全ての始まり

七瀬真理愛の場合

「――やっぱり神様なんて嫌い――」

 

 ランプに照らされた薄暗い豪華な牢獄の様な大きな部屋で少女、七瀬ななせマリアは誰にともなくつぶやいた。


 先程まで湯浴み――入浴というよりそう言う方がふさわしいとマリアは思った――を済ませた後、簡素な食事を食べ、することなく寝台に突っ伏していたのだ。

 

 自分ともう一人、三歳年上の先輩、澄川静香すみかわ しずかは下校中に突然現実世界の日本からこの異世界に引きずり込まれたのだった。


 二人で学生寮への帰り道で突然現われた暗黒の魔法陣みたいな形の光に吸い込まれ、気づいた時には静香とは離れて、この部屋にほとんど監禁と言っていい状態に置かれている。

 

 異世界人とは言葉が通じない。


 召使いと思われる女官たちは彼女の世話は焼いてくれるが、話しかけても返事はしてくれない。


 女官たち同士の話し声はマリアが聞いた事もない言語をしゃべっていた。


 英語かロシア語なら少しは分かるのだけど、彼女たちの言葉は彼女が知っているどの言葉とも違っていた。

 

 マリアは肩にかかるかかからないかといった長さの波打った金色の、傍目には美しいとしか形容しようのない、彼女が嫌っている髪を梳かそうかと立ち上がった。


 静香にはもっと伸ばした方が可愛いのにと言われていたが、マリアは髪を伸ばしたいとは思わなかった。


 このくせ毛と髪の色のせいで、散々虐められてきたからだ。

 

“静香先輩はどうしてるのだろう”マリアは不安になりそうな気持ちを抑えて彼女を思った。


“――先輩も自分みたいに監禁されているのだろうか”


 ここに飛ばされてきてからいくら時間が経ったのか、時間の経過すらも分からなかった。

 

最初は湯浴みの回数を1日一回と数えたのだがどうもそうでもない様なのだ。


 湯浴みの回数から日数を計るのも食事の回数から計るのも無理だろうと思えた。


 湯浴みが1日一回か二回かそれとも違うのか、食事は1日3回なのかはっきりしないし、窓が無く日の差し込まないこの部屋では経過した日数も判断のしようもない。

 

 地上なら良いけど、おそらく地下だろうとマリアは思っていた。

 

 部屋の装飾は21世紀の日本ではまずお目にかかれない豪奢なものだった。


 しかし異世界人たちのマリアへの扱いは丁寧だが、情がこもっていないと感じさせた。


 まるで貴重な実験動物を扱っているかのようだ。

 

 逃げ出そうかと考えなくもなかったが、浴室とこの部屋の往復時には逃走防止の為だろうか剣を持った騎士風の出で立ちの男たちが前後を挟んでついてきた。


 浴室まで行くのにもまるで迷路のようなこの建物で上手く鍵のかかっていない時を狙って部屋を出てもこの建物の入口に上手くたどり着けるとは思えない。


 静香もこの建物の中なら彼女を置いては行けない。


 上手く静香と一緒に外に出れても言葉が通じないのではすぐに行き倒れだ。


 もしかしたらこの建物のどこかに現実世界に通じる道が有るかも知れない。


“――どこに行くにしても、まず静香先輩を見つけないと――”マリアは不安を抑えて鏡台の前の椅子に腰掛けて髪を梳かす作業に没頭した。


 鏡台に使われてる鏡は純度の高いガラスに薄い銀を張り付けたものの様だった。


 髪を梳かすブラシは象牙様の動物の角を細工したといった所で、今身に着けている寝間着も絹製の様な肌触りの豪華なものだった。


 学校の制服も綺麗にされて部屋に置いてあった。


 それでもマリアはこの後を楽観する気にはなれなかった。


 彼女のこういう勘は良く当たった、特に先が悪い時には。


 彼女の人生は辛いことの連続だった。


 まるで神様は私の苦しむ様を見て喜んでいるみたいだとマリアには感じられた。


 ようやく信頼できる女性に巡り会えたと思ったら、3か月も経たずに生き別れとは。


「神様なんて嫌い」もう一度確かめるようにマリアは声に出した。


 現実世界から持ってきたスマートフォンはとうの昔に電池が切れていた。


 電池が有っても中継局も衛星も飛んでないこの世界では無用の長物だった。


 このままいつまでもここに閉じ込められたままなのだろうかと思いながら、髪を梳かし終わったマリアが寝台に横になろうとした時、部屋の扉をノックする音が重く響いた。


 マリアが返事をする前に勝手に扉が開く。


 見慣れた女官の顔と後ろに松明を持った騎士と思しき4人の男がいた。


“ついさっき湯浴みは済ませたはずなのに、もう一度湯浴みに連れていかれるのかしら”マリアは思った。


 だが、湯浴みの道具を持つ女官がいない。


騎士たちは二列に分かれ、女官がおいでなさいと言うように手を振った。


 ついていくしかなさそうだ。


 マリアは衣服を着替えようと制服の入った棚に寄ろうとしたが、女官は首を横に振ってまた手を振った。


 あきらめてマリアは扉の方へと行った。


 寝間着のままで部屋を出ると、騎士たちは前後に二人ずつ、女官とマリアを挟んで歩き出した。


 マリアは女官に声をかけた。


「どこへ行くの?」


 女官はマリアを一瞥しただけで無言だった。


 少し歩くと普段なら右へと曲がる十字路に来た、湯浴みの時にいつも通る道だ。


 しかし騎士たちはまっすぐ進んで行く。


 眩暈のするほど大きな迷宮だ。


 しばらく右折や左折を繰り返して、さらに下に降りる階段が見えてきた。


 揺れる松明に照らされた廊下は影を不気味に反射する。


 揺らめく影はマリアの不安を煽った。


“――このままどこに連れて行かれるのだろう――”


“静香先輩の所なら良いのだけれど”マリアは努めて楽観的になろうとした。


 無言のまま階段を五階も降りた。


 各々の階層に降りる階段もなぜまとめておかないのかと思うほど離れていた、迷路の中を歩くみたいで一人ではここから地上はおろか元の寝室に戻るのも不可能だった。


 やがて6人は大きな広間が中にあると思しき扉の前についた。


 扉の両側には魔法の明りと思われる白い光が辺りを照らしていた。


“静香先輩がこの中に?”


 マリアは期待と不安が高まるのを感じた。


 重い音を立てながら石造りの扉が開く。


 中の部屋はマリアの通っていた女学校の体育館ほどの広さは有ろうかというものだった。


 所々の床から無数の不気味な赤い光が伸びて心臓の鼓動のように明滅している。


 奥に細いシルエットの人がいた。


「静香先輩!?」マリアは叫んだ。


 姿を確かめようと奥にマリアは進む。


 もう一度声を出そうとした、しかしそれはできなかった。


 声が無くなったかのように口がパクパクと動くだけだったのだ。


 次の瞬間、全身が寒気の様な悪寒に包まれた。


 全身のあらゆるところから冷気の様な何かが入り込んでくる。


 四肢の先から体全体の力が抜けていく、なのに意識だけはことさらにはっきりしていった。


 力を失って倒れこみそうになるマリアを両脇から二人の騎士が支えた。


“何、何が起こってるの”マリアは必死に身体に力を入れようとしたが無駄だった。


 辛うじて瞳だけは動かすことが出来た。


 騎士たちはマリアを部屋の奥へと引っ張っていく。


 部屋の中央で騎士たちは立ち止った、先程見たシルエットは静香ではなかった。


 騎士たちが中央にいた人影に言葉をかけた、返事は男の声だった。


 フードの付いた法衣ローブをまとった長身の男だ。


 顔はフードに隠れて分からなかったが下卑た笑みを浮かべている。


 法衣ローブの男はマリアの顔をまじまじと見つめると一層下卑た笑みを浮かべた。


 突然男はマリアの寝間着をナイフ様の刃物で切り裂き破った。


“え!?”マリアはパニックに陥った。


 思い出したくもない思い出が甦る。


 あれは小学四年の時、マリアは近くに住むホストの男たちに強姦されたのだ。


 何度も蹂躙されながら神様に数え切れないほど助けを求めた、なのに何の助けもなかった。


 悪夢以上の悪夢だった。


 痛む体を引きずって教会付きの孤児院に帰った時、世話役のシスターはマリアに何が有ったか聞きもしなかった。


 そればかりか孤児院の関係者たちは責任沙汰になるのを恐れてマリアに何も語らせなかった。


“――またあの時みたいになる”


「神様なんて大嫌い!」


 マリアは絶叫した、声は全く出ず、唇すらも動かない。


 騎士たちはマリアを男の前に置くと下がっていった。


 全裸のマリアは床に置かれ、ただ瞳で法衣ローブが動くのを見つめることしかできなかった。


 右手に曲がったナイフを握った芝居がかった動きに、呪文を唱えているかの様な声の調子。


 後でマリアはそれが呪文そのものだったのだと知った。


 男が呪文を唱え始めて十分ほども経ったろうか、頭の中に声が聞こえたような気がした。


“我が名はアリオーシュ”


 久しぶりに聞く日本語だったがマリアはその声に邪悪なものを感じた。


“我が名はアリオーシュ、混沌の第一神にしてすべてを支配するもの”


“いったい何”とマリアは心の中で問いかけたが反応は無かった。


 ただ同じような声が聞こえるだけ。


“何、何なの?”マリアが狼狽している間に声はさらに強く聞こえるようになった。


“我が名はアリオーシュ。お前の魂を支配し、世界の全てを支配する”

“我が名はアリオーシュ。お前の肉体の死をもって我が世界と現世を繋ぐ門を作り、現世をわが物とする”

“我が名はアリオーシュ。お前の死した肉体が我が世界と現世を繋ぐ”

“我が名はアリオーシュ。お前の魂は我が糧となり、我が力は一層に増す”

“我が名はアリオーシュ。お前の絶望と苦悶の声が我が喜び”

“我が名はアリオーシュ。お前は間もなく我が物となる……”


 声が続く間に次第にマリアは心臓から血の気が引いていくのを感じた。


 自分はこのアリオーシュとかいう邪神だか悪魔だかに生贄として捧げられるのだ。


 このままでは自分は殺される。マリアはパニックに陥った。


“助けて!神様!!”


 思わずマリアは祈った。


 マリアは視界に写った法衣ローブがナイフを高々と振りかざすのを見た。


 そのままナイフは凄まじい勢いでマリアの下腹部に振り下ろされた。


“静香先輩!”マリアは心の中で絶叫した、目を閉じる事もできなかった。


 その瞬間、アリオーシュの声が止んだ。


 法衣ローブの男が絶叫する声が聞こえた。


 あと数センチでマリアに届いたナイフがかき消すように消えた。


 君の言う静香先輩なら大丈夫、そんな声が胸のあたりにおだやかに聞こえた。


 法衣ローブがまるで内側から火が付いたかのように燃え上がった。


 火だるまになった法衣ローブの男は絶叫したままよろよろと暴れ回る。


 自由になった身体が持ち上げられて、黒い影が覆いかぶさり、あたたかな外衣を掛けてくれた。


 膝枕のような格好でマリアの顔を覗き込んだ黒い影は切れ長の、しかし優しげな眼をしていた。


 見た目からは性別は分からないが、体を支える影の肉体には鍛えられてはいても女性のしなやかさが有った。


“助かったの…?”マリアは安どと同時に急に力が抜けていくのを感じた。


 「間一髪だったね。ボクはホークウィンド。キミはアリオーシュ如きに捧げるなんてもったいない美しさだ」言いながら影が顔を覆っている布を取った。


“――静香先輩とは違うけど、同じくらい美人――”


 マリアは意識を失いながらそう思った。

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