四節




 堂主が見てまわったところ、奥には厨房があり、井戸はまだ水が湧いているという。それも水は今にも飲めそうなほど澄んでいるとのことだった。どうやら、前任者のお抱えの異能者が術をかけていったようだ。前任者の悪評を思うと複雑だが、ありがたい話だった。

 そのあいだにホーソンは、届いていた荷物から出した、首から下をすべて覆う掃除衣を服の上に着け、頭にも塵除けの帽子をかぶり、口もとにも覆い布をして、万全の体勢を整えた。しかし掃除道具などないのではとソレルは思っていたが、納屋にあったものを引っ張り出してきた。

 ホーソンが中に入り、鎧戸をすべてあけると、広間は明るくなって、埃や蜘蛛の巣が舞い散るのが見えた。

 入ってこられても邪魔なので、とホーソンは、ソレルと堂主を外に追い出した。仕方がないのでソレルは次に駐在所を覗いてみた。塔の中も似たようなありさまかと思いきや、そうでもなかった。多少かび臭いが、蜘蛛の巣もほとんどない。

「生活の場でないからか、官舎よりましだな。建造物を維持する術もかかっているようだ。これはどうも公式のものだな。おそらく、ミルフォリウムが砦だったころの名残だろう」

 塔の中は頭上まで突き抜けた丸い広間で、壁の内側が螺旋階段になっており、屋上に上れるようだ。机や椅子はあるが、ほかには何もない、からっぽに近い空間である。

「維持する術って……ミルフォリウムが砦だったのは五百年は前ではないのですか? そんな昔の術が、今もきいていると?」

「よほど強い異能者がかけた術のようだ。組まれた石のひとつひとつが、崩れまいとする意志を持っているように感じられる」

 堂主は物珍しそうに壁をさわっていたが、そのうち、壁に貼りついているような階段をのぼり始めた。

「堂主さま、危ないですよ!」

「言ったろう、術がきいていると。それともわたしがこの階段から落ちるとでも?」

 堂主は最初の踊り場までのぼってから振り返った。「それに、この塔は、飛竜が翅を叩きつけでもしなければ、壊れやしないさ。君も来たらどうだ。駐在官として、見ておくのはわるくないはずだ」

 堂主の美しい顔に、ニヤリとした表情が浮かぶ。勇気を試されているような気がして、ソレルも階段に足をかけた。

 なんの変哲もない、石を組んだ階段だ。森歩きはするが、山登りなどほとんどしたことがないソレルが、息を切らして汗をかき始めたころ、長い螺旋階段は終わった。

 天井のさらに上に上がる扉は木製で、鍵がかかっている。

「鍵……」

 堂主も疲れているようだ。ソレルは無言で、腰の物入れから、村長に渡された鍵束を取り出した。いくつか鍵がついているが、こうした場所の鍵なのだろう。

 合いそうな鍵を鍵穴に差し込んでひねると、すぐに手応えがあった。錆びついてもいないのも、術のおかげなのかと思いながらソレルは、戸を外へ向かって押しあけた。屋上の床は、頭を出したソレルの胸あたりだ。最後まで階段がついていない。

 清々しい空気の中、ソレルは屋上の床に肘をついて自分の体を持ち上げ、床に足をかけて登った。次いで、下の堂主に向かって手を差し出す。

「どうぞ」

 堂主は戸惑った顔をしたが、すぐにソレルの手を掴んだ。女性だが貴婦人の手とは異なり、ざらざらしている。だが、思いがけず細い手だった。

 その手をそっと引っ張ると、堂主が勢いをつけて階段を蹴った。そのはずみで屋上の床に上がれたが、反動でソレルは尻餅をつき、尻餅どころか背中までついた。

「君、だいじょうぶか!」

 ソレルが自分のせいで倒れたと思ったのか、堂主は焦ったような声を出して覗き込んできた。

「いや、……疲れました」

 ソレルが笑って言うと、堂主は、チッ、と舌打ちをした。

「慌てたぞ。わたしのせいかと思ったじゃないか」

「空が広い。風が気持ちいいですねえ……」

 寝転がったまま、ソレルは呟いた。午後になってから到着したので、夕刻が近い。春先の空は明るく澄んでいた。

「このまま寝ちゃいたいですよ」

「何を言っている。見ろ、村がよく見えるぞ」

 堂主はすぐにソレルから離れた。ソレルはしばらくそのままでいたが、やがてむくりと起き上がる。

「ほら」

 ソレルが起き上がったので、堂主は村を示した。

 確かに、村が見えた。公会堂の尖塔と、それを取り巻くさまざまな建物。皇都ほどひしめき合っているわけではないが、それなりに密集していた。村からの道は、平野を通っている。何もないのは、村のこちら側には畑を作らないからだそうだ。

「確か、以前はこの駐在所が城壁の北端で、塔は八方に置かれていたらしい」

「それにしてはこのあたりには何もないですね」

 ソレルは塔の周囲をぐるりと見まわした。

「城壁の石はだいたい再利用されてしまったしな。税が重くないからと移り住んでくる者が多くて、住む家に困ってそうしたらしい。それが……二百年くらい前だと、村長から聞いたことがある。村長のひいじいさんが、エキナシアの役所に何度もかけあって、壊れたところの石なら使っていいと許可を得たそうだ」

「壊れたところって……ぜんぶ壊れていたわけではないでしょうに、見事に何もないじゃないですか」

 ソレルは屋上の周囲を巡った。よくよく見渡せば、城門のように、城壁があった名残は、言われればそれとわかる程度にしか残っていないようだ。村のある平地と、その周囲の丘の上に点在する大きな石。

「だいたい石造りの家は、城壁の石の再利用らしいぞ」

「……いいんでしょうかね、それ」

 建前上、ミルフォリウムは北限の砦だ。今でこそ平民の村だが、もし何かあったら、と考えて、ソレルは不安になった。これまでに見かけた村人が、攻め込んできた敵に太刀打ちできるとは思えない。

「だいじょうぶだって。――ほら、あちらを見てみるといい」

 大股で西側に向かうと、胸まである石柵の前で堂主は手招いた。「わたしのいる、廟堂だ」

 ソレルは堂主に近づいた。示されたほうを見やる。

「あれは……なんですか?」

 堂主が示した先には、丘の上に公会堂のような尖塔のある建物があった。その周りに、無数の石が置かれている。敷き詰められているのではなく、何かの意味があるかのように、あいだをあけて置かれているのだ。丘がもともと、石の丘だったのだろうか。

「あれは、墓標さ」

 堂主は肩をすくめた。

「墓標……村人の」

「いや。五百年前の、守勢で失われた兵士たちのだよ。足りないと思うがね」

 思わず堂主を見ると、その横顔は弱まりつつある陽光に照り映えて、神々しいほどに美しかった。そうして黙っていると女神のようだとさえソレルは思う。

「リゼンブリアの攻勢はなかなか凄まじかったようだよ。知っているかい」

「はい。……戦記で、読みました。リゼンブリア戦記だけですが」

「ヘイラート山脈の向こうは、夏でもせいぜいこちらの春程度にしかあたたかくならず、九月から雪が降り始め、六月まで雪が溶けきらないとか。なんでそんなところに住んでいるのやら、とは思うが……リゼンブリア人もそう思ったんだろうな。妖術師の力を借りて、こちらの洞窟とあちらの洞窟をつなげ、兵士が通り抜けられるようにしたというが……」

 それは確かに、リゼンブリア戦記に記されていた。そうは言っても古い書物なので疑わしい。異能はともかく、死者を生き返らせ屍人として操ることもできたと言われる妖術師は、ソレルにとっては半信半疑だった。

「しかし、結局は帝国がこの拠点を守り抜いた。ミルフォリウムは砦として残されたが、やがてリゼンブリア人の攻勢は忘れ去られ、ここは平民の村になった。最初は、重税や借金から逃れてきた平民が住みついたそうだが、その中にいた異能使いが、兵士の鎮魂のためだと、廟堂を建てさせ、それを帝国に公式のものとして認めさせたというのものすごいな」

 確かに、ミルフォリウムが今のような、辺境によく見られる村となった成り立ちはその通りだ。ソレルも、来る前にいろいろと調べては来ている。

「その当時の皇帝が、また話が通りやすかったんだろうなあ。では直轄地としよう、などと言い出して、おかげで税はかかっても軽いし、威張り散らす領主の貴族もいない。地方都のエキナシアからも遠いが、そのぶん、村人の自治が保たれて、平和なもんさ」

「あの、僕はべつに、それについて皇帝に何か報告する気はありませんよ」

 もしかして堂主はさきほどの村長との会話が気になっているのだろうか。そう思ったソレルが口をひらくと、堂主は真顔でソレルを見た。

「ほんとに?」

 どこか幼い口調と問われ、ソレルは、胸の奥がぎゅっと掴まれた心地がした。これは心臓だな、と頭のどこかで考える。自分は心臓に異常はないはずだ。なのに、少し息苦しい。階段を上がってきたせいにしては、時間が経っている。なぜ自分の心臓に異変が起きたのか、ソレルにはわからなかった。

「さきほども申し上げましたが、それは僕の任務ではありません」

「君の任務、ね。そりゃいったいなんだ?」

「本当に申しわけないんですが、皇帝に、決して口外するなと言われているので……」

「皇帝に」

 堂主は眉を上げた。「まさか、君、皇帝に直答をゆるされたのか」

「はい」

 ソレルはうなずいた。

「へえ! これはおったまげるね。貴族らしからぬ君が! 医業だと言っていたが、家格がいいのかい?」

「いいえ。家格はせいぜい中の下ですよ。ただ、……その、建国当時に、先祖が、皇帝のおそばに仕えたことがあったようで。セイバリー家は丁重に扱うように、しかし丁重すぎないように、と伝わっているそうです」

「なんだそれは。おかしな言い伝えだな」

「はあ……それは、僕としても謎ですが」

 セイバリー家の先祖が建国の皇祖に仕えたのは事実だ。そのおかげで、皇祖に下賜された館に今も住んでいる。館も土地も、皇祖の権限で決して持ち主を変えることができないようになっていた。

 皇都も直轄だが、その中でもさらに特殊な直轄地か、公共の場のような扱いだ。受けた恩のしるしとして記念の品を与えても、盗まれたり売られたりするかもしれないから、と皇祖は言い、土地を与えたのである。さらに、何があっても手放せないように、そして、手放さずに済むようにしてくれたらしい。

 だからどれほど区画整理が行われて、周囲の館が取り壊されたり住む貴族が変わったりしても、建国以来、ずっとセイバリー家は同じ土地に住んでいる。親戚筋がうるさいのはそのためだ。皇宮がどんどん大きくなって、セイバリー家の館は、今や政事を執り行う聖七貴族の館に挟まれているのである。

 そんな環境でありながら、セイバリーは先祖代々、医業を継いでいる。先祖も医業のはずだから、わかりにくいながらそこまで厚遇されたのは、何か理由があるに決まっている。おそらく、皇祖の体を診た先祖しか知り得ない、何か、ひとに知られては不都合なことがあったのではないかと、ソレルは推測していた。とはいえ、セイバリー家には、皇祖の脈をとったとしか伝わっていない。

 皇帝の寵を受ければ何かと利があるのは事実だが、時代が転じれば害にもなる。皇祖は厚遇するほどセイバリー家に恩義を感じ、それが代々伝わるようにと考えて取り計らってくれたのだろう。そのうえで、セイバリー家を重んじつつも、政事に関わる火種になることを怖れた可能性はなくはないだろう。

「皇帝は、どんな感じだった?」

 興味があるのか、堂主が尋ねてくる。

「……どんなって……」

 ソレルはまごついた。「年齢よりは若々しく見える、ご婦人でしたが。赤毛で、青い目で……」

 若く見えると言っても、二十歳から四十年以上、皇帝として君臨してきたのだ。それなりに老齢にさしかかっており、影響は外見にあらわれていた。矍鑠としていたが、肌は乾きがちで、痩せて骨張っている。だが、見目形は老いても麗しく、その陰に帝国の内乱を治めた猛々しさの片鱗が見え隠れしていた。

「へえ。何か話したか? 任務のほかに」

 さらに聞き穿られて、ソレルはうーん、と唸った。任務以外のことでも、話してもいいのだろうか。迷ったが、堂主が興味深そうな表情で待っているので、溜息をついた。

「たいしたことは話しませんでしたよ、任務のほかは。ご自分でいれられたお茶をいただきました。任務を命じる相手に毒を入れられてはたまらないのでな、とおっしゃっていました。それと……ミルフォリウムは、帝国にとっても、ご自身にとっても、たいせつな場所だ、と。……お若い、寄る辺もないころに滞在したことがあるそうです」

 勅命を受けたときのことを思い出しならが、そこまで語って、ソレルは気づいた。皇帝は、ミルフォリウムに来たことがある。ならば、城壁の石が村人の家になっていることも、村が治外法権的にまとめられていることも知っているはずだ。問題があればすでに咎めているだろう。自分の心配が余計なお世話と気づいて、ソレルはほっとした。

「そうか。……お若いころに流浪した話は、本当なんだな」

「そのようです」

 皇祖の末裔ではあるが、長くつづいた帝国には、皇帝と同じ血の濃さの者は多かった。当代の皇帝は直系ながら先代の妾腹でも末端に位置して、側室だった母親が宿下がりののちに病死したため、祖父母のもとで育ったという。それが皇帝にまでのぼりつめたのは、内乱により継承権を持つ者が次々に倒れたり病死したりしたからだ。

「早く跡継ぎが決まるといいよな」

 皇帝は女性だが、夫はいない。持てば、夫が政事を左右すると考えたからのようだ。愛人はいても、子どもを産んだとは聞いていない。これは隠されている可能性もあるが、もし万が一にでもそのようなことがあれば、医業の界隈では漏れるだろう。

 皇帝に出産の経験があるのではないか? という疑問をひそやかに口にする者はごくまれにいるようだが、皇帝への不敬になるかもしれないからと、耳にした者は反応しないようにしているようだった。そのほうがいいとソレルも思う。皇帝への不敬がどうこうより、女性が子どもを産んだことを隠しているかもしれない、などと噂するのは、どうにもはしたない気がするのだ。事実だとしても、隠しているなら、何か隠さねばならない理由もあるのだろう。

「そうですねえ……」

 とは言え、すぐれた皇帝のあとにつづくのは、非凡がいいのか凡庸がいいのか。すでに有力貴族には、皇祖の血を引く者を懐に入れて画策を巡らしている者もいるとかいないとか。この国は数十年後にはどうなっているだろうか。

「さて、そろそろ下に行くか。まだ君の従者は埃や蜘蛛の巣と闘っていそうだがな」

 しばらく黙って西の景色を眺めていた堂主は、やがてそう言った。

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