第4話 憂鬱な一時

「はぁ。そういえば矢間さん、タバコを吸うんだったよなぁ」


午前中1発目の打ち合わせの前に深いため息をついてしまう。


矢間さんは自分の会社の担当者で、俺が異動になって依頼ずっとの付き合いだ

人柄もよく打ち合わせもスムーズに進むため、担当者としてはいい部類に入る。


本来であれば、彼との打ち合わせに対して憂鬱になることはないとは思う。


しかし、彼は煙草を好んでいることもあって、

あの独特なタバコ臭が服にこびりついており、

だいぶ慣れてきたとはいえ、それが少しだけ苦痛だった。



受付の女性に案内され、応接室にたどり着く。

先に座って待っておくように言われていたこともあって、椅子に座って待つ。


待つこと数分、コンコンというノック音と共に矢間さんが部屋の中へ入ってきた。


「いやぁ。お久しぶりですね~。咲川さんお元気でしたか?」


矢間さんは穏やかな笑みを浮かべながら、話しかけてくる。


そんな彼の表情とは裏腹に、俺の心の中は

今までにないほどに暗雲が立ち込めている。


(く、臭い。タバコの匂いが頭おかしいレベルで臭い!!)

もしかしたら一服してから、ここに来たのかもしれない。

すっかり慣れていたと思っていたはずのタバコの匂いが今日は余計に濃厚に感じる。

気を抜いてしまえば、吐きそうだ。


「どうかしましたか?」


俺が一向に反応しないことを訝しく感じたのだろうか。

矢間さんは一歩近づいてくると、心配気に声を掛けてくる。

それが逆効果であるとも知らず・・・。



サッ

あまりにも濃厚な匂いに耐え切れなくなり、思わず後ずさってしまう。


「え?」

担当者が近づいてきているのに、避けるように遠ざかってしまうというのは

社会人として失礼なことだし、常識的にもいかがなものだろう。


矢間さんも目を丸くしている。


だけど耐えられなかった。そのタバコの匂いに


もうこれ以上、近づかれてしまったら気分が悪くなってしまう。

最悪の場合、吐きそうで。

そんな心が無意識のうちに現れてしまった。



嫌な沈黙が俺と矢間さんの間に横たわる。

(これは謝っておいた方がいいかもしれない。)


何か悪いことをしたわけではない。

だけど相手を不快にさせてしまった事も事実。


「や、矢間さん」


「あの~、もしかして咲川さんってタバコの匂い、苦手でした??」


頭を下げようとした刹那、矢間さんは申し訳なさそうに問いかけてきた。


どう答えるべきか悩む。

今日は体調がすぐれなくて。と嘘を言うべきか。真意を話すべきか。



「あ~。え~と、はい。誠に申し訳ないのですが

タバコの匂いは少し苦手で・・・。」


悩んだ末に導いたのは、真実を打ち明けることだった。

これで担当を外されるかもしれない。

そんな考えが頭を過るが、信頼を築いてきた相手に

こういう嘘をつきたくはなかった


「そ、そうだったんですね。いつも平然としていましたので、

てっきり大丈夫なのだと思っておりました。」


「少しお待ちになっていてくださいね」


矢間さんはそう言うと、部屋を出ていく。


(どうしよう・・・。)

部屋を出て言った途端、戸惑いと焦りが胸中に溢れる。


顔には全然そんな色は見えなかったけど、やはり怒らせたのではないだろうか。

それで俺の上司に電話をかけて、苦情を言っているのではないだろうか。

最悪の場合、お宅の会社とはもう取引をしませんと言われているかも・・・。


考えれば考えるほどに思考が悪い方へ悪い方へと流れていく。

けれども逃げるわけにもいかず・・・。

震える足のまま、矢間さんが部屋に戻ってくることを待った。



コンコン


時計を見ると10分も満たない時間だったが、永遠にも感じられた時間の後

無情にもドアがノックされて矢間さんが部屋に戻ってきた。


「お待たせし」「先ほどは申し訳ありませんでした!!!」


ドアが開けられた瞬間、矢間さんの言葉に被せて謝罪をした。



「え、どうして咲川さんが謝るんですか!?」


頭を下げていると、頭上から矢間さんの困惑と戸惑いの

入り混じった声が聞こえる。


「どうしてって・・・。それは失礼なことをしてしまったからで・・・。」

そのままの姿勢で謝罪の理由を話す。


「顔を上げてください。悪いのは私の方ですから。」


頭を上げて、すぐに気づいた。


「これで大丈夫ですか?」


矢間さんは心配そうな視線を寄せてくる。


「大丈夫も何も、もしかして着替えてきてくれたんですか!?」


俺はただただ驚いていた。

目の前に立つ矢間さんはさっきまでのタバコの匂いが染みついたものではなく、

新しいスーツを着ていたのだ。

その上、かすかに残っているタバコの匂いを覆うように

フローラルな匂いを身に纏っていた。

おそらく香水かスプレーをかけてきてくれたのだろう。


この匂いなら嫌な感じはしない。むしろいい匂い過ぎて癒される。


「はい。長い付き合いだからと言ってやはり相手に不快な思いをさせるのは

いけませんから。それよりも今まで我慢をして頂いて申し訳ありませんでした。」


今度は矢間さんの方が頭を下げてきた。


(やっぱり矢間さんはいい人だった。)



その後、矢間さんとの打ち合わせはつつがなく終わった。

俺の心の中には今までよりも矢間さんのことを好く気持ちが生まれていた。


タバコが苦手な相手のために着替えてくるなんて、

到底できることではないのだから。




「まさか、あんなにも泣きそうな顔されるなんて思わなかったな。。。」


矢間は咲川がビルから出ていくのを確認すると、驚きを露にして呟いた。


彼とは2年以上の長い付き合いで、打ち合わせの頻度は月に1回ほどだった。


自分でもヘビースモーカーだと思うが、

彼はそんな俺と対面で話をしても全く嫌な顔を見せていなかった。


以前、そんな彼に何気なしにタバコの匂いは大丈夫なのか聞いたことがあった。

その時は「全然、大丈夫ですよ。むしろタバコを吸える人ってかっこいいです」と

嘘偽りない笑顔で言ってくれた


そんな彼の言葉を信用しすぎていたのかもしれない。


久しぶりの打ち合わせが少し楽しみだった。

だけど、ドアを開けた時から彼の雰囲気はいつもと何か違っていた。

体調でも悪いのではないかと心配した。


それで近づいていったら、あの泣きそうな表情だ。

面を食らった。

あんな泣きそうな顔をされたのは、

職場の女性社員に喫煙所で吸った後すぐに話しかけた時くらいのものだ。


後退られたことよりも我慢させていたことがわかったのがショックだった。


(よし、家内にも言われていたが、禁煙しようかな)

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