一章 春から夏

一節




 息苦しさを感じて、ソレルは目をさます。

「起きましたか」

 ホーソンが鼻を摘まんでいたのだ。

「起きたけど……もう少し、なんとかならないのか」

「何がです」

「起こしかただよ」

 ソレルはぼやいた。すると、すでに荷馬車の外に立っていたホーソンは、肩をすくめてわらった。

「何をおっしゃるやら。何度声をかけてもうんともすんとも言わない。揺すっても駄目だったので、仕方なくですよ」

「そんなにぐっすり寝てたかな」

 ソレルが頭を掻くと、それまでもたれていた藁の山からついたのか、藁がパラパラと落ちた。

 帝国の北東にある地方都エキナシアからこの荷馬車に乗せてもらえたのは運がよかったとソレルは思う。ソレルの異動先、ミルフォリウムは帝国でももっとも北の端に位置しており、エキナシアからは騎馬で一週間かかるらしい。ソレルは騎馬が得意ではない。だから隊商の荷馬車を頼って同行させてもらった。

 荷馬車はもちろん騎馬ほど速くはないし、途中の街で荷の上げ下ろしがあったので、エキナシアからミルフォリウムまで二週間かかった。ソレルの住んでいた皇都からエキナシアまでも乗合馬車で二週間かかっている。つまり皇都を出てひと月は経っていた。帝国の版図が広いとはいえ、ミルフォリウムは皇都からあまりにも遠い。辺境と揶揄されるだけはあった。

 こんな地の果てにもひとが住んでいるのは、その昔、北方民族と闘った名残だった。つまり、ミルフォリウムとは砦としてつくられた集落だった。ミルフォリウムは古名で、エキナシアではミルフォ村と呼ばれているのをソレルは耳にしていた。

 荷物の少なくなった荷馬車の荷台からソレルがおりるあいだに、ホーソンは隊商の長に礼を述べている。ソレルはそれをしりに、あたりを見まわした。

 荷馬車がとまっているのは、石造りの門の内側だ。門には木戸がついているが、門の端からくずれた石垣になっている。砦だったころの名残だろう。壁はほとんどが崩れていて防壁の用をなしていなかった。子どもでもよじ登れば乗り越えられそうだった。撤去したのか自然に崩れたのかはわからない。

 開いている門の向こうは街道だ。陽が暮れるとぼんやりと光を放つ青鉱石が敷き詰められた街道は、帝国のあらゆる土地に網目のように広がっているのだ。この街道は、初代の皇帝が敷設を始めた。月のない夜でも、街道だけはうっすらと闇に浮かび上がる。夜間に往来する者は多くはないが、皆無ではない。そのための措置だった。

 そして門を背に、荷馬車が進んで行くほうを向くと、広がる平野の向こうに、巨大なヘラソード山脈が見える。麓が氷の泥土で覆われているこの山脈の向こうには国交のないリゼンブリアがあり、初代皇帝が帝国を統一してしばらくは、そちらからの攻勢に手を焼いたと、ソレルも歴史で習っていた。ミルフォリウムは当時の名残の土地だ。

「すごいなー……」

 ヘラソード山脈の最高峰は雪豹峰と呼ばれる。未だ白い雪で覆われている威容が、空に突き刺さっているように見える。峻厳なのもあるが、その名の通り雪豹が多く、越えることはたやすくない。

 だというのにリゼンブリアが攻め込めたのは、妖術師の力を借りて兵士を送り込んでいたからだと軍記にも書かれているが、ソレルにはなかなか信じがたかった。妖術師のような異能者は今でも存在するが、すべてが管理され、帝国ではそのほとんどが神祇に関わっている。そのため、日常に暮らす者には、異能はややうさんくさい詐欺のように思われていた。

 ソレルがのんきに景勝に見とれるあいだに、ホーソンは荷馬車からおろした荷物を背負った。旅の荷物は少ない。エキナシアまでは軍の宿舎に無償で泊まれたからだ。その後の二週間は、点在する集落で着用した衣類を洗濯済みのものと交換しつつやってきたので、着替えもない。

「では、またご用がありましたらお声おかけください」

 隊商の長はそう告げると、荷馬車に乗り込んだ。隊商の人数は少ない。荷役が数名と、御者も兼ねる長の十名にも満たなかった。

 帝国の治安は大陸でももっともよいと言われているが、それでもこのような荷運びの隊商が賊の襲撃を受けるのは免れきれなかった。ソレルとホーソンは護衛役も兼ねて同行したので、ここまでの運賃は免除されている。といってもソレルは剣の腕などからっきしで、ホーソンが少し役に立つ程度だ。運良く賊に遭うことはなく旅程が終わったが、隊商は帰路をどうするのだろうと、ソレルとしては気に掛かるところだった。

「ところで、どうしてここで降ろされたんだ?」

 荷馬車はゆるやかな坂道をくだっていく。前方には平野が広がっていて、砦の名残の門が少し小高い丘にあるのが見て取れた。平野はところどころが小径で区切られて、青々とした苗がなびいている。ここは農作が可能な北限だった。

「何をおっしゃるやら。門番に身分証明をするためですよ。そう窺っておりますが」

「だったら門前で降ろされるものでは?」

「まったくその通りですね。私も、門を通り抜けてから気づいて止めてもらったんです。間抜けで申しわけありません」

「ホーソンも寝ていたんだろう」

 指摘すると、ホーソンは黙った。さっと踵を返すと、門に向かって歩き出す。

 石造りの門は、門柱の中が門番のための控え室になっていた。以前からそうなのか、そのように改造したかは謎だ。ホーソンにつづいて門柱に近づいた。門柱の中は洞窟のようになっていた。卓や椅子が置かれている。椅子はふたつだが、中にいたのは三名だった。

「こんにちは」

 ホーソンが声をかけると、立っていた若者が怪訝そうな顔をした。奥に座っていた老人も立ち上がる。

「おお、荷馬車のひとかい。どうしたね」

 老人のほうが先に進み出て声をかけてきた。若者は怪訝そうな顔をしていたが、年長者にまかせるためか、何も言わない。奥は暗がりなので、椅子に掛けたままのもうひとりはどのような様相か、さっぱりわからなかった。

「すみません。本来ならば、入る前に声をかけるべきでした。我々は、皇帝の勅命を受けてこちらに赴任した、駐在官です」

 そう告げるとホーソンは、背に負っていた荷から、辞令を取り出して開いた。木の繊維から作った丈夫な紙には、セイバリー・ソレルをミルフォリウムの駐在官とする旨を刻む活字が羅列されている。たいていこういう辞令の署名は官僚のものだが、これには代筆とはいえ皇帝の名が記され、国璽が捺されていた。

「ああ、あんたたちが皇都から来るってえ駐在さんか」

 すでに話は伝わっていたのだろう。老人が得たりとばかりにうなずいた。

「はい。私は駐在官の従者でファルサム・ホーソンと申します。こちらが、駐在官のセイバリー・ソレル」

 ホーソンが有能な従者なので、ソレルは何もすることがない。手持ち無沙汰なのでそわそわしつつも、相手の反応を待った。

「あれまあ……」

 老人は、ホーソンの掲げた辞令をしげしげと見た。帝国民は、この百年ほどの政策で、識字率が高い。といっても、農民などは自分の名前以外は書くことも覚束ないが、読むことはできるはずだった。だが、この老人はどうだろうか。

「これは、聖上の御名ではないかね。ほんとうに、聖上の勅命なんだねえ」

 ソレルの危惧とは裏腹に、老人はきちんと文字を読めたし、皇帝の署名にも気づいたようだ。

「おわかりいただけたでしょうか。ミルフォリウムへの……すでに入ってしまっていますが、入砦を許可願えますか」

「やあ、それはもちろん。なぁ、堂主さま」

 老人は、門柱の中の小部屋を振り返った。

 すると、奥の椅子に座っていた者が立ち上がる。

「聖上の勅命ねえ」

 その者は小部屋から出てきた。

 粗末な衣類は、門番と同じだ。腿の中ほどに裾が届く上衣と、足首まで包む下衣。黄ばんでいるが、もとは白かっただろう生地に、ソレルは違和感を覚えた。

 皇都で生まれ育ったソレルになじみはないが、農作業に就く者は、もっと派手な色に染めた衣類を身につける習慣があると本で読んではいた。遠くから見てもわかるように、緑色や黄色は避けて。白い生地は、そうした衣類の内側に身に着ける下着でもなければ使わない。

「どれ、見せてごらん」

 その奇妙に思える服装の人物は、進み出るとホーソンの掲げている辞令を眺めた。ソレルはその者に目を奪われた。

 長い黒髪をうなじのあたりで緩く括っている。黒髪なのに瞳は明け方の空のような色をしていた。肌は帝国民に多い淡黄色で、農民のように陽に灼けている風情はない。

 ソレルの目をひいたのは、その者の美貌より、男性か女性かよくわからなかった点だった。男女の差がわからない場合は喉仏を見ればいいのだが、その者の上衣は喉まで隠れる高い襟だった。声も、低い女とも、高い男とも取れた。

「ああ、本当だ。これは聖上の署名だな。先触れで聖上の勅命で駐在官が来るとは来ていたが、……」

 そこで相手は言葉を切って、ちらりとソレルを見た。身長はソレルより頭はんぶんほど低い。ソレルは子どものころに大病をしたのに、めきめきと背が伸び、しかも薬草探しの森歩きをしていただけで特に鍛えたわけでもないのにかなりの筋肉質に成長した。そんなソレルに比べればほっそりとした体つきだ。身に着けている衣類が少し大きいのか、女性特有の丸みがあるかどうかもよくわからない。ただ、骨格はしっかりしているようだ。

「君がセイバリー・ソレル?」

「はい」

 話しかけられ、ソレルはやや緊張しながらうなずいた。相手はその空色の瞳でソレルを上から下まで眺めると、ふふっと笑った。どことなく、いたずらを思いついた子どものような笑顔だった。

「皇都から貴族の坊ちゃんが来ると聞いて、どんな弱々しい令息が来るかと思っていたが、これはこれは。なかなか役に立ちそうじゃないか」

 物言いは男のように思えるが、何故か男と言い切れない曖昧さが漂っている。ソレルはどう対応していいかわからず、なんとも答えられなかった。

「なあ、ヒソップじいさん」

 相手はソレルの戸惑いに気づいていないのか、それとも気にしていないのか、笑いながら横に立つ老人を見た。

「堂主さま、まさかこのおかたをこき使うおつもりですか」

 こき使う、という言葉にぎょっとしたのは、ソレルではなくホーソンだった。

「ミルフォに住めば、駐在官だろうとなんだろうと、協力はしてもらわないとな」

「協力とは、なんでしょうか?」

 戸惑いつつ、ソレルは尋ねた。皇都で軍属とは名ばかりで、時間ができるとすぐに近郊の森で薬草探しをしてばかりだったソレルは、他人と話すことがあまり巧くない。しかし巧くないなりにきらいではないので、知り合ったばかりの相手でも話しかけることくらいはできた。

「いや、いろいろとさ。そんないい体をしていたら、力仕事くらい造作もないだろう」

「力仕事ですか……無理ではありません。業務に差し支えなければ、皆さんのお手伝いもできるとは思います」

 ソレルは思わず微笑んだ。辞令を丸めながら、ホーソンが振り向く。その顔には、余計なことを言って、という表情が浮かんでいた。だが、ホーソンは有能な従者だ。それを人前で口にしない分別はあった。

「こりゃ、ありがたい」

 ヒソップと呼ばれた老人は、ソレルに笑顔を向けた。「そのように言っていただけると助かりますなあ。堂主さまのおっしゃるように、貴族の若さまでは、なかなかこんな田舎にはなじめないのではないかと案じておったのですが」

「ああ、貴族といっても、僕の家は医業なので、たいした家柄でもありませんから」

 ソレルはなんとなく笑ってしまった。おそらく、貴族の駐在官が来ると聞いて、村民はいろいろと想像していたのだろう。

「医業……医師なのか? 軍人が来ると聞いていたが」

 堂主は眉を上げた。医業という言葉ひとつで、相手の雰囲気がやや変わったのをソレルは感じた。

「はい。といっても、外科手術はあまりしたことはなくて、薬草を扱うばかりですが」

 死骸の解剖や外科手術は、したことはある、という程度だ。やれと言われればできなくもないが、しなくて済むならそれに越したことはない。

「へえ……」

 堂主はまた、じいっとソレルを見た。探るような目つきだ。内心でソレルは冷や汗を掻いた。空色の瞳に、心の中まで覗き込まれるような気がしたのだ。

「堂主さま。よろしかったら、公会堂まで送って差し上げていただけませんか」

「俺が行くよ、ヒソップさん」

 それまで黙っていた若者が声をかけた。「堂主さまはきょうはせっかくのお休みなんだから」

「いや、そろそろお暇しようと思っていたところだ。フェンネル、それともわたしに門番をやらせたいのかい」

 堂主はニヤニヤしながら若者を見た。フェンネルと呼ばれた若者は、わずかに顔を赤らめた。

「そうじゃないけど……」

「またそのうち来るさ」

 堂主は若者に向かって言うと、手を振った。「では、失礼するよ、ヒソップじいさん」

「お手間をかけます」

「何、気にするな。わたしだって今ではミルフォの民だ。――さ、行こう」

 最後はソレルに向かって告げると、堂主はさっさと、丘をくだる道を歩き出す。

 ソレルは自分でもわからない胸騒ぎを感じながら、それを追うようにつづいた。


 荷馬車の轍を伝い歩きながら堂主は、追いついたソレルに話しかけた。

「君は皇都生まれなのか?」

「そうです。こちらのホーソンは家僕で、僕につけられた従者です。ホーソンの父が家令で、一家で仕えてもらってるんです」

 ホーソンは、家姓をファルサムといい、母は家政頭で家政を取り仕切り、父は家令、そして兄は父の仕事を継いで、ソレルの代には家令になることがすでに決まっていた。

 使い仕えられる間柄だが、セイバリー家の家格が中流でも下のほうなので、ソレルは家族に近い感覚で接している関係でもある。身分差を弁えているホーソンはそれにいい顔をしないが。

「ということは、そっちは軍人じゃないのか」

 先を行く堂主が振り返る。ソレルの半歩あとを歩いていたホーソンがうなずいた。

「はい。僕、……私は、さきほども申しましたようにセイバリー家の家僕で、このかたにずっとお仕えしています」

「こう見えてホーソンのほうが年上なんですよ。子どものころから面倒を見てもらっているのですが、よく叱られました」

「へえ」

 堂主は目を瞠った。ホーソンはやや幼い顔つきをしているので、いつもソレルより年下に見られるのだ。

「叱るだなんて」

 ホーソンはじろりと横目でソレルを見た。「叱られるようなことをするからです」

「そんなにやんちゃなのかい、この若さまは。見目がいいから女の子を泣かせたりするのかな」

 堂主はどうやらソレルやホーソンに興味を持っているようだ。新入りにうずうずしているようにも見えた。

「残念ながら、うちの若さまはこの見た目でそういうのはからっきしで」

 ホーソンは溜息をついた。いつも人前では余計なことを言わない男だが、堂主が気安く話しかけるので、気が緩んだのだろう。ソレルとしてはそのほうがありがたかった。ホーソンのことは兄のように思っているが、それを言うと、わきまえてください、と叱られるからだ。

「からっきし? てっきり女遊びで放逐されたのかと思ったぞ。こんな辺境にわざわざ貴族の軍人を駐在させるなんて、五十年ぶりくらいらしいからなあ」

「女遊びなどしたこともない朴念仁ですよ」

 ホーソンの言葉にぐうの音も出ない。今回の異動は皇帝直々の任務だが、いい歳だからと降るような見合い話に辟易していたソレルにとっては渡りに船だった。

「朴念仁、ねえ」

 くくっ、と堂主は肩を揺らせて笑うと、ソレルの横に並んだ。しなやかな動きは、しかし優雅さとかけ離れている。何故かソレルは、軍部でたまに見かけた間諜を思い出した。

 もはや今は大戦など起きようもないほど、大陸の政情は安定している。おかげで軍部も形骸化しかかっているが、皇帝はそれでも気を緩めず、各国に非公開の間諜を放っている。個人で一個小隊ほどの働きをすると言われる間諜は、皇帝の勅令のみで動き、同じ軍部でも何をしているかさっぱりわからないのだ。

「まあ、僕は確かに、女性の心が察せず、あまりもてませんので……」

「その見た目で?」

 ソレルがおずおず言うと、堂主は楽しげに尋ねた。

「見た目とおっしゃいますが、その、……あなたのほうが女性には好かれそうです」

 ソレルが言うと、堂主は目を丸くした。

 それから、声を立てて笑う。

「じょ、女性に好かれるって! まあ、確かに好かれるな、うん、……すまん、まだ名乗っていなかったな」

 ソレルが二人称を使ったので、気づいたらしい。堂主は笑うのをやめると、まじめな顔をした。

「わたしはミルフォリウムの廟堂を預かる巫覡かんなぎだ、ゼラという。ミルフォの民はわたしを堂主さまと呼ぶが、ゼラでも堂主でも、好きなように呼んでくれ」

「堂主さま。今後もよろしくお願いします」

「堂主さまを女性と気づかないようなぼんくらなうちの若ですが、お手柔らかに頼みます」

 ソレルの言葉にホーソンがつづけた。

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