三章 秋から冬
一節
夏の暑さが和らぐと、もう秋だ。ミルフォリウムの夏は短かった。
秋になると玉蜀黍の収穫がある。それが終わると今年の農作物の収穫はおしまいだ。そのあとに小麦の種を蒔き、農家の一年の仕事は完了となる。
秋祭りは秋分日の前後数日を費やされる。商人はこのときばかりと古い小麦を安くして売り払い、それを使ってパン屋は菓子をつくり、商店に卸す。旅芸人の一座もやってくる。
各地を巡回する旅芸人の一座はいろいろあるが、今年は、帝国でも一、二を誇るマジョラム座がやってくるので、村人たちは沸き立っていた。マジョラム一座には芝居に音楽、踊りに歌と、娯楽の何もかもが揃っている。村長のコンフリーが伝手を辿って手紙を出して以来、十年に一度は巡ってくるそうだ。
村は大賑わいだった。旅芸人の一座が来ると、門番の若者、フェンが走って報せに来た。村人たちはこぞって出迎えに出た。
のぼりを立てた一座の馬車は何台も連なって訪れた。奏者が楽器を鳴らし、道化が愉快な口上を述べて村人たちの気を惹く。そんな旅芸人の一座は滞在中は公会堂に寝泊まりし、午後から夜遅くまでさまざまな催しで村人たちを楽しませた。村人の中の多くは農民だ。これから寒くなり、することは農機具の修繕くらいしかない。そうした退屈な日々の前の祭りを楽しみにしていたのだろう。それはもう大騒ぎだった。
「君たちは祭りには行かないのか」
堂主は、ホーソンの入れた麦煎湯を飲みながら言った。ミルフォリウムでは果実酒も貴重品なので、水以外の飲みものはもっぱら麦煎湯だ。皇都で嗜好品として好まれる豆炒湯は牛乳や果実酒より貴重品だ。貴重というよりほとんど知られていない。
牛乳に至っては、乾酪などの加工品しかない。赤ん坊の乳の代わりになるものがなく、以前に堂主もこぼしていたが、産婆が老齢なのもあって、ミルフォ村の女は子どもができると安定期にエキナシアに行くようになっていた。あちらで出産するのである。
だが、身重で旅路はつらいものだし、子どもが乳離れするまで戻ってこられない。そんな問題は最近顕著らしく、村長は牧畜ができないかと検討中だった。その話を聞いてソレルは、牛より山羊の乳のほうが母乳に近いから、飼うなら山羊を飼ったほうがいいと提案した。山羊は活動的で扱いにくいと思われがちだが、寒さや乾燥、そして粗食に強い。それに、可愛い。食に困ったときは山羊汁にもできる。よいものだ。冬が過ぎたら山羊を仕入れる算段を、村長は整え始めていた。
「祭りですか……」
ソレルは、うーん、と考え込んだ。駐在官としては、浮かれる村人のあいだで揉めごとが起きないか、見廻るべきだろう。しかし、今まで五十年も駐在官がいなくても、ミルフォ村はそれなりに穏やかにやってきたのだ。窃盗などは多少起きていたらしいが、殺人はないと聞いている。ある程度の基準を満たした村の若者が自警団を形成して対処しているためもあるだろう。そんな面でもミルフォ村は自立した小国のようだった。
「僕は留守番をしているので、若はお出かけくださってかまいませんよ」
ソレルの前に麦煎湯の湯飲みを置いてから、ホーソンは言った。ソレルはちらりとホーソンを見上げる。食事のときはいつもソレルの斜め後ろで給仕をするホーソンは、ちょっとだけ、笑っているように見えた。
「なんだ、君は行かないのか。楽しいぞ。旅芸人は愉快な芝居やら、歌や踊りやら見せてくれる」
皿に落ちたパンのかけらをつまんで口に放り込みながら、堂主は言った。
秋になった今、駐在所のパン焼き竈はしっかり使われている。しかし、ホーソンが、直ったパン焼き竈の前でうれしそうにあれこれ確かめているのを見ながら、昼に廟堂に行く必要がなくなったなと、ソレルは少し淋しくなったが、その場に何故かいた堂主は、じゃあこれからこちらに来ればいいな、と言った。ソレルとホーソンには、ふたりで顔を見合わせた。
堂主曰く、これまで三人ぶんのパンを焼いてもらっていたので、パン種の費用が嵩んでいるのだという。廟堂は帝国から予算をもらっているが、一年の最初に賜る食費が、三人ぶんのパン代で底をつきかけているらしかった。
そう言われれば、ソレルも否やはない。積極的に堂主を食事に誘えた。おかげでこのところ、堂主は毎日、昼になると駐在所へやってくる。パン焼き番の娘たちは、パンを焼かずとも堂主の世話をしたいからと、昼前には廟堂を訪れるので、それと入れ替わりに来ているのだ。ソレルとしてはうれしかったが、パン焼き番の娘たちに恨まれているのかと少し気になってはいた。
ホーソンはそんな堂主に呆れていたが、半年近くパンを食べさせてもらっていたので、堂主の言ももっともだと思ったらしく文句は言わなかった。ただ、その日、堂主が帰ってから、ホーソンは、若はどうやら振り回されるのが苦でないようだ、と軽く揶揄した。
はっきりとは言わなかったが、ソレルが堂主に心を寄せていることに、ホーソンは気づいていたらしい。しかしホーソンはよくできた従者なので、それ以上何も言わない。ソレルにはそれがありがたかった。
貴族だと、どうしても跡継ぎの子どもをもうけなければならない。皇帝が女性であるように、後継者の性別はさして問題ではなかった。身分によって範囲は異なるが、セイバリー家は、ソレルから見て五親等以内の養子ならば後継者として認められるはずだった。
ソレルは体こそ成長したが、幼少に患った大病のため、子どもができるかどうかわからないと、第二次性徴があらわれたとき父に告げられている。だからといって女性を弄ぶようなことはしてはならない、ともきつく言い渡されていた。
父のそうした感覚がかなり厳しいのは、望まぬ妊娠をさせられた女性の堕胎手術をしてきたからだろう。父は、手術で救えなかった患者だけではなく、そのように意図的に命を絶つこともしてきたので、自分を殺人者に等しいという認識を持っているらしい。自身ににはとても厳しい父なのだ。
そんな父や、父が選んだ母のことは、愛しているし、感謝している。だが、ソレルに子どもができなければ、そのうち親戚にとやかく言われるだろう。結婚していないことでさえとやかく言われるのだ。それが申しわけなくて、しかしどうしようもなくて、ソレルは考えると少しつらかった。
「騒がしいのは苦手なんです」
ホーソンは澄まし顔で答える。「僕は休日になったら、しずかに自室で読書をしていたいので」
「読書。ふうん。読書ね」
堂主はにやにやした。
ホーソンの趣味が読書なのは事実だ。それは今まで、彼が従者として主人の顔に泥を塗らずに済むようにと、知識を得るための手段でしかなかった。だが、今はそうでもないのでは、とソレルは思っている。といっても、ソレルはひとの心の機微に疎い。ホーソンが書店の店番をしているマリーに会いに行っているとしても、そうでなくとも、特に何も言うつもりはなかった。ちなみにホーソンはソレルよりふたつ年上で堂主と同じ二十九で、マリーは来年には二十歳になるらしい。
「マリーは可愛いしな」
堂主がそう言ったので、ソレルはのみ込みかけていたものを詰まらせそうになった。それをなんとか麦煎湯で流し込む。
「ええ、マリーさんは可愛いですね」
ホーソンをちらりと見ると、澄まし顔でうなずいている。改めてソレルは、ホーソンを見習いたいと思った。
「最後は公会堂の前の広場で、みんなで輪になって踊るんだ。若者は意中の女の子を誘うんだ。マリーは可愛くて愛想がよくてもてるから、たくさん申し込まれてるだろうなあ」
堂主はさらに言葉を重ねた。ソレルはちょっとはらはらした。どことなく挑戦的な物言いに感じたからだ。
「堂主さま。堂主さまはご自身を若者と思われますか?」
問いかけるホーソンの声は、単調だった。感情がこもっていない。
「いや。わたしも来年は三十だ。さすがにそれはおこがましい」
二十代に入るとだいたいの男女が結婚する。しかし皇都には、三十を過ぎても独り身の女性が増えていた。皇帝が女性のためか、家を切り盛りせず外に働く女性が増えていると言われていた。平民でも、令嬢につけられた家庭教師や、侍女頭、看護人などであれば、比較的高給で、女性ひとりでも生活が成り立つため、独り身でいられる。
しかし、男でも女でも、ひとりで暮らすより結婚したほうが生活が安定するという考えは未だに根強く残っていた。男でも女でも、三十近い、あるいは過ぎても独り身でいると、周りに心配される。何か欠陥があるのではないかと。そういう意味では、ソレルは実家から離れられたのは実はありがたいことだった。
実のところ、秘伝の薬草探しの任務は、可能であれば勅命にしてくれとソレルが皇帝に頼んだのだ。皇帝はおかしそうに笑って、内容が内容でもあるし、とそうしてくれた。
皇帝の勅命なら、実家を出て遠方に住んでも仕方がない。となれば、結婚せず、子どもをつくることができなくても仕方がない。そう、両親もとやかくうるさい親戚に言える。
そのうち、……二十年も経てば、実の息子のソレルでなく、養子をとって跡継ぎとすることも問題なくなるだろう。なんなら書類上の手つづきだけして自分の養子にしてもいいとソレルは考えもするのだった。
「ですよね。僕は堂主さまと同じ歳です。では、若者ではないでしょう。お祭りで騒ぐ時期はもう過ぎたんです」
ホーソンの声は淡々としていた。怒っているわけでないのはわかる。これは、ソレルが何かしでかしたとき、それをしてはいけない理由を諭すときの口調だった。
「マリーさんは可愛いですが、親しくしても、妹のようだなと思うだけです。僕は彼女の叔父さんのほうが歳が近いんですよ」
歳の離れた男女で結婚することだってあるだろうとソレルは思った。十歳くらいなら平民でもあることだ。
「……なるほどね」
堂主はそう呟いた。「君はずいぶんとまともだな」
「まとも、とは」
ホーソンの声に笑みが混じる。「お褒めいただき光栄です」
堂主は食事を終えると、祭りに行くと言って出た。
「ホーソンもお祭りに行ってもいいのに」
食器をかたづけるホーソンに、ソレルは言った。しかしホーソンは肩をすくめた。
「若もそんなことを言うんですか? まったく、あの堂主さまに毒されたものですね」
やれやれと溜息をつく。「朴念仁なのに、余計な気を回さなくてもいいんですよ。僕はマリーさんとは親しくしていますが、若の従者です。若は駐在官で、いつか皇都にお戻りになるんでしょう? ミルフォ村の女の子と深い仲になったら、のちのち困ることになります」
ホーソンはよい従者だ。そして賢い。だが、そんな彼がそのように考えているとは思わなかったので、ソレルは驚いた。
「ホーソン……でも、マリーは、本が好きだ。もし君と仲良くなって、僕たちが皇都に戻ることになったら、……一緒に皇都に行けるとなったら、よろこぶだろう」
「何をばかなことを言ってるんですか?」
ホーソンはやや、怒ったようにつづけた。「彼女は両親を亡くして、まだ若かった叔父さんが、書店を営みながら育てたんですよ。彼女がいなくなったら、叔父さんはひとりになってしまう。それに、彼女はミルフォ村が好きなんです。本をたくさん読みたいと思っていて、機会があれば皇都に行きたいと思っているとしても、皇都にずっと住んで、貴族の従者の夫を持ちたいなどとは考えないのではないでしょうか」
ソレルは反論できなかった。しかしそこまで考えているということは、ホーソンは、わりと本気でマリーを大切に思っているのではないだろうか。そう考えると、どうにもやりきれない。自分がミルフォリウムへ異動にならなければ、ホーソンもこんな思いはしなかったはずだ。それに、……もう二度と皇都には戻れないかもしれないことを、ソレルはホーソンにさえ伏せていた。それを告げれば、ホーソンはマリーともっと仲良くするだろうか。そうできるなら、してほしかった。だが、勅命の詳細は、口外はできないのだ。
「ごめんね」
口をついて出た言葉に、食器を重ねていたホーソンが眉を上げる。
「何がです」
「君を連れてきたばかりに、なんだか、……せつない思いをさせてしまったような気がして」
「何をおっしゃる」
ホーソンは鼻でわらった。「知らないより、知っているほうがいい。どんなよいことも、よくないことも、です。奥さまがよくおっしゃいますよね。そういうことです。若には感謝しているんですよ。僕はこのミルフォリウムへ来て、マリーさんのような女の子がいることを知れて、よかったですよ。こんなふうに、誰かに対して、大切にしたい、と思ったのは、ひさしぶりです。これも、若のおかげです」
ソレルはそんなホーソンを見上げた。
「ホーソンは、すごいな……僕だったら、そんなふうに思えたかな」
「どうでしょうね。でも、似たようなことを思うんじゃないですか。……堂主さまと会えなかったほうが、よかったですか?」
その問いに、ソレルは思わず、じわじわと熱くなる顔をホーソンから背けた。
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