二節




 そんな会話をしたあとはどうにも気恥ずかしかったので、ソレルは見廻りと称して外へ出た。ついでに、届いていた手紙の返事を二日かけて書き上げたので、旅芸人の一座にでも託そうと思って、謝礼と郵送費の金銭とともに持って出た。

 村への道を歩き出す。先に出た堂主はもう村に入ってしまったのか、道の途上に姿は見えなかった。

 ソレルはホーソンと兄弟のように過ごしてきた。ホーソンが兄でソレルが弟。だが、親によく躾けられていたホーソンは幼いころからわきまえていて、ソレルが近づきすぎると、若は主人で僕は従者です、とたしなめた。

 そんな彼の気配りもあって、ふたりは近すぎない距離をたもって今まで過ごしてきた。今さらこんなふうに、誰かを特別に想っていると語り合うなどとは思わなかった。なぜかひどく恥ずかしい。

 ミルフォリウムの秋は早い。皇都では暑い日もまだある時季だが、秋分ともなるとひどく秋めいていた。年によっては秋分から二週間後に雪が降り出すこともあるようだ。

 誰かを好ましく思っても、結ばれるとは限らない。その理由を、相手がこちらを同じように好ましく思ってくれるとも限らないからだと今までソレルは思っていたが、それだけではないこともわかってきた。

 村に入ると、かなりはずれのほうなのに、喧噪がかすかに伝わってくる。ソレルは迷ったが、そのまま公会堂へ行くことになった。旅芸人の一座を見ることは皇都でもあまりない。興味はあった。

 公会堂に近づくにつれ、喧噪が強まる。行き交う村人たちは誰もが浮かれて楽しそうだ。おどけた調子で挨拶をしてくる者もいる。ソレルもそれへ挨拶を返しながら楽しくなってきた。楽しさは伝染する。それはとてもよいことだ、とソレルは思う。

 公会堂の前の広場はごった返していた。ミルフォ村にこんなに住人がいたのだろうか、というほどひとが集まっている。公会堂の戸口まで行くと、戸に予定表が貼られていた。これから楽奏が始まるようだ。広場の中央には舞台代わりか、樽がいくつも置かれ、その上に板が敷き詰められていた。そばに積まれた木箱を伝って、今しも誰かがその仮の舞台へ登ろうとしている。

「ああ、駐在さん」

 なんだろうと思っていると、公会堂から出てきた人物が声をかけた。村長のコンフリーだ。

「これはこれは。お楽しみですか」

 微笑みかけられ、ソレルはうなずく。

「いま来たばかりですが、盛況ですね」

「年に一度の祭りですから。いつも賑わいますが、今年は待ちに待ったマジョラム座です。今夜の芝居のあと、あすの昼にはもう発ってしまうのが、残念ですが」

「えっ、もう」

 ソレルはびっくりした。

「ええ、もう三日めですしね。駐在さんはもしや、このところこちらにはいらしてなかったんですか」

「そんなつもりはなかったけど、そうなってしまっていたな」

 三日前に皇都から手紙が届き、以来、返事を書くに費やしていたのだ。村の子どもが届けてくれたのだが、旅芸人の一座が持って来たのだと言っていた。

 ミルフォリウムのような辺鄙な土地では、定期便はあっても往来に長くかかるので、立ち寄る旅人に、郵送費とともに手紙を託すことがある。ひとの善意に頼った手法で、ときには届かないこともあるが、よほどの極悪人でもないかぎり、近くの街から公共の郵便に託してくれるものだ。

 それに、数年前に、皇帝が書簡を故意に廃棄したり、頼まれたのに故意に郵便に出さなかったりした場合の厳罰を取り決めたので、今では手紙の往来は以前より安全になっていた。

 ちなみに厳罰とは、専用の施設に閉じ込めて読み書きを叩き込み、本を読ませて、今まで自分に関わってきた者に手紙を書かせるというものだ。どんな悪人でも、やらされる。そして、文字で伝えることの重要さを思い知らせるのだ。

 そうした施設で更正した者は、次には郵便配達人として全国各地を巡るのである。その職務を放棄したら、次こそは命を奪われるといった具合だ。皇帝はこのように、更正の際に、更正者に知識を教え込み、職につけさせようと腐心していた。その場合、知識を得た悪党が生まれる危険性もあったが、大まかには成功していた。どうやら皇帝は、臣民の知識水準を上げたいようだった。

「手紙が届いたので、ずっと返事を書いていたんですよ。旅芸人にお願いしようと思って」

「ああ、それでしたら、一座の座長が預かってくれるはず……」

 ふいに、澄んだ笛の音が響き渡った。それを機に、ざわついた喧噪がさざ波となり、さらに響いた笛の音におされるようにやんだ。

 急場凌ぎの舞台の上にのぼった女性が、横笛を吹いていた。女性といってもまだ若く、少女めいている。頭の両脇で結って足らした長い金髪がくるくると肩の上で渦巻いていた。浅い青い色の服は、皇都でも見かけた、今年流行の女性の晴着だ。白い靴下と、服と同じ色の靴を履いている。どこからどう見ても可憐な少女だった。

 彼女の奏でる音色は澄んで美しい。曲は、帝国の臣民なら誰でも知っている、古い民謡だった。周囲の国を併呑してきた帝国は広いが、それでも、知らない者はいないだろう。郷愁を呼び起こす曲調を、笛のもの悲しい音色が奏でている。賑やかな祭りにはそぐわないかと思いきや、ソレルがあたりを見まわすと、みな一様に聞き惚れて、涙ぐんでいる者もいた。

 ソレルも、その音色に、ふと子どものころを思い出した。

 大病で寝込む前は元気な子どもで、やんちゃだった。なんでも知りたがり、どうして、と母を困らせた。困った母が、本を読めばたいていのことはわかると言って、字を教えて、同年代の子どもたちより早く文字を読めるようになった。読書の楽しみを知ってしばらくのちに病にかかり、目が見えなくなった。

 当時は、見えにくい、としか思っていなかったが、のちに、快復したのは奇蹟だと父に聞かされた。父が皇帝から賜った薬のおかげだとも教えられたので、ソレルは幼いながら、皇帝に個人的な恩義を感じるようになった。いつか皇帝に、どれほど自分が助かったかを伝えなければと思っていたが、まさか直答をゆるされるとは思ってもみなかった。

 何度か謁見したため、そのことはすでに伝えてある。それを聞いて皇帝は、そうか……と、感慨深そうにソレルを見た。

 ソレルはまた、避暑地で会ったローズに思いを馳せた。最初は男か女かわからなかったのは視力が落ちていたからだが、それは彼女の口調が女の子らしくかったせいもある。なんだか堂主に似ているな、と思った。そこで、ハッ、と我に返る。

 ローズは傷を癒してくれた。異能者だった。……堂主と同じだ。

 だから、堂主に惹かれているのだろうか?

 よく知らぬ自分の痛みを癒してくれたローズを、ソレルは、やさしい子だと思った。川に落ちたことがばれないようにと服が乾くまで待ってから帰ったのでホーソンにはこっぴどく叱られたが、ソレルはその後も何度も川に行った。行くとローズがいて、遊んでくれた。

 ローズはソレルより年上で、体が大きく力も強かった。女の子なのに木にものぼっていたので、貴婦人はそんなことはしないのでは、と言ったことがある。するとローズは高らかに笑って、わたしは貴婦人じゃないからな! と叫んだ。……その物言いも、声を立てて笑うところも……堂主と似ているように、思えた。それとも、あまりにも昔の記憶なので、堂主の印象が重ねられて同化してしまったのだろうか。

 曲が終盤に近づき、印象的な繰り返しが始まる。ソレルは観衆が聞き惚れる中、俄に蘇った遠い記憶との奇妙な符合にどぎまぎした。ローズは、堂主なのか。堂主は、ローズなのか……

 帝国は広い。臣民ももちろん多い。そんな中、子どものころに一度だけ会ったローズという名前しか知らない少女と、再会することなどあるだろうか。ソレルは今でもローズのことを忘れていない。

 それでも年々、記憶は薄れていく。

 軍人になる前にふと思いついて、避暑地の別荘の隣は誰の持ちものか調べたが、ソレルが調べられる範囲では何故か記録が削除されていて、わからなかった。今は貸別荘になっていて、裕福な商人が借りるようだ。記録が削除されるなど、よほどのことでもなければあり得ない。よほどのこと……皇帝の権限でもなければ。

 なんだろう。ソレルは胸騒ぎをおさえた。さまざまな破片が、ソレルの中で繋がろうとしている。だが、今ひとつ、繋がりきらない。何かが、足りない。

 曲がゆっくりと余韻を残してやんだ。見ると、舞台の少女はぺこりとお辞儀をする。周囲を観衆が取り巻いているので、彼女は何度も、方向を変えてはお辞儀をした。観衆が喝采する。あんなに郷愁を招く曲だったというのに、みんな、興奮していた。

「素晴らしい演奏でしたな」

 隣の村長を見ると、涙を拭っていた。「いやはや……昔のことを思い出しました。村長を継ぐのがいやで、家出していたころのことを」

「家出」

 ソレルは思わず目を瞠った。「していたんですか、村長さん」

「ええ、……愚かな粋がった若僧だったもので……荒事にも手を染めましたが、慕ってくれた女を死なせて、後悔したんです。私は彼女を特別に想ってはいませんでしたが、彼女は私に、楽しくないのはだめよ、と言い聞かせてくれました。……その話を聞いて泣いてくれたのが、今の妻ですよ」

 その話に、ソレルは微笑んだ。

「僕は、子どものころのことを思い出しました。大好きだった友だちを……」

 ざわざわと観衆が語り合っている。それを聞くともなしに聞いていると、どうやらみんな、曲にいざなわれて、遠い昔のことを思い出していたようだ。ソレルはなんとなく奇妙に思った。確かに郷愁を誘う曲調だったが、このように、観衆のほぼすべてが、涙ぐむほどに遠い昔の想い出を口々に語り合っているのは、やや異様にも見えた。

 だが、……それは穿ちすぎな考えだろうか。そんなふうに考えたとき、人波をかき分けて、堂主がやってきた。

「おお、堂主さま。いらしていたんですか」

「ああ、……祭りだしな」

 何故か堂主は、険しい顔をしていた。今の曲を聴いていなかったのだろうか。

「今の子、……笛を吹いていた子は、なんというかわかるか?」

「どうか、なさったんで?」

 村長が驚いたように問い返しながら、振り向いて戸に貼られた予定表を振り返る。「こちらに書いてありますね……笛の楽奏は、アニスさん、のようです」

 奏者の名前を、村長は読み上げる。堂主は険しかった顔を、少しだけ緩めた。

「アニス……知らない名だ」

「そうですね、新人のようだ。あるいは、たまたま合流した奏者かもしれません」

 旅芸人の一座は、固定の座員はもちろんいるが、途中で個人の芸人を拾って同行させることもあるのだ。だが、堂主の言った知らないとは、そういう意味ではない気が、ソレルはした。

「何か、気になることでも?」

 村長が怪訝そうに問う。堂主は、ふふっ、と笑った。何かを隠したようないつもの笑顔だった。

「あんなに若くて可愛くて、吹笛も最高だ。なぜ旅芸人の一座にいるのかと思ってな。皇都の楽団にいてもおかしくなさそうじゃないか? なあ、駐在さん」

 話を振られ、ソレルは戸惑う。確かに堂主の言う通りではあったが、何か、だいじなことを堂主が隠している、そんな気がした。

「もしかしたら、皇都の楽団では席がなくて、修業の旅に出ているのかもしれないですね」

 ソレルは当たり障りなく答えた。堂主のようすがおかしいことにソレルが気づいたのを彼女に気づかれたくなかった。そうすれば、堂主はますます、隠そうとするだろう。何やら胸騒ぎがする。

「なるほど、そういうこともあるのか」

「あるようですね」

 ソレルはうなずいた。堂主は納得したそぶりを見せた。

「興味があるなら、お話ししてみたらいかがですか」

 そう言うと、堂主は少しびっくりしたようにソレルを見た。しかしそれは一瞬だった。すぐに彼女は笑ってみせる。

「それもいいな! 機会があればだが。あんな素晴らしい吹笛をするなんて、人気者だろう。見た目も可愛いし、男どもが群れて寄りつけないんじゃないかな」

「そのへんは、座長が適当にいなしてくれますよ。今夜、踊りのあとでもてなしをします。どちらにしろ、堂主さまも駐在さんも、ぜひいらしてください」

「やあ、それはうれしいですね。僕は手紙も預けたいし……できれば座長さんに」

 やや急いで、ソレルは答えた。「宴とあれば、ごちそうが出るんでしょう。ねえ、堂主さま」

 ソレルは、堂主が吹笛の少女に興味を持ったことに気づいた。であれば、ごく自然に堂主が彼女と会話する機会を作ったほうがいいだろう。そう思ったのだ。

「そうだな、冬の前の最後のごちそうだからな。ぜひにとこちらからお願いしたいよ」

 堂主は朗らかに、村長の招待を受けた。


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