【完結済】この夜の果てまでも
菅沼理恵
序章 あの夏の日
一節
夏になると訪れる避暑地の別宅は、森のそばにあった。
別宅といっても大きなものではない。もともとソレルの家セイバリーは貴族階級でも末端に位置する。それは、セイバリー家として名乗ることを許された先祖が、当時から身分階級の外に置かれていた医業の出身だったためだ。建国当時とは扱いもかなり変わったものの、今でも医業は、帝国の七格に分けられる身分に含まれぬ無格とされ、異能者や神祇と同類とされる。
皇帝の住まう皇都におけるセイバリー家の本宅はさほど大きくはなく、使用人も必要最低限しか置いていなかった。貧窮こそしていなかったが、裕福な商人よりは貧しかったかもしれない。皇都の館には正規の家令に世話を
それでも、子どもだったソレルにとって、別宅は本宅より充分に広い屋敷だった。なんといっても庭の果てがどこかわからない。地図上では境が決められているようだったが、杭が打ってあるわけでもなかったので、ソレルはその夏も、いつものように庭をそぞろ歩いた。
本来、秋から学舎入りするはずの年齢に達していたが、幼かったソレルは春のはじめに大病を患った。医業の一族に生まれていたのが幸いして命だけはとりとめたが、目がよく見えなくなり、本に書かれた文字が読み取れないので、今年の学舎入りは無理だろうと判断された。
一時的な症状で、そのうちよくなると医師の父は診断したが、いつよくなるかわからないとも言った。失明しなかっただけましだったと今なら思うが、当時の両親の嘆きは深かった。ソレルは唯一の直系の男子で、本家の跡継ぎで、視力が落ちる前からすでに勉学を始めており、読むのも書くのも困ることはなかったのだ。
賢い子だとよろこばれていたのに、目が見えなくなってからは何もかも覚束なくなった。親族は廃嫡を勧めたが、父は、そんな高貴な家柄でもないと拒んだ。そして、そんな陰口をソレルに聞かせたくないからと、夏になるとすぐに避暑地の別宅で過ごすようにと告げた。
別宅でのソレルの世話役につけられたのは家令の次男、ホーソンである。ソレルより年嵩だが彼もまだ幼く、別宅のあれこれを取り仕切る兄の手伝いもあり、いつも必ずソレルについてまわるというわけにはいかなかったので、ソレルは低下した視力ながら、ひとりで散策していたのである。広い庭だが、以前にも飽きずに歩き回ったおかげで、だいたい何がどこにあるかはわかっていたから、何も危ないことはないと思っていた。
別宅の庭にはあずまやがあり、その先には川がある。そのあたりまでがセイバリー家別宅の敷地だった。小川だが流されると危ないと、いつもの避暑のときは両親に咎められがちだった。今回はその両親がいない。
目がよく見えずとも、困るのは本を読んだり字を書いたりするときだけだったので、ソレル自身はさほど危機感を持っておらず、両親に注意されないのをいいことに、川に向かった。ソレルは今までに見たことがないが、川の中で咲く花があるとホーソンに聞き、今年こそはそれを見たかったのだ。この目では見づらくてわからないかもしれないが、どうしても見たかった。見られずとも、ふれることはできるだろう。
目はよく見えずとも、水の音や匂いなら感じ取れる。燦々と照らす心地よい光の中、ソレルはぼやけた視界の中、転ぶこともなく広い庭を横切って、あずまやに辿り着いた。
あずまやまで来ると、木立の向こうから川音がする。ソレルは用心して、そっと木立の中に入っていった。よく見えないので一歩ずつ進むことになる。だが、ずっと見たかった情景が近くにあるのだ。躓かないように、気をつけて、……何度か躓きはしたが、転ぶことなく、ソレルは木立を抜け出した。
流れる水音がする。ぼやけた視界ながら、川面がきらめいているのがわかる。川岸は石が積まれており、崩れることはない。以前にもこっそり来て知っていたから、ソレルは用心を忘れて近づいた。よく見えないが、近くへ行けば見えると思ったのだ。
「あぶない!」
どこかで誰かが叫んだ。それとほぼ同時に、ソレルの足は石の上の草を踏み、滑っていた。もがいたが、体がどうしようもなく下に引っ張られ、視界にまぶしい空が広がる。
次にソレルが我に返ったのは、腰から下が流れる川に浸かったあとだった。
「おい、だいじょうぶか」
声がした。甲高い、まだ子どもの声だった。それをさがして、ソレルはあたりを見まわした。しかし、川べりの情景がぼんやり見えるだけで、誰の姿も見当たらない。
「なんだ、おまえ、目が見えないのか」
その声が言う。ソレルは何故か恥ずかしくなった。
「うん……」
うなずくと、水の跳ねる大きな音がした。じゃぶじゃぶと、流れをかき分けて誰かが近づいてくる。
「どこの子だ?」
ふいに、腕を掴まれた。同時に尋ねられる。ソレルは怖くなって口がきけなくなった。別宅の隣は似たような貴族の別宅のはずだが、誰が住んでいるかまで、ソレルは知らなかったのだ。
「えっと、……あの……」
「こっちに来い。そのままだと風邪をひくぞ」
腕を掴んだ者はそう言って引っ張った。風邪をひく、と言われてソレルは慌てて相手に従う。春先のいちばんいい時季に寝込んだ記憶はまだ新しかった。
相手に引っ張られて、ソレルは岸に上がった。さきほど立っていた石の積まれた岸ではなく、柔らかい草と土の感触がついた膝を包む。
「おまえ、もしかして、言葉もあまりうまくないの」
問われてソレルはちょっと笑った。
「そうでも、ないよ」
「ああ、しゃべれるんだ。でも目は見えないのか」
「見えるけど、よく見えない。病気で……」
「病気」
相手の声が、少し低くなった。
相手が誰なのか、ソレルにはほとんど見えていない。正面に、誰かがいる、という程度だ。ぼんやりとした影がゆらゆらしている。
「君の髪が黒いのはわかるよ」
「それしかわからないのか」
相手が気の毒そうに呟く。悲しそうに聞こえたので、ソレルは慌てた。
「でも、ここまでひとりで歩いてこられたし!」
「ひとりで? 親は」
「いない」
「……そうか。わたしと同じだ」
来ていない、という意味で言ったが、相手は死んだとでもとったのだろうか。ソレルは慌てた。
「で、でも、平気だから……」
「目も満足に見えなくて、親もいないなんて……わたしよりたいへんだな」
相手の誤解をどうやって解いたらいいのか。しかし、相手に親がいないと知ってしまったからには、どう言っていいのかわからない。困惑していると、相手が、あ、と声をあげた。
「おい、血が出てる」
相手がそっと、ソレルの膝にふれた。そうされると、痛みが生じた。何か、水でないものが溢れているのがわかる。川床に膝をついてしまったから、岩に打ったのだろう。
「痛い、けど、平気だよ」
屋敷に帰ればホーソンが手当てをしてくれるだろう。こっぴどく叱られるではあろうが。そういう意味で言ったが、相手は首を振った。
「平気じゃない。……ちょっと待って」
相手はそう言うと、ソレルの傷にふれていた手を、さらに強く押し当てた。痛い。そして、熱い。
ソレルのよく見えない目でもわかるほどに、相手のふれている部分が、光って見えた。それは太陽から射す光とは違っていた。ぼんやりとして、虹色に感じた。見たのではない。感じたのだ。
「これで傷は塞がったぞ」
しばらくして、相手は手を離した。
「今の、……なに?」
ソレルは、さきほどまで痛みを訴えていた膝をさわった。痛くない。そして、傷もない。確かに、血で濡れた感触がしていたのに。
「異能だ」
相手は笑ったようだった。
「異能……神祇なの?」
異能者は神祇者だというのが、幼いソレルの認識だった。異能で奇蹟を起こしたり、神の言葉を伝えたりするのが神祇者だが、神に近づくには異能が必要なのは知っていた。
「……修業はしていたが、今はしていない。だから神祇者ではないな」
相手はそこで言い淀んだ。「……とにかく、これでだいじょうぶだ」
「ありがとう、……えっと……僕はソレル」
相手の名前を訊くときは、自分から名乗ること。それが両親に教えられた礼儀だった。
「ソレル、……わたしは、……ローズだ」
そこで初めてソレルは、相手が女の子だとわかったのだった。
ローズとはその後、何度か会った。
その夏だけの、友だちだった。
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