第一章 仮“装”世界へようこそ!
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「あちー!こりゃ冗談じゃないぜ!」
俺は玄関を開け放つと、靴と制服を素早く脱ぎ捨てて、裸で風呂場に飛び込んだ。行儀が悪いとか見苦しいとか、そんなことには構っていられない。それほどに、今日というこの日は暑かった。できることなら、クーラーの効いた家の中から一歩たりとも出たいとは思わない。
今年の九月初日、夏休み明けの始業式の日は、残暑極まりない猛暑日だ。てんで暑さは収まっていないのに、しかし世間的には無慈悲にも夏期休業は終了し、全国一斉、この中弛んだ高校二年生の椎名馨に限られず、中学生も小学生も、皆々気の晴れない新学期の始まりである。
「っはぁ~~! スッキリしたぁ!」
冷たい水浴びを終えて身軽い部屋着に着替えた俺は、バスタオル片手に廊下を歩く。
始業式は午前中で終わったので、今は真っ昼間だ。まずは昼食ついでにくつろごうと考えて、俺はリビングの扉を開け放つ。
ところがそこで、ふと異変に気づくのだった。
匂う。いや、香る。
現在誰もいないはずのこの椎名家において、無意識にでも鼻で追ってしまいたくなるようなかぐわしい香りが、キッチンの方から立ち込めている。それは当然、キッチンと空間的に繋がったリビングにも漂ってきていた。
ああ、この香りは、ガーリックだ。腹を空かせた今の俺は、そういったものには特に敏感だった。
って、待った。なぜ無人の我が家から、こんなにも食欲をかきたてるような良い匂いがするのだろうか。しかもこの目新しい匂いは、間違いなく作りたての食事のそれだ。よもや仕事中の親が昼食を作ってくれていようはずもないので、こんなことがあり得るとすれば、俺に考えつく可能性としては、もう一つしか見当がつかなかった。
しかしながら、俺はその可能性を、あまり肯定したくない。自分で思いついておいて正直アレだが、できれば頼むから絶対的に、思い違いとか杞憂の類であってほしい。
あれやこれや様々な葛藤を頭の中で繰り広げながら、俺は恐る恐るキッチンの方を覗くに至った。
すると、そこにいた人物は、俺に気づいてくるりと振り返る。
「あら。んく……ふぅ。お帰りなさい」
こくんと似合わぬ可愛らしい音で喉を鳴らすと、軽い挨拶を放ってくる。手元からは、予想通りガーリックの良い香り。
立ちっぱなしで皿に盛られたスパゲティを頬張るのは、最近ではめっきり存在を忘れがちになっていたが、けれども目の前にすれば紛うことなき我が実の姉、椎名優璃その人であった。
「なっ……!優璃っ! なな、なんでここに!?」
驚きのあまり、俺は本音をそのまま口に出してしまう。
それを耳にした瞬間、ピクッと反応した優璃は口元を悪戯に釣り上げて、満面の微笑みを向けてきた。
「はぁ~ん? ひっさしぶりにはるばる実家に帰ってみれば、出会って第一声がそんな挨拶? 馨、あんたって弟は、心の中じゃ私のことは呼び捨てなのかしらねぇ?」
ちなみに、笑みと一緒に飛んできたハイキックについては、野生の感フル発揮のバックステップで回避した。ただ、直後には、本音に続いて動揺が漏れ始める。
「あっ、いや……ねーちゃん! すっげぇお久方ぶりです! ど、どうして突然帰ってきやがりなさったんでしょうか!?」
「何よそれ。随分とおかしな言葉を覚えたのね。あんたの私に対する印象がよーくわかるわー」
うっ……。咄嗟の出来事過ぎて、取り繕い方を誤ってしまった。
バックステップで稼いだ距離も知らずに狭められ、片手で器用に皿を支える優璃に追い詰められる。女性にしては長身で俺と同じくらいの丈があるため、迫力については十分だ。
「ちょっ! 近い近い近いっ! ニンニク臭いし!」
「大好きなお姉ちゃんが、わざわざあんたに会うために帰ってきたっていうのよ? それなのに、愛する弟の対応がそれじゃあ、まぁ悲しいったらないわね。悲しくて私は、お昼ご飯も喉を通らないわ」
「だっ……誰が大好き姉ちゃんだ! 誰が愛する弟だっ! ふざけんなっ! 昼飯だって、それとっくに二皿目だろうが!」
しれっとどのツラ下げて、そんなことをのたまうものだろうか。流しの水浴には、既に平らげたあとの大皿が浸けられていたことを、俺は見逃してなどいない。飯が喉を通らないというのなら、それは単なる満腹のサインだ。見ると、手元の二皿目も余裕で大盛り。これだけのニンニク臭に取り憑かれておきながら、まだも食うつもりでいることにむしろ驚く。
俺は壁伝いにジリジリと横へずれて、再び安全距離を確保しようと試みた。とりあえずそうしておかないと、優璃のやつには何をされるかわからないからだ。
「あっはは。まあまあまあまあ、そんなにカッカしないで。ちょっとからかっただけじゃないの。とりあえず、あんた、お昼ご飯まだでしょう? どうよ、ガーリックスパでも」
「お……おぉ……」
優璃は、逃げていく俺を再び追うことはなく、逆に優雅な仕草でテーブルに腰掛けて、小さく手招きをしてくるのだった。
不気味だ。優璃の優しげな誘いほど不気味なものは、この世にない。
だがしかし、ともすれば餌にも見えてしまうあの美味そうなスパゲティを見ると、適当にごまかそうと思っていた空腹がどうしても無視できなくなってしまう。不本意だが優璃の手作り料理の味は、俺の舌も認めるところである。
結局、俺はいけないと知りながらも、彼女の向かいの椅子に座ってしまった。
するとニコリとした微笑みだけを向けられて、ほとんど一人前の残る上級な昼食が差し出される。若干食べかけだけど、でもこの香りと味には逆らえないものがあった。
腰掛けてひとまず、俺は警戒を緩めることなく目の前のスパゲティに手をつけたが、やはり優璃は何も言わずに、頬杖なんかをついて俺を見つめるだけだった。
何だろう、この空気。不気味不気味と感じてはいたが、これはもはや、それを通り越して怪奇である。何が怪奇かって、優璃が大人しく目を細めていることそのものが既に怪奇と言えなくもないのだが、なおかつ俺を誘いながら何もせずに昼食を差し出してくるあたり、その真意は極めて度し難い。
この椎名優璃という人間は、押し並べてそういう人種なのだ。
俺の三つ上の姉であり、良くも悪くも人を惹きつける容姿や性格で、身勝手かつ尋常でない行動力を持ち合わせていて、昔からこの辺りでは色々と有名で……それはもう、俺は弟として目を覆いたくなるような立場を、幾度となく味わったものだった。
そう、思えば彼女は、幼稚園の頃にはいつの間にか近所の子供にも大人にも知られていた。幼少にして、ここらでは何人かなわぬガキ大将。ケンカでは一度も負けたことがなかったという。小学生の頃には数人のグループで夜の校舎に忍び込み、肝試しをした結果、見事に警報を発動させたり、中学生時にはあろうことか、体育大会の打ち上げで文字通り花火玉を打ち上げたりなんかしたらしい。どちらも近隣では、ちょっとどころではない騒ぎになった。そして高校でも、依然として文化祭あたりでその名を轟かせていたようだ。
ちょうど年が三つ離れていて、小学校以外では被ったことがないけれども、それでも俺が新しい場所に通う度に「あぁ、あの子の弟さんね」と先生たちには言われたものだ。正直、いたたまれない。それなのに、そんな無茶ばかりやっていた優璃のことを語る周囲の人間は皆、それを思い出しては楽しそうに話すものだから、俺は不思議でならなかった。
そんなことを思い出して、スパゲティを口に運びながら、横目でチラチラ彼女を見る。
こんな極限破天荒人間が姉だなんて、怖くておちおち弟なんか名乗れやしないというものだ。それが知れただけで、俺の安寧の八割方が遥か彼方へと飛んでいってしまう。
けれどもそれが現在、優璃が大学に進んで下宿をし出してから、まるきり百八十度一変したという事実がある。
皆まで言う必要はないであろう。優璃がこの家、この街からいなくなり、俺の生活はかつてない安定期に入っているのだ。それは我が人生十六年で、間違いなく最上の安息だ。
与えられてまだ一年とそこらの、儚い平和。
去年は盆にも正月にも優璃は帰ってこなかったのに、まるで質の悪い不意打ちのように、この瞬間、俺の安定生活が崖っぷちに立たされつつある気配を感じる。
そうだ。思えばなぜ、優璃はこんな時期にここにいる?
俺はそれを疑問に感じたが、しかしその理由などわかるはずもなく、平らげたスパゲティの皿を机上に置いたのち、訝しんで優璃を正視した。
それに気づくと彼女は頬杖を外し、俺の言外の質問に答えるかのように、くすりと笑みを零すのだった。
「……気になる?」
似合わず淑やかに、こちらを凝視し続けていただけはある。長い髪をさらりとかき分け、わざとらしく首を傾げて浮かべる表情は、優璃が得意とする邪悪な笑顔そのものだった。
「まあ、ならないと言えば嘘になるかな」
俺は、できるだけ平静を装って答えを返す。
「あら、意外と興味なさそうねぇ。結構びっくりしてたみたいだったのに」
「飯食ったら落ち着いたよ。別に、関心がないわけじゃないけどさ。でも、姉ちゃんのやることにいちいち突っ込んだら負けだってことは、小学校で掛け算を習うよりも早くに気づいてたし。それを思うと、傍観者でいた方が」
その方が、平穏。かつ安全だ。
「あっれー。なんか予定と違うなー。私のシナリオだと、馨は私の帰省の理由を、食い入るように尋ねてくるはずだったのに。おかしいなー。何よそれー。もしかして、スパゲティでお腹いっぱいになっちゃったのかしら」
「何言ってんだか。姉ちゃんの行動に関して俺は、昔から徹頭徹尾、傍観だったじゃないか。たとえばもし、日本にくる地震や台風を姉ちゃんが呼んでるって言われても別に疑わないけど、特別注目もしないと思うね」
「ぅ……まるで私の帰省が自然災害のように認識されている……」
ばれたか。まあどちらかといえば、帰省限定でなく、本人そのものが自然災害レベルの代物だけど。
とっくに落ち着いた俺は、もうそんな思考を表に出したりなんてしないけれども、意図的に目を逸らしたりと、様々な含みある言動にしこたま嫌味を詰め込んでいる。
それでも優璃はこの程度のこと、微塵も気にしない。互いによくわかっていた。
「でも、でもね! 今回は傍観者な馨じゃ困るのよ! 今日、私がわざわざ帰ってきたのはね……さっきも言った通り、あんたに会うためよ!」
ほら、ね。
こう告げると優璃は、さきほどまで纏っていた上品な雰囲気など吹き飛ばして、机に身を乗り出しながらずいっと顔を近づけてきた。そして溌剌と、こんな風に続ける。
「馨に頼みがあるのよ!」
…………うわぁ……怪しいきな臭い疑わしい。絶対的に頼まれたくない。お話を聞くだけでも、もう確実に遠慮しておきたい前置きだ。拒否反応は甚大である。
直後、俺は条件反射のように席を立つ。
「待った! 逃げるな弟よ!」
しかし、優璃は即座に俺の服の裾を掴んだ。さすがの瞬発力。やはりこの女は侮れない。
「なぜ引っ張る! 手を離せ!」
「あんたこそ、何で逃げるのよ!」
「逃げるに決まっとろうが! 今の流れで身の危険を察知できないほど、俺の頭は粗末じゃないんだよ!」
「海より深い愛を注いだ姉の頼みでしょ! お昼ご飯作ってあげたでしょっ!」
「一度も愛してもらった覚えなどない! それに俺の人生は、スパゲティ一皿で売り渡せるほど安くはないんだっ!」
「誰もあんたの人生寄越せなんて言ってないじゃない!」
どうやらあの昼飯は、本当に餌として与えられたようだった。
俺は全力でリビングの出口に向かおうとするが、優璃のやつは座りながら伸ばした手を引っ込めようとしない。そうやって数秒の間、互いに譲らぬ硬直状態が続いた。
けれども、なおも推進力を落とさない俺につられ、先に離れたのは優璃の手ではなく、床についた彼女の座る椅子の足だった。
「頼みって言ったってね、そんな無理難題じゃなっ――きゃっ!」
結果として、優璃は椅子から転げ落ち、突然後ろに引っ張られる力が緩んだ俺も、彼女と一緒になって前のめりに倒れ込む。
「っとぉ、うわっ!」
ドシン、バタンッ! そんな二つの滑稽な音は、俺と優璃が揃って顔面を床にぶつけたがためのものだ。
「ってー……。何すんだよ姉ちゃん……」
顔を上げる気力も失って、床に突っ伏したまま俺は抗議する。
対して優璃は、未だに俺の服裾を握りしめたままで答えた。
「ぃたた……だってあんた、私が大学行くために家出てから、高校じゃあかーなり怠けてるでしょう。部活にも入らずに、だからって他に大した活動もしないで。それでよく退屈しないわね」
「怠けてるなんて、人聞き悪いこと言うなよ。成績だって悪くないし、遊び呆けてるわけでもないんだ。俺は姉ちゃんと違って、平穏主義なんだよ」
「何よそれ、つまんないわ。要は暇ってことでしょう」
何てことだ。人の大事な主義主張を、暇の一言で片付けやがった。
起き上がろうとした俺は、力が抜けてまたへたり込む。
思い返せば俺の学生生活で、暇、もとい自分の時間を持てることが、どれだけ貴重なことだっただろうか。これについては熟考の必要が全くない。瞬時に、無類の価値を持つという事実が導き出せるのだ。
優璃が高校を卒業するまでの間、つまりは彼女がこの家にいた時代は、俺に自由な時間があろうものなら、すぐにでも何かに付き合わされたものだった。俺自身がやっているわけでもない部活の練習に、優璃が就いていた生徒会役員の仕事。そういった学校関連のものから、果てはテレビゲームの相手なんかといったくだらないものまで様々様々。
だからこそあの頃の俺は、普段から常に忙しいふりをしていなければならなかった。曲がりなりにも部活には入っていたし、委員会の仕事なんかもやっていた。さらに、学校では必ず優璃を知る先生や先輩たちがいて、そのためかよく気にもかけられ、手伝いなどを持ちかけられたりもしたのだった。
ああ、自分でも実に滑稽な姿だったと思う。仮初めで多忙のふりをしていたら、意外にも割と本気で、望まぬ多忙な学校生活になってしまっていたのだから。つまるところ、程度の差はあれど、これまで俺に安穏の日々はなかったというわけである。
それが……それがやっとのことで今、ようやくのんびりとしたリラックススクールライフが送れている。現在まさに、その真っ只中なのだ。誰が、誰が優璃の頼みなんか――。
「まあでも、今回はその方が都合がいいわ。頼み事もしやすいし」
――頼みなんか聞くものか。
「そういうわけで、その内容なんだけど」
「待て! 誰も引き受けるなんて言ってなっ――」
誰が優璃の頼みなんか、聞くものか! 聞いてやるものかっ!嫌だ! 絶対に嫌だ! たとえ百万円積んだって、今の安息は買えやしないのに! やっと手に入れた平和なのに!
俺が抗議をしようとすると、ようやく優璃は俺の服裾を解放し、その場ですっと立ち上がった。そして俺の言葉は、彼女が俺を見下ろしながら放った大仰な宣言で上書かれる。
「馨が姉ちゃんのために、学校にある銀杏の樹の広場を守りなさいっ!!」
それは、もはや頼み事ではなかった。頼み事をする立場にある人間の態度ではなかった。違うだろう。頼み事をするのなら、もっとこう、へりくだってだなぁ……。
だが俺の中には、優璃の依頼人としてあり得ない態度に疑問と反感を覚えつつも、それを通り越して頼みの内容の方が気になってしまうという自分もいた。
「……いちょ……樹って……は?」
第一には、群を抜く意外性。第二には、内容への拍子抜け。だから俺は、優璃を見上げながら目を点にしていたのだろう。そう思う。
「無言は承諾、と。じゃ、ちょっとこれ貸してねー」
って、おい。この場合、無言は拒絶だろう。って、おい! それは俺の端末だろう!
刹那、正気を取り戻して優璃の手元を見ると、俺は思わず驚きの表情が隠せなくなる。なぜだか、いつしか、どうしたことか、彼女は俺の携帯端末を所持していたのだ。
っ! そうか! やつが俺の服裾を引っ張っていたときか!
あのとき彼女はおそらく、俺の知らぬ間にポケットから端末を抜き取っていたのだろう。俺の反射に順応してきただけでも侮れないと思っていたのに、まさか一枚も二枚も上をいかれていたなんて。不覚だ。なんて不覚だ。不覚過ぎる。
そこからはもう、完璧なまでに優璃のペースだった。へたり込んだ体勢のまま床に押さえつけられ、すぐそばで自分の端末がいじられている音を聞きながらも、俺は一切抵抗はできない有様。そんな体たらくだった。
「離せバカ優璃! 返せ! どうせロックコードかかってるんだよっ!」
「いやいやぁ~。さすが我が弟よねぇ。自分の好きなものをパスワードとかに使うその気持ち、わかるわ~」
「なっ!」
「『flower』って、昔から馨の好きな曲の名前よね」
あ……終わった。
確かに『flower』とは、俺が幼い時分より好んで聴いている古い曲の名前。そして俺は、この曲名を端末のロックコードとして使用していた。
よもや端末をひったくって、ものの数秒でロックを見破るとは。やはり優璃の行動は予想できない。そのあまりの異端さに、こちらの感覚が通用する気配は全く見えず、俺は再び脱力して床に伸びきった。
優璃の高笑い。軽快に鳴る端末操作の機械音。これらはまさに、俺の安寧の派手な崩壊、その擬音に等しいものと言えた。
はぁ……。はぁぁ~…………。
俺は静かにゆっくりと、もう一人の自分に諭されているような気分になった。諦めろ。優璃が相手だ。彼女との会話は、無条件降伏から始まるんだ、と。
そうして俺はこの日、なかったことにしていた自分の姉という存在を改めて心に刻みつけられ、椎名馨は椎名優璃の弟である事実を、諦念によって受け入れた。
翌日になって、一昨日まで夏休みだったのがまるで何かの幻かのように、学校にきて授業を受けることになる。このギャップは、何度経験しても慣れないものだ。
さらに今回の場合、昨日の優璃の件も盛大に後を引いており、気怠いことこの上ない。
やはりこんな日は、気分転換が必要だろう。このモヤモヤした複雑な心持ちを、何とかして癒さなくてはならない。心の平穏を、取り戻さなければならないのだ。
俺はそのための選択肢として、最上のものを持っていると自負していた。
さて、あの場所に行こう。そう思う。九月初旬はまだ暑いが、木陰ならば涼しい風も期待できる。俺は早足で校舎を抜け出し、学校敷地の片隅の、ある場所へと向かった。
目印は、銀杏の樹だ。
だが、実際にそこへたどり着いてみて、俺ははたと気づく。銀杏の樹。そのワードを思い返すと、なおのこと昨日の悪夢がまざまざと頭に浮かんでしまうものだった。
まさに悪夢。我が姉、優璃の、突然の襲撃。あれは帰省という表現を借りた、俺の生活の一方的蹂躙だった。
事実、あいつの行動を客観的にのみ述べるなら、俺から携帯端末を引ったくってそこにヘンテコなアプリケーションをインストールし、早口に言いたいことだけ言って去っていった。それだけだ。それだけなのだ。
ただ一方で、残った爪痕は甚大だ。俺が今まさに、理不尽に頭を悩まされている。
去来が唐突で予期できない点。与える被害が実に深刻な点。この二つにおいて、優璃のアイデンティティはやはり自然災害――さながら嵐と重なると、俺は改めて認識した。
しかもだ。今回の件に関しては、俺が得意の傍観者気取りをすることができない。その理由が、明確に存在していた。
例の優璃の頼み事。その内容は、こんなものだった。
学校にある大きな一本の銀杏の樹と、その周辺の小さな広場が、設備の増築工事に際して撤去されることになったらしい。だがそれを見過ごすわけにはいかないので、俺が早いうちに手を打って、工事を阻止してほしい。
なぜならそこは、自分にとって大切な場所だから。
そんな、ともすれば学校に通うただの一生徒には、不可能にも思える突飛な話だ。一般的に考えて、生徒の持ち得るどんな権限を駆使しても、学校の決めた増築計画を白紙に戻すのは無理というものだろう。
特にこの学校、私立風彩大学付属南高校に関しては、発展が実に著しい。街の発展の礎になった私立風彩大学の系列校であり、生徒の数も順調に増えているマンモス校というだけで資金の回りには不自由ないと想像できるし、同様の存在である東、西、北のいずれの付属校も非常に良好な運営状況にある。この街のほとんどの学生が、通う高校としてその四校のうちから一つを選ぶくらいだし、他の様々な事情を鑑みても、増築工事が取りやめになるという事態は考えにくいのだ。
だいいち中学までとは違い、生徒会や委員会にも関わらなくなった俺にとっては、そもそもアプローチの手段すら皆無であろう。
それに、方法についてもそうだが、俺の中ではもう一つ引っかかっていることがある。
動機だ。
優璃は、銀杏の樹を守れと言った。既に卒業して、ここにはもう通うことのない彼女が、なぜだかこの学校にある一本の樹を守れと言うのだ。
何故だろう。理由の候補としてあまり多くは浮かばないが、たとえば、そうだな……大切だから、とか? いや……でもそれはちょっと、考えにくい。そんなはずがない。守れ、という言葉に反応して、短絡的に理由を推測し過ぎている。優璃に限ってそれはない。
ならば、どうしてあいつは、あんなことを言い出したのだろう。俺は異様にそのことが気になり、不思議で不思議で仕方がなかった。
「……だって、この場所は――」
そう呟きながら、俺は凛と佇む樹の傘下に入ると、この身で改めて実感する。
快晴の午後の白光は、茂る葉と相まってまだらの陰陽を映し、穏やかな風は細枝をわずかに揺らして心地良い音を奏でる。緑色の葉の隙間から見せる世界を、この上なく平和だと、そして美しいと思わせる。
そう、この広場は、極上の安らぎが湛えられた秘密の場所なのだ。
学校の敷地の片隅。そこにひっそりと残され、人目に触れることもなく、外界とは異なる時間の中で永遠の残り香を留めるところ。
だからここは、俺のように静穏を好む者にしか見つけられない。賑やかで騒がしい学園生活を望む一般的学生の視界には、到底入ることがない。ましてや特に優璃のような人間には――。
「この場所は、映るはずがないんだ」
和やかで、緩やかで、退屈で……決して面白くはないけれど、ただただ心温まるところ。それは、普段の優璃が求めるものとは、明らかに方向性を異にするもの。とても彼女が欲しがるとは思えないものだ。
あいつがここに気づくなんて、俺には想像のできないことだった。
だとすればあいつの頼み事には、別の理由があるのかもしれない。何か他の、ここを残そうとする理由が……。そう考えるのが、一番妥当だろう。
「まあ、聞いたところで素直に答えそうにはないけどな……」
俺はあれこれ考えながら、一人で頭をくるくると回し、時折心情を口に零しては、秋を迎える準備に入った広場を眺める。そしてたまにボーッとしながら、水面に浮かんでいるようなふわふわした気持ちを、ゆっくりと味わう。最高の気分だ。この空間を取り巻く全てが、俺を心地良くさせる。このまま至上の快楽の中で、眠ってしまいたくなる。
けれどもそこで、そうはさせぬと言わんばかりに、ポケットの端末が小刻みに小煩く震えた。
……嫌な予感がする。そう思った。何となく、根拠はないが、これが誰からの着信なのか、俺はわかってしまったのだ。
緩慢な動作で端末を取り出すと、溜息を一つついてから、渋々着信に応じた。
すると向こうからは、相も変わらず辟易するほどの明るい声が返る。
「あ、馨ー? お姉ちゃんよー」
知ってる。非常に残念ながら。
「例の件のことだけど、今いいかしら? いいでしょ? いいわよね? とりあえず、最初にやらなきゃいけないことがあるんだけど」
いいわよねって……それで確認したつもりなのか。
「姉ちゃん、待った。待った待ってくれ」
「えー? 何よ、忙しいの? 授業受けてるわけじゃないんでしょ?」
…………まあ確かに、受けてないけど。昼休みついでに、授業をサボってここにきているけど。なぜそれがわかった……。
「あ、図星だ。今日の午後一は数学? そうねぇ、気持ちはわかるけど、授業は適度に出なさいよー。ま、今回は都合がいいから咎めないけどさ」
「な、なんで俺が数学の時間をサボるって知っているんだ!? 優璃お前――」
「ほらほら、だから呼び捨てにしない! あと、お前も禁止! 私は馨のことなら何でも知ってるお姉ちゃんよ」
それおかしいだろ! どういう情報がどういう経路で伝わってるんだ? 優璃は昨日、一年半ぶりにこっちに帰ってきたはずなのに!
端末を持つ手が、ピタッと固まる。それと、無性に恐ろしくて体温が少し下がった。
「で、結局、今は時間あるんでしょう? 話を進めてもいいかしら?」
ああ……もう、考えたら負けかな。やっぱり。一度白羽の矢が立ってあいつに関わったら、それから逃げるのは難しい。特に、今回はやたらとしつこく積極的に、俺を巻き込もうとしているように思える。
俺は猫を恐れるネズミのように大人しく縮こまり、肩を落としながら優璃の指示に従うことにしたのだった。
電話口で優璃はまず、学校の玄関口にある総合連絡掲示板へ行くように言ってきた。イベントや委員会の連絡、それに部活動の勧誘ビラなどが貼ってある大きな掲示板だ。彼女曰く、その中には学校の地図が載った銀色の便箋が貼ってあるらしい。それを参考にして、地図に示された古い教室へ向かえとのことだった。
そこにたどり着いたら次に、部屋に設けられたデスクトップのパソコンに端末を繋ぎ、例のアプリケーションを起動する。あとは、処理が済んだら便箋を掲示板に戻して、帰って良しとのこと。
早口でまくし立てられた上に、俺には全く意図するところのわからない指示だったが、あえて口応えはせず、黙って横着な相槌を繰り返しておいた。
やがて一方的に要件を言い終えると、優璃は
「じゃ、今からよろしく」
と言って電話を切ろうとする。
無意識にそのまま相槌を打ち続けようとした俺は、ワンテンポ遅れて思わず聞き返した。
「え、い、今からっ!?」
「早い方がいいのよ。どうせ今更、数学の授業になんて戻らないんでしょ」
……そりゃまあ、そうだけどさ。
「私のためを思って、お願いよ」
その言葉は、優璃の得意とする花の咲くような邪悪な笑顔を連想させた。
身の安全のためを思えば、ここは頷くのが得策か。身震いと共にそう感じ、俺は渋々了承した。せめてもの抵抗として、こちらから思いっきり電話を切ってやろうと、端末のボタンに手をかける。
「あ、あと言い忘れてたけど」
「……って、まだ何かあるのかよ」
「あんたに渡したあのアプリケーション、あのままだとロックがかかってるのよ。要所で聞かれるパスワードがいくつかあって……確か、三つかな?」
何だそんなことか。俺は呆れる。
「ああ、それはいいよ。どうせ姉ちゃんも、俺と同じなんだろ」
歩き出すと同時に、優璃の言葉を遮って返事をする。続きはおそらく聞く必要がない。
昨日俺のロックコードが即座にばれたように、優璃が設定するパスワードだって、こちらには簡単に想像がつくのだ。しかもそれは、三つときたもんだ。彼女には昔から、ぴったり三つの大好物がある。
「お、さすがじゃないの。日常生活での弟とのシンクロ率に感動しちゃうわ」
ぬかせ。平和主義とトラブルメーカーじゃ、似ても似つかねぇんだよ。
「はいはい、じゃあな」
俺は優璃のコメントを聞いたのち端末を耳から離し、雑な挨拶を手元に放りながら、今度こそ力いっぱい通話を切った。
俺は早足で廊下を歩き、なるべく授業中の教室の前は避けながら、指示された総合連絡掲示板まで向かった。
校舎の玄関前にあるとても大きな掲示板は、そこにビラを貼れば一番の宣伝になること間違いなしと言わしめるだけの影響力を持ち、紛れもなくこの学校の情報の中心である。しかしそれゆえ、貼られたビラ同士の主張競争は後を絶たず、目立つことを最優先に考えられたビラが乱立するという間違った淘汰が行われている。色彩豊かに、時に意表を突いて見る者の脳に焼き付こうとするビラばかりで、眺めると視神経がチカチカするのだ。
そんな悲惨な掲示板から、目的の情報をピンポイントに抜き出す高度なメディアリテラシーなど、俺は持ち合わせていない。そう思ってうなだれそうになったとき、ふと掲示板の下側に、ぶら下がるようにして貼られた銀色の紙を発見したのは実に偶然だった。目立たないが、異様に上質な光沢を放つ手触りのよい便箋で、何かの招待状のようにも見える。表の謎の文面はさておき、裏に学校の地図が載っていたので、目的のビラだと確信した。
俺は手にした地図にしたがって、再び校内を歩き出した。
わかってはいたが、地図は非常に複雑だった。
この学校は広い。何度も増築や改築を繰り返している経歴がある。そのため、造りが非常に入り組んでいるのだ。普通に授業を受けるだけの生活では問題はないが、ちょっと探検気分を出して歩き回ったりすると、入学当初ならば迷子は必至。二年になった俺でも、知らない区画は結構ある。
右に、左に、上に、下に。俺の足先は何度も何度も方向を変える。そしていくらか進むと、いつの間にか辺りは静まり、昼間の学校なのに、声も足音も、自分のものとその反響しか聞こえなくなった。何だか不可解で、少しばかり幻想的で、ほんのちょっと、怖いくらいだ。まるで、パラレルワールドにでも迷い込んだ気分にさせられる。いつしか扉をくぐった覚えもないのに、誰も彼も消えてしまい、俺だけの世界になってしまったみたいだった。
次第に埃の臭いがするようになり、校舎の傷みが顕著になった。どこもかしこも新しいと思っていたこの学校に、こんな区画があるなんて知らなかった。俺はおそらく、旧校舎へと向かっている。新校舎ができてから滅多に、というかほぼ完全に使われなくなってしまったため、人も寄り付かなくなった区画だと聞く。
そうして、もはや自分の歩いたルートなど頭から飛んでしまった頃になって、ようやく俺は地図にある目的の教室まで到着した。
静かに扉を開けて中を覗くと、そこは何かの準備室のような狭い小部屋だった。床には書物がうずだかく積まれ、窓から差す陽光が埃に散乱される空間の中心に、一台の古めかしいデスクトップのパソコンが据えられている。
俺は注意深く本の山を避けながらパソコンに近づき、コンセントの接続を確認して電源を入れた。電気の走る音と共に、荒い画素が作る文字列。それをただただ目で追っていると、やがて端末の接続を要求する画面が現れた。
デスクトップの背後から伸びているコードを手に取り、端子を自分の端末に差し込む。すると端末の方では独りでにアプリケーションが起動され、同期作業を開始した。
処理中の機器を無言で見つめ、そろそろくるだろうかと予想をする。
『アプリケーションのアップデートを行います』
画面にはメッセージが表示されてゆく。
『アカウントIDを確認しました。新規の端末を登録します。認証パスワードを手動で入力してください』
そう、パスワードだ。優璃には、結局それを聞かないままにしてしまい、何だか強がったようにも見えたかもしれないが、実のところ本当に自信はあった。実に癪だが、こういうものに関して、俺とあいつは似ているのだ。
パスワードの候補は三つある。とりあえず俺はその中から、なんとなく一つを選んで入力してみた。
『alexnder』
ものの見事にパスワードは認証され、セキュリティの甘さに心底惚れ惚れする。
入力したのは、アレキサンダー。これは優璃が昔から、それはもう幼稚園くらいまで遡るほどの昔から、一途にお気に入りの座を与え続けてきたぬいぐるみの名前だ。
皇帝ペンギン、アレキサンダー。
とても幼稚園女児が好む外見と名前には思えない代物だったが、とにかくそいつは彼女にひたすら気に入られ、今もなおベッドの上に永久の玉座を構えている。鋭い目とくちばし、ずんぐりむっくりな体型は、愛らしさなど微塵もなく、いかにも皇帝そのものである。
パスワードは、残り二つ。その候補も、残り二つ。当てるのは容易い。
おそらく一つは、優璃が小学校の頃に初めて聞き、今に至るまでよく好む曲の名前だろう。あいつが家を出て行くまでは、ご機嫌な鼻歌として俺もよく耳にしていた。
そしてもう一つは、駅前にある喫茶店のスイーツの名前。中学生になった優璃が電車で通学するようになり、寄り道を覚えてから出会ったものらしく、俺も何度か食わせてもらったことがある。量は少ないが、イチゴのトッピングをふんだんに施した、見目麗しいパフェであった。俺にとっては少し甘味が過ぎたが、それでも絶品の風格を記憶している。
どちらも優璃に確認するまでもなく、俺の頭に刻まれている。この先のパスワードも、もはやあってないようなものだ。
端末を見れば、順調にアップデートが進行しており、じきに問題なく完了。確認を兼ねて少しばかりいじってみると、更新されたカレンダーから指示が出ていた。
――九月二日、十九時、南校。
「……って、今日かよ」
これってもしかして、つまりあれか。夜にもう一度、この学校へこいと。謎のアプリケーションのスケジュールはそう言いたいらしい。次なる指示というわけだ。
まあ……別に暇だし、いいけどさ。面倒なだけで。
俺は指示を億劫に思いつつ、端末の接続を解除してパソコンの電源を切った。
そうして、本の塔を崩さぬように部屋を出て、ちゃんと迷うことなく次の授業に出られるどうかを気にかけながら、再び地図と睨めっこをして教室まで戻っていった。
さて、まさしくこの日の夜。俺は淡い月明かりに照らされた学校を訪れ、そこで一面のマリンブルーに囲まれ気を失うことになる。
2
ペチペチ、ペチペチ。
頬が揺れる。可愛らしい音が鼓膜を刺激する。ゆっくりと瞼を持ち上げると、ぼやける光景が脳で知覚され、自分が横たわっていることを三半規管で把握した。置かれた状況を理解しようと、魂の抜けたようなガラスの目で辺りを見渡す。
やがて視界がクリアになると、青の世界が一面に映った。澄んだ水、降る陽光、朽ちかけた校舎。さらに眼球だけを動かした先には、赤や黄色の熱帯魚に加えて、黒や緑の苔に覆われた岩石が散見される。
そこはまるで常夏の浅い海の底のような、怖いくらいに透き通った空間だった。肌には柔らかく暖かい水が触れ、身体は浮力と重力の釣り合いの中で独特の浮遊感を感じている。
俺は驚いて咄嗟に息を飲んでしまったが、不思議なことに、水が肺に入り込んでくることはなかった。恐る恐るゆっくりと気管を開け放つと、なんとなんと、呼吸ができる。
そのまま横になりつつ、数秒の思考に耽った。思い出していた。意識を閉ざす前のこと。夜、喧騒から離れた高台の上、白く霞んだ月に見守られながら、学校の校舎に踏み入ったときのことを。
うーむ。妙に落ち着いた行動をとってはいるが、実は脳内はパニック寸前である。驚愕が過ぎて回りに回って一周し、なかなか実感を伴わないが、夢であってくれと内心では悲鳴を上げているところだ。
しかし、再度訪れる頬への刺激が、それを微妙に否定する。同時に声がかかった。
「気付かれましたか?」
愛嬌のある高めの声が、まるで地上で聞くかのように鮮明に聞こえる。
俺は上半身だけをおこし、声がする方を見上げた。するとそこには、こちらを見下ろす小柄な少女の姿があった。
思わず返答も忘れて注視する。
その少女は純白でヒラヒラの洋服を纏い、白い手套をし、首には白のストールを巻き、髪にも白のバレッタをつけていて、全身真っ白の絢爛な装いだった。加えて装飾されたメガネグラスをかけていて、目元を中心に人相がわかり辛い。レンズもフレームも白色だが、まるでサングラスのように、こちら側からは奥を見通せない仕様になっていた。
とても現実では目にすることのないような格好だ。それはまさに、ファンタジーの世界にこそ相応しい姿である。
「大丈夫ですか?」
反応を見せない俺に対し、少女は疑問を持ったようで、しゃがんで覗き込んできた。
対する俺はボーっとすることしかできなくて、少女と目を合わせながらぼんやりと思考を巡らせた末、一つの解釈にたどり着く。
おもむろにもう一度身体を横たえて、やがて静かに目を閉じた。
――パチンッ!
「いってぇ!」
軽快な音と共に、頬に強い刺激が走った。どうやら少女にひっぱたかれたらしい。すぐに起き上がる。
「何すんだ!」
「あのですね。せっかく親切に起こして差し上げているというのに、目の前でもう一度眠り出すのは、さすがにどうかと思いますよ」
彼女の声は朗らかだった。それは、俺へ向けての言葉らしい。
「あ、いや、その……夢かと思って」
俺としては、導き出した結論の真偽を確かめようとしただけなのだけれど……どうやら間違っていたみたいだ。再び目を覚ましても、世界は依然、青々とした輝きに満ちている。
「人の姿を見て、それは失礼だと思います」
そうだろうか。現実よりもおとぎの国の方が似合いそうな格好で言われても困る。だいいち、少女の身なり以外にもおかしな点は多分にあるのだ。
「だって、こんな場所、俺は知らない。俺は学校にきたはずなんだ。かと思いきや、まるで海の中にいるみたいで、しかも呼吸も会話もできるなんて……」
さきほどから、地上同然に呼吸ができる。それに他人の声があまりにもクリアに聞こえるし、俺の声も相手に届いているみたいだ。本来、水中では、こんなことは不可能だろう。夢だと思っても仕方ないではないか。
俺が反論すると、少女は辺りを見渡して答えた。
「ああ、もしかしてあなた、南海フィールドを見るのは初めてですか? 確かにそれなら、気持ちはわかります。校舎はずごくボロボロだし、お魚さんは泳いでるしで、ちょっと衝撃的ですよね。でもやっぱり、こんなところで寝ているのは危ないですよ。敵に見つかれば、たちまちやられてゲームオーバーですからね」
……なんだって?
予想もしていなかった聞きなれない横文字が飛んできて、俺は一瞬固まった。少女はにこやかに笑っているが、今の返答で頭の中の違和感が膨れ上がり、俺はそれどころではなくなる。
フィールド? ゲーム?
何の話だ? この少女は格好だけでなく、発言までもがファンタジーなのか? 俺は一気に情報処理が追い付かなくなり、絶句してしまった。
と、そのときだ。不意に周りの海水がドシンと揺れて、深い音と共に大きな振動を伝えてくる。相当に大きな衝撃だったのか、揺れる水に身体が乗せられて、俺と、そして目の前の白い少女も、数メートルほど流されそうになったくらいだった。
いったい何の騒ぎか。そう思って震源の方を振り向くと、ここからそう遠くない場所で、礫の崩れたかのような土煙が上がっている。
惚ける俺に対し、傍ではそっと、少女が呟いた。
「あれあれ、言ってるそばからですね。もう見つかっちゃいましたか」
直後、彼女はこちらを見下ろし、機敏な動作で手を差し伸べて言う。
「お兄さん、逃げますよ。動けますか?」
その言葉で俺は、未だ四肢をだらんと伸ばし、身体を水流に委ねたままだったことにようやく気づいた。彼女の言動にばかり気を取られていて、身体は一切、微動だにしていなかったのだ。目の前の白い手をとって、体位を立て直そうとする。
だがそれを握った途端、俺の手が逆にぎゅっと握り返され、とても少女とは思えないような力で引き上げられた。まるでクレーンに引き上げられたみたいに力強く、ぎょっとして肩が抜けるかというくらいの衝撃を感じる。
思わず目を見張りたくなったが、しかし俺が問う暇もなく、彼女はこの手を強く握ったままで煙の上がる方角へ叫んだ。
「ルナ! 早くっ!」
すると今度は、高速でこちらに泳いでくる真っ黒の人影が視界に映った。かと思いきや、見る見るうちに近づいてきて
「一人きてる。後ろから」
とおっとりした声で告げられる。本人としては叫んでいるのかもしれないが、どうにも小さく、妙に落ち着いた声であった。
近くで見ると、人影の正体は、背が低めで線の細い中世的な少年だった。身なりに関しては少女のそれとよく似ていて、ひらひらの服装や手套、スカーフ、それに目元を隠したグラスが注意を引き付ける。さすがにバレッタまではしていないが、小さめでシックな髪飾りが施されていた。
一方、少女と異なるのは、その色彩だ。少女の全体が白で統一されているのに対し、少年は対照的に黒で統一されている。二人揃って並んでいる様子は、まるでペアのアンティークドールのように思われた。
少年が元きた方向を振り返って呟く。
「迎撃……用意」
少女も顎を引いて少年の視線の先を見据える。
「オッケー! 発射直後に後方へ退却。この人も連れていくから、ルナも手伝って」
「わかったよ」
少年は頷くと、少女と同じく俺の空いている方の手を取った。
二人は残った片手を突き出して構える。
するとどうだろう。その手のひらは、身なりに合わせてそれぞれ白と黒の光を帯び、次第に大きく輝き始めた。
眩しくて思わず目を覆おうとしたが、俺の手は二人にしっかり握られていて身動きが取れない。仕方なしに目を細めて光量を抑えていると、二人の手元には何かが見えた。
現れたのは、銃だった。コンパクトかつ美麗に装飾された短銃が、見たこともないほどの激しい熱と光を放っている。
「何人?」
「たぶん……一人。結構速かったから、もう見える」
「増援がくる前に離れなきゃね。敵が見えたら、すぐ同時に射撃。当たらなくても牽制で十分」
「……了解」
二人の会話が終わるやいなや、遠方に一つの影が現れて、二つの引き金が引かれる。
瞬間、耳に届くのは、射撃音ではあるがそれにそぐわぬ透明な音。高く良く響く、まるでベルを鳴らすような真っ直ぐで心地のよい音だった。
目の当たりにした光景は、有体に例えてまるで魔法のようだった。放たれた光線は白と黒の螺旋で見事なまでのコントラストを醸し、弾道には煌めく粒子のようなものを吐き出しながら、速く鋭く飛んでいく。
眩しい。目に痛い。もちろん、よくは見えない。でも綺麗だ。とても壮大で劇的だと思った。
だから俺は、退却の指示をちゃんと聞いていて、とりあえずここを離れなければならないことは察していたつもりだったが、それでも惚けてしまっていたのだろう。目の前のモノクロの光たちを、消え入る最後まで見ていたくて。まるで打ち上げ花火が夜空で弾けたあと、最後の最後に塵になっても、何となくいつまでも眺めてしまうように。
けれども、そんな余韻は数秒ともたない。傍では少女の声が上がった。
「さ、ダッシュ!」
俺の身体はいきなり、眺めていた方とは真反対に引っ張られた。合わせて両の肩の関節が抜けるように痛み
「いででででーーー!」
思わず俺は全力で叫んだのだった。
「ちょっと、声が大きいですよ! 敵を巻いて逃げるんですから、お静かに!」
周りの景色は、物凄い速度で流れていた。どうやら俺は、高速で泳ぐ少女と少年に両手を引かれて、進行方向とは反対を向いたまま連れられているようだった。
前が見えない! とんでもないスピードで進んでいるのに、前が全く見えやしない!
怖い怖い怖い怖い!
ここは水中なのに、なんだこの尋常でない移動速度は。まるで車で走っているようだ。水の抵抗だってままならないはずなのに、なぜこんな人間離れした速度が出ているのか疑問になる。
気付けば景色は、校舎内に移動した。敵を巻くためか、校舎内の入り組んだ廊下を移動するらしい。しかし、よもやこの勢いで壁にぶつかろうものなら、確実に大惨事だろう。恐怖で頭の中が埋め尽くされていく。
ってか、だんだん気持ち悪くなってきた。
高速で後方に進んでいるから、きっと乗り物酔いみたいになっているのだ。電車で後ろを向いて座ったときの酔い方に似ているが、これはさらにもっとひどい。
「ちょっと止まってくれ! 痛いし、気持ち悪い! 頼むストップ!」
「敵に追いつかれます。今は止まれません。少しの間、我慢してください」
我慢って……。無理だふざけんな!
「うおおおおぉぉーーー! こんなの我慢……できるかあああぁぁーーー!」
俺は叫びつつ、首から順に肩、腰、足と力が抜けていき、完全に二人の荷物としてぶら下がった状態になりながら運ばれていく。
敵を巻くと言っていただけあって右に左によく曲がるようで、そのたびに俺はぶんぶんと激しく揺られた。少女には静かにしろと言われたものだったが、実際のところ移動開始からしばらく経つと、俺は叫ぶ元気すらもなくなり、半分意識を失ったような状態で引っ張られて行ったのだった。
「ここで落ち合うことになってるんですけどねー。誰もいませんねー」
俺たちは散々逃げ回った挙げ句、校舎内の三階と四階を繋ぐ階段の踊場で待機していた。
「ちょっと、早かったんじゃないかな。時間まで、まだ数分あるよ」
少女は忙しなく階段の上と下を見ながら、少年は踊場の真ん中でじっと立ちながら、誰かの到着を待っているようだった。
その一方で、俺はというと……。
「えぇと……あのー、大丈夫ですかー?」
「う、うるさい……今ちょっと……話、かけるな……」
少女の問いかけに満足な返答もできず、隅の方で壁にもたれてへたり込んでいた。
「うっ……」
腹の中に何か残っていなくて良かった。もしそうでなかったら、絶対吐いてる。
長いこと連れ回されて逃げてきた結果、乗り物酔いなんて比にならないくらいの不調に陥った俺は、ここにきてまだ一度も動いていない。ただただグロッキー状態のまま、少女の奇異な視線と、少年の同情の視線に見守られている。
少しすると、ふいに声が聞こえた。上の階からだ。
「おーーい!」
「あっ! 戻ってきました! せんぱーい!」
それに反応して、少女が機敏に、そして嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる。
俺は不調の中、少々無理して首を持ち上げると、階段のすぐ上に人影が現れるのを見ることができた。
現れた人物は踊場までの段差を全て無視して飛び下り、優雅な仕草で着地をする。外見からして、おそらくは女性だと思われた。
長身ですらっとし、肩まであるセミロングの鮮やかな金髪を無造作に流している。まるでパーティーにでも出席するような装飾の多いドレスを着て、ヒールの高い靴を履き、随分と派手な印象だ。騒ぎ立てる少女が飛び跳ねついでに嬉々として抱きつくのを、その女性は慣れた様子で明るく受け止める。
「おっと! 元気だなー、ソラ! ちょっと遅れたかな?」
「いえいえ、時間ぴったりですよ、アリア先輩! ご無事で何よりです!」
「はは、私は平気さ。心配いらないよ」
金髪の女性は爽やかに笑って少女を抱きかかえ、くるくると回る。
そうやって二人が戯れていると、また上の階に人影が映った。
今度は飛び込みのように上から降ってくることはなく、コツコツと響く緩慢な足音と共に下りてくる。そして目の前の人力メリーゴーランドにはさして興味も示さず、少し離れた踊場の壁に背を預けた。
こちらも女性と見受けられる。直前に現れた女性と同様に、丈のある良いスタイルの細身だが、格好の方は対照的にあまり派手でなく、むしろ地味と言ってよい。その外観は、昼間に目にする南校の女子制服を基調とし、少しだけそれをファンタジックな世界観に合わせたようなものであった。胸元のタイや袖口にわずかな装飾がある程度だ。
唯一目立つのは、腰まであろうかというほど長く伸びた一本のポニーテール。控えめなリボンで結われた淑やかかつシックな黒髪が、風にそよぐかの如く波に揺れている。
「ミュー先輩も、お疲れ様です! 抱きついてもいいですか?」
メリーゴーランドがひとしきり回り終わると、戯れている二人のうち、少女の方が声をかけた。
しかしその言葉には、なんとも淡白な答えが返る。
「ありがとう。でも抱きつくのはやめて」
壁にもたれた身体をピクリとも動かす様子がなく、口の動きは必要最低限。
「ちぇー、相変わらずクールですねー」
少女が残念がる。
首をもたげながら前方をボーっと眺める俺の目には、そんな彼女たちを含めて、合計で四人の姿が映っていた。
皆々、各々に思い思いのファッションで、そこに全く統一性はない。ただし奇妙なことに、全員が目元を装飾具で隠している。それが一番気になった。
金髪の女性は、映画女優がプライベートでつける洒落たサングラスのようなもの。ポニーテールの女性は、いわゆる視力矯正のための眼鏡に似た形のものをしている。個人のセンスなのか、形状まったく違う。けれど、どちらも当人の瞳までは見通せないよう光を弾く仕様になっていた。
メリーゴーランドはまた回り始める。俺はそれを呆れながら眺めている。
壁際に陣取ったポニーテールの女性は、俺の方へは一瞥をくれるだけであった。ほとんど興味はないようで、すぐに視線は逸らされる。こちらとしては、何となく冷ややかな印象を抱かざるを得なかった。
気力の消耗と首の疲れから、俺はまた俯く。
目の前の回転遊戯はそろそろ終わりを迎えたらしく、ようやく少女が俺の存在に触れた。
「あの、ところで先輩方。一つ報告したいことがありまして」
そう言うと少女は俺の傍へとやってきて、先輩らしき二人の注意をこちらに促す。
すると途端、声が上がった。
「あ、あれっ!? リフィア先輩じゃないですか!」
直後、踊り場の中心で少女と戯れていた女性が、今度は俺へとめがけて飛びついてきた。
「先輩っ! リフィア先輩! リフィア先輩ですよね!? なんで! どうしてここに?」
さきほどまで凛々しい大人の雰囲気を放っていたその人だったが、俺の姿を見て嬉しそうに声を高くし、やけに親げに触れてくる。まるで姉に戯れつく妹のようだ。彼女は俺の肩をぶんぶんと揺らし、何度も何度も強く抱きついてくる。
けれどもそんなコミュニケーションは、こと今の俺に対しては、攻撃以外の何物でもなかった。
「ぐっ! な、なんだいきなりっ! せっかく気分が落ち着いてきたってのに……おい抱きつくな! 離せ!」
当然、俺は必死に抵抗し、抱きついてきた彼女の腕の中で暴れる。そりゃそうだろう。あれだけ最悪だった気分がようやく戻ってきたっていうのに、またここで激しい振動なんて食らってはたまらない。酔いがぶり返してしまうではないか。「離せ」の他にも「バカやろう」などと叫んだりして、随分と口悪く抗ったものだった。もちろん、それくらい切羽詰まっていたということだ。
するとやはり、相手の方は何か疑問を感じたようで、不思議そうに俺の姿を注視する。
「あれ? 男の子? リフィア先輩……じゃ、ない?」
母や姉以外の女の人にこれほど近くで見つめられたことはないが、照れるとか恥ずかしがるとか、よもや今の俺にそんな余裕があるはずもなく
「ぅげ……なんだ、そりゃ。誰だよリフィアって……。つか、また……気持ち悪りぃ……」
再び、力が抜けて肩を落とす。
弱々しく手で押し退けると女性は俺から離れ、その入れ替わりで少女が尋ねた。
「さっきまで割と楽そうだったのに、なんだかまた辛そうですねぇ?」
「たった今思いっきりどつかれたの、見てただろ……」
「ところで、あなたはアリア先輩のお知り合い、なのですか?」
「し、知るか。俺は今日、初めてここへきたってのに……知り合いなんか、いないっつの」
喋ろうとすると、一言一言につき、もれなく胃がむせ返るような感覚がこみ上げる。息が切れて、呼吸を挟みながらの発言は厳しかった。
けれども、周囲は俺の次なる言葉を待っているのか、視線をこちらに集めたままだ。きっとこのまま黙っても、何かしら追求されて喋るはめになる。
そう察した俺は、ならばとっととこの現状に至った経緯と、そして自分が何も知らないことを吐いてしまった方が楽だろうという結論に達したのだった。
「嘘じゃない。俺は姉ちゃ……姉貴に言われて、ここへきただけなんだ。夜の学校に行けって指示があったからそうしただけで、気づけばこうしてわけのわからないことになってるし……とにかく俺には、こんな場所に知り合いなんているはずがない」
ゆっくりとしたペースで、言葉が切れ切れにならないように話し続けた。自分から話し出す分、まだ急かされなくていい。
「なるほど。ここへは初めていらしたんですか。見ないお方だとは思っていましたが、そうでしたか。それは……さぞ驚かれたことでしょうね」
「すっげぇ今更だな……」
少女は俺を気遣っているのか、俺と同じくらいのゆっくりとした口調で会話に応じた。座る俺に目線を合わせるためか、膝を抱えてしゃがみこんでいる。小柄な身体が俺の前で丸くなっていて、可愛らしくも見えた。
そんな風に俺の呼吸整理のためのような問答をしていると、さきほど飛びついてきた金髪の女性からも声が上がった。
「なるほど、そうか! お姉さんか! とするとそのお姉さんは、以前に南校の生徒だったわけで、今は……大学生というわけだな?」
いったい何を得心したのか、興奮気味に俺に問いかける。
「え、ああ……まあ、姉貴は今、確かに大学二年だが……それがどうかしたのか」
「やっぱりな! そう、そうだろう! だったらそのお人、君のお姉さんこそが、リフィア先輩だ! 君はリフィア先輩の、弟なんだな!」
「はぁ!? な、何言ってんだ、さっきから。うちの姉貴がだからどうしたって――」
「リフィア先輩には、三つ下の弟がいると聞いたことがあったよ。つまり君は、今は二年生か。なんという巡り合わせだろう」
女性は嬉々として話し、再び俺に抱きつこうとしたが、俺が反射的に身構えると、いけないと思って踏み止まったようだった。
さきほどから度々耳にする、リフィア先輩という人物。この話の流れからするに、それはどうやら俺の姉である優璃のことらしい。全くもってよくわからないが、そういうことだと認識できる。
「アリア先輩、そのリフィアさんというのは、いったい誰なんですか?」
ただ、そのリフィア先輩という呼び名について、ポカンとしながら理解が行き届いていないらしき顔をしているのは、俺と少女と、加えて少年も同じだった。彼は質問こそしないが、興味自体はあるように見えた。
一方、壁際で一人黙っている女性は、特に関心もなさそうに隅の方で腕組みをしている。
「リフィア先輩はな。二年前、私がまだ一年のときに、ここにいた先輩なんだよ。強くて優しくて、それはそれはカッコイイ人だった。当時一人だけだった一年の私に、とても良くしてくれたんだ」
「へぇ~、そんな人がいたんですか。偉大なお人なんですね~」
偉大、ねぇ。あの優璃が、強くて優しくてカッコイイ、ねぇ……。まあ、強いのはその通りで否定のしようもないが、残り二つはちょっと……どうにも首肯し難い部分だ。
「私が一年の頃だから、みんなは知らないのが惜しいなぁ。ぜひ会わせてあげたいんだが。あーでも、ミュウミュウには前に話したことあったんじゃないか?」
会わせなくていい。我が家の恥さらしだ。迷惑だから、是非やめてくれ。俺はそんな風に思ったが突っ込まず、すると話は、彼女たちによって広げられていく。
ついには無関心の人まで巻き込んで、ポニーテールの女性が久しく口を開いた。
「前って、一年以上前ですよね、それ。もう忘れましたよ」
非常に愛想がなく、ぶっきらぼうで単調な声。
「あれ、そんな前だっけか。そうか……最後にしたのはソラとルナがくる前なのか」
「そうですね。あと、どうでもいいですけど、ミュウミュウって呼ばないでください」
とことんまで無愛想で、さらに末尾には、鋭利で淡白な訂正が付け加えられる。
対しては「えー、可愛いのにー」なんてめげない反応が返っていたが、どうにもちぐはぐな問答に見えた。
そうして二言三言交わしたあと彼女らは話し終え、金髪の女性は勢いよくこちらに向き直った。
「さて、まあそれはいいとして、だ。気分は回復したか? とにもかくにも、君はリフィア先輩本人ではないらしいな」
「あ……ああ、そうだな。ていうか、本当に俺と姉貴を取り違えたのか? 冗談だろ。そもそも性別からして違うんだぞ」
リフィアと呼ばれる人、つまり俺の姉は女で、俺は男だ。冷静に考えれば間違えようがない。ましてや、俺はそこの少年のように、背丈も雰囲気も中性的というわけではないのだ。
当然だと言わんばかりに、俺は呆れた様子を表した。
けれども意外なことに、あちらは引き下がらなかった。
「いや、でもなぁ。もちろん私としても間違えて悪いとは思っているが……だが一方で、それは仕方のないことのようにも、思えてしまうんだよ」
「……なんだよそれ。どういう意味だ?」
「その格好で男だと言われてもな。困るということさ」
金髪の女性は両手を軽く上げ、半分笑って、半分呆れ顔。別に意地になっているようには見えない。
俺がそれを、引き続きわけがわからないといった感じで見ていると、おもむろに少女がこの手を取る。続いて引っ張り、座り込んだ俺を立ち上がらせつつ踊場の中央へと招いた。
「お、おい。いったいどうし……」
楽になってきたとはいえ身体はまだ怠かったので、俺はごねようとする。
そこで少女はこちらへ向き直って、にこやかに告げた。
「もしやとは思っていましたが、どうやら本当にお気づきでないようですね。なので、こちらを」
注目を呼び込むように手のひらをヒラリと舞わせ、少女は俺の視線を正面へと誘う。
目の前にあったのは鏡だった。踊場の壁に取り付けられた、全身を映すことのできる大きな姿見だ。中には一人の直立する人間がいる。
そして俺は次の瞬間、眼前に映る驚愕必至の異常な容貌に声を張り上げることとなった。
「なっ、なんだこれっ!」
映っているのは、たぶんきっと、自分の姿なのだろう。当たり前だ。鏡なのだから、今ここにいる、自分の外見を反射するに決まっている。そう、思うのだが……。
「実に可愛らしい。いや、美しいと言うべきだろうか。とにかく、左右上下どこから見ても、パッと見てすぐに男性だとは思えないだろう?」
俺の目に飛び込んできたものは、豪華な髪留めに真っ赤なドレス。非常に派手でフリフリの女物だ。ゴシック系の装いと言えば、一番近い表現になるだろうか。首回り、足回りから全身に至って装飾が多く、よく見れば手袋までしているために肌の露出はほとんどないが、華やかで扇情的な、紛うことなき女性の服装だった。加えてやはり、ここにいる他の四人と同じように、自分も素顔のわからないような格好になっている。全身の赤を基調とした装いの中に、紅の遮光グラスが自然と溶け込んでいた。
これでは確かに、一見しただけでは女性に見える。髪は短いが、派手な髪飾りのおかげでその点はあまり目立たないし、声質の違いも喋らなければわからない。
「ちょっと、やーですよー、アリア先輩。下から見たら、パンツ見えちゃいますってー」
「あっはははは。言えてる! でもやっぱり、それでも男には見えないさー」
ははは、とはしゃぎながら、金髪の女性と少女が高い声で笑っている。俺の周りで、俺の気も知らず、俺を見て。
「………………」
しかしながら、悔しくも言い返す言葉すら見つからなかった。自分でも思ったのだ。これではどう見ても女である。完璧すぎて、女装にすら見えない。
実は男だとわかった途端、とんだ見世物扱いだ。
「……脱ぐ!」
数秒ほど固まったのち、俺は即座にそう結論した。
「ちょ、ちょっとダメですよ! そんなっ!」
「うるさい止めるなっ!」
制止の声など無視だ。無視して、よくわからない装飾服をあちこち探り、どうにかこうにか脱ごうとする。こんな服なんて着たことないから要領を得ないが、チャックやボタンがどこかにあるはずだ。あるに決まっている。あー、くそ! いったい何がどうなってるんだこの服は。全く未知の構造をしているぞ。横で慌てる少女をよそに、俺は一人で不格好に奮闘した。
「あっははは! あはははは! それはやめときなって」
すると金髪の女性の方は、腹を抱えて転がらんとする勢いで、さらに笑った。くっ……畜生。いや、まあ……ものすごく気持ちはわかるけどさ。
「はは……は~。あ、でもね、脱ぐのは無理だよ」
一通り笑ったあと、ようやくというかいい加減というか、苦しそうなまでの破顔をやっと抑えて真面目な顔になり、制止とも助言とも取れないような、曖昧な雰囲気の言葉を返してくる。
「その格好が、ここでの決まりさ。いわゆるドレスコードってやつだね。だから、その服をここで脱ぐことは不可能だ」
すっと口調が変わったかと思うと、聞き慣れない単語が一つ飛び出して、また少し俺は戸惑った。
「ど……ドレス、コード?」
「いわゆる服装規定ってやつだね。種々の場所や機会において、然るべきとされる服装のことだ。なんと言っても、これは仮装パーティーだからさ。パーティーにドレスコードは付き物だよ」
金髪の女性は居住まいを正してニヤリと笑い、そして告げた。
「ようこそ、少年。仮装のための仮想の世界へ。すなわちここは、仮“装”世界。開かれるは、夜の世界の仮装パーティー。昼間の自分とは異なる自分に姿を変え、新たな自分になって戯れ、そして戦うゲームの世界」
わずかに声のトーンを落とし、恭しいポーズを取るその姿に、俺は唖然とすることしかできない。
「………………」
聞き取りやすかったはずの良く響く声。しかし今回の文言については、俺の脳内に驚き以外の何物をももたらすことはなく、到底理解することができない。脳内処理が追い付かなくて、俺はただただ固まっていた。
すると女性は、またすぐに元のおどけた様子に戻る。
「なーんてな! いや、一度言っておこうかと思っただけさ。大丈夫大丈夫、ちゃんと君にもわかるように話すからさ」
そこで初めて、俺はこの人にからかわれたのかもしれないと気付いた。
「……初めからそうしてくれ。妙な雰囲気作りはいらないから」
俺は苦い顔をしてコメントする。
女性は「そうかー?残念だなー」などとぼやいた。そして階段の手すりに肘をつくと、そのまま軽々と飛び上がって腰掛ける。
「ま、とりあえず、だ。君はリフィア先輩のアカウントを受け継いでここへきたらしいね。外見のデフォルト設定がそのままだったことからよくわかる。でも妙だ。本来、君が今私たちの目の前にいるためには、携帯端末に特別なアプリケーションをインストールし、アカウントの状態を整えてから、サインインという所作を踏んでここへこなければならないはずなんだ。君は確実にそれらをこなしてきている。それなのに、ここについて何も知らないと言うのかい?」
アプリケーションのインストール。アカウントの整理。サインイン。思い返せば、それらの行為に心当たりはある。
優璃に端末をひったくられた。学校の片隅でいかがわしいパソコンに端末を繋いだ。校門でアプリケーションの起動を確認した。
だが俺自身、それらがどんな意味を持つのか自覚していたわけではなかった。
「何度も言うが、俺は何も知らない」
これは事実だ。
「そうか……。リフィア先輩に何か聞いている、というわけでもないんだな」
「あいつは面倒なことは何も説明しない。そういうやつだ」
「ま、まあ……一理ある。すると、君は全く何も知らされずにここへ遣わされた、と。……だとすると、同情の余地が多分にあるね」
手すりに座ったまま、女性は俺の目線よりも少し高い位置で、眉間に手を当ててうなだれる仕草をした。俺の気持ちを察してくれたようだ。
しかし同情なんていらないのだ。頼むから俺にわかる話をしてくれ。
女性は「何から話せばいいかな」と悩んでいたが、やがて閃いたようで顔を上げた。
「そうだ。ここへくる前に、一悶着あったみたいじゃないか。そのとき目にしなかったか、あれを」
そう言いながら腕を突き出し、こちらに向かって人差し指を垂直に立てる。独特の効果音と共に、ピストルを撃つ構えを見せた。
「ばーん! ビームレーザー!」
「ビームレーザーって……ああ、あの白黒の」
「そう、それだ」
ビームレーザーか。そんな風に一言で表してしまえば、確かにそれに尽きるのだが。
しかし、数十分前に見た少女と少年による白黒の閃光は、内心ではかなり衝撃的な光景だった。本当ならば、もう一度俺が気絶してしまってもおかしくないくらいのインパクトを、孕んでいたと言ってもよい。
それなのに何となく平然と受け流してしまっていたのは、俺の脳が色々とこの環境に驚き過ぎて、認識が追いついていないだけなのかもしれない。今だってそうだ。感覚は、鮮やかな常夏の海に流されて、完全に麻痺してしまっている。
「単刀直入に言うと、実はあれ、ホログラムなんだ」
けれども俺は、女性の次なる発言に、麻痺を通り越してさらなる未知のインパクトを受ける。
「……ホロ……え?」
「ホログラムだよ、ホログラム。いわゆる立体映像のことさ」
立体映像、だって?
「待て。それはいくらなんでも無茶だ。いい加減、からかうのはやめてくれないか」
俺は訴えた。
だが女性は真面目な表情を崩さない。
「無茶じゃないよ。からかっているわけでもない。本当のことさ。早い話、君の見たレーザーも、その辺を泳いでるカラフルな魚も、というかそもそもこの海も、あとついでにみんなが着ている派手な服も、ぜーんぶホログラムだってことさ」
「いや、話早過ぎだ。レーザーに限らず海水や服もホログラム? そんなわけないだろ。もしそうなら、いくら立体でもこれはあくまで映像ということになる。こうして俺たちが触れられるのはおかしい」
今、俺を取り巻くこの環境は衝撃的だ。本来、とても信じられるものではない。だがそれほど衝撃的であるがゆえに、これが全部映像だなんて言われて、なおのこと信じられるわけがなかった。ありありとこの目に飛び込んでくる景色。直接それに触れているというリアルタイムな感覚。これが映像? そんなバカな。やはり夢だと言われた方が、まだすんなりと信じられる。
混乱する俺の心境を知ってか知らずか、女性は穏やかな口調で返答した。
「このホログラムはね、触れるんだよ。触れられる立体映像。正式名称は、えーっと……」
言いかけて言葉に詰まった様子を見せると、横で波に揺られてふわふわしていた少女がフォローを挟んだ。
「リアリファイド・ホログラム・テクノロジー、ですよ! 先輩!」
「ああ、それ。実体映像技術、だったかな。ここは、その技術によって構築された空間だ。現実の上に、擬似実体を重ねるように投影して作り出した世界なんだ。つまるところ、ここは仮想の世界に見えても、それでも紛れもなく現実世界で……いわば仮想現実のようなものだね。見ての通り、元々この場所には校舎があるし、他にもグラウンドや、花壇とか、色んなものがあるけれど……それらをスクリーンとして、ここが常夏の海底に見えるように様々なオブジェクトを映し出したって感じかな。なんならコーティングみたいに思ってもいいよ。現実世界の表層に、触れるホログワムを張り巡らせたみたいに、ね」
聞いて、そのあまりの突拍子のなさに、俺の理解力はもはや手も足も出なかった。脳の神経信号まで硬直したような感覚に襲われ、身体はただ波に揺られて浮かび上がった。
「……そんな技術、聞いたこともない」
「そうかい? 確かにまだ無名な技術だけど、調べれば学術論文くらいはひっかかるらしいよ。実際に私たちの生活に登場するのは、もうしばらく先になるみたいだけどね」
女性は澄ました様子で答えつつ、惚けて波で上下する俺の手を取り、床へと引き戻した。
俺の頭の中では、仮にこの環境が立体映像だとしてなぜ触れられるのかとか、どうやってそれを実現しているのかとか、そんな当然のような疑問を抱えていたけれども、しかし問うよりも先に
「ちなみに難しいことは聞いてくれるなよ。私は何も答えられないからな」
と釘を刺されてしまって、黙るしかなくなる。仕方なく俺は、湧き上がる疑問を不完全に燃焼させて引っ込めながら、質問を選んで再度口を開いた。
「……じゃあ、あんたたちはこんなところで何をしているんだ? 少なくともそれくらいは教えてもらわないと、俺がここへこさせられた意味もわからないんだが」
尋ねると、女性は待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「ふっ! いい質問だ! よくぞ聞いた!」
なんだかよくわからないけれど、スイッチが入ったらしい。当たりの質問をしたみたいだ。
「私たちはね、ここでゲームをしているんだ。我々南校だけでなく、他の東西北の付属校も一緒に、互いに競い合うゲームを。この最新の技術によって作られた、ロールプレイングゲームの舞台さながらの世界で」
女性は斜め上から俺を正視して続ける。
「そして、私たち南校を含めた四つの付属校を統括している風彩大学は、この技術の開発と実用化に力を入れているんだ。ホログラムによってどんな物が、どの程度まで、どのようにして再現できるか、精力的に研究しているらしい。開発された装置はここで試運転をする。もちろんかなりの段階を経て調整されたものだけが試運転まで持ち込まれるから、ほとんど危険性はないと言われているよ。こうやって、大学側は自分たちの管轄下で実験ができるし、生徒の私たちはその恩恵を受けてこんな遊戯が楽しめる。持ちつ持たれつ。ギブアンドテイク。ウィンウィンの関係とは、まさにこのことだろう」
すらすらと飛び出てくる、嘘か誠か際どい語り。自分たちの高校だけでなく付属校全体、果てはその上の大学の名前まで持ち出され、話の規模が大きくなってゆく。ついてゆくのが難しいが、しかし同時に俺は、女性の話に一つの引っかかる想いを感じた。
「……ゲーム……遊戯……? でもそれって要するに、あんたたちはただ遊んでいるだけってことにならないか?」
「そうだよ。遊んでいるだけだ。こんなファンタジーみたいな世界で遊べるんだ。君も、一度は夢見たことくらいあるだろう?」
そりゃあ、まあ……。想像すると、心踊らないこともないけど……。でも、俺が今、気にするべきはそこではない。
ここでやっていることは、大学の実験協力の見返りに遊んでいるだけ? だったら、俺がここへ遣わされた理由が、わからないではないか。優璃は、わざわざ帰省して俺を押し倒してまで、そんなボランティアを頼みにきたのか?
違うはずだ。優璃には、俺には、ここで果たすべき目的があるはずなのだ。
俺が悩んでいると、突然想定していなかった方向から声がした。
「アリア先輩。そこまで説明しておいて、一番大事なことが抜け落ちていますよ」
それは、踊り場の隅の方で壁に背を預け、片腕の肘をもう一方の手で抱えるような体勢をとって黙っていた、ポニーテールの女性であった。近づいてくることもなく、こちらには視線すら向けずに、離れた位置から声だけを放る。
「ゲームに勝ったら、実験協力の褒賞として、大学側からある権利を与えられる。その権利を用いれば、学校というコミュニティ内に限り、あらゆる願いを一つだけ叶えてもらうことができる。そういう取り決めがなされていること」
まさか忘れてなんていないでしょう。語末には抑揚のない冷めた口調でそう付け加えた。おそらくそれは金髪の女性に対して向けられた発言だったのだろうが、目聡くも俺の耳はすぐ反応する。あらゆる願いを一つだけ叶える権利。なんとも強く、俺を惹きつける言葉だった。
「一番大事なことって、それかい?」
「少なくとも、そこの人にとっては、重要なことだと思いますよ」
「えー、そうとは限らないよ」
「そりゃあ、学食にフランス料理のフルコースを導入するなんてことに権利を使ってしまうアリア先輩にとっては、どうでもいいことかもしれませんけどね。でも、普通ここを訪れるような人にとっては、とても重要なことのはずです」
目の前では、二人の女性が意見の相違を顕著にしている。
言い争いを聞きながら、俺は件の権利についてもっと詳しいことを知りたいと思っていた。ゲームに勝つことで得られる権利。それは間違いなく、俺がここへきた理由に関係があるだろうから。
タイミングを見計らい、二人の会話に入り込む。
「あの、願いが叶えてもらえるって、いったいどういう……。てかそもそも、フランス料理って……」
尋ねると、ポニーテールの女性がこちらを向いて返答した。
「あなた、二年生なのよね」
「そ、そうだけど」
「なら、知らないかしら? 去年の春に学食で、一日数量限定のフランス料理フルコースが振舞われていたこと。期間限定で短かったけど、相当な噂になっていたの」
・・・…去年の春、学食。女性の口から出た単語に従って、俺は記憶を掘り返した。思い出せば、確かに浮かぶ出来事があることに、逆に俺の方が驚く。それは俺がまだ一年で入学したばかりの頃、学食について耳にした噂であった。
先着数量限定、しかも格安で、フランス料理のフルコースが食べられる。有名なシェフを呼んで作らせたものらしく、質は極めて上等で、その機会を逃せば以後簡単にはお目にかかれない。もし口にしなければとにかく後悔必至の代物であると、そんな風に鳴り物入りで謳うチラシが学食には貼られていて、普段の何十倍も人集りができていたという。
当時、友人から噂をそのまま聞いて「何をバカな」と言い返した俺は、興味も薄く、人混みも嫌いであったために知らん顔をして、すっかり忘れてしまっていたのだ。
俺は軽く頷いて、心当たりはあるという程度の意思を示した。
「あれはこの人がやったのよ。ここで得た権利を使ってね」
冷ややかな声で、ポニーテールの女性は吐き捨てるように言った。この人がやったって……まさか噂は事実だったのか。
「いやーあれはなかなか楽しかったよ。すっごく美味しかったしさ。屋上を一面の花畑にするのとで、結構迷ったんだけどね」
「やめてください。花畑は先輩の頭の中だけで十分です」
「えーひどいなー。あのときは、夜も眠れないくらい悩んだのにー」
金髪の女性は愉快そうにヘラヘラと笑い、咎められてもそして堪えていない様子だ。
対するポニーテールの女性はため息をつきながら、再度俺に視線を向け、話を戻す。
「とにかく、あれは冗談のようで、本来はあり得ない破格のイベント。この人はあんな使い方をしたけれど、ここで得られる権利には、本当はもっと価値があるの。生徒会や部活動、ひいては学校そのものの運営に口を出したりと、そういったことができる代物なのだから。言い換えれば、それは危険で、とても慎重に扱われるべきものよ。あなたも安易な気持ちで関わると……消されるから」
向けられた視線は、真っ直ぐ矢のように俺を貫いている気がした。おいおい、なんて怖いことを言う。消されるって、ちょっといささか穏やかじゃない。
でも、この話が真実なら、俺にとってもいくらか都合の良い点があるのも明らかだった。俺は告げられた言葉に少しだけ怯みながら、固まって思考を巡らせる。
その様子を見た金髪の女性は、俺が怖がったと思ったのだろうか。気遣うように言う。
「ちょっとミュウミュウ。せっかく新しい仲間がきたんだ。あんまりいじめてやるなよ。確かに一時期は、権利を巡って夜のゲームだけじゃなく、昼間の学校生活でも闇討ちなんてことが行われていたみたいだけどさ。今はもう、まったくそんなことはないよ」
な……闇討ちって、本気かよ。ちょっとどころか、かなり穏やかじゃない。昼間なのに闇討ちってところが、なんだか随分と間抜けだけど……いや、でも、冗談だろ。
「それにさ、そのおかげで今もこうして、自分の素性を隠すルールが残っているわけだよ。本名を名乗らず、人相が特定されないような格好をするっていう、とっても仮装パーティーらしいルールがね。これはこれで、すごくエキサイティングじゃないか」
言いながら、金髪の女性は自分でかけている目元の装飾具を手で示した。一貫性のない皆のファッションの中で、唯一それだけが統一されたアイテムだ。かけている側の視界には何の影響もないが、逆から見れば完全に遮光されるため、何も見通せない作り。なるほど。これは自分の素性を隠すためのものだったのか。
「勝手にしてください。あとミュウミュウって呼ばないでください」
ポニーテールの女性は、制止の言葉を受けると今度は言い返すこともなく、ぶっきらぼうにそっぽを向いて、また黙った。
対する金髪の女性は微笑みだけを向けて一呼吸置くと、その輝く髪を鮮やかに揺らして身を乗り出し、今度は俺へと告げる。
「そういうわけだから、君もそのルールに従ってくれ。今となってはもはや形骸化したルールで、性別や学年まで隠すことは滅多にないけれど、本来はここのシステムを使ってそれを隠すこともできる。髪の長さや色、声、背格好も、やろうと思えば変えられるよ」
自分の髪も、本当はもちろん黒だが、衣服に合わせて色を変える設定をしたのだ。女性はそう語った。
俺は無言で、とりあえず頷く。
それを見ると、女性は階段の手すりからひょいと飛んで、踊り場の中心に降り立った。ついでに、いつからか話に飽きてしまって、惚けながら辺りをふわふわと漂っていた少女を起こしつつ、言う。
「さて、では時間も時間だ。もうじき九時になる。ゲームが終了する前に、遅くなったが自己紹介をしておこう。本名を名乗らないこの世界では、仮の呼び名はとても大事なアイデンティティだからね」
気付けられた少女はそそくさと少年の傍へと泳いでいき、俺の視界には、背を向けた金髪の女性だけが残った。
「私のここでの名を教えよう。アーシャ・リーズ・アストライアだ」
いい感じのアングルで宣言される。
…………え?
「…………あーし……何だって?」
俺は思わず聞き返した。
「アーシャ・リーズ・アストライアだ。カッコイイ名前だろう?」
………………。
丁寧にもう一度答えてもらっておいて悪いが、同様に沈黙することしかできない。突っ込みどころを見定めるのに俺がたじろいでいると、横から少女のヤジが飛んだ。
「もー、素直にアリアって名乗ればいいじゃないですかー。長すぎですよ、その名前」
アリアって……もしかしてそれ、アーシャ・リーズ・アストライアの頭だけとって繋げた呼び名? さきほどから聞くこの人の呼称は、名前の略称だったのか。ていうか、もはやあだ名に近い。
「いや、やっぱり名前はファースト、ミドル、ラストとあった方がそれっぽいんだよ」
「そんなことないです。今からでも遅くないですから、正式にアリアにしましょうよ」
「い、や、だ、ね! アリアと呼ばれるのも私は好きだが、元々にそれらしい名前があるからこその呼称だよ」
何やらまた口論が始まっている。非常に下らないことで言い争っている気がするが、両者譲らない様子だ。いくらか応酬を繰り返したあと、少女が俺に向かって
「この人は、アリア先輩でいいですからね。長ったらしい名前なんか、忘れちゃってあげましょう」
と言い、続けて
「ちなみに私は、ソラって名乗ってます。短くて覚えやすいでしょう? シンプル、イズ、ザ、ベストですね」
と恭しく一礼をし、自己紹介した。
さらにそのあと、隣の少年の腕をとって引き寄せ、紹介を促す。
「あの、僕はルナです。えっと……よろしくお願いします」
少年はたどたどしく、少女の真似をして頭を下げた。
どうやらこの二人は、アリアという女性より、かなりまともな名前を使っているらしい。
「というわけで私とルナは、二人揃って、このチームのサポート役!」
「「ステラ・ガンナーズ、ですっ!」」
……訂正。こいつらも大概だった。突っ込みどころがまた増えた。
少女ソラは、浮かれてノリノリで決めポーズ。手にはいつの間にか白い銃を掲げていた。少年ルナも、恥ずかしそうにはにかみながら、しかし同様に黒い銃を携えている。
「決まった……!」
「う、うん。決まったね」
ともあれ二人は満足しているみたいだった。
俺は呆れたが、色々と言及する前に次なる紹介が行われる。アリアという女性が、踊り場の隅を示した。
「それとね、あそこでずっと怖いオーラを放ってるのが、ミュウミ――」
「ミューよ。よろしく」
しかしどうしたことか、高速で発言の上書きが行われた。なおかつ、ポニーテールの女性は思いっきりこちらを睨んでいる。その名はミューというようだ。さきほどまでのやるとりからするに、ミュウミュウと呼ぶと怒るらしい。
「おーい、せっかく可愛く紹介してやろうとしたのに」
「必要ないです。元の名前よりも長い呼び方なんておかしいですよ」
「略称はそうかもしれないが、愛称はまた別だよ。可愛い方がいいだろうに」
「よくないです」
何だろうか。ここではこの手の言い合いが盛んのようだ。ただ見た感じでは、四人は結構仲が良さそうである。
しばらくして、アリアという女性はこちらを向き、改めて俺に言う。
「まあ、見ての通り、ここにいるのはこの四人だ。これで全員だよ」
女性は大らかに微笑み、出迎えのように軽く両手を広げた。
「ようこそ、南校チームへ」
それは、常夏の海を流れる波のように暖かい声だった。
「さてと……しかし残念ながら、今日はもうこれまでだ。楽しい時間はあっという間に終わってしまう。だからね、リフィア先輩の弟くん。さしあたって君は、次回までに自分の名前を考えておいてくれよ。この世界で君が使う、君が君であるための名を」
俺が黙っていると女性は、いいね? と優しく念を押した。
「あ、ああ……」
「よし、じゃあ今日は解散だ。みんな、また今度。君には是非、格好良い名を期待するよ」
俺を含めて皆の顔を確認すると、女性は片手を挙げて挨拶をする。そして最後まで告げると、突然、細い煌びやかな光に包まれて消えた。
「じゃ、みなさんさよーならー」
「お疲れ様でした」
続いて、少女と少年も、同じ光に包まれて消えてゆく。
最後まで残ったミューという女性は、離れた位置から数秒だけ俺を見つめ、もとい睨んでいたが、結局何も言わずにそのまま消えた。
瞬く間に俺は一人残されて、また波に揺られてたゆたう。
「……何だったんだ、いったい」
けれども、すぐに目の前は真っ白の光に覆われてしまい、俺の意識はふっと途切れた。
そして気づいたときには端末を片手に持ちながら、何の代わり映えもしない真っ暗な夜の校舎を背にして、校門の外に立っていたのだった。
3
翌朝、力強く光る太陽の下をしっかり歩いて登校してすら、俺はいまいち現実味を噛み締められないでいた。起きて、汗だくで教室まできて、ホームルームを経てから三つほど授業をうけても、まだ昨夜の出来事が疑わしい。今に至るまで、授業中も休み時間も関係なく、空の雲や天井の継ぎ目の数なんかを無意識に数え、まるで水面に浮かぶかのようにふわふわと思考を漂わせている。
昨日見た光景が、頭から離れない。確かに記憶に刻まれている。昨夜はこの校舎が、この学校が、全部ごっそり水に浸かっていたのだ。そこはカラフルに煌めいた暖かい南海の底で、服を着ていてもまるで不快感がなく、かつ平気で息をすることもできて……。
さらには南校の生徒だという連中がいくらか現れ、あろうことか、ゲームなんかをしているのだと述べた。おかしな趣味の衣服を纏って、その有様を仮装パーティーなどと呼びながら、全てはホログラムの仮想現実なのだと、理解に苦しむ説明をしたのだった。
昨日は周りの雰囲気に乗せられてちょっと信じ込んでしまったが、どう考えてもあれはおかしい。信じ難い。夢であって然るべきだ。
しかし、あの場で俺自身が見てしまった――聞いてしまった――感じてしまったものたちが、脳にこびりついて消えようとしない。抗いようもなく、あれは現実だと訴えかけてくる。感情の奔流が、抑えきれない。
加えて、あまり認めたくはないが、あの出来事が幻や嘘の類ではないとする証拠も、実はあったりなんかする。
今も依然として俺の端末の中にある、謎のアプリケーション。
それと、優璃だ。
この二つだけは俺の理性に反した結論を主張し、感情の方を支持している。皮肉にも全てを本当だと受け入れる場合、綺麗に俺の理性以外の矛盾が消え去るのだ。
確かに、今ならばわかる。優璃は、あのゲームで得られる権利を利用して、銀杏の樹を守れと言うのだ。そうに違いない。到底無理だと思えた話が、この方法でのみ可能になる。優璃はそれを、俺にやらせようとしているのだろう。
……はぁ…………。
もしかして、どんなに真剣に考えたところで、昨夜の件は本当だという結論になるのだろうか。現実についてこられない理性がいくらごねても、感情の方は主張を変えようとしない。なぜなら、おそらくそれが正しいのだろうから。
でも、理性と感情の乖離はいかにも頭を痛くする。何とも不気味で不可解で、自分が自分でないみたいな気分になるではないか。
そうやって、俺が非常に難解な思惑に懊悩していると、隣で突然に声がした。
「おーい、馨。どうしたんだ? 朝からずっとボーっとして。間抜けにでもなったのか?」
間抜け? おい今間抜けって言ったか? そこだけ聞こえたぞ。なんて言い草だ。端から見たらただボーっとしてるようにしか見えなくても、俺はひたすら頭を動かしているんだぞ。
「別に、ボーっとなんか……いや確かに、今日はしてるかもしれないけど。でも、間抜けはひどいな」
「わりわり、眠いだけかと思ったけど、こんな時間まで惚けてるからよ。お前も、まだ夏休みが恋しいのか?」
「そんなことないさ。ちょっと……色々あって」
どうやら俺が朝から上の空だったのは、こいつには見られていたようだ。まあ、普段なら俺はクラスでも話す方だし、特に今の環境では、こいつは一番仲がいいやつだ。おかしく思われるのも仕方ない。
今、俺の席の隣で軽薄そうな笑顔を向けている人物。これは辻隆弥という。高校になって、一年のときに親しくなった友人だ。そして二年になった今もこうして同じクラスになり、俺としても悪い気はせず、基本的に学校ではこいつと過ごすことが多い。学食で飯を食ったり、休み時間に不毛な話に花を咲かせたり、そんなことをする相手だ。とにかく明るくていいやつで、まあまあ好感を持っている。
だがしかし、こやつはいわゆる、馬鹿である。これがどういった種類の馬鹿なのかと言えば、だいたい話題は女のことばかり。つまるところ、どうしようもない人間だ。
「色々って何だよー。あれか? だから実はやっぱり、まだ夏休みが恋しいんだろ? いや、俺もそうでさー。姉貴の友達と海とか花火とか、バーベキューとか行ったんだけど、可愛い子多くてさいっこうでさー。そりゃもうほんっと、至福の時間だったんだぜ。でもさー、お前も誘ってやったのに、こねーんだもんなー。めちゃめちゃ楽しかったんだぜ? それに比べればさあ、学校で授業なんてさあ、退屈だよなー。味気ねーよなー。あー、思い出したらまた顔がにやけて……。姉貴はてんで駄目だけど、まさかあんなにいい子がたくさん友達にいるなんてびっくりだよ。これがよく言うあれだよな。冴えない女には、なぜか意外と可愛い子が友達に多いっていう法則な!」
うん、予想通り。こいつの持ってくる話は、だいたいいつもこんな感じだ。その九割方が下らないことか、異性のこと。どちらも話半分で聞き流していいという点では共通で、俺からすればカテゴライズの必要もない。長身のバスケ部エースと言えば聞こえはいいし、外見も悪くないから普段からネタには尽きないようだが、如何せん中身が残念なためか、未だに独り身を脱したことはないらしかった。
「冴えないとか言うと、姉貴にどつかれるんじゃないのか? てか、よく姉貴となんて出かけるよな。いくら可愛い子が一緒でも、俺なら絶対パスだけどな」
「どつかれるって……そりゃまあ、お前の姉さんはな。すげー人だしな。むしろ姐さん!みたいな。あんな人を前にして冴えないとか言ったら、そりゃあとんでもないけどさ。でも世の中には、ごく普通の姉もいるわけで」
「何が姐さんだ。姉としては欠陥しか持ち合わせてないような人間だぞ」
「いや、いやいやいやいや! あの人はなんつーか、すげーってかやべーってか、ぱねーんだよ。俺、尊敬してるし!」
隆弥は手足を騒がしく動かしては、わたわたしながら頭の弱そうな言葉を吐く。意味は半分くらいしかわからないが、やべーだけ同意だ。ぱねーに関しては、内容次第。そもそも三つ上だし、学年も被ってないはずだし、もうあいつは卒業して街にいないのに、なぜこいつが知っているのか。
「頼むから日本語使えよ……。それと、姉貴の話はやめてくれ。不吉だから」
あいつの噂は厄を招く。俺の平和が逃げる。恐ろしくて仕方がない。その証拠に、微かだった頭痛がみるみる広がる。考えるなと叫んでくる。脳が全部侵されそうだ。
しかし、俺が頭を抱えていると、さらなる追い打ちをかけるかのごとく、またしても気の進まない話題の展開を促す要素が挙がる。
「あの、隆弥くん、椎名くん。これ、次の数学で使うプリントです」
一人の女生徒がこちらにきて、二枚の紙切れを俺たちの前に差し出した。そして続けて、忌まわしい単語を一言。
「優璃さんのお話ですか?」
って、おい。やめろやめるんだ! 平穏が逃げる! 羽が生えた札束のように、手の間をかすめてヒラヒラ逃げるではないか!
「ん? ああ、琴葉か。相変わらず真面目ちゃんだなー」
隆弥が半身で振り返って、平坦に反応する。
対して俺は
「朝比奈さんその名を口にしてはいけない。その名前は呪われているんだ」
と、これ以上の不吉蔓延を防ぐために制止を訴えていた。
彼女は朝比奈琴葉という。俺と隆弥の属するクラスの委員長だ。俺に恨みはないはずだ。
「呪われているって、優璃さんがですか?」
「だからその名を口にするなと」
「どうしてですか? 椎名優璃さんですよね。この学校、いえ近隣では、知らない人はそういない一角の人物ですよ。私も同じ女子としては、憧れてやまないくらいのお人なのに」
だーー! 俺の苗字をあいつの名前にひっつけないでくれ。俺の幸運が全部吸い取られそうで怖い。いやマジで。
さすがに叫びまではしないが、内心鳥肌もので、俺は思い切り机に突っ伏す。ガツンと頭を打ち付け、小気味良い音を鳴らした。
そんな俺を横に、隆弥が朝比奈さんへ返答する。
「まあでもよ、琴葉。あんな風になりたいんなら、まずお前はその委員長スタイルからどうにかしなきゃだよなー。とりあえずメガネはコンタクトにしてさ。制服も、そんなにきっちり着てなくていいじゃねーか」
彼女の外見についての、なかなかに遠慮のない物言いだ。
実はこの二人、それなりに以前から接点があったようで、結構親しい。一見すると失礼な今の隆弥の駄目出しも、その関係ならではのものだろう。
「うるさいですね。隆弥くんはいつまでも、そうやって格好ばかりを気にして。あんまりずっと子供みたいだと、女の子にもてませんよ」
メガネレンズの向こうで、笑みを作る彼女の目尻が少しだけ釣り上がった。
だが、隆弥は全くお構いなしだ。
「高校生なんだから外見は大事だろ。琴葉こそそんなに地味だともてないぞ。委員長キャラで釣れるのなんて、今時、先生の評価と成績くらいのもんさ」
ハハンと見下ろし、明らかに馬鹿にした口調であった。
「怒りますよ」
「琴葉が怒ったって怖くなんかねーさ」
「………………」
「………………」
両者見つめ合い、ついには互いに無言。まあこの場合、ガンを飛ばし合っていると言った方が適切か。観点を変えれば、仲良く痴話喧嘩。夫婦漫才とも解釈可。
しかしそこで、目の前のいがみ合いを俺の代わりに仲裁するかのごとく、教室には予鈴が鳴り響いた。授業開始五分前の予鈴だ。
「……二人とも、プリントには目を通しておいてくださいね。それじゃあ」
朝比奈委員長は目一杯微笑みながら、かつ対称的な不機嫌オーラてんこ盛りボイスで挨拶をすると、プリントを俺の机にヒラリと落として、自分の席に戻っていった。
あれ、二人ともって……まるで俺まで彼女を怒らせたみたいな言い方……。机で突っ伏していただけなのに、ひどいとばっちりだ。
聞くところによると、彼女は怒らせると恐い。それはもう、恐い……らしい。実際には朝比奈さんは随分寛容なので、怒ったこところを直接目にしたことはないが。
「ちぇ、なんだよあいつ。俺は健全な男子高校生としてアドバイスしてやったのに」
たぶん、弁解なら向こうも同じことを言うだろう。
「馨、プリント一枚貰うな。……うげ、式ばっかり」
隆弥は机上の用紙を一枚ペラリと拾い上げ、そうやって不平を零すと、「じゃあな」と残して自席へと去った。
確かに、紙面には古来アラビアより伝わる由緒正しい万国共通文字が、窮屈そうに印字されている。数字と数字が押しくら饅頭だ。そして次の授業では、皆がこの狭っ苦しい教室で狭っ苦しい紙面に、さらに数字を書き加えていくわけか。
あーー……。うん、やめやめ。
誰が悲しくて、コンクリート校舎の壁の中、昼飯前の空きっ腹と戦いながら、数式を弄くり回さにゃならんのか。閉鎖空間、空腹、退屈の三重苦。なんともまあ犯罪的だ。
俺は脳内でぐだぐだと下らぬ文言を並べ立てた末、席に着くクラスメイトとは対照的に、プリントを机にしまって席を立った。
廊下に出た。
俺は数学の授業は受けない主義だ……とまでは言わないが、今回はパスすることにした。数学ならば、あとから自分で教科書を読んでおけば事足りる。つまりこれは、時間の有効活用だ。賢い選択だと自負している。
次の数学は午前中の最後の授業だから、一足先に昼休みをとることにして……となれば、まずは混み出す前の購買部に行って、パンをいくつか調達しよう。俺は早々とそう決断した。
購買部へ行くには、ここから反対側の階段まで廊下を歩き、一階まで降りてから校舎を移すのが一番早い。だがしかし、今これをやってはならない。移動の過程を、授業中の教室から見られては困るのだ。
もし安易にそんなことをすれば、それはそれは面倒なことになる。教師から「おい授業中だぞ。どうしたんだ」などと尋ねられ「た、体調がすぐれなくて保健室に……」なんて答えることになる。そこまでいったら、考えられる選択肢はさほど多くない。連行されるのが保健室か自分の教室かの二択なのだ。まあぶっちゃけた話、保健室は購買部とは真逆の方向であるからして、この言い訳が既に間違っているとも言えるが。
というわけで、俺は聡くもルートを変更。近くの階段から一度最上階へと迂回して、目的地まで隠密行動を図るのであった。最上階は多目的ホールや空き部屋ばかり。誰かに見つかる要素は皆無だ。
ところが、である。階段を目の前にして、手すりを掴んで上方を見上げたとき、誰もいないはずの上階から下る足音が響いた。
俺が警戒して身構えると、次に視界に入ったのは、普段はあまり目にすることはない、淡系色の薄布だった。
いや、あまりというか、滅多に、だ。通常ならそれは、鉄壁の防御を誇るスカートという名の究極装備に守られているのだから。
「あ」
思わず声が漏れる。妥当だろう。無反応は、ちと無理だ。ちなみに水色。
「……? さっき授業が始まったはずだけれど、どうしたの?」
向こうも俺に気がつくと、立ち止まって声をかけてきた。ただスカートが役目を半分くらい投げ出していることには気づいていないのか、体勢についてはそのままだ。
「あ、いやちょっと、気分が悪くなって」
おい。だからその言い訳はダメなんだろうが俺。何だ、珍しいものでも見て動揺中か。
「上の階に保健室はないわよ。あら、あなた椎名くんじゃない」
あ、面が割れた。顔を知られているようだ。
それがわかると、俺はようやく目線を水色の布から外して、眼前やや上方に立つ人物の顔を見た。おっと可愛らしい女生徒。ってか、顔見知りだった。
「これはこれは副会長じゃないですか。そうです、はい。こちらは椎名馨でございます」
相対するは生徒会副会長。その名を九条羽望という。才色兼備で人望厚く名家の出身。なんとも素晴らしき境遇と肩書きを持つ女性である。
しかし、だからこそなおのこと、今はまずい。
「待って椎名くん。体調不良なのかしら。顔色は悪くなさそうだけど」
回れ右をして立ち去ろうとするが、即座にそれを止められる。視線には、既に疑いの念が含まれている気がした。
「ま、まあ……」
なんとかして逃げたい。訳あって彼女には、俺の事情が知れているのだ。
「本当? あなたには前科があるから、ちょっとね」
はい。訳あって九条さんには、時間の有効活用、もといサボリの件が知られています。
くっ……隙をみて逃げるか。そうだな、たとえば相手が動揺した隙にでも……。
「あ、九条さん。パンツ見えてますよ?」
よし! このチャンスに――。
「ただの布切れね」
あれ、動揺なし!? 逃亡の好機、皆無か?
彼女はまったく恥ずかしがる素振りなど見せなかった。依然として体勢を変えることすらなく、俺の方を鋭くも冷たい瞳で見下している。指摘をされて驚きつつ、スカートを抑えて「きゃっ」なんて想像は論外だったようだ。
「性欲旺盛で、元気そうじゃない。やっぱりサボリなのかしら。じゃあ、ちょっと私と一緒にきて欲しいんだけど」
「いや、だから体調不良で……」
今この瞬間、それも嘘ではなくなりそうだ。順調に胃が痛くなってきた。
「視姦の罪で、しょっぴいてもいいのだけれどね。私はここで少し声を張るだけで、あとは自動的に事が進展するでしょうし」
「やめてくださいお願いします」
なんてことを言うんだこの女。視姦て……。全然恥ずかしがってもいないくせに。だいたい、自分で布切れと言った割にはしょっぴくのか。理不尽だろ。
いや、まあ、確かにあれは、ただの布切れだ。原材料的には。それならこっちだって、あんな布面積と値段が反比例らしいヒラヒラなんかに興味はない。別にその物体であれば売り物でも洗濯物でもいいわけじゃないんだ。羞恥の色なしで一笑に付されたら、面白くもなんともない。
彼女は結局、低頭の俺に対して酷な行為に及ぶことはやめてくれたのか、静かにコツコツと音を立てて階段を降りてくる。近づくにつれて角度的には水色さんとお別れだが、もうあんなものどうでもいいわ!
そして見上げていた姿はずっと近くまでやってきて、目の前で立ち止まるかと思いきや、そうではなく、長くまっすぐな黒い髪で俺の頬をくすぐりながらすれ違った。彼女はそのまま歩いて行ってしまうが、すれ違いざま確かにその口を開いていた。
「こっち」
と、ただそれだけを。
俺は仕方なく、昼休み前のパン選び放題を諦めてついていったのだった。
しばらく無言でついていって、校舎内を五分ほど歩いた。途中までは俺がよくたどる道と似ていて「ああ、ここからなら銀杏の樹も近いな」なんて思ったものだ。
それからまた、あまり使われてない区画を経て少しだけ歩き、どうやら目的の場所に着いたようだった。
「あのさ九条。ここは?」
「資料室。正確には、旧資料室ね」
取ってに多少のサビがついた銀色の鍵を、彼女は制服のポケットから取り出した。
「授業サボって、こんなところに何の用なんだ?」
「片付けよ。生徒会の仕事で」
ガラッと音を立てて引戸を開けると、中からはこもった熱と、埃くさい空気が漏れる。ただの物置の癖に窓は大きな南向きでいらっしゃるようで、室内は日光の恩恵を余計なお世話レベルまで享受している。
「それと、私はサボりじゃないわ。今の時間、私のクラスは国語なの。学年主任の先生が担当だけど、今日は出張で自習だから」
「自習だからって、抜け出してたらサボリと一緒だろう」
「許可は取ってあるわよ」
ちっ。サボり仲間じゃないのかよ。
俺は扉のサッシを跨ぎながら、わかりやすく舌打ちをした。
陽射しを乱反射する埃の粒が眩しい。
「当たり前でしょう。だから私が、私とは違ってサボリのあなたを、是非有効活用してあげようということよ」
有効活用って、要は手伝えってことか。何気に「違って」の部分を強調しやがった。
授業を抜け出して、俺が時間を有効活用するはずが、知らないうちに俺の方が彼女に有効活用されそうじゃないか。いいのかそんなんで。
室内に入ると、彼女は窓を開け放って換気を試みる。それからヘアゴムらしきものを取り出して口にくわえつつ、慣れた手つきで長い髪を一本にまとめて縛り、整ったポニーテールを結い上げた。
窓からは、風がわずかにだけ吹き込み、穏やかに舞っていた埃の浮遊を乱す。
思い返せば、確か最初もこんな感じだったのだ。九条が俺のサボり癖を知っている理由。彼女との初の邂逅は、まさに今の情景によく重なるものだった。
いつだったか俺が今日のように数学の授業をサボり、廊下を抜き足差し足していたところで、偶然にも白足おみ足ほっそり足の九条羽望に出くわしたという具合だ。当時、唐突にも呼び止められた俺はもちろん言い訳にしくじって、それからいとも簡単にサボリだと見抜かれて。副会長だと紋所でも出されれば、もはや退路は断たれたも同然だったわけである。ちなみにあのとき連行されたのは、会議準備室とかいう用途不明の部屋だったと記憶している。つまり、埃臭い部屋の片付けは、今日が初めてではないのである。
「暑っ……」
「クーラーなんて効いてるわけないしね」
彼女は涼しい顔で言った。そしてすぐに狭い部屋を見渡して、何かの目星をつけてから傍の棚に手を伸ばす。
「棚にあるものを、まず床に下ろしてくれるかしら。あとから運ぶから、混ぜこぜにしないように」
的確な指示が俺に下され、彼女と二人揃っての、人気のないボロ部屋整理の狼煙が上がった。
ただ率直に言えば、作業自体は大して苦にもならなかった。取り立てて重かったり大きかったりするものがあるわけでもなく、日に晒されて褪せたファイルや多少の文房具が出てくるくらいで、鬱陶しいのは第一印象通り、暑さと埃くらいのもの。片付けは、二人だけでも結構進むものだった。
開始から数分して、棚が半分くらいもぬけの殻になったところで俺は口を開く。
「なぁ、いつも片付けばっかりしてるのか?」
思い浮かんだことを、ふと尋ねてみた。
「別に、そんなこともないけれど」
彼女は手を止めないで答える。
「こんなの雑用だろ? 生徒会副会長がやることなのか?」
「そうね、雑用ね。だからこそよ。むしろ生徒会副会長にこそ、相応しい仕事じゃないの」
「何だよそれ」
「知らなかった? 生徒会役員って書く肩書き、あれ雑用係って読むのよ」
自虐の調子は見受けられなかったが、しかし酷い言い草だと、俺は思った。あまりに表現が直接的すぎる。似たように感じる人も少なくないだろうが、そこまで思う人もそういまい。
「授業中の時間まで使って雑用とか、やってらんねーって思わないか? そもそもどうしてこんな時間に、生徒会の仕事してんだよ」
「仕事が多いんだもの。先生たちの書類処理も一部引き受けてるし、その分時間がなくなるのだから、言えば自習くらい抜けられるわ」
「じゃあ放課後も普通に仕事があるのか? それで昼間にこうやって掃除か? マジかよ」
「誇り高き生徒会役員は、埃まみれになるのが仕事よ」
「おいおい……誰が上手いこと言えと。聖人君子じゃあるまいし」
いくら授業が堂々とサボれても、これじゃあなあ……。一応サボりは、あとから気休め程度でも自分で学習するから成り立つものであって、そのリスクを背負ってまで雑用では、割に合わないにもほどがある。俺なら、即願い下げだ。
「まあ……だからって無関係の人間巻き込むのも、どうかとは思うけどな……」
「無関係? 誰のことよ、それ」
俺だよ、俺。他に誰がいる。俺は九条の方を凝視して、人差し指で自分の鼻っ柱を指した。
九条は反応してこちらを一瞥するけれども、すぐに首を回して自分の作業に戻る。
「巻き込んだなんて、言いがかりだわ。私はただ、ちょっとついてきてって、言っただけだもの」
「あ、てめ! その言い逃れはずるいぞ」
「あら、私はてっきり、罪の意識から自主的に手伝ってくれているのかと」
罪の意識って、まさか。授業を抜け出すことにわざわざ良心の呵責なんてあるものか。
「私のパンツ見たし」
「そっちかよ!」
「もうお嫁にいけないわー」
超棒読みだ。微塵もそんなこと思っていやがらないんだろうな。
「自分でただの布切れって言ってたじゃないか」
「自分で言うのと人が言うのでは、違うものよね」
なんてやつだ。こういうやつがおそらく来年には生徒会会長になるかと思うと、未来の苛政を憂うばかりである。しかも悪びれもせず、常に手を休めないでつらつらと片付けを続けているあたり、俺の発言にも興味関心はあまりないようだ。
ちぇ、と心の中で響かせる。俺が返答を返さなくなると、また無言でお片づけの再開だった。俺の方から口を開かなければ、基本的に会話の種は花を咲かせないのだ。
作業をしながらたまに九条を見やれば、こちらの視線には気付いているのかいないのか、特に変化もなく眈々と工程をこなしている。こういったことは非常に慣れているようで、彼女の手際はかなりのものだ。取り立てて急いでいるわけでもなさそうなのに、俺の三倍くらいの効率で作業を進めている。
九条は成績優秀だが、頭のいいやつはこの辺のやりようも知り得ているのだろうか。その態度と作業効率が相まって、まるでロボットにも例えられそうな身のこなしだ。どうだろう。一家に一台、お片づけロボット九条。言ったら殴られそうか。ともあれ作業進行的には、これ手伝う必要あったのか? 俺いらねぇんじゃねえ? なんて疑問符が浮かんでくるくらいである。
「俺いらねえんじゃねえ?」
というか既に口から出ていた。思わず出たのがロボットの件の方でなくて幸いだが。
これにはさすがの九条も手を止めて、振り返って「突然何?」という顔をしていた。
「あ、いや……何でもないです」
しまった。つい口が滑った。おそらく俺の思考までは読み取られていないだろうが、特に会話のネタもないのに話しかけてしまったことになる。
何でもないと言いはしたが、だからって九条も、はいそうですかと作業に戻るわけでもない。「何か言いたいことでもあったの?」と彼女の顔が聞いている。
本当に何でもないんだ。そう断じても良かったのだが、結局俺は、何か言うことはないかと頭の中で考え出していた。気まずい空気になるのも嫌だろう。彼女は毛ほども気にはしないだろうが、ただでさえ物理環境的に空気は良くないのだから、これ以上汚すのは憚られる。
「そういやさ、この部屋は何で片付けるんだ? 何かに使うのか?」
見たところ、物置にしか使えなさそうな空間だが……物のなくなった物置部屋は、いったい何部屋になるんだろう、なんて考えてしまう。
「さあ、色々あるのよ。学校にも」
彼女は言葉を濁す。なぜだろうか。
そこで俺は、一つだけ思い当たっていた事柄を、口に出してみた。
「学校、増築工事するんだって?」
「……あら、そんな話、どこで聞いたの?」
俺の言葉には、彼女は思いの外に驚いた様子を示した。まあ、あくまで彼女の感情の平坦性の範囲内で、だが。どちらにせよこれは、濁した内容にドンピシャということか。
「まだあまり知っている人は少ないはずだけれど。一般生徒に告知されるのは、もう少し先じゃなかったかしら」
「えっと、ちょっと小耳に挟んでさ。つか、九条がそう言うってことは、やっぱり本当なのか。増築」
「随分といい耳を持っているのね。ええ、本当よ。と言っても、別に隠すことでもないし、そのうち掲示板にでも張り出されるのではないかしら。ちょうどこの辺りの古い校舎一帯が対象でね。始まるのは十一月の頭、文化祭の前後くらいかしらね」
それで物品を持ち運んでいるのよ、と彼女は付け加える。
「ほぉーぅ……」
「何よ、その反応は」
「いやいや、裏をとっただけでございます。情報は真偽が命。エセ情報だったら困るでしょ」
どちらかと言えば、エセ情報だった方が助かった気もするけど。というか、未告知情報だったってことも知らなかった。
ここいら一帯ってことは、ここからそう離れてもいない銀杏の樹は、当然のように対象範囲内だろうな。
うーん……。優璃の言ったことはやはり事実か。この学校なら、増築自体は可能性として十分あり得る話だしな。これで夜の学校の件を支持する事実が、また一つ増えたわけだ。
そうやって俺が安っぽい情報屋の真似でもしていたら、いつの間にか九条は作業に戻っていた。さらに俺が一人で自分の思考に浸かっていたら、これまたいつの間にか彼女はこう言った。
「まあ、こんなものかしら。とりあえずは」
ほとんどもぬけの殻になった部屋から、最後らしき荷物を、彼女は持っていく。
「あれ、もう終わりか?」
俺が気付いて尋ねると、彼女は部屋の外で荷物を下ろしながら答えた。
「もう終わりよ」
そして髪を束ねていたヘアゴムを、すっと外した。さっきまで元気に揺れていたポニーテールが、さらさらと艶やかに腰まで零れ落ちる。
「運ぶのはまた今度にするわ。次の授業には出なきゃならないから。もう戻らないと」
「え!?」
そのとき彼女は、ちょっと信じられないまさかの発言をした。
……え? 次の……授業?
俺は彼女の言葉を聞いて驚き、端末の時計を確認する。確実に正しいはずの電波時計が、数学の授業を抜け出した時刻からかなり離れて、もはや次の授業の数分前を示している。……あれ? 昼休み、あったはずだよな?
「ご飯も食べずに手伝ってくれて、どうもありがとう。まさかあなたが、私の下着にそこまで罪の意識を感じていたなんて、意外だわ」
「んなわけあるかっ!」
俺は脊髄反射で言い返す。
いや、だけど、確かに叫んだらいきなり空腹が襲ってきたぞ。ご飯も食べずにって、さっきまで意識してなかったから感じなかっただけなのか。めちゃめちゃ腹減った!
「えっと、九条さん……ご昼食は?」
「私は、昼はあまり食べないから」
しれっと答える。くそっ! この不健康女め!
「ほら戻るわよ。あなたも次の授業は出なさい。英語のはずだから、サボるのは辛いんじゃないの?」
さらになぜ俺のクラスの時間割まで知っているんだ、お前は。
嫌だ! それよりお腹空いた! こちとら昼抜きでカロリー維持できるような身体してないのに!
「え、けど、さすがにちょっと。せめてパンでもつまみに……」
「副会長として、サボり遅刻は認められないわ」
「え、数学は見逃してくれたじゃないか! 雑用係副会長なんだろー!」
「それも、自分で言うのと人が言うのでは、別物よね。ほら、急いで」
だからその物言いはどうなんだ。
俺は結局、問答無用で九条に手を引かれて、教室まで連れていかれた。途中で学食に逸れるルートに対し、十年付き合って別れる彼女に向けるくらいの名残惜しい目線を送りながら、けれども右手を引っ張られて抵抗できず、さよならして。
胃の中が空っぽのまま、俺は英単語の勉強をしましたとさ。
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