皇女アレクサンドラ誘拐

 グランサール皇国皇都ネクラナルは戦禍の後の復興が始まっていた。


 百年以上続いた戦争が終わったのだ。


 負けたとはいえ国民の間には解放感が漂っていた。


 新戦皇アトゥームについてはお手並み拝見といった雰囲気だった。


 皇国の伝統――戦皇を倒して地位を襲った事、皇女アレクサンドラの人気が高かった事、その皇女が国民の前でアトゥームを夫に選んだと宣言した事、前戦皇エレオナアル達の悪行が晒された事等が良い方向に作用した。


 しかし、全てが順風満帆という訳にはいかなかった――。


 *   *   *


「姫様は本当にあの方と結婚なさるんですね」グランサール皇国皇女アレクサンドラ付き魔術師のシルヴェーヌ=ド=ブラントーム――ハーフエルフの女性だった――は皇女の髪をきながら溜め息をつく様に言った。


 くすんだ金髪が揺れ、薄氷アイスブルーの垂れ眼がちの瞳が潤んでいる。


 心がざわつく。


 シルヴェーヌは“あの方”――“死神の騎士”にして現戦皇アトゥーム=オレステスとアレクサンドラの間に割り込んで皇女から一定の愛を得る事には成功していたが、最愛の人が結婚するという事実は受け止められずにいた。


 アトゥームの戴冠式は済んでいた。


 婚姻は二週間後。


 それまでに覚悟を固められる自信はシルヴェーヌには無かった。


 アレクサンドラと二人で遠くに行ってしまえれば――二人きりになるとそんな空想にふけってしまう。


 実現不可能な望みだ――シルヴェーヌは諦めようとしたがそうしようとすればする程、夢想は止まらなくなった。


 婚姻の日が近づくにつれ、アレクサンドラが嬉しそうに笑う事が増えるのを見て、胸が締め付けられるような思いは強くなっていった。


 悶々とした日々をおくるうち、シルヴェーヌはその思いを叶える方法を探し求めるようになった。


 思いついた方法は裏切り者と呼ばれても仕方ないものだったが、シルヴェーヌにはそれにすがる以外に望みを叶える道は無かった。





 そして婚姻の日は来た。


 婚姻の儀でシルヴェーヌはアレクサンドラのエスコート役だった。


 既に計画は進んでいる――控室で化粧を施されていた皇女を見てシルヴェーヌは覚悟を決めた。


「シルヴィ――どう?――私、綺麗?」アレクサンドラはシルヴェーヌを見て微笑んだ。


「ええ――美しいです」シルヴェーヌは改めて皇女の美しさに目を奪われた。


 侍女達は既に退室していた。


「姫様――」シルヴェーヌは胸に痛みを覚えながら昏睡の魔法を唱えた。


「シル――」呪文を掛けられる等とは思っても居なかったアレクサンドラはあっさりと眠りに落ちる。


 シルヴェーヌは部屋を出て脇に控えていた侍女アイアに呼び掛けた。


「姫様が倒れられたわ――血がひけたみたい。私が居室まで運ぶから貴女達はアトゥーム様達に伝えて」


「姫様が――?」


「緊張していたみたいだから――少し休まれないと」


シルヴェーヌは風霊エアーエレメンタルを呼び出す魔法を使うと、アレクサンドラを風霊に運ばせる。


 控室はアレクサンドラの宮殿の塔の上にあった。


 居室は側だ。


「私だけで大丈夫――部屋の外で待っていて。必要なら助けを呼ぶから」


 居室に入って扉を閉めたシルヴェーヌは、早鐘の様に激しくなる心臓の鼓動を何とか抑えようとしながら窓を開けた。


 風が吹き込んでくる――夏の風だ。


 風霊にアレクサンドラと自分を包ませると暑さは遥かにやわらいだ。


 塔の窓に立つ。


 風が渦巻き、地面が遥か下に見える。


 風霊に自分達を運ばせれば大丈夫だとは分かっていても、恐怖心は消えなかった。


「行って」ままよ――半ば自棄になりながらシルヴェーヌは風霊に命令を出す。


 シルヴェーヌはアレクサンドラの身体もろとも風霊に身をゆだねた。


 風霊は二人を運びながら凄まじい速度で飛び出した。


 カーテンが翻る。


 城壁の外まで飛べば、今回の逃亡を手助けしてくれる仲間がいる。


 恐らく皇都の市民は空を飛んでいる二人には気付かない筈だが、念の為認識阻害の魔法を掛けた。


 ――城壁外までは直ぐの筈だったが、シルヴェーヌには永遠の様に感じられた。





 マリアと静香は久しぶりに澄川女学院の制服に身を包んで婚姻の儀が行われる広間で新郎新婦が来るのを待っていた。


 マリアの使い魔の白猫も大人しく座っている。


 二人の結婚を祝福する聖職者は軍師ウォーマスターにして知恵と戦いの女神ラエレナの司教ラウル=ヴェルナー=ワレンブルグ=クラウゼヴィッツだった。


 不老不死ハイエルフの女忍者ホークウィンドと黄金龍ゴールドドラゴンの娘シェイラ、それに女エルフの治癒術士ヒーラー外科医サージェリーアリーナ=レーナイルも一緒だった。


 足早にやってきた皇女の侍女アイアがゆったりとした動きでラウルに耳打ちした――何事だろう――マリアと静香はいぶかしんだ。


 ラウルは表情をまるで変えない――アイアと二言三言交わすと側に控えていた近習に何かを言い含めて落ち着いた様子で部屋を出る。


“何か有ったのかしら――”静香はマリアと顔を合わせる。


 侍女アイアは列の前に並ぶホークウィンド達に順に耳打ちをして、最後にマリアと静香達に驚くべき内容を伝えた。


「私がこれから話す事にどうか驚かないで下さい――アレクサンドラ皇女がさらわれました――」


静香は咄嗟に立ち上がりそうになる自分を抑えた。


「嘘でしょう――誰が?」少々上擦りながらも如何にも普通の会話と言った感じでアイアに問う。


「恐らくシルヴェーヌ様です――確証は有りませんが」


「私達に何か出来る事は――?」マリアは落ち着いた様子で聞いた。


「出来るだけ平静を装って私に付いて来て下さい。今ラウル様達と対応を協議する所です――」


 その時何の前触れもなく室内に暴風が渦巻いた――転移魔法だ――。


広間の前に置かれた祭壇にのしかかる様に白い巨体が姿を現す。


「白龍ヴェルニーグ……それにシーナ=セトル=ライアン……!」マリアが呻いた。


 白龍の背に乗ったシーナは二人を認めると不敵に笑った。


「ごきげんよう――兄様の敵、七瀬真理愛に澄川静香。それに初めまして、ホークウィンド卿とその愛人シェイラ、治癒術士ヒーラーアリーナ、そして我が国ヴェンタドール王国を裏切った各国の王族達――」


 皆まで言い終わる前にシェイラが動いた。


 床を蹴って凄まじい速度で跳躍し魔力を込めた右拳でシーナに殴りかかる。


 シーナは兄ショウから受け継いだ魔法の大盾でその一撃を止める――大音響が広間に響いた。


「くっ――」シーナはぐらりと傾きかけたが何とか体勢を立て直す。


 シェイラは大魔力を込めた左右の拳で女勇者を襲ったが、加速スイフトネスの魔法を掛けていたシーナに致命打は与えられなかった。


 勇者の剣の鋭い一撃がシェイラを襲う――シェイラは後ろに跳んだ。


 シェイラの髪が僅かに切れた。


 そのまま二人は睨み合う。


 ホークウィンド、アリーナ、静香、そしてマリアは武装していなかった――結婚の儀の場に武器を持ち込む事は許されていなかったのだ。


 静香は唇を嚙んだ――自分は今の五人の中で一番戦力にならない。


 護身用に短刀ダガーを預かっているだけだ。


 マリアもアリーナも少しも隙を見せず何時でも魔法を唱えられる態勢だった。


 ホークウィンドも体の力を抜いて何時でも縮地で攻撃できる様にしている。


「いきなり襲い掛かってくるとは無粋な――」シーナは余裕を持って言った。


「まあいい――この婚儀は中止になる――アレクサンドラ皇女は私達が預かった」


 招待客がざわつく。


「今日は挨拶だけだ――本当なら仇を斃しておきたい所だが――」


「国際謀略組織、秩序機構オーダーオーガナイゼーションの首魁、ディスティ=ティール公爵も背後に居るみたいだね」後ろの方から声がした。


 ラウルが魔剣を持って戻ってきていた。


 シーナはラウルの発言が信じられなかった。


 皇女を攫われた事が明らかになれば皇国の信用は失墜する筈だ。


「混沌の女神アリオーシュが今回の事を仕組んだとなればそこまでは墜ちない――何せ相手は神だからね――更に攫われた皇女をアトゥーム義兄さん達が取り返したとなれば世論はお釣りがくるレベルで回復する」


 ラウルは読心能力の使い手だった――シーナは心を読まれた事を悟った。


 シーナは対抗呪文を使う。


 本拠地まで探られては一大事だ。


“勇者シーナ。そこまでだ。今すぐに帰ってこい”ティール公爵の念話テレパシーがシーナの脳裏に響く。


“しかし――”シーナの抗議を公爵は無視した。


“問答している暇は無い。そなたの望みを叶えたいなら私のいう事を聞け”公爵は考える暇を与えなかった。


“ヴェルニーグ。転移の魔法を”


 ヴェルニーグは呪文を唱える。


 来た時と同様の暴風が巻き起こった――一瞬後、シーナとヴェルニーグの姿は消えていた。





 ネクラナルの城壁から少し離れた所で、ティール公爵、シーナ、ヴェルニーグ、そして眠ったままのアレクサンドラを連れたシルヴェーヌは合流した。


 吹き荒れる転移魔法に伴う風にシルヴェーヌは身を震わせた。


 ヴェルニーグが頭を垂れシーナが飛び降りる。


 シーナが近づいてくるのを見てシルヴェーヌは身構えた。


「そう警戒しなくても良いわ」シーナが笑う。


「私は貴方達の仲間になったつもりは無いわ――姫様に何か有ったら許さない」


「取って食ったりはしない――精霊使いシルヴェーヌ」小柄で痩せた男、背丈はシルヴェーヌにも届かない――歳は60歳を超えている様に見える――が言った。


 この男がディスティ=ティール公爵だ。


「私はこの世界に潜む病――人間の業を治したいだけだ」


 エレオナアル達に見せていた狂気は微塵も無かった。


 公爵は公爵なりに識見や人格、人の愛といったものを尊重していたのだ。


「そなたの思いの程は見せて貰った。出来る限りの援助はしよう。それに“死神の騎士”には私の姪――魔導帝陛下――が殺された。その恨みも有る」


 五人は転移の呪文でティール公爵の隠れ家に跳んだ。


 この時からシルヴェーヌは静香達に追われる身となったのだった。

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