「最近暑いねー」

 プラニーは、首筋の汗を拭きながらため息混じりに呟いた。

「そうだねー。一月だと言うのに今年は暑いね。ま、夜は涼しくて助かるけど」と、グゥンは言いながら首に巻いたタオルで額を拭いた。

 大きな日傘の下とはいえ、炭火でバナナを焼く作業は並みの暑さではない。暫くして焼き終わったバナナに椰子糖の蜜を塗り終わると、言いよどみながらグゥンが話し始めた。

「――プラニー……。本当は黙っていようと思ったんだけど……」

 ここで言葉を切って、始めてプラニーの顔を見た。プラニーと目が合うと慌てて目をそらし再び炭火に目を落とした。

《グゥンは明らかに何か言いにくいことを言おうとしている》

 何か言いにくいような事が起こっているのは察したが、プラニーにはそれがなんだか全く想像がつかなかったし、彼女の方からそれが何なのか聞くのが怖かった。

「プラニー。あのね。噂になっちゃってるのよ」

「え?噂?何が?」

「プチョンよ」

「プチョンって?……。彼がどうしたって言うの?」

 プラニーは、胸の鼓動が高鳴るのを覚えながら聞いた。

「何も気がつかないの?プラニー」

「だから何が?」

 プラニーは頭の回転は良い方だ。「噂」、「プチョン」、「外泊」、「プアン(友達)」――。

 今になって考えると、どうも少し前からプチョンの様子がおかしかったのだ。外泊する事などかつて無かったのが、ここ数ヶ月ほどは月に二回ほど外泊するようになったのだ。聞いてみると、ナコンパトムの果物売り仲間の所で飲んで遅くなってしまったからだと言う。

 その時は、全く疑っていなかった……。

《でも違う。そんなことある筈は無い。昨夜はちゃんと私のことを……》


 ナコンパトムの家を飛び出したプラニーは、長距離バスでバンコクに出た。小学校時代からの女友達のプンが、バンコクの鉄道の玄関口であるフアランポーン駅の近くのボーベー市場の近くにいるので、頼ってみる事にした。

 プンに正直に事情を話し、沢山は払えないが家賃を払うので暫く泊めてもらえないかと言うと、プンは「お金なんか要らないよ、好きなだけ泊まっていきなよ」と言ってくれた。

 夕方近くになると、プンは「じゃー仕事に行ってくる」と言って出掛けていった。ホステスか何か夜の仕事のようであったが、プラニーは詮索しなかった。彼女は、小柄ではあったが豊満で、色は黒いがやや下膨れの顔で愛嬌があり昔から男達にもてていたのだ。

 プラニーが、仕事をしなくちゃという話をした時に、プンは一度だけ「私みたいにチビで色黒とちがって、あんたは色白で美人なんだから、もし良かったら自分が今働いている所を紹介してもいいよ」と、彼女を誘った。

 自分には到底夜の仕事は出来ないと思いプラニーは断った。それ以上プンは勧めては来なかった。かなりの稼ぎにはなる様子で、プラニーからすればとても贅沢な生活をしていた。

 あれこれ悩んだ末、プラニーは道端で果物の露天販売をする事とした。露天販売と言っても、浅い網籠に、テンモー(スイカ)やサッパロット(パイナップル)などを切ってバナナの葉っぱに乗せて客に供するのである。

 移動は天秤棒の前後に籠を提げるだけである。開業資金もあまりかからず、果物の扱いであれば手馴れたものである。一ヶ月ほどは食べられるお金は持って出てきてはいる。露店をやる為の警察への許可代も何とか払えそうだ。

 家を出て一週間ほどしてから仕事を始めた。プンのアパートからすぐの所にあるパドゥン・クルンカセム運河のボートに乗ってフアランポン駅近くで降り、トウクトウクでチャルンクルン通りの金持ちや外国からの旅行者やビジネスマンが歩いていそうな辺りに来て見た。

 近くには有名なオリエンタル・ホテルなどの外国人が泊まるようなホテルが幾つかあり、ビジネス街としても最近はかなり発展してきている地域のようだ。

 プラニーがここを選んだのは、この辺りであれば恐らく、日本人がいるのではないかという気持ちが潜在意識的に働いたようだ。

 ナコンパトムにいた頃は、自分に日本人の血が半分入っている事は殆ど意識する事はなかった。むしろ意識的に忘れようとしていたのだ。だが、心のどこかで日本人に会ってみたいという気持ちがあったのではないかと思っている。

 自分がまだ子供のころ、モンテワン叔母さんにバンコクの日本の領事館に連れて行かれたことがあった。窓口のタイ人の係官に叔母が、「この子は死んだ姉の娘で、この子の父親は佐藤孝信と言う日本の軍人である。佐藤孝信は戦死したと聞いているが、本当かどうか調べて貰いたい。

 もし生きているのであれば会わせたい。もし亡くなっているのであれば、日本の親戚と連絡を取りたい」と、訴えたが、窓口のタイ人の係官は、結婚をしているわけでも無いので探すことは出来ないと殆ど相手にもされなかったのである。

 この日本の領事館での出来事が、自分の父親が日本人であると言う事を記憶のひだの奥の方に押しやるようにしていたのである。

 プラニーはなんでけんもほろろに追い返されてしまったのか理解出来ず、その時、漠然と自分の過去の「陰」の部分を見たような気がしたのであった。

 左右田に日本に帰ったら父の事を調べて欲しいと言い出せなかったのは、この漠然とした自分の出自に対する不安があったからだと思っている。

 プラニーが自分のルーツを強く意識する事となったのは、生まれて初めて「ソーダー」と言う「日本人」に出会った事に誘発されたものだ。

 プラニーの父親が日本の軍人であったという事は、彼女が五才の頃に叔母のモンテワンから聞かされていた。母親が亡くなったために、叔母のもとには一才の時の一九四六年に引き取られていた。

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