二節




 村の中心部に近づくと、石造りの建物がぽつぽつと並び始めた。

「石切場が遠いから、あれは城壁の石を使ってるんだ」

 ゼラの性別を、その物言いで男だと思い始めていたのに、ホーソンは最初から女性だと察していたのかと思うと、ソレルとしてはいたたまれない。そんな言葉を聞きつつも、はあ、とうなずくだけだった。

「だから門のあたりしか残っていないのさ」

「それは無駄がなくていいですね」

「君、それは軍人の台詞じゃないな」

 堂主はおかしそうに笑った。

「軍人と言いますが、僕は軍属なので……基本的には医業が中心の生活をしていました。週のはじめに一日だけ、軍部に顔を出すくらいで、いつもは病院で診察や、あれこれと」

「ということはほとんど医師だな。それにしては、またなんでこんな辺境に追いやられたんだ」

「追いやられたというか、任務があるんですよ。申し上げられませんが」

 皇帝の勅命は、ある薬草を探し出すことだった。といっても、急ぐことはないとも言われていた。だいたい、雲を掴むような話だからだ。見つけたら運がいい。それだけの話だ。見つからない可能性もあると言われている。その場合、その薬草が今はもうない確証を掴まなければならない。まったくばかげた命令だった。

「ふうん。……まあ、それもそうか」

 やがて石造りの家に、木で建てられた家が混じり出す。家はそれぞれが離れていて、ところどころに井戸があった。井戸の数は多いようだ。おそらく、氷泥地から溶けた水が地中にしみ込んでいて、水には困っていないのだろう。

 それからしばらく歩くと、家々の間隔が狭くなった。

「あら、堂主さま!」

 道を歩く婦人が、声をかけてきた。両手で籠を抱えている。蓋のない籠には衣類が詰まっていた。

「やあ、アーティ。こんにちは」

「美丈夫をふたりも連れて、どうなさったの」

 婦人は朗らかに問う。美丈夫と言われて、ホーソンは気まずそうな顔になっていた。ソレルも、鏡で見たわけではないが、そんな顔になっていただろう。

「駐在官さんが来たんで、公会堂まで案内中なんだ」

「駐在官さん!」

 婦人は目を丸くした。「まあ。いらっしゃるとは聞いていたけど、想像とはずいぶん違うわ。お貴族さまではないみたい」

 そう言ってから、婦人は失言したことに気づいたらしい。ハッとして口を押さえた。

「初めまして、こんにちは。僕はセイバリー・ソレルと申します。確かに、あんまり自分を貴族だと思ったことがないですよ」

 ソレルの言葉に、ホーソンが溜息をのみ込んだ。婦人は目をしばたたかせる。

「あら、まあ……」

「どうも、平民気質なかたのようだ。でも、だからって粗末に扱わないでくれ」

「ええ、それはもちろん。でも、お話がわかるかたのようで、よかった!」

 貴族の令息が来ると聞いて、よほど村民たちは心配していたのだろう。確かに、領地を持っている貴族だと、農民に命じることができるからか、むやみに気位が高く、自分より身分が低い相手にひどく当たる者もいる。

 セイバリー家は医業で領地はほとんどないに等しく、そのためもあって家格は低い。ソレルが平民的な感覚を持っているのは、地主貴族にその点を蔑まれがちなせいもあった。そして、だからこそ、そのような地主貴族の態度を貴族の悪習として忌んでもいる。

 帝国では、すべての土地は皇帝のものだ。地主貴族は委任統治しているだけで、領民も等しく皇帝の臣民だ。領民を手ひどく扱う貴族はそのことを忘れているのだろう。実際、領民を粗雑に扱っていたことが皇帝に伝わると、領主は厳罰に処されてきた。

 それを怖れて領民に読み書きを教えたり、商いで領外に出たりすることを禁じる領主も過去にはいたが、そうした不正は今の時代にはすべて正されている。国外に放つ間諜のように、皇帝は、帝国全土にも間諜を遣わしているとひそかに囁かれているが、明らかにはなっておらず、噂でしかないのか、それとも事実なのか、誰も知らなかった。

 婦人は挨拶をすると去っていった。

「すまないな。村人はみんな、少し心配していてね。貴族の令息がこんな辺境に来るなんて、とな」

「そのようですね」

 ソレルは当たり障りなく答えた。

「貴族にもいろいろいて、話のわかるやつもいると言ったんだが、以前にいた駐在官があまりたちがよくなくてね。もうかなり前の話なのに伝わってるほどだ。自分で連れてきた使用人だけでは足らず、村人もかり出して世話をさせる始末だったらしい。娘さんに不埒なこと仕掛けて、まあ未遂で済んだが、さすがに村長が役所に訴えて、引き取ってもらえたんだとさ。まあ、出世街道を外されて、苛立っていたんだろうな」

 堂主の言葉に、ソレルは恥じ入りたくなった。前任の駐在官はよほどのことをしたのだろう。自分が来ると報されたとき、住人はかなり不安だったに違いない。

 昼間だからか、埃っぽい道を歩く者は少ない。子どもも見当たらなかった。たまに通りがかる者は、ちらちらとこちらを見たり、アーティのように堂主に声をかけて挨拶をしたりしている。堂主は気安く受け答えしていた。

 廟堂の堂主というと、ソレルが知っているのは、皇都の、厳めしい顔つきをした老人の神祇長くらいだ。奉じる神の数だけ祭祀長はいるが、セイバリー家に縁がある廟堂はソレルが子どものころからその老人が祭祀長だった。ソレルが大病から回復して廟堂を訪れたとき、神があなたにはまだ役目があるから生かしてくださったのですよ、と説いたのを今でもソレルは憶えている。

 だが、この堂主ゼラは、そんな堂主とはまったく違っていた。堂主と聞いていなければ、そして女性と知らなければ、朗らかな若者に見えただろう。ただ、職業だけはなんなのかさっぱりわからない。少し遊び人のような風情があるのは、よく喋るからか。

 十字路にさしかかると、堂主は手を前後に振った。

「さっきまでの区画が農民で、このあたりは職人や商人が住んでいる。さっきのアーティは洗濯人でな。農家の洗濯物を引き受けているのさ。もう少し先には学舎もあるぞ。あれが公会堂」

 並ぶ建物のあいだに、塔のある建物が見え隠れしている。それを堂主は指し示した。

「もうすぐですね」

「ああ。公会堂には村長がいる。正式には村長じゃなくて、……なんと言ったかな」

「城砦官ではないですか」

「そうそう、それ」

 堂主はうなずく。「昔のしきたりだな。城砦官は軍人でないとなれないとかで、家系は一応軍人扱いをされているようだが、ただの気のいい小父さんだ。コンフリーという」

「堂主さまはずいぶん村人と親しんでらっしゃるんですね。こちらには長いんですか?」

 まだ若く見えるが何歳いくつだろう。さすがに女性に年齢を尋ねる勇気はなかったソレルは、任期を問うことで推しはかろうとした。

「……六年になるかな」

 堂主は一瞬、答えるのをためらったように見えた。だがすぐ明るい顔になった。

「おかげさまでもうすぐ三十だ。神祇者だからいいが、世間じゃこの歳で独り身の女なんて、腫物のように扱われているだろうな。しかし巫覡でよかったよ。でなきゃ、あれこれ陰口を叩かれるか、退屈な男に顎で使われていただろうからな」

 堂主は明るく笑うが、ソレルはなんとなく、何かをごまかされた気になった。駐在官もいない村落に若い女性が堂主として遣わされたら、いろいろと大変なのではないだろうか。この堂主の明るい性格では村人と馴染むのも早かったかもしれないが、ほかの街や村から遠く離れた土地にひとりで移り住むのは難儀なことに思えた。堂主ゼラはそのうえ、中性的とはいえこの美貌である。ややこしい厄介ごとが起きてもおかしくないのではないだろうか。

 そんなことを考えているソレルの傍らで、堂主は、あれが学舎だ、あれが音楽堂だ、と説明をしたり、挨拶をされると応えたりと忙しそうだった。ホーソンはこういうときは無駄口を利かないのでずっと沈黙している。だが、ときおりあたりを見まわして、ものめずらしそうに眺めていた。

「さあ着いたぞ。公会堂だ」

 公会堂の前に着くと、堂主はそう言って、開いていた扉から中へ入っていった。「村長! 駐在官を案内してきたが、いるか?」

 中で声が響いている。

 すぐに堂主は、壮年の男性を従えて出てきた。

「ああ、これはこれは。ようこそ、ミルフォリウムへいらっしゃいました。私が城砦官のコンフリー・ベルガです」

 コンフリーはにこやかに、正式な名称を名乗って挨拶をした。こめかみに大きな傷があるが、ほかは健康そうで、がっしりとした体つきをしている。身長は堂主より少し高い程度だ。髪も目も茶色で、平均的な帝国民の見た目だった。肌の色が少し濃いのは日焼けのせいだろう。ここに来るまでに会った住民も、だいたい淡黄色の肌が日焼けしていた。

 堂主が入っていくと同時に荷物から辞令を出していたホーソンが、すかさずそれを開いて掲げた。

「こちらが辞令になっております。我が主人、セイバリー・ソレルの駐在指令書です」

 コンフリーはその辞令を見て、鷹揚にうなずいた。

「はい、ありがとうございます。失礼ですが、あなたは……?」

「私はセイバリーさまの従者です」

 ホーソンは丁寧に答えた。「家僕も兼ねておりまして、軍人ではございません。ですので、みなさまと同様に扱っていただければと思います」

「村長、連れてくる途中にいろいろと話したが、話のわかりそうな貴族の若さまだぞ」

 堂主が村長の傍らで告げる。コンフリーは目を丸くした。

「堂主さま……いったい何をおっしゃるのか」

「だってみんな、不安になっていただろう。どんなわがままな若殿が来るかって」

「いやまあそれは……」

 そこでコンフリーはしわぶいた。

「すみません、来る道すがら、堂主さまにはいろいろと伺ったので、存じております。前任者がいろいろとご迷惑をおかけしていたようで……申しわけありません。同じ貴族……といっても、僕は領地のない、家業が医業のしがない泡沫のような貴族ですので、その、尊大な態度を取ったりはしないつもりです……」

 ソレルは急いで告げた。しかし、自分の態度が尊大かそうでないかなど、自分が決めるのではなく、相手が決めることだ。ソレルはそう考えてしまう。

「いやいや、そのようにおっしゃっていただけるとは、……その、堂主さまから何をお聞きになったかはさておき、このミルフォリウムでの滞在が、少しでもセイバリーさまの糧になるようお祈り申し上げます」

 コンフリーは、指先を自分の胸に走らせた。上から下へ、縦に指先を流すこのしぐさは、帝国で相手への祝福を意味する。ソレルも同じしぐさを返した。

「ありがとう、コンフリー城砦官」

「村長、と気軽にお呼びください、セイバリーどの」

 コンフリーは苦笑した。「さきほど、城砦官と名乗りましたが、ほとんど用いておりませんので慣れておらず、呼ばれても誰のことやらと思ってしまいます」

「では、村長と」と、ソレルはうなずいた。「僕も、堅苦しいのはあまり得意ではないので、適当にしてゆるめてくれるとありがたいです。軍人としてこちらに異動してきましたが、さきほど申し上げたように、僕の家は医業で取り立てられたため、あまり貴族らしくないと陰口を叩かれることが多いんです」

 辞令を丁寧にしまっていたホーソンが、ちらりとソレルを見た。また、余計なことを言うな、と思っているのだろう。平民から見ればソレルは貴族だ。だから、見くびられるようなことは言わずともよいと思っているに違いない。

「その、……そのように気安くしていただけると、それは、助かります」

 コンフリー村長は、言葉を選びながらつづけた。「ミルフォ村、……我々はそう呼んでおりますが、この村は、皇帝の直轄地。領主がおらず、税もほとんどないようなものでして、……前任の駐在官どのは、それがお気に召さなかったようです。平民が気安くするなとおっしゃったとか」

 ミルフォリウムの税がほかの土地よりかなり少ないのはソレルも前もって知らされていた。それは、北限の最前線という認識が今でも皇帝を含む帝国中枢にあるからだろう。住民にそんな意識がなくとも、リゼンブリアがその気になれば、ここが北限守勢の要となるからだ。

「ここはひとつの小さな国のようなものだからな」

 それまで黙ってふたりを眺めていた堂主が口をひらく。「先祖代々、苦労して拓いて耕してきたおかげで土地も肥えているし、東に実り豊かな森もある。雪解けの水のおかげで井戸が涸れたこともない。西南に川もある。皇都からは遠い。そりゃ、国のようにもなってしまうさ」

「堂主さま……」

 村長は不安げに堂主を見た。

「だがなあ、帝国とは違う。皇帝の一声で誰かが見せしめのために罰されることはない。何が起きても、区長が集まって相談して、その意見をこのコンフリーがとりまとめて、できるだけいい方向で解決しようとする。それがミルフォ村だ」

 皇帝への不敬とも取れる発言もあったが、それよりソレルは、ミルフォ村がそのように治められていることに驚いた。

 代々の元首を置きつつ、臣下にも意見を出させ、それを審議して結果を出させて元首が認める統治をしている国もあるとは聞いている。ほぼ同じ手法ではないか。皇帝が聖上と呼ばれて半ば神格化され、何もかも皇帝個人の裁量で取り決める帝国では考えられないことだった。

「だから、……昔の話なのでわたしもよく知っているわけではないが、せんの駐在官に対して、彼が望むような敬意を払われなかったようでな。そりゃあ、使用人にすべてやらせて、自分は村内をぶらついて、女の子の体をさわるようなやつは、貴族だとしてもどうかしてると思うがな。それで左遷されたとしか思えないだろ?」

 ソレルは思わず渋い顔になった。駐在官は軍人だ。今では職業軍人がほとんどだが、上層部はやはり貴族が多い。貴族感覚で、平民を同じ人間と考えていないと、そんな振る舞いもする可能性もなくはない。腹を開けばみんな同じ臓物が詰まっているというのに、とソレルは溜息をつく。

「わかりました。とにかく僕は前任者のような人間ではないのでご安心ください。それと、堂主さまがおっしゃったような手法で村内のもろもろを決めているのは、とても先進的で素晴らしいと思います。そのような統治をしている外国もあるようですし……」

 そこでソレルは言葉を濁した。当代の皇帝はこれまででもっとも寛容な治政を敷いていると言われている。実際に、そうだ。即位して四十年ほど経っているが、そのあいだにさまざまな法制度を整えて、国を豊かにした。千年に及ぶ大国が、瓦解するのではないかと危ぶまれたほどの帝位争いに打ち勝ち、二十歳で即位しただけあって、まつりごとの手腕にはけている。

 それでも不敬な発言はするべきではないだろう。皇帝にとっては、自分に逆らう者は臣民ではないのだ。少しでも皇帝にとってそのように認識されたら、いくら直答を許され勅命を受けたソレルでも、どうなるか。

「そ、そうですか」

 村長は明らかに戸惑った顔になった。やはり彼も、堂主の告げたような現況は、皇帝や、その下にいる軍人にとって好ましからざると思われる可能性に気づいていたのだ。だが、ソレルは話を逸らした。

「どんな方法でも、みなさんが納得して、少しでも苦痛のない方法で治められているなら、それはわるいことではありません。僕には何も言うことはありませんし、僕は任務以外のことについては無頓着なので、今うかがったお話は、そのうち忘れてしまうでしょう」

 ソレルはよどみなく告げた。ホーソンが、慣れぬ者にはわからないだろうが、長いつきあいのソレルにはそれとわかる、笑いをこらえるような表情になっている。

「……何はともあれ、今後はどうぞよろしくお願いします。僕は軍人というより医師なので、具合の悪いかたがもしいらしたら声をかけていただいてかまわないです。それと、森があるとのことでしたが」

 ソレルは堂主を見た。「どんな森ですか? よければそのうち行ってみたいです」

「……いつか適切な者に案内させましょう」

 村長は、ソレルの態度に露骨に安心した表情になった。それはそうだろう。このような辺鄙な土地だとしても、帝国とはまた違った方法で平民が統治を行っていると皇帝が知ったら、どうなるかわからない。

 だが、ソレルはそれを報告する義務もない。その意思表示が伝わったようでほっとした。ちらりとホーソンを見ると、無表情だ。こういうときは、それでいい、という意味に、ソレルは受け取っている。間違ってはいなかったらしい。

「それはともかく、……たいへん申し上げづらいのですが」

 それでも、また村長は微妙に顔を曇らせた。

「はい?」

「その、駐在官は、駐在所に併設されている官舎で寝泊まりしていただきます。駐在所は村のはずれの北にありまして……その……」

 そこで村長が、たいへん気の毒そうな顔をした。ソレルは目をしばたたかせる。

「ええと、先に送った荷物は届いているのでしょうか?」

 何か問題があるのだろうか。ソレルは少し、不安になった。荷物の中には貴重品はないが、着替えの衣類や生活用品のほかに、貴重な薬草の書物もある。

「はい、官舎の納屋に入れてあります。ただ、駐在所も官舎も、建物の中には、この五十年ほど、誰ひとり入ったことがございません」

 ソレルはいったん目を閉じ、ゆっくりと開いた。考え込むときの癖だ。

「それは、つまり、……中がどうなっているかはまったくわからない、ということですね」

「はい。前任者が、平民は入るなと命じていたので、……」

 そこで堂主が、さもおかしそうに声を立てて笑った。

「そりゃ災難だな!」

 そう言いながら堂主はソレルを見た。「五十年も誰も入ったこともない建物の中なんて、どうなっているやら!」

 まったく堂主の言う通りだった。それでは廃屋ではないか。中はどれほど荒れているだろうか。

「……掃除をしないとならないですね」

 そこでホーソンが呟いた。その顔が妙に引き締まっている。獲物を見つけた獣のようだとソレルは思った。ホーソンは、母が家政頭なだけあって、ほとんどすべての家事をこなせるのだ。

「申しわけありません」

 村長が頭を下げた。「新しい駐在官が来るとわかっても、そのように命じられていたので、どうしようもなく……」

「来るのがどんなやつかもわからなかったしな!」

 堂主はよほど愉快なのか、けらけら笑っている。「いやなやつが来るかもしれないのに、わざわざ掃除して調えてやる必要なんかないさ。とはいえ君はこれからたいへんだ」

「いえ、私がすべてやりますので、なんとかなるでしょう」

 ホーソンがきりっとした顔つきで堂主を見た。堂主は笑いを噛みころす。

「そうか、有能な従者がいるなら、すべてまかせてもだいじょうぶか」

 ホーソンが一瞬、むっとした顔になったが、すぐにその表情は消えた。

「とにかく、行って状態を見ないと、なんとも言えないので……駐在所は、北のほうですね。今から行ってみますよ、もし、今夜は中で寝られそうになかったら、宿を取りたいと思います」

「宿は二軒ありますが、……本日、エキナシアからの隊商が到着したので、そちらのかたでいっぱいになってしまっているかと」

 村長の言葉に、ソレルは、あ、と思った。確かにそうだ。隊商の荷馬車に乗せてもらってミルフォリウムまで来たのだ。長旅で疲れているだろうし、野宿などせず宿に泊まるだろう。

「そういえば、そうでした。僕たち、その隊商に同行させてもらってきたんでした」

 ソレルが思わず笑うと、村長は、ふっ、と微笑んだ。

「隊商と同行……ということは、使用人などは、そちらの従者さま以外には……?」

「おりません」と、ソレルは答える。「ホーソンはとても有能なので、彼ひとりにたいていのことはしてもらっています。あ、僕も、自分のことは自分でできますし」

 貴族の中には衣服の朝の洗顔や着替えなど、基本的な生活のもろもろでもひとを使う者がいるが、ソレルは着替えはもちろん、厨房で食事の準備をすることもできる。といっても、火を使わない冷たいものを探し出して皿に盛ったり、自分で湯を沸かして茶をいれるたりする程度だ。

「厨房でも、火が入っていれば湯くらい沸かしますよ。僕の家は、使用人の数が少ないので、母が教えてくれたんです。泡沫貴族だからいつ没落するかわからない。もしそうなったらこれくらいはできないとおまえが困るからって」

 ホーソンも、従者ではあるが、ソレルを厳しく躾けてくれた。だが、もともとは母がそういう教育方針だったのもあるだろう。

 ソレルの母は平民の出で、父が研修で入っていた入院施設のある診療所にいた看護人だった。多くの看護人は女性だが、通常の職に就いている者より気が強い。母が、看護人に対して暴言を吐いたり暴力をふるったりする病人を言葉と腕力で適当にいなしていたのを見て、父は惹かれたという。

 母は、最初、貴族身分の若い医師などまったく鼻にも引っかけなかったが、あれこれいろいろあって、父を貴族ではなく、ひとりの個人の医師として見るようになった。――そのうちふたりは結ばれて、ソレルが生まれた。

 平民と貴族の結婚は、未だに決してよくあることではない。父方の親戚にも何かと言われがちだ。ソレルが大病を患ったときも母は、平民の血を入れるからだ、おまえの世話に不手際があったからだ、と罵倒されたらしい。そのときばかりは気の強い母も泣いていた。そのせいでソレルは、親戚をあまり好きになれない。叔父や叔母、祖父母までならともかく、それ以上遠い親戚などにとやかく言われたくはなかった。

 だからソレルは、それなりに物心がついてきてからは、母の方針に従って、自分のことは自分でするようになった。貴族らしくなかろうが、それで問題はないと考えている。それに、もし父に何かあったら、祖父母はもういないし、父方の叔父叔母は気心が知れているが、それ以外の親戚が難癖をつけて、母は家から追い出されるかもしれないのだ。そうなったら母についていこうともソレルは考えていた。むしろ、自分が別に家を持って、そこで母と暮らすことになるだろう。

「そうですか……それは、それは」

 村長はどう反応していいかわからないようだった。ソレルとしては、前任者があまりにも悪評が高く、そのため、貴族という身分にミルフォリウムの住人が拒否反応を示しているのなら、自分がそうした貴族よりは平民に近いのだとそれとなく訴えておきたかっただけだ。

「その、宿に泊まれないようですので、もしよろしければ、今宵はこちらの公会堂においでください。エキナシアの医師が来たときに使う寝室がありますので、お泊まりになれます」

「泊まる……」

「はい。公会堂と称しておりますが、祭りで来る旅芸人の一座が、今回のように宿には入りきらないこともありますので……月に一度、堂主さまが祭式をしたり、そのほかの葬祭に使う広間のほかに、寝室も、設備も整えておりまして、宿屋としても使えますので」

 村長の如才ない説明を聞きながら、ソレルは公会堂の建物を見上げた。尖塔のある公会堂は、最上階に鐘がぶら下がっているのが見える。皇都でもよく見る建築物だ。広間がどうなっているか見当はついたが、宿泊設備については想像もつかなかった。しかし、村長の申し出はありがたかった。

「では、いざとなったらそうさせていただきます」

「それと、今宵はささやかながら、その公会堂の広間で歓迎の宴を開こうと思いますので、どちらにしろ、またこちらにいらしてください」

 村長は丁寧に告げた。

 酒を舐める程度にしか嗜まないソレルは、宴は気持ちだけいただきたいと思ったが、そうもいくまい。

「わかりました。そうしますね。――北ってこっちかな」

 ソレルはそう言いながら、歩き出そうとした。

「若、そちらではないです!」

「おい! 君は方向音痴か! 北はそっちじゃない」

「お待ちください、今、駐在所の鍵を取ってまいりますので」

 ホーソンの叱声と、堂主の声と、村長の声が重なった。


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