五節




 堂主の言葉は当たっていなかった。

「確かに埃や蜘蛛の巣はひどかったですが、たいしたことはありませんでしたよ」

 塵除けを頭からとって、口もとの覆いをはずしたホーソンは、得意気だった。

「へえ、これはすごいな」

 最初に入るのもためらわれた広間は、戸口から見ただけでもわかるほど、様変わりしていた。蜘蛛の巣はすべて外されて、埃もほぼ拭われているようだ。しかし椅子や卓は傷んでいて危ないからと、ホーソンが外に出してしまっていた。

「ですが、きちんとできたのはここだけです。奥の厨房も多少は使えるようにしましたが、寝室がひどいありさまでした。寝台は木製で、かなり傷んでいるので、新しいものを用立てたほうがよさそうです」

 ホーソンの報告を聞いて、ぽん、と堂主が手を打った。

「だったら、大工に頼むといい。宴で会えるだろう。たぶん」

「たぶんとは」

「駐在官については、みんな不安だったからな。村長がうまく言っておいてくれればだいじょうぶだろうが」

「まったく、身分を鼻に掛けてろくなことをしない者とは、貴族の意味をご存じないんでしょうね。困ったものですよ」

 ホーソンがぼやく。掃除衣はすっかり汚れていた。後ろで止めているそれを器用に脱いだ彼は、堂主に向き直った。

「ところで堂主さま、そんなわけで、ここの浴室はまだ使えません。どこか水浴びをする場所はありませんか。さすがの僕も、このままで眠りたくはありません。それがたとえ野宿だとしても」

「野宿って、君、まさか外で寝るのか?」

 堂主は驚いたようだ。

「最悪、そうなるでしょうね。ああ、もちろん僕だけですよ。若さまには、公会堂に泊まっていただかねば」

「ホーソンも公会堂に泊めてもらえばいいだろう」

「僕は従者ですから。そのような饗応は不要です」

「頭が固いんだから。堂主さま、何か言ってやってください」

 ソレルが助けを求めると、堂主はふふっと笑った。

「君たち、とても主人と従者とは思えんな。仲がいい」

「それはよく言われるので気をつけているのですが……」

 ホーソンはそこで眉を寄せた。「ご不快でしたら申しわけありません」

「そうじゃないさ。そのほうがいい。無駄に威張り散らす主人より、この坊ちゃんのほうが仕えがいもあるだろう?」

「それはまったくそのとおりです。僕は両親に感謝していますよ。セイバリーさまのおうちに仕えてくれたおかげで、僕もこんな不遜な従者になってしまいました」

 ホーソンはそこでやや苦笑した。「いや、いけない……こんなふうでは、若さまのためにならない。それは、わかっているんですが」

「ともあれ、どうしても水浴びをしたいなら、西南にあるライゼ川だが、それより廟堂のほうが近い水場だぞ。今から行こう」

「廟堂の?」

 ホーソンは驚いたように眉を上げた。「もしや、沐浴場を使えと?」

「ああ」

 堂主がうなずいたので、これにはソレルも驚いた。

「それ、いいんですか?」

「何も悪いことはないだろう」

 堂主は肩をすくめた。「井戸から水を引いているが、外釜があって、そこで水をいったん沸かして引き込むこともできる。このあたりは冬になると寒いからな、何代か前の堂主が私費で作り替えたようだ。使用人がいないのでわたしは滅多に焚かないが」

「それは風呂では……」

 ホーソンがびっくりしたまま言った。

「使用人がいない? では、身の回りのお世話はどなたが?」

 それより、気になったのでソレルは訪ねた。堂主は神祇者だ。土地によっては何名も使用人を置いて世話をさせるものである。

「君じゃないが、わたしだって自分の身の始末くらい、自分でできるさ」

 そこで堂主は肩をすくめた。「というのは建前でな。わたしの世話を誰がするか、女の子たちで揉めたことがあったんだ。それ以来、身寄りがないとか家族といづらいとか理由がない限り、住み込みの使用人は置かないことにしたんだ。なんの謝礼も出せないし……パンだけは交替で焼きに来てもらっている」

「パン焼き竈があるんですか!」

 ホーソンが声をあげた。

「うん、あるよ。これまた、わたしは焼いたことがないが」

「おお、なんという……宝の持ち腐れ」

 ホーソンは溜息をつく。「こちらの厨房は残念ながら、パン焼き竈はありましたが、壊れているようです。煉瓦が崩れていて」

「それも石工に頼んで直してもらうといいさ。それより君、ここの掃除をひとりでやる気か?」

「あと二日くらいはかかるでしょうけどね」

 問われてホーソンはうなずく。

「それも、今夜の宴で頼めるようだったら人手を募るといい。なに、君たちのような駐在官だったら、村人も協力してくれるだろう。謝礼は必要だがね」

「謝礼なら僕が出します」

「もしできるならそうしたいところですが……」

 ソレルとホーソンの声が重なった。

「なんならわたしが口添えしてやるよ」

 堂主の言葉に、ホーソンはうさんくさげな顔をした。

「堂主さまはご親切ですね。何かお考えでも?」

 堂主の親切には裏があると、ホーソンは考えたようだ。ソレルは思わず堂主を見たが、彼女は声を張り上げて笑った。

「いやいや! 君たちは本当に、いい組み合わせだな! ぽやぽやした坊ちゃんと、疑り深い従者か! これはこれは。まるで神々がわざわざ寄り添わせたようだ」

 そう言うと、よほどおかしかったのか、堂主は目もとを拭った。「確かに、わたしはただの親切で言ってるんじゃない。だが、だからって、君たちに何か含むところが……ないわけでもないが……村で何か、わたしではおさめられないことがあったとき、駐在官がいてくれたら助かるなってだけさ。男と間違われるような見た目でも女なんで、力の強い者が暴れるとかはどうにもできなくてな。それに力仕事も手伝ってほしいし。ライゼ川の橋が壊れかけてて……」

「そういうことなら、納得ですけどね」と、ホーソンは肩をすくめる。「疑り深くて申しわけありませんが、仕えている若さまがあまりにもお人好しで、言葉巧みなかたの口車にのっていろいろと揉めごとに巻き込まれかけたこともあるので、用心しているんですよ」

「なるほどね。君はいい従者だ」

 堂主は本気で感心しているようだ。ホーソンを褒められて、ソレルも鼻が高い。自分がお人好しと言われたことについては、言及しないことにした。


 堂主の厚意で沐浴場という名の風呂場を使わせてもらったホーソンは、ミルフォリウムへ来たときよりさっぱりしたようだった。ソレルも、どうせだから使うといいと言われ、ありがたく使わせてもらった。

 井戸の水を引いていると堂主は言ったが、絶え間なくわき出てくる風呂場は広く、水でも体を清められるのは長旅の身にはありがたかった。途中の湖沼で水浴びもしたが、それもまれなことだったのだ。

 さっぱりして、先に届いていた荷物から出した新しい衣類に着替え、堂主の導きで公会堂に戻るころには、陽は落ちかけ、あたりは夕闇に包まれていた。

 墓標だという石のあいだを縫うようにして丘をくだる途中、あちこちにふわふわとした光が漂っているのが見えた。堂主が言うには兵士たちの霊だという話だった。廟堂の裏手には村人の墓地もあるらしいが、そちらでは見られないという。

 このような現象が起きるのは知っていたが、見るのは初めてだった。ソレルは怖ろしさより、その美しさに見とれた。ホーソンも、めずらしそうに目を丸くしていた。

「今でも夢の中でリゼンブリア人と闘っているんだろう」

 そんなふたりに、堂主は説明をその言葉で締めくくった。その美しい顔には、どことなく沈んだ表情が浮かんでいる。

 半日のあいだに、このよく語る朗らかな堂主がそんな表情を見せるので、ソレルは、胸の奥が痛むような思いをまた味わった。

 このひとは、と思う。見かけほど明るい性質ではないのではないか。そんな思いを胸に抱きながら、ソレルは従者とともに丘をくだり、公会堂をめざした。




 公会堂の広間には多くの村人が集まっていた。堂主に導かれたソレルは、村人の歓待を受けた。

 広間には大きな食卓が置かれている。春先でまだ収穫もないだろうに、急いで焼いたパンや、乾肉の大きな塊やチーズ、葡萄酒だけでなく乳酒もあった。森で採ってきた若草の芽もあり、村人の心づくしが知れた。

 堂主が言っていたように村長が話していたからか、参加者は概ね友好的に接してくれた。ときおり不穏なやりとりもあったが、そのたびに堂主が来ては混ぜっ返す。それが助け船だとソレルが気づくのに時間はかからなかった。いくら朴念仁でも、ひとの心の機微にまったく気づかないわけではない。

 堂主ゼラは、村人に好かれ、親しまれているようだった。若者の中に恋する目で見ている者が何名も見受けられた。また、男だけでなく女性の人気も高かった。本人は、男の代用品さ、などと自嘲気味に言っていたが、中性的な容貌はさておき、人柄が好ましく思われているのは明らかだった。

 ソレルも、会ってまだ半日の堂主に、戸惑いもあったが、惹かれつつあった。それは、軽い口調で語り、何かと場を盛り立てながらも、ときおりふっとくらい表情を見せることがあったからかもしれない。


 そんなふうにして、ソレルのミルフォリウムでの生活は始まった。

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