第8話 講義見学
はじめは飲料水の腐敗を抑える研究だ。医学というより疫学に近いかもしれないが。
戦場では清潔な水は貴重であり、汚水から病気が蔓延することも多いため研究されている領域の一つということだ。
腐敗しにくい水というものを飲ませてもらったが、独特な臭いがしてとても飲めたものじゃない。
「変な臭い、まずいです~」
エッバはすぐに吐き出し、クリームヒルトも顔をしかめた。
「まあこのように非常に不評なため、実践には至っておりませんが」
研究員の一人は苦笑しながらコップ内の水を流しに捨てた。
「薬の閾値と副作用の閾値も曖昧ですので今回はかなり薄めたものにしましたが」
量が毒をなす、と言われるように薬は量次第で毒にもなる。
薬の閾値とはある薬品が人体にとって薬となる限界値、副作用の閾値とは毒になる最小の値だ。
この二つの値が離れているほうが、多少使いすぎても毒まで至らないので安全な薬とされる。毒と薬はさじ加減一つなのだ。
薬品についての副作用も教えてもらったがかなりえげつない。毒として使用するほうがいいんじゃないかと思うくらいのものだ。
次の見学は暗い研究室、というか病室だ。
黒い遮光カーテンで昼だというのに夜のように暗く、入り口にはノックを禁ずる張り紙が張られている特殊な病室。
薄闇に目が慣れてきたころ、ベッドに寝かされている患者が目に入った。
「ご主人様、暗いよー」
エッバが小声でつぶやく。
数人の魔法医師たちが患者を囲むように立ち、聴診器や包帯などの医療器具を手にしていた。
患者の口の周囲には固まった血が付着している。
物音一つ禁じられる緊張感。入り口から入るわずかな風が頬をなでた。
その拍子に遮光カーテンが揺れ、わずかな光が部屋に差し込んだ。
「あああぁぁ」
寝台にあおむけに寝ている患者が、わずかな物音に反応し発作を起こす。
全身の筋肉が過緊張を起こし、背をのけ反らせ、震えながら突っ張る。
周囲の魔法医師たちがとっさに駆け付けたが間に合わなかった。口から血が溢れ出ている。発作のため顔面の筋肉が硬直することで舌を噛み切ったのだ。
破傷風だ。土に潜む細菌が血液に入り込むことで感染し、まず首筋や顔の筋肉が動かしづらくなり、それから全身の筋肉が過緊張し、さらに重傷になると呼吸筋すらうまく動かせなくなるために死亡する。致死率が六割~九割という恐るべき病気だった。
さらに、破傷風菌が作り出した毒素は特殊で通常のヒールやメガヒールでは効果がない。
毒素は運動機能のみに作用し、痙攣や硬直、呼吸困難を起こすことで死亡するほど強いわりに神経には作用せず、意識は清明で、患者は苦痛をはっきりと感じることになる。
魔法医師が治癒方法を開発するまでは。
「どけ」
ハイマン教授が人を押しのけ、かき分けて来る。
「見せろ」
彼は患者に手をかざし、高慢に詠唱する。
「バクテリウムヒール」
ヒールともメガヒールとも違う赤い光が、患者の全身を包んでいく。
患者を包み込む赤い光が収まった時、患者は噛み切った舌以外は問題なくなっていた。全身のつっぱりも、震えも、引きつり笑いのような特徴的な表情もなくなっている。
「舌の噛み傷の治療は任せた」
そう言い残してハイマン教授はその場を後にした。
バクテリウムヒール。それは軽傷を治すヒールとも、破壊された組織を創り出し重傷を治すメガヒールとも違い、細菌が産生した毒素に効く特殊なヒールだ。
だが細菌ごとに毒素の種類が違い、細菌・毒素・人体の細胞などを考慮して魔力を加減するという微細なコントロールを要するため使い手は魔法医師の中でも少ないらしい。
「嫌な人だと思ったけど、すごいね……」
エッバが彼が去って行ったほうを見て、感嘆の声を上げた。
「破傷風に効くバクテリウムヒールはハイマン教授が一番の使い手ですわね。でも態度はあんなものですけど。『医療の研究と実践以外に興味はない』方ですから」
「普段は外部の方を招かないのですけど、あなたならどう治療するか。それを伺いたくて患者の家族に紛れて招待しましたわ。あなたならどうされます?
クリームヒルトは病室から出た後でそう聞いてきた。
期待と好奇心、そして治すという使命感に満ちた瞳。
役に立つことはどんなことでも、少しでも学び取ろうという貪欲さをたたえた
「魔法医師でさえ苦戦する病気だからね…… 一朝一夕には思いつかないかな」
「そうですの……」
僕の答えにクリームヒルトは落胆したようだったが、仕方ない。
ヒールやメディスンヒールでは毒素に対抗できない。
医術士の僕にできることは、せいぜい細菌に体が負けないように抵抗力をつける養生法を指導するくらいだ。
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