スクールドライバー
りずべす
プロローグ 月夜の中のプレリュード
薄く照らされた夜の坂を上がる。俺は、自分の行為の意味すらもよくわからないままに、指示された通りの場所へ向かおうとしていた。
それは、学校だ。高台に建つその目的地を目指し、俺は渋々ながら歩いている。
自宅からは少々離れた、随分と高い場所。生徒として通うにはたまらなく悪いそんな立地条件の学校への、本日二度目の登校だった。
面倒だなぁ……。
億劫な気持ちは隠せない。沈んだ心境のためか、何とも遅々としたペースでしか、この足は進まない。
だが実のところ、時間に関しても指定がなされていた記憶が、俺にはあった。
十九時だ。十九時に、学校へ。
こんな指示がなされていたはずであった。
ところが、だ。ポケットの携帯端末で時刻を確認すると、光るスクリーンの画素たちは既に十九時五分を示している。
つまり、これは堂々たる遅刻。
しかし、それでも俺は、あまり急ぐ気にはならなかった。歩む足も、さして回転を早めようとはしない。ひたすらに同じスピードで、コンクリートを踏みしめるだけである。
まあ、ただでさえ日に二度目の登校という気怠い状況の中、もはや遅刻が確定してしまったとなれば、それも妥当な判断か。だいいち、遅刻するとどうなるのかも知らない。
「ふぅ……」
そんなことを考えつつも長い長い坂にようやく終わりが見え、歩きながら既に視界にとらえていた巨大な校舎は、やっとのことで目の前まで迫ってきていた。
こうして見上げると、やはり大きい。そして、ひたすらに静かだった。
夜の学校というものは、あまりに閑寂で冷たい空気をまとっているものだ。仰々しい佇まいは微動だにせず、外界から隔離された閉鎖空間を構築する。無機質な校舎は、まるで非現実をそのまま描き出したような場所にさえ見える。
踏み入れるには、少しばかり覚悟が必要だと感じさせられた。
「さて……どうしたらいいものか」
ただ、感覚的な抵抗もあるが、何よりもまずセキュリティだ。木造のボロ屋ではないのだから、そう易々と侵入できるとは思えない。
なぜならこの学校は、金だけはかかっているご立派な設備の目白押しなのだ。大人しく闇に包まれてはいるけれども、門、塀、そして柵のどこを狙っても、針の穴のごとき隙すらないだろうと思われた。
そう、思われたのだが……。
「って、開いてる……?」
校門の前に立った俺は、わずかどころではない戸惑いを覚えた。
開いているというのは、施錠されてないという意味ではない。文字通りそのまま、開門しているという意味だ。どうぞようこそと言わんばかりに、学校の正門が大きな口で俺を迎えている。
「あぁ、そう。へぇ……ここから入れってことなのかねぇ」
その光景を目の当たりにした俺は、ふと奇妙な合点をしてしまった。
万が一にも、ここの管理体制がザルというわけではないはずだ。わざわざ別の侵入経路を探したところで、都合よく見つかるべくもないだろう。これほど派手に開いているのなら、もういっそここから入るのが、招かれたものとしての正解に違いない。
そうして俺はゆっくりと校門に近づき、その敷居を跨がんとする。
これでもし仮に警報が鳴ったとしても、まあそうなったら、一目散に回れ右をして逃げ出せばいいかな、なんて考える。それに何となくだが、さきほどの得心からか、そんな事態にはならないだろうという確信もあった。
警報などならない。鳴らないのだ。
だから、俺が校門を超えるときに鳴り響いたのは、また別のものだった。聞こえてきたのは警報などではない、もっと感じ慣れた、俺の持つ端末の発する音。
マナーモードにしていたはずだったが、この際そんな疑問はいい。ポケットから取り出すと、端末は単調な電子音を発しながら小刻みに震えていた。
なるほど、そうか。
ここまでこれば、何かしらのアプローチがあるだろうと期待はしていたが……それがおそらく、これなのだ。
『サインインをしてください』
画面には、真っ黒の背景に白い文字でアラートが浮き上がっている。内部のアプリケーションが独りでに起動しているのだとわかった。
俺は端末のロックを解除し、操作を進める。
『アカウントIDを確認しました。前回の起動から一年以上経過しています。認証パスワードを手動で入力してください』
話に聞いていた通りだ。パスワードも、しっかりと心得ている。
『dear』
そう入力してエンターキーを押すと、文字列は音もなく端末に吸い込まれていった。
『パスワードの認証に成功しました。サインインを続行します』
やがて画面には、認証完了の表示が弾き出される。
そしてその、直後のことだ。
次の瞬間には、薄暗い藍で統一された夜の天蓋は崩れ始めて、新たな蒼で塗り替えられようとしていた。世界の色彩が反転し、俺の視界を眩しく鋭く照らし出す。
何が起こっているのか。即座の理解は不能だった。
変化の過程は、まさに一瞬だったように思う。その証拠に、俺の身体の反応は、外界の動きに一歩も二歩も遅れながら表れる。
暗中で開いていた瞳孔が、急激に狭まる感覚がわかる。脳までがチカチカするほど、神経伝達に光が氾濫する。考えられないくらいの短い瞬間に、この身体が正反対の環境へ投げ出されたということだ。
「なっ――――」
驚愕は、言葉にならない音となって口から零れた。全く信じられなかった。
見上げると、見渡すと、そして振り返ると、俺はあろうことか、鮮明で絢爛な常夏の海の底に立っている。頭上からは心地よい熱を運ぶ太陽の透過光が差し、一面のマリンブルーの空間中には、色鮮やかな海藻や苔の類が群生している。まるで水族館のトンネル水槽に連れていかれたような感じもするが……それでも確かに間違いなく、俺は直接に海水に触れて、呼吸をしながらそこに存在していたのだった。
何かが起こることは、元々から予想できていた。具体的な内容は知らなくても、何かしらの変化が起こることだけは、わかっていたつもりだった。
しかし、それでもこれほどの混乱は抑えきれない。
俺は、今さっきまで夜の学校にいたはずだったのに――淡い月明りの下、物寂しく照らされた校舎を前にして、ただそこに踏み込んだだけのはずだったのに――それなのに、何度瞬きを繰り返しても、俺を取り囲む空間は無限大のトロピカルオーシャンから戻りはしない。
その事実は、俺の生きてきたこの現実の中では生じ得ないほどの衝撃を身体に蓄積させ、思考容量を振り切って硬直に追い込んだ。膨大で鋭利な戦慄を、脳の片隅まで走らせたのだ。
それが、瞬間的には負荷となって俺自身に響いたのだろう。
ゆっくりと体から力が抜けて、視線がふらつきながら暗転していく感覚が、ありありと実時間の何倍ものスケールで感じ取れた。そうやって俺の意識は徐々に細くなり、遠くなり……最後にはプツリと途切れて、あっけなく消えてしまったのだった。
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