第3話
扉が微かに開く音がして顔を上げると――そこには、シャルロットが立っていた。
青いワンピース姿の裾を翻した彼女は、長い金髪を揺らして、首を傾げた。泣き腫らした目を少しだけ擦りながら、笑って訊ねる。
「待っていてくれたの? カナ……」
「はい、僕はお嬢様の執事ですから」
小さく笑いかけ、シャルロットへ歩み寄る。胸からハンカチを抜き、そっと差し出す。
「もう、大丈夫ですか? 落ち着かれましたか」
「うん……ありがと。大丈夫とは言えないけど……落ち着いてきたよ。お別れは、もう済んだ。次のこと、考えないとね」
彼女は歩き出しながら笑いをこぼす。だけど、その笑みは儚くおぼろげで――。
いつもの彼女は、端正な顔が花咲くように、天真爛漫で無邪気な笑顔を見せる。身内贔屓で見ても、時々、見惚れてしまうほど可愛らしい笑顔なのに。
今の笑顔は、見ているだけで、胸が締めつけられるようだ。でも、なんて声を掛ければいいか分からない。どうしようもなく、ただその後ろを歩いていると、彼女は口にする。
「当主のことも、決めないと」
「――お継ぎになられますか」
彼女がその話題を切り出してくれたことにほっとしながらも、カナは訊ねる。だが、それには答えず、シャルロットはわずかに肩を震わせた。
「……迷っているの。カナ……私は、どうしたらいいの……?」
その言葉にはっと息を呑む――振り返ったシャルロットは、その瞳に涙を浮かべ、今にも泣き出しそうなくらいにくしゃくしゃになっていた。
「領地の治め方なんか知らない……お父様のやっていることを理解しようともしなかった……それに、私たちの領土は、辺境――隣の国とも接しているし……領民の生活を、安堵するなんて、私、未成年なのに……そんな責任……」
そうつぶやく彼女は、顔を真っ青にして唇を震わせていた。
彼女は今にも崩れ落ちそうなぐらい、膝を震えさせ、自分の手を抱きしめる。
「当主なんて……できる自信はないよ……どうしよう、カナ……」
「……お嬢様……」
その痛々しい姿を見つめると――どうしても、幼い頃を思い出す。
(そういえば、幼い頃も、こんなことがあったな……)
少しだけ仕方ない気持ちになりながら、心の中でゲオルグに詫びる。
(ごめんなさい……僕から彼女に次期当主になれと説得することはできません)
できるのは、傍にいることだけだ。そう思いながらそっと手を伸ばし、失礼します、と声を掛けて目元を拭う。そうしながら優しく声を掛ける。
「昔も――こんなこと、ありましたよね。お嬢様」
その一言に、彼女は泣き腫らした目を上げる。少しだけ戸惑うような彼女の目尻からこぼれた涙を掬い上げ、懐かしむように笑いかける。
「木に登って降りられなくなったとき、泣いていたお嬢様を思い出してしまいました。すみません……こんなときに」
「ううん、いいのよ……そうね、昔もずっと泣いていたわ。木の上で」
少しだけ頑張った笑みを作るシャルロット。その涙を拭ってあげながら思い出すのは、高い木の上で降りられなくなった彼女の姿。
泣いて喚いて、降りられない、って愚図って、どうしようもなくなって。
その日は、ゲオルグもレックスも不在。侍女たちは木登りができず、おろおろとするばかりだった。その中で言ったことを思い出し、なぞるように言う。
「お嬢様。大丈夫ですよ、どんな判断をしても――僕が傍にいてあげます」
「カ、ナ……」
掠れた声と共に、彼女は瞬きをする。涙はこぼれてこない。
シャルロットはカナの胸に手を置き、そっとカナの目を見つめる。その食い入るような視線を受け止め、そっと励ますように頭を撫でた。
「当主になりたくないなら、権利を放棄しましょう。僕たちが暮らす分には困らない捨扶持を国家は下さいます。その道でも、僕はお嬢様にお仕えします。いらない、と言われるその日まで――ずっと、ずっと」
「あ、ぅ……カナ……ずるいよ、そんな優しいこと、言われたら……」
「いいじゃないですか。落ち着いたところで家でも買って、ゆっくりされるのも。どんな屋敷でも、僕は奉公させていただきますよ」
山の麓の小屋で、シャルロットのために畑を耕すのも悪くないかな、とぼんやりと思っていると、シャルロットは顔を上げ、きっと唇を引き結ぶ。
その目に宿った、強い光に面食らうと、ふと、彼女は不意に微笑んだ。
「――ありがとう、カナ。貴方の言葉で決心がついたわ」
そっと頭に載せられた手を握り締め、彼女ははっきりと口にする。
「私は、お父様の跡を継いで、次期当主となります」
「――いいのですか? お嬢様……」
突然のきっぱりとした宣言に、カナは思わず目を見開く。はい、とシャルロットははにかみながら、彼の手を握りしめて朗らかに笑う。
「ええ、貴方の言葉を聞いて、勇気が出てきたの……どんなに失敗したとしても……貴方だけは、ずっと一緒にいてくれるのよね? カナ」
「え、ええ、それはもちろんです」
「なら、どんなことでも、挑戦できる気がする……だってね、カナ」
彼女は頬を染めながら、思い出すように目を細めてささやく。
「木の登った私が飛び降りたとき、貴方はしっかり身を挺して守ってくれたじゃない。あのときは、本当に嬉しかったのよ? だから……信じられる」
「シャルロット、お嬢様……」
「ふふっ、こう決めたら善は急げよ、カナっ」
ぐっと拳で涙を拭うと、ぱっと晴れるような笑顔を浮かべて、カナの手を強引に引っ張る。その勢いに引っ張られながら、彼はほっと一安心した。
彼女が辺境伯を引き受けたことに、安堵したのではない――。
彼女の心からの笑顔が見られたことに、安心したのだ。
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