序章 辺境伯の死
第1話
重苦しい曇天の中だった。ついに、その日は来てしまった。
屋敷の中、ばたばたという慌ただしい足音が響き渡る。やがて、その足音は部屋の前に立ち止まる。こん、こんとノックの音が響き渡る。
「……どうぞ」
部屋の主の、シャルロットは固い顔つきで答える。それを青年――カナは傍らで見守ることしかできない。やがて、その扉は押し開き、一人のメイドが入ってくる。
真っ青に顔色を失ったそのメイドは、今にも倒れそうなほど唇を震わせて言う。
「――旦那様が……お亡くなりに、なられました」
その部屋に入ると、甘ったるい香草の匂いが包み込んだ。
カナは扉を開け、シャルロットを中に通す。彼女はきゅっと唇を引き締め、部屋の中に足を踏み入れた。カナはその後ろに続いて入る。
部屋の中央――そのベッドには一人の男性が眠っている。
いや、眠っているのではない。その顔には、生気はない。
そして何より……その胸の上には、一本の香花が置かれている。死者の花と呼ばれる手向けの花、ベリーローズだ。
それでも彼は、揺さぶれば今にも起きそうなほど、安らかな顔で横たわっている。
その傍にいる白衣の男性はシャルロットに気づいて振り返り、痛々しそうに表情を歪めた。
「お嬢様……残念です。つい先ほど、旦那様は――息を、引き取られました」
「意識は、結局最後まで戻らなかったのね」
「はい……ですが、最後の最後は、安らかでございました」
「……そう」
シャルロットはそう言いながら、そっとベッドで横たわる父に歩み寄る。慌てて、白衣の男性はそれを制するように手を伸ばした。
「行けません! お嬢様! 死霊が移られては大変でございます……!」
「分かっているわ。触れないわよ。ただ、最後の挨拶がしたいの……ダメ、かしら」
「……絶対に、触れてはいけませんぞ?」
白衣の医師は念を押すように告げ、ベッドから離れる。うん、と小さく頷いたシャルロットは振り返り、そこにいる侍女や執事を見やる。
「ゲオルグ、サーシャ、マリー、テオドール、カナ……ごめん、少しだけ外してくれる? お父様と、お別れの挨拶をしたいの。二人きりで」
「――かしこまりました。お嬢様」
少しだけ迷ったが、カナは恭しく一礼する。そして、主であるシャルロットを残し、使用人たちは全員でその部屋から廊下に出た。
シャルロットの父、レックスが病床についたのは、今年の夏だった。
ローゼハイム辺境伯家の当主である彼の発した病に、家中に激震が走った。
急な高熱を発するようになり、王宮の出仕もままならない。原因不明の病に、町で一番の医者であるテオドールも困惑するばかりであった。
高齢であったレックスは、だんだんと衰弱。痩せ細っていく。
死を覚悟したのか、一週間前、枕元にシャルロットに後のことを託し、そのまま、彼は一度も意識を戻さずに、死んでしまった。
「旦那様は、お強かったよ、カナ殿。苦しむ姿を見せまいとしていたからな」
「ええ、存じ上げています。テオドール様」
廊下で並んで立ち、使用人たちはじっと待っていた。
静まり返った廊下は、どこか寒々しい。微かに、部屋から響いてくるすすり泣きのような声に、胸が締め付けられるように苦しい。
レックスは遺言を遺した後、シャルロットを病床に近づけないように、使用人たちに厳命していたのだ。意地を張るかのように、必死に笑みを浮かべたレックスの姿が今でも克明に思い出せる――。
『最期くらい、強い父でいたいのだ。みんな、頼むぞ……頼む……』
(……バカだな、あの人は)
ぐっと胸が締め付けられるように痛む。
いつだって、あの人、レックスは強い人だった。豪快で、不器用で、だけど、優しくて――誰にも、負けなかった。
カナ自身も彼に拾われて、その強さに助けられてきた。
だからこそ、こうやって死んでしまうのが信じられなくて。
使用人たちは失意の中で沈み込んでいることしか、できない。
その沈黙の中、シャルロットの啜り泣きだけが、悲しげに響き渡っていた。
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