四節




 その後は特に事故もなく、二週間ほどで橋の修繕は完了した。

 やがて夏至になり、雨季に入った。ところによっては夏至の祭りがあるが、ミルフォ村で祭りがあるのは春分と秋分の日だという。農民の少ない皇都では夏至の祭りがあるが、短い夜に花火が上がって盛大なものだ。若者は意中の女の子を誘って街に繰り出す。街には露店が並び、さまざまな菓子が売られたり、遊戯ができたりする。しかし、それも皇都周辺の行事だ。帝国は広い。雨季や乾季も、土地によって異なる。

 帝国でもこのあたりは、南からの風がヘイラート山脈まで吹き寄せ、雲を集めて雨を降らせる。秋口になると嵐も多いようだ。ミルフォ村の農民は小麦農家がほとんどで、ほかは馬鈴薯と玉蜀黍などだ。どれも食卓には欠かせない。牧畜はほぼしていないに等しく、農民が飼っている鶏はもっぱらたまごのために育てられ、老いて死ぬとありがたい蛋白源になる。

 東側にはエキナシアからの途上にある森の延長線があるので、なまの獣肉は余裕のある時季に農民がそちらへ狩りに出て手に入れていた。兎や鹿もいる。西の川向には猪もいるが、狩りに出るのは秋の小麦の種蒔きが終わってからが多いらしい。

 雨季のあいだはなかなか外出しない。雨よけの傘はあっても、貴重品だ。皇都では傘はおもに日傘として用いられ、雨が激しく降るときは、商人でもなければ滅多に外出はしない。しかしセイバリー家は医業のため、雨の中をどうしても出ていかなければならないときがあり、そんなとき、歩いて行ける場所であれば、父は油を塗って強化した雨傘を使って向かっていた。

 雨傘はミルフォ村では使われるものの、家に一本あればましという段階だった。しかし官舎にはありがたいことに傘があった。煉瓦は届いているが、石工が橋の修繕に携わっていたので、パン焼き竈が直っていないのだ。

 雨が長くつづくと、ひとはあまり外に出なくなる。そのせいか、堂主はソレルがホーソンを伴って赴くと、うれしげに出迎えてくれた。

 堂主がそんな態度だと、ソレルもうれしい。だが、堂主は誰が来てもうれしいのだろう。ソレルはそう、自分に言い聞かせていた。




 雨季が終わると本格的な夏の到来だ。ミルフォ村の小麦農家は収穫でとたんに忙しくなる。

 駐在官としてのソレルの役目は、駐在することそれ自体ではあるが、住民の街区の見廻りもある。いつもは廟堂で昼食にあずかって、午後になってから向かう。

 だがその日は、朝早くからやってきた堂主に叩き起こされた。

「君、まだ起きてなかったのかい。寝惚け眼で」

「いや、……いつもならまだ寝ている時刻ですよ」

 夏なので陽が昇るのは早くなっているが、その陽がのぼると同時に官舎の外から大声で呼ばれたのだ。何ごとかととび起きたホーソンが堂主を迎え入れ、ソレルを叩き起こした。ソレルは何ごとかと急いで洗顔を済ませたが、堂主がまずは話をしたいと急かしているとホーソンに言われ、夜着のまま広間へ向かった。

 寝惚け眼も何もない。戸口に立った堂主の後ろはまだうっすらと明るい程度だ。夏でこの時刻は、冬ならばまだ暗いだろう。ソレルは朝まだきというのにどっと疲れを感じた。

「きのう来たときに言い忘れた。きょうは七月の最後の日だ」

「そうですね」

 ふわあとソレルはあくびをした。「それが何か……」

「以前に約束しただろう。森の案内をすると」

 夏だが、長袖の上衣と足もとまで隠れる長い裾の下衣を身に着けた堂主は、背嚢を背負っていた。そんな格好をしているのは、森歩きのためかとソレルは納得した。しかしせめて、前日には教えてほしかったとも思う。

「それに、キュラスが盛りのはずだ。ついでに見に行こう」

「キュラス……」

 懐かしい名にソレルは一気に目をさました。それは水中で咲く花だ。遠い昔、避暑地の川まで見に行った。

「キュラスの咲く川があるんですか?」

 キュラスは川の中でしか咲かない花だ。湖沼では育たず、栽培するにしても流水でないとむずかしいので、養殖は実現できていない。

「ああ。森には小川がある。その中に咲いているのを見たことがある」

 ソレルが興味を示したからか、堂主はつづけた。「キュラスは薬用ではないが、食べられるからな。ふと思いついて食べたくなったんだ」

「ああ、……それはいい考えですね」

 夏のうちは青物が豊富でいくらでも食べられる。それを考えると腹が鳴った。

「それはいいですが、山歩きをするなら着替えないといけないし、朝食も食べないといけないので、もう少しお待ちください」

「そうなるだろうと思って、朝食は食べてこなかったんだ。パンは持ってきた。ご相伴にあずからせてくれ」

 いつも昼食のパンを分けてもらっているのだ。否やはない。それに、いつも自分が神祇館に訪れていたせいか、堂主が来て食事をするのは滅多にないことだった。

「どうぞお入りください」

 ソレルはにこやかに言って、堂主を招き入れた。




 着替えて腹もくちくなったソレルは、堂主の案内で森へ向かった。

 森につく頃には陽も高く上がっている。降り注ぐ陽射しは、北限の地でもかなり強まっていた。堂主が早く来たのはそのせいかとソレルは森の中へ入ってから察した。森までの道のりは日陰になるような木さえ生えていなかったからだ。それが、ある箇所から木々がびっしりと生えている。まるで囲いでもしたかのようだなとソレルは思った。

 木々が密集した森の中は、空気がひんやりとして心地がいい。

 森はさまざまな木が生えており、道はほぼないに等しかった。そんな中を、堂主は身軽に歩いた。ソレルも山歩きは慣れているから、それについていくのは苦でもなかった。

 森に入ってはんときも経つと、森の様相が変わってきた。水音もする。

「こっちこっち」

 堂主が子どものように笑いながら早足で歩く。それが可愛らしくて、思わず微笑みながらソレルは彼女のあとを追った。

 やがて目の前がひらけた。

 目の前には、崖から落ちてくる滝がある。落ちたところは澄んだ淵になっていて、そこから水が流れ出ていた。滝の飛沫が霧のようになって、あたりを白ませている。

 その清涼な水音が耳に涼しい。

「おお、これは……素晴らしいですね」

 堂主が急いでここに来たかったのもわかる気がした。森の中の滝と、淵から流れる川。その情景は見とれるほど美しかった。

「きれいだろう。この世でいちばん美しい場所だ」

 堂主は自慢げだ。「ここだと、陽が強くても涼しいんだ」

 確かに、滝から漂う飛沫のおかげで、湿っていても涼しい。ソレルはおずおずと淵へ近づいた。

「いつもひとりでここに来ていたから、来たらすぐにここで水浴びするんだよな」

 堂主は笑って言った。

「ここで? 危なくないですか」

 ソレルは驚いた。

「そうだな。鹿が水を飲みに来たりしてる。猪は怖いが、鹿くらいだったらなんとかなると思って」

「そういう意味ではないですよ。ほかに誰か来たら」

「この森に夏に入る者は少ないよ。食べられる草は森の端に生えているし、このあたりに生えている木に実がなるのは秋だから」

 ふふっと堂主は笑った。「それに、ここに来るのはたいていミルフォ村の者だからな。べつに危ないことはない。まあ、たまに……」

「たまに?」

「狼が来る」

 ソレルはぎょっとした。

「やっぱり危ないじゃないですか!」

「でも、獲物をとったあとだったからか、べつになんともなかったぞ。仔狼が可愛かったな。ころころしていた」

 可愛かったと堂主は無邪気に言うが、ソレルとしてはぞっとするばかりだ。

「ああ、剣を持ってくればよかった。僕はそんなに強くありませんが……」

「何言ってるんだ。狼なんて剣でどうにかなるわけない。跳びかかってきたらなんとか口に手を突っ込んで喉まで入れれば口を閉じられなくなるから、その隙に横から首を掻っ切るんだ。だから短剣のほうがいいな」

 堂主は淵のきわの平らな岩に膝をつきながらそんなことを言う。ソレルは戸惑った。堂主が何故、そんな狩猟方法を知っているのか。その口ぶりは、まるでそうしたことに長けているかのように聞こえた。

「この流れの下流に、草原がある。そこに、かなり薬草が生えていたと思う。君を案内しようと思っていたのはそこだ。少し休んだら、行ってみよう」

 堂主はそう言うと、淵に手を入れて水を掬い、顔を洗った。自分を連れていなければ淵に入っていたのだろうかと、ソレルはそれを見ながらぼんやり思う。堂主の楽しみの邪魔をしてしまったのではないだろうか。

 とは言え、気遣いはありがたかったので休むことにした。淵の水は飲むと腹を壊すかもしれないからと止められて、堂主を真似て顔を洗うだけにする。歩いてきて疲れたので足を浸けたい気もしたが、そうすればあとで余計に疲れることもわかっていたので我慢した。帰ったら風呂を浴びればいい。

 平らであたたかい岩の上に脚を伸ばして座り、しばし休息をとりながら、飛んでいる小鳥を眺めたり、ときには栗鼠や兎が駆け回っているのを眺めたりした。この淵はあたりの動物の水場のようだった。動物たちは人間がいるので怖れながらも、対岸で水を飲んではささっと逃げていく。それを眺めながら堂主は、旨そうだな、と呟いた。ソレルも気持ちはわからないでもない。ミルフォ村では兎も栗鼠も獣肉だ。

「前に、……ここに来たばかりのころ、どうも居づらくて、この森で過ごしたことがある」

「いづらくて!」

 ふとした拍子に語り始めた堂主の言葉に、ソレルは驚いた。「堂主さまがいづらかったんですか」

「君、言ってくれるな」

 むっ、と堂主は、横に座ったソレルを睨んだ。「君の前任者はろくでもなかったが、わたしの前任者は老人だったがなかなかの傑物でな、村人には慕われていたんだ。それで、……村人は、後任が若い女なんて、と思ったらしい」

「それはそれで、たいへんだったでしょうね」

 ソレルは急いで言った。堂主の気を悪くさせるつもりはなかったのだ。しかし、堂主は本気で怒ったわけではないようだ。すぐに笑顔になった。

「若い男や女の子たちは、この見た目ですぐに籠絡できたが、逆に見た目のせいで、村の中心の小父さん小母さん連中は、わたしをろくでもない女が男との火遊びのせいで放逐されてきたのではと疑っていたようだ。どうも、娼婦では、と思われていたふしがある。こんな体つきなのにな。娼婦はもっと豊満なものだろうに……」

 堂主は自嘲した。

 ソレルは驚いた。ミルフォ村には娼館があるが、ごくちいさなものだ。行く者はいても、小さな村なので、みんな、ふだんはないものとして素知らぬふりをしている。あからさまに差別されているわけではないが、おおっぴらに娼館の者とつきあいがあるとは、取引があるであろう商人でも口にしなかった。おかげでつい最近まで、ソレルも娼館があることにまったく気づいていなかった。想像の範囲外でもあったので、これではホーソンに朴念仁呼ばわりされても仕方がない。娼館とはそういうものなのだろう。娼館で暮らしている者たちにもそれはわかっているようだった。

「それは……ひどい話ですね」

 ソレルはそうとしか言えなかった。今でこそ、前任者のおかげでかかっていた疑いも晴れ、ソレルが見廻りをしていると、駐在さん、と声をかけ挨拶をしてくれる者も増えた。誤解がとけると気のいいひとたちばかりだと思える。

「ミルフォ村は、ほかの街から離れているからな。どうしても閉鎖的になりがちで、よそものが留まると、最初は厳しいんだ。仕方のないことさ。特に気にしちゃいないが……どうにも鬱憤が溜まってな。一週間ほど、この森で過ごした。ひさしぶりに狩りもして、楽しかったな。この滝はそのときに見つけたんだ」

 神祇者は肉食を禁じられているわけでもないが、潔斎で口にしないよう心がける者も多い。それ以前に、神祇者は狩りをしないだろう。それが気になったが、ソレルは問わずにおいた。

 橋の修繕のときに聞いた、堂主の話を思い出す。

 神祇者といえば、子どものころから異能を見出されて選別され、修業に入ると思っていた。だが、複雑な身の上の堂主はほかの生活も知っているのだろう。ソレルは彼女のこれまでを知りたいと思うが、自分から訊くのはためらわれた。こうして語ってくれるのは、堂主がソレルを、自身と同じよそものだと感じているからかもしれない。ソレルは、それだけでいいと思うように努めた。

「森はいいな。好きだ。身を隠すのには最適だし、……」

 そこで堂主は口を閉ざした。しゃべり過ぎたと思ったのだろうか。ちらりと横目で見ると、彼女はぼんやりと水面を眺めていた。

「……だめだな。君といると、どうも口が滑っていけない」

「こういうことを言うのはどうも、気恥ずかしくていけないんですが」

 ソレルは勇気を奮い起こして、堂主を見た。堂主も、うん? と、怪訝な顔でソレルを見る。

 空色の瞳は美しかった。

「堂主さまはもう馴染んだかもしれませんが、ミルフォ村ではやはり僕と同じよそものだというなら……いろいろとたいへんだと思います。僕は、愚痴くらいなら、伺いますよ。すぐに忘れてしまいますし」

 そう告げると、空色の瞳が、ゆっくりと瞼に覆われた。そしてまた、ゆっくりと空が現れる。

「君は、いいやつだなあ」

 しみじみと、堂主は言った。「愚痴の吐き捨て場にしてくれなんて、とても言えたもんじゃないだろう」

 そういう意味ではないのだが、とソレルは苦笑した。だが、それは言わずにおく。

「僕の父は医師で、診療所に勤めていたんですが、のちに皇帝が新しく作らせた病院に、外科手術の技量を買われて移りました。最新の技術や薬剤で治すというのが触れ込みでした。……でも、治らない病気はあります。それと、……生まれられなかった子も」

 そこで、ソレルは溜息をついた。「父はその病院で外科に勤めました。怪我の切った張ったはともかく、……ときどき、女性で、骨盤がひらかないからと、出産できず、開腹手術をすることがあります」

 なぜ、こんな話をしてしまったのか。ソレルは術式の説明をしようとしてはたと思いとどまった。女性に聞かせる内容ではない。堂主は気にしないだろうが、ソレルがしたくなかった。

「それはすごいな。君の父上は、すごいひとだな。それで、何人も母親や子どもが助かったんだろう」

「それは、そうですが……だけど、助けられないときもあります。分娩にあまりにも長くかかって、手術が遅きに失すると、開腹しても子どもがすでに死んでいたりします。そんな母親の腹を縫い合わせても、悲しみで体を弱らせて亡くなったりもします……そういうとき、父は僕を膝にのせて、よく言っていました。とてもだいじなことを」

「なんと?」

「それも忘れてしまいました」

 堂主の問いに、ソレルは真顔で答えた。

 堂主は呆気に取られた顔になった。

「き、君……」

「だから言ったじゃないですか、僕は忘れるんですよ」

 さらに言い継ぐと、堂主は呆れ返ったようだ。

「それは……それは、それは」

 何度も繰り返している。ソレルはちょっと笑ってしまった。

「とてもだいじなことを言っていたとは思うんですよ。でも、父が悲しそうで、その悲しみに気をとられていたから、右の耳から左の耳へ抜けていってしまったんでしょうね」

「君は実にばかだな」

 堂主は溜息をついた。だが、すぐに笑う。

「しかし、だったらわたしも安心だ。何を言っても忘れるんだろう。ばかと言っても忘れてくれるということだ」

「まあ、忘れるでしょうね」

 ソレルは請け合った。「だけど、なんの問題もありません」


 その後、流れに沿って下流へ向かった。途中の流れにはキュラスも咲いていた。そよそよと水の中で揺れる可憐な花を、堂主はうきうきと摘んでいた。帰ったら自分で茹でて食べるつもりらしい。

 太陽が中天に達するころに堂主の言っていた薬草の生えている草原に辿り着いた。森の中にぽかりとあいた草原があるのだ。それも、かなり広い。そこかしこに薬草が生えているのが、ざっと見ただけでもわかる。

「堂主さまはあの淵をこの世でいちばん美しい場所だとおっしゃいましたが、僕にとってはこちらですね」

 ソレルが興奮して笑うと、堂主もおかしそうに笑った。

「そうは言うが、君、ここは竜が降り立った場所じゃないかと言われてるらしいぞ」

 竜は、天神にもいる。竜と鳥の天神が双子の兄弟で生まれた神話は古くから伝えられていたが、そのせいで、今でも双子は、産む母親を不安にもさせる。

 何故なら天神の双子の愛憎があまりにも強すぎたからだ。鳥の弟は竜の兄に執着したが、兄は人間を愛した。弟は兄を陥れ、人間に憎ませるよう仕向けた。愛する者たちに憎まれた兄は、悲しみのあまり、生まれた土地を離れた。人間に憎まれれば以前のように兄が自分の元へ戻ってくると思っていた弟は、怒って兄を追った。追ううちに兄を傷つけ、その翅を裂いた。竜だった兄は人間になり、東へ、東へと逃れていった……マリーが好んでいた小説には、そんな兄弟の愛憎を描いたものもあった。彼女が堂主に読ませたかったのはその物語だった。

 古い言い伝えを思い出しながら、起き抜けのホーソンが急いで用意してくれた食料で昼食をとり、空っぽになった背嚢に摘んだ薬草を詰め込んだ。傷薬だけでなく、気鬱にも利きそうな薬や、強い鎮痛に使えそうなものもあった。ほとんど毒薬だ。しかしソレルは、自分が扱う薬草にホーソンは決して触らないとわかっていたので摘んだ。

 あらゆる薬草が生えているかのように見えた草原だったが、ソレルの探している薬草はなかった。もちろん、すぐに見つかるとは思っていないので、ソレルは特に落胆もしなかった。それに皇帝は、勅命をくだす際にこうも言った。――秘伝の薬草は、死者を蘇らせるとも、不死を与えるとも言われている。だが、自分は不死になりたいわけではない。死者を蘇らせたいわけでもない。……ただ、それがあるとしたら、悪用する者が現れるのでないかと懸念しているだけだ、と。

 つまり皇帝は、秘伝の薬草の実在を確かめたいだけなのだ。

 秘伝の薬草そのものについて皇帝から詳しく聞いたソレルは、あるかないかわからないものを探すのは雲を掴むような話だとはっきり告げた。それを聞いて皇帝はくすくす笑った。少女のようだった。

 もちろん、雲を掴んでこいとは言わない。あれば、運がいい。なければ、それはそれでいい。……この話を受ければ、自分が納得して諦めるか、死ぬかするまで任務はつづく、と皇帝は告げた。そしてまた、秘伝の薬草が用いられたのはミルフォリウムで、その近くにくだんの薬草があるかもしれない、とも言った。ミルフォリウムの廟堂に、その記録が残っているはずで、もしかしたら、現物がいくらか残っているかもしれない、とも。手に入らなくてもいいが、あるかどうかを知りたい、……それが、皇帝の本音だった。

 そんな曖昧な勅命なので、なかなか口外できない。勅命というひと言でかたづけられるのはありがたかった。

 だからソレルは、稀覯本にかこつけて、廟堂の書庫の本の持ち出しを堂主に頼んだのだ。相変わらず、目当ての記述のある本は見つかっていないが、秘伝の薬草らしきものも見つかっていない。もちろん、そんなものがそのへんに置いてあるはずもないのだが。

 この任務を急いで終わらせる気は、ソレルにはなかった。皇都を離れられて、ほっとしているのだ。同行のホーソンには申しわけないと思いつつ、あたりまえのようについてきてくれたことを感謝している。

 背嚢に摘んだ薬草をたっぷり詰め込んで、再び堂主と川沿いに歩いた。途中で流れを逸れ、森を抜ける道に来る。来たときは気づかなかったが、そうすると、川までは歩きやすい道だったのだとわかった。

 森を出ると、陽はかなり傾いていた。暑さもかなりやわらいでいる。

「森歩きなんて、今は年に一度しか来られないからな。今年は淵に入れなかったが、君のおかげで草原で花の蜜も吸えたし、楽しかったぞ」

 ソレルが薬草を摘むあいだ、堂主はそんなことをしていたようだ。

「楽しかったなら、よかったです」

 だが、とソレルは思う。楽しい時間だけでなく、堂主が苦しかったり、つらかったりするときにそばにいて、慰めることができたら、どんなにいいだろう。

 しかし、ソレルに見せた弱い部分は、彼女の中ではまだ見せていいと考えている範囲だったのだろう。

 本当の奥底までを見せてほしい。――垣間見える彼女の傷を、すべて暴いてしまいたい。

 そう考えた自分を、ソレルは怖ろしく思った。

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