三節




 村はずれにある駐在所と官舎は堅牢な石造りで、駐在所は物見も兼ねていたのか、円筒形の塔になっていた。

 官舎の扉はしっかりした鉄製で、鍵はなんとかホーソンがあけたものの、扉は、ソレルは渾身の力であけなければならなかった。

 外に引いた扉の中は真っ暗だ。

「おお、こりゃたいへんだ。わたしがついてきてよかっただろう」

 戸口から中を覗き込んだ堂主は、すっ、と手をあげた。

 その手が、まるで松明のように光を放つ。

「……!」

 ソレルは目を丸くして、それを見た。ホーソンも同様だ。

「なんだ君たち、異能を見るのは初めてか」

 堂主はおかしそうな表情を浮かべた。「ミルフォリウムは北限の要。そこにいる堂主が、ただの女なわけがないだろう」

「堂主さまは、異能者ですか……」

 神祇者がすべて異能者というわけではないが、異能者の多くが神祇にたずさわる。それはわかっていたのに、この堂主が異能者であることに、ソレルは少しばかり驚いていた。

「まあね。といっても、たいしたことはできないさ」

 堂主は肩をすくめた。「驚くくらいで怖がらないならよかったが、……それより君たち、中を見るといい」

 堂主はそう告げると、光る手で、ふっ、と何かを投げるしぐさをした。すると、投げられたかのように光球が頭上に浮かび上がる。

「これは……うん、……たいへんですね……」

 官舎はさほど大きくはなかった。一軒の民家と似たようなつくりらしい。入ってすぐには広間があり、玄関の正面には扉のない出入り口がある。おそらくその奥は廊下があって、厨房や寝室に向かっているだろう。運がよければ浴室や不浄も室内にあるはずだ。

 広間には、卓や椅子、樽なども置かれていた。だが、そのほとんどに蜘蛛の巣がかかっている。巣ばかりで、肝腎の蜘蛛はいないようだ。森歩きをしていたので虫はさほど苦手ではないが、殺さず追い出すのがむずかしそうなので、蜘蛛は益虫という認識をしているソレルとしては助かった。

「掃除のしがいがありますね」

 ホーソンはそれを見て、目を爛々と輝かす。どうやら彼のどこかに火がついたようだ。

「このまま入ると服が汚れますので、掃除衣を使います。荷物は納屋でしたね」

「本気でこれを掃除するのか」

「本気も何も、どうにかしなければ若が住めませんから」

 堂主が目を瞠るのを後目に、ホーソンは官舎の脇にある納屋に向かった。納屋といっても、崩れそうな木の小屋だ。ソレルははらはらした。

「ホーソン! 気をつけて」

「だいじょうぶですよ。この小屋はちゃんと補強されている。しかも最近だ。おそらく、我々の荷物を持ってきたときに、誰かが気づいて直してくれたんでしょう」

 ホーソンは納屋の前に立つと、眺め回してから言った。「ありがたいことです。掃除をしていないのは、てっきり、駐在官に対する無言の抵抗かなと思ったんですが、本当に、入るなと命じられていたからかもしれないですね」

 ソレルもホーソンが言うようなことを考えたが、そうだとしても仕方がないと思えるほどに、前任者はろくでもない貴族だったと思えていた。もし皇都に戻ることがあったら、前任者が誰か調べて皇帝に報告してもいいのではないだろうか。五十年前ならまだ生きているかもしれない。家系を断絶してほしいわけではないが、きちんと注意をしてもらえればとは考えてしまう。戻れずとも報告書にしたためたいくらいだ。

「おい、あいつは本気なのか?」

 ホーソンが納屋に入っていくのを眺めていると、堂主が問う。

「本気、とは」

「掃除するのか? 今から? もうすぐ夕方だぞ」

「そうは言っても、少しでもなんとかしたほうがいいと思ったではないかと。ああなると僕も止められません。といっても、基本的にホーソンは、僕が本気で命じたとき以外は、あまり言うことをきいてくれませんし……」

「従者に寛容なんだな。そのわりに、君は手伝わないのか」

 堂主はにやっとした。美貌の女性だが、中身は悪戯な少年なのかもしれない。

「僕はあまり役に立たないので……」

 ソレルは言葉を濁した。事実である。幼かったころ、同年代の遊び相手でもあったホーソンについてまわり、彼の仕事に手を出したりもしたが、若さまがすると余計に時間がかかるのでお相手をする時間がなくなってしまいます、と強い調子でたしなめられて以来、彼が掃除をしたり洗濯をしたり料理をしたりするときは、そっと見守るか、自分にしかできないことをするようにしていた。

「それにしても、すごい埃だな。あちらが厨房かな。このぶんじゃ、井戸もどうなっているやら」

 井戸と言われて、それはさすがに困るなと思った。皇都は新しく作られた街区には上下水道もあるが、今でも井戸は重要な生命線だ。

「それにしては、井戸がこちらには見当たりませんが……裏手でしょうか」

「厨房にあるかもしれないな。ちょっと入って見てみよう」

 言うなり、堂主はさっさと段差を上がった。蜘蛛の巣だらけになるのではとソレルは止めようとしたが、伸ばした手が届くより前に、堂主の体がぼんやりと光を帯びる。

「どうだ、驚いたか」

「いや、まあ、それは……」

 入った中でくるりと振り返った堂主が自慢そうに言う。だが、ソレルが目を丸くしたのは、堂主が光ったからではない。天井から垂れ下がっていた蜘蛛の巣がふわふわと動いて、彼女を避けたからだ。

「風でも纏っているんですか?」

 思わずソレルは尋ねた。

「まあそんなようなものだな。この光は、よろしくないものをこの身に寄せつけない、衣のようなものだ」

「それも、異能ですか?」

「そうだ」

 ふふん、と堂主は腕を組んだ。「異能にもいろいろある。君はあまり詳しくないようだが」

「まったく詳しくないですね」

 ソレルは正直に答えた。「異能者とはほとんど縁がなく……」

 そこまで言いかけて、遠い昔のことを思い出す。

 ……一夏だけの友だちだったローズとは、あれから二度と会っていない。目のよく見えない時期だったから、どんな顔かもはっきりとはわからない。声も朧だ。彼女はどうしているだろうか。

 ローズと会えなくなった夏の終わりになって、やっと両親が避暑地にやってきた。夏の終わりの、涼しさが寒さに変わりそうな中だった。両親は仕事でいろいろあってなかなか来られなかったのだとソレルに詫びた。

 のちに、父の旧友が皇帝への叛逆を疑われて処断され、その知己にわたるまでくまなく調べ上げられ、学舎で同じ学年だった父も疑われて本宅を離れられなかったのだとわかった。疑いが晴れなければ、ソレルの一家も連座で処刑されていたかもしれない。

 当代の皇帝は賢帝と言って差し支えなかったが、それでも、代々の皇帝と同じく、叛逆には決して寛大ではなかった。しかし先代までと異なり、少しでも関係があれば叛逆者当人たちと同じように処断するというほどではないのは運がよかった、と父はのちに言った。そしてまた、疑われて調べ上げられた者たちが無罪とわかると、詫びの品を送った。それも通り一遍の贈呈品ではない。セイバリー家に送られたのは、はるか東国で珍重される薬草で、それのおかげでソレルは視力を取り戻したのだ。

 ソレルの大病は、身内には知られていたが、父は、職場が病院だったのに、特に打ち明けていなかった。つまり、公的には知られていなかった。それでも皇帝は、非礼を詫びるとともに、おまえの家庭の内情まで詳しく知っているぞ、と知らしめたのである。セイバリー家は使用人が少なく、しかもそのほとんどが素性のはっきりしている者しか雇い入れていない。調べたとしたら親戚筋から漏れたのかもしれないが、親戚は当時、ソレルの存在を不名誉に思っていて、ないものとして扱っていたはずだ。

 とにかく皇帝は、慈悲深くもあり、情け容赦なくもある、怖ろしい存在である。

「ほとんど?」

 問われて、ソレルは我に返った。

「ええ、そうです。ほとんど縁がありません。我が家がお世話になっている廟堂の神祇長以外では」

「それもそうか」

 ふ、と堂主は溜息をついた。その傍らでは蜘蛛の巣がゆらゆらしている。

「昔は、異能者は異能使いと呼ばれ、各地を旅して巡っては傷病者を助けたそうだが、今は生まれた土地から離れるなんて、鑑札のある隊商にでも属していないと無理だしな」

 さて、と堂主は踵を返す。「ちょっと奥を見てこよう。君は蜘蛛の巣に貼りつかれたくなければ、そこで待っているといい」

 言い置くと、堂主はさらに奥の、戸のない出入り口をくぐった。

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