混沌の女神アリオーシュ

邪神アリオーシュ、アリーシャと呼ばれた少女が神になるまで

「助けて」幼女と言って良い年齢の少女、アリオーシュは叫んだが、周りの神官たちは無表情に彼女を見るだけだった。


 彼女が心の拠り所にしていた年上の巫女は哀しげに彼女の顔を見るだけだった。


 アリオーシュ――人間の時はアリーシャと呼ばれていた――は凌辱されていた。


 神殿で教わった神を含め、あらゆる神々、悪魔にも助けを求めていたが、誰も彼女を助けてくれなかった。


 絶望の中でただ狼藉が少しでも早く終わって欲しいと必死に祈る事しかできなかった。


「今日が貴女の巫女としての初仕事です。良いですね、アリーシャ」凌辱を受けた日の朝、今まで教育係を務めていた妙齢の巫女がアリオーシュに言った。


 アリオーシュは近在の村から将来見目好く育つだろうとして多額の金と引き換えに神殿に預けられた農民の娘だった。


 暮らしには何一つ不自由は無かった――ある一点を除いては。


 それは幼い頃から教育として男と寝る巫女達の姿を見て育ってきた事だった。


 だからいつか自分も同じことをするのだろうと思ってはいたが、見せられるのと自分がその立場に立つのとは全く違う事だと思い知らされたのだ。


 アリオーシュが悲鳴を上げる――男性が自分の身体に押し入ってくる――その激痛はまだ未発達なアリオーシュの身体に耐えられるものでは無かった。


 アリオーシュを凌辱していたのはこの国の王だった。


 多額の寄付を神殿に寄こす代わりにこの神殿の巫女を抱く権利を買った、老人といっても差し支えの無い年齢の男だった。


 王は一切の情けなくアリオーシュを手籠めにしていた。


 普通は巫女にはそれなりに丁重な扱いをするものだが王は一切そんな事を気にしていない様だった。


 王は嫌がるアリオーシュの顔中に接吻しべたべたと唾液で顔を汚した。


 一度で飽き足らず、何度も王はアリオーシュを汚した。


 ようやく行為が終わった後、王は満足したかとアリオーシュに尋ねた。


 アリオーシュが答えないでいると頬を張られた。


 アリオーシュは力のこもらない目で王を睨み付けた。


 もう一回頬を張ろうとした王を神官が止めた。


 王は神官に従ったが、アリオーシュを侮蔑する捨て台詞を残していった。


 アリオーシュはこの一件で男と言うものが決定的に嫌いになった。


 ただ嫌いというより吐き気を伴う嫌悪感を覚える様になったのだ。


 王は飽きる迄毎日の様にアリオーシュを犯した。


 アリオーシュは次第に何も感じなくなっていった。


 何も感じなくなるのに比例して心に暗い感情が育っていく。


 半年ほども経った頃王がアリオーシュを凌辱する回数が減ってきた。


 アリオーシュは自分が王に抱いている感情に名前を付けられないでいた。


 それが憎悪と呼ばれる感情だという事をアリオーシュは後で知った。


 ある時、神殿の倉庫に居たネズミに苛立ったアリオーシュは覚えたての火弾ファイアボルトの魔法をぶつけた。


 鼠は真っ黒こげになった――その様子――焼けた肉と皮の匂いと仰向けに手足を微かに動かす死んだ鼠を見てアリオーシュは胸がすく様な感覚と同時に深い罪悪感を覚えた。


 それ以来アリオーシュは鼠や雀やカラスといった小動物を殺すようになった――神官達には知られてはいたが供物を荒らす害獣を殺しているという事で目溢めこぼしされていたのだ。


 歳を重ねるに連れアリオーシュの評判は高くなっていった――その美しさと、交渉の相手に与える霊力が高い為だ。


 アリオーシュは巫女娼婦としての評判だけでなく魔法や教養も高めていく事に余念がなかった。


 呪いや高等魔法も十三に成る頃にはほぼ覚えてしまった。


 アリオーシュはどんな男に抱かれても快感を覚えなかった。


 その代わり地方の女領主や女頭首が相手の時は積極的に奉仕した。


 アリオーシュは子供を産む事を望まなかった――恐れてさえいた。


 神官達にばれない様避妊の魔法を掛け――国と神殿の法では禁止されていた――男の相手を――ただ横になっているだけだったが――していた。


 神殿は愛と豊穣の女神を奉っていた。


 子沢山が奨励された――医療も魔法も未だ発展途上で人々の生存率も低かった為だ。


 アリオーシュは下働きの少女や同じ巫女娼婦達と関係を持つようになっていた。


 巫女娼婦としての仕事以外に愛を交わすのは霊力を低めるとして禁止されていたが、アリオーシュは隠れて――半ばは公然と――情交を続けていた。


 自分を汚した国王が亡くなった時――崩御とは言いたくなかった――アリオーシュは十五歳だった。


 その話を聞いた時もアリオーシュは何も思わなかった。


 王はアリオーシュが成長してからも度々伽とぎをさせていたがアリオーシュは表面上を取り繕って相手をしていた――呪い殺してやろうかと思った事も一度二度では無かったが儀式には手間も時間もかかり、露見せずに実行するのは不可能に近かった。


 その息子が自分を抱きに来た時には耳元で事と次第によっては呪い殺すと脅しをかけて相手を怯えさせささやかな満足を覚えたのだが。


 アリオーシュは順調に神殿での地位を上げていった。


 十六の時には十代の巫女達の代表を務める様になっていた。


 何事も無ければそのまま神殿で一生を終えたかも知れない。


 しかし運命は残酷だった。


 代表になった翌年、国は大飢饉と疫病にみまわれた。


 あの時の事をアリオーシュは神となった今でも苦い思い出として忘れずにいた。




「アリーシャ様……いけま……」アリオーシュは人間の時の名を切なげに呼ぶ少女を愛している真っ最中だった。


「何がいけないの?」


 十代になって少しの巫女の唇をアリオーシュは塞ぐ。


 アリオーシュにとって唯一心安らぐ時間だった。


 アリオーシュの腕の中で熱い吐息を漏らしながら少女巫女は身体をくねらせる。


 少女巫女の敏感な部分を弄び何度も少女を達させている最中に、突然扉が開いた。


「巫女アリーシャ!これはどういう事です?」歳を取った神殿の長が芝居がかった口調でアリオーシュを咎めた――後ろには衛兵が従っている。


「後輩と親交を深めていただけですわ」アリオーシュは堂々と答えた。


「これは厳罰が下されても仕方がない一大事ですよ。貴女を審問に掛けなければなりません」神殿の長は油断なく目を光らせて言った。


 アリオーシュは魔法封じの結界が張られている事に気付く。


 アリオーシュは油断していた――今までとは状況が変わっていた――神殿は民衆と王から突き上げを食らっていた。


 神殿は罪を被せられそうな生贄を血眼になって探していたのだ。


 死刑に処されて死体を晒される可能性さえ有ったのだが、アリオーシュは堂々と無罪を主張し――相手の主張を覆す寸前までいった。


 しかし普通なら通ったであろう主張は通らなかった。


 神殿は最初からアリオーシュに罪を擦り付けるつもりだったのだ――それが真実だった。


 結局、霊力を奪われる呪い――それはアリオーシュの美貌を奪う事に繋がる事だった――更に魔法を使おうとすると身体中に激痛が走るというおまけ付き――を掛けられ、神殿を身一つで追放された。


 老婆の様に老け込んだアリオーシュは絶望の底に叩きこまれた。


 追放された際に宝飾品を隠れて持ち出したが、底を突くのはあっという間だった。


 神殿で覚えた占いや乞食の真似事をして何とか糊口を凌ぐ毎日だった。


 魔法を使って金を稼ごうとした事も有ったが人相手に治癒魔法や回復魔法を掛けるのはアリオーシュを襲う痛みから無理だった。


 冬のそんなある日、アリオーシュは怪我をして死にかけた老猫を見つけた。


 眼にはヤニが浮かび、毛玉があちこちにでき、がりがりに痩せた雌猫だ――アリオーシュを見ると、威嚇する様に毛を逆立てたが、力はまるで籠っていなかった。


 その様子は奇妙にアリオーシュの気を引いた。


 アリオーシュは猫を救ってやろうと手をかざすと激痛に耐えながら治癒の呪文を唱え始めた。


 猫くらいの大きさなら何とか詠唱を完結できるだろうと思ったのだ。


 爪が剥がされる様な痛みが手を襲い、腸が引き千切られる様な激痛が走る。


 呪文への集中を切らさずに詠唱を行うのは至難の業と言っても良かったがアリオーシュは神殿での修行で身に付けた精神力で最後まで詠唱をやり切った。


 猫は害の有るものでは無いと分かったのか、されるがままで呪文に抵抗しなかった。


 猫の怪我がみるみるうちに治っていく。


 横たわっていた猫はピンと立ち上がると、一声鳴いて走っていった。


 アリオーシュの胸に久しぶりに暖かいものが宿った。


 自分にも何かを救うことが出来る、その事実がアリオーシュの心に火を灯してくれたのだ。


 猫とはもう会わないだろうと思っていたが、翌日の夜明けにアリオーシュが寒さに震えていると膝に暖かいものが乗ってきた。


 見ると、昨日の老猫が甘えてきていたのだ。


「お前――」アリオーシュは持っていたパンを千切ると猫に差し出した。


 猫は警戒もせずにパンを口にする。


 アリオーシュには生き甲斐が出来た。


 老猫は他人には一切懐かなかったが、アリオーシュだけには甘えてくれた。


「お前も私と同じね――世間から弾かれて、一人で世界に放り出された――」


 猫は喉をゴロゴロと鳴らしてアリオーシュに撫でられる。


 アリオーシュの身の上を理解している訳では無いだろうが、何が有ったのかは大雑把ながら感じ取っていたのかも知れない。


 真冬の中、宿屋の馬小屋でわらに包まれて寝る時も常に一人と一匹は一緒だった。


 だが、僅かな幸せも長くは続かなかった。


 その日はもう少しで春が来ると思わせる様な穏やかな日だった。


 知らない間に老猫は季節の変わり目にも気付かない程弱っていたのだ。


 アリオーシュはその現実に気が付いていなかった――いや気付きたくなかったのだ。


 若返りの魔法は覚えていなかった。


 特別に高位の神官達のみに教えられるもので、アリオーシュの地位ではまだ修める事が叶わなかったのだ。


 痛みに耐えて治癒魔法を掛けたが老猫は一向に良くなる様子を見せない。


 アリオーシュに残されたのは老猫を抱き締めて途切れ途切れになる心臓の鼓動を確認する事だけだった。


 老衰で死んだ生き物を蘇らせる魔法は無い。


「私を置いていかないで――」アリオーシュは必死に祈った。


 自分を裏切った愛と豊穣の女神にも、悪魔にも、全てを創り出した全知全能の主神にも、知っている限りの神々に祈った――。


 それでも祈りは届かない。


 指間を零れ落ちる水の様に猫の命は失われていった。


 猫が口から溜め息の様な声を漏らしたのが最期だった。


 長い間を置いた後、一際大きく心臓が脈を打った。


 それきりどれ程待っても心臓は脈打たなかった。


 アリオーシュは辺りが沈黙の場になったかの様に思われた。


 そこからの記憶はアリオーシュには飛び飛びのものだった。


 アリオーシュは泣きながら――死んだのはたかが猫一匹なのに、自分の半身を失くしたかの様に――激痛に悶えながら禁呪の一つを唱えていた。


 暗黒の神を呼び出す呪文だった。


 自分の今の感情を表すのに、痛み以上のものは無かった。


 身を引き裂くような痛みに心地良ささえ覚えながらアリオーシュは懇願した。


 ――理不尽な世界に裁きを、人智を超えて荒れ狂う運命を、全ての生命に終わりをもたらす<死>そのものに死を、全てを創造しながら滅ぶままに任せる神に裁きを、全てを呪いたった一つの命も救えない自分に終わりを――


 全てが終わった時、アリオーシュは放心状態だった。


 猫の死骸の口が動いたのにも気が付かなかった。


「私を呼んだのはそなたか?巫女アリーシャよ」そんな声――男の声だった――が聞こえた。


 アリオーシュの前の死骸が喋っていた。


 半ば呆然としていたアリオーシュは事態の異常さを異常な正常さで受け止めた。


「ええ、呼びましたわ――役立たずの神々達」アリオーシュはまだ自分が何をしたか気付いていなかった。


「貴方は誰?どうせ男だしろくでもない神なんでしょう?」


「お前達には私はラグズと呼ばれている――<憎悪>をつかさどる神だ」


 <憎悪>についてはアリオーシュも神学で聞いた事が有った。


「世界に復讐したいとは思わないか?お前を汚した男共に、お前を追放した神殿に、お前を見捨てたこの国に、何一つ望みを叶えてくれない神々に、奪うばかりで何も与えない死神に」


 その言葉にアリオーシュは心の奥底に眠っていた激しい怒り、生まれて以来ずっと抑え込んできたそれを思い出した。


「力を貸してくれるの――?なら、私は――」


「私は道を示すだけだ。復讐の道はお前自身で歩まねばならない」<憎悪>はアリオーシュに告げた。


 <憎悪>はアリオーシュに掛けられた呪いを解き、かつての美貌と魔法の才を取り戻し、混沌の神の一柱に加わる術を教えた。


 ――そしてアリオーシュは<憎悪>の助けを得て混沌の女神となった。


 名前もアリーシャからアリオーシュに変わり、復讐の手始めに今迄以上の飢饉と疫病を巻き起こした。


 一切の容赦をしなかった。


 老若男女全てを阿鼻叫喚の地獄に叩きこんだ。


 苦悶の中で王国も神殿も崩壊した――それでもアリオーシュの怒りは収まらなかった。


 死にゆく人間達の絶望の感情を味わう事で怒りは幾らかはやわらいだ。


 自分に近づく人間の内、かつて自分を破滅に追い込んだ者に似ている者は情けを掛けずに破滅の道を与えた。


 神々同士の争いでも何かに憑りつかれた様にアリオーシュはいつも先陣を切って突っ込んでいった。


 地球外から来た“外なる神々”もアリオーシュに手を出すことは出来なかった。


 外なる神々はアリオーシュの目を盗んで悪事を働くのが精一杯という有様だった。


 正面切って勝負を挑んできた邪神は返り討ちに遭って生きたまま太陽に堕とされその寿命が尽きるまで永劫に業火に焼かれる羽目になった。


 人々は怒れるアリオーシュと彼女を呼んだ。


 混沌の神々の中で最も若く、最も残忍で、最も狂気を宿した女神だと。


 憎悪と激情に駆られて戦う様はまさしくその名に相応しい神だった。


 だが、どれ程の力と畏敬の念を得てもアリオーシュが満たされる事は無かった。


 彼女は自分を満たしてくれる何かを求め続けた。


 その思いも忘れかける程の時を経た後にアリオーシュは答えを与えてくれるかもしれない人間――七瀬真理愛と澄川静香を見つけたのだった。

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