三節




 帰りすがら話を聞くと言ったが、堂主は何かむにゃむにゃ言うだけで、その言葉の意味はほとんどわからなかった。やがて眠ってしまい、ソレルは廟堂まで早足で歩いた。とにかくさっさと廟堂に送り届けたい。そして官舎に帰って風呂に入って寝たい。そんな気持ちで急いだ。

 もはやここまで来ると、ソレルは自分が、堂主に対して特別な感情を抱いていることをはっきりと認識してしまう。初めて会って以来、その美貌もだが、親しみやすい軽口や、どことなく女らしさの薄い、かと言って男のようでもない不思議なこの人物に惹かれているのはなんとなく自覚していた。だが、これが異性に抱く好意なのは、これではっきりしてしまった。

 それは、肉体を密着させたからではない。重傷を負った男を必死で助けようとしたその行為と、そのあとのどこか、……何かを背負っているような風情が、ソレルの心を鷲掴みにしてしまったのだ。

 堂主はよく語り、そのほとんどが軽口だが、根がひどく親切ではある。だが、その親切は誰にでも向けられたものであることはソレルもわかっている。神祇者なので、誰にでも分け隔てがないのだろう。だとしても、……それが、自分に向けられると、まるで特別扱いされている気がするのだ。

 村人の若い男女が堂主に心を寄せるのも、そんなふうに思わせるところがあるからだろう。罪作りな人間である。


 急いだので陽が暮れる前に廟堂についた。西にはまだ陽が見える。廟堂に併設された堂主の生活の場である神祇館は施錠をされていない。外側に開く戸を苦心してあけたソレルはやっとのことで広間に入った。

「堂主さま、つきましたよ、起きてください」

 体を揺するが、背の堂主からはすやすやと寝息が聞こえる。これはもしや、寝室まで運ぶべきだろうか。ソレルはどぎまぎした。堂主とはいえ女性である。寝室に入っていいものだろうか。

 どうしていいかわからず、広間で堂主を背負ったまま茫然と立ち尽くす。食卓もある広間は、こざっぱりとしている。椅子は四脚あり、壁には寒さよけの覆い布が掛かったままになっている。食卓には焼いたパンと黒い石板に、パンは焼けました、堂主さまがお戻りになるまでいたかったですが帰ります、と石筆で書かれていた。末尾には名前らしきサインも入っている。きょうのパン焼き番の伝言だ。堂主を目当てに来ただろう娘の伝言は、こんなときでもなければ微笑ましかっただろう。

 その娘が閉じていったのか、窓の鎧戸はしっかり閉まっていたから、広間は暗い。

「堂主さま……起きてください」

 再び意を決して声をかけると、堂主が背中で身じろいだ。

「寝室に……広間を出た右だ……」

 そう言うと、また堂主はうにゃうにゃして眠りに就いた。ソレルは硬直した。

 しかし、本人が言ったのだから、仕方がない。そう考え直して広間の奥へ入った。そこからは廊下だった。灯りがないのでひどく暗いが、なんとか見える。暗がりの中、ソレルはゆっくり進んだ。やがて、一枚の扉が右側に現れる。扉には寝室と書かれた札が打ちつけられていたので、ソレルは扉をあけた。

 中は簡素なものだった。狭く、寝台が奥の壁ぎわに置かれている。その上には小窓があって、硝子がはめ込まれていた。おかげで夕陽が差し込んでいて、室内が見えた。ほかの調度は戸口のそばにちいさな書きもの机と椅子、そして逆の側に衣装棚があるだけだ。書きもの机には書物が載っている。

 ソレルはそろそろと寝室に入った。扉はあけたままにして、寝台に進む。窓から射し込む光はすっかり弱まっているが、役に立った。

 寝台に近づくと、ソレルはまず上掛けを剥がした。それから背を向ける。寝台にそっと背を押しつけるようにして、手を離す。堂主の下半身は寝台におさまったが、上半身は、ソレルの首に手をかけて、まだぶら下がったままだ。ソレルはためらいつつ、その手に手をかけてはずした。

 堂主はくったりと寝台に横たわる。もうここまできたら最後までするしかない。堂主の脚を上掛けの下に押し込むと、剥がした上掛けを掛け直した。

「やれやれ……」

 さすがに疲れたので、ソレルは思わず寝台の端に腰掛けた。見ると、堂主は安らかに眠っているようだ。しかしその顔は白んで、心配になるほどだった。何かするべきだろうか。医師として考えた。異能を使うことで堂主がどう疲労しているかはわからない。何か食べさせるなり、飲ませるなり、したほうがいいのだろうか。

 ソレルはしばらくぼんやり考えながら、堂主の寝顔を見つめた。窓から射す光がゆっくりと弱くなっていく。それにつれ、室内は徐々に黒ずんでいく。そんな中、寝台の上で堂主の白い顔が浮かび上がっていた。

 その顔をいつまでも見ていたいと思ってしまう。

 そんなふうに思うのは、初めてだった。

 パン焼き釜が壊れており、直るまでに時間がかかることを、ソレルはありがたく思っていた。そのおかげで、堂主が昼なら焼きたてのパンがあるから食べに来るといいと誘ってくれた。毎日、一度は必ず堂主と顔を合わせられるのは、ソレルにとって楽しみになっていた。

 堂主に対して好意を抱いてはいるが、だからと言って、触れたいなどという即物的な欲望はほとんどない。神祇者は生涯を神に捧げ、家庭は持たないものだ。とはいえ、奉る神によっては信徒を増やすという名目で子を持つことはゆるされているので、神祇者で事実婚をしている者は多くはないが存在する。

 しかし、ソレルは堂主に対して、はらはらしたりそわそわしたりするばかりだ。女性とはいえ彼女は自分より年上なのだ。心配などするのはおこがましいだろう。それでもだ。堂主を危なっかしく感じ、ときおり見せる暗い表情の意味を知りたくなる。

 もっと知りたい。

「……堂主さま」

 いつまでもそうしていても埒があかない。やっとソレルが踏ん切りをつけたのは、陽がすっかり沈みきってからだった。

「僕、そろそろ帰りますけど……何か食べたほうがいいですよ」

 そう告げてからやっと、せめて水でも飲ませたほうがよかったかと思い至る。ぼうっとしすぎたな、と思った。

「せめて水を汲んできましょうか」

 ソレルが立ち上がろうとすると、堂主が動いて、何か言った。

「……ソレル……」

 名を呼ばれて、ソレルはぎょっとした。

「堂主さま?」

 名を呼ばれたのは初めてだ。家姓ならともかく、名を。

「気がつかれましたか……?」

 呼びかけると、堂主の瞼がかすかに動いた。うっすらとした空色の瞳がのぞく。

 やがて堂主は何度かまばたくと、はっきりと目をあけた。

「駐在さん……?」

 堂主は戸惑ったように呟いた。「……ここは」

「神祇館の、寝室です。その、……ご自身で、寝室に連れていってほしいとおっしゃっていたので、失礼ながら入らせていただきました」

 言いわけがましくそう説明すると、堂主はまた、何度かまばたいた。

 それから、勢いよくむくりと起き上がる。

「夢を見ていた。昔の夢だ」

 ぼんやりとした口調だった。「子どものころ……の、友だちの夢を、見ていた」

 ソレルは黙って、そのさまを眺めた。急に起き上がっては貧血を起こすのではないかと気にかかったが、彼女は言葉をつづけた。

「幼いころから異能の修業ばかりしていて、友だちなど、あのときまでほとんどいなかった。修業といっても、わたしの師は伯父だったのでな……ほかに一緒にいたのは兄だけだった。……みんな死んだ。伯父も、父も、母も」

 夢見るような空色が、ふと、ソレルに向けられる。焦点が合っていなかった。

「家がなくなったあとだったな。友だちができて、うれしかった。物言いも覚束ない子で、どこか足りないのかと思ったが、そうでもなかった……物知りだった。夜はきらいだと言ったら、星が見えるから好きだと言っていた……あの子はまだ星を見ているのだろうか」

 ソレルはまばたいた。星が見えるから好きとは、ソレルが子どものころ、父に言われた言葉だった。暗い夜は怖いと泣くソレルに、父はそう言った。星はいつでも、私たちを見守ってくれているよ……と。それからソレルは星に興味を持って調べるようになった。あれは、大病にかかる前だった。同じことを考えている者がいるのだな、と思った。

「家が……なくなったのですか」

 それより気にかかって尋ねると、ああ、と堂主はうなずいた。

「……伯父が、処断されたんだ」

 ソレルはごくりと喉を鳴らす。処断とは、皇帝による叛逆罪の処刑を意味した。

「そう……だったのですか……」

 しかし、処断された者の一族は、三親等まで同じ処分を受けるはずだ。伯父と言ったからには、堂主はその三親等にあたるはずだ。

「兄さん……」

 堂主は呟いた。その声は消え入りそうにかぼそい。「兄さんも、もう、いない」

 堂主は両手で顔を覆う。

 ソレルはほかにどうしていいかわからず、そっと堂主を胸に抱き寄せた。


 しばらくそうしていたが、やがて正気に返ったのか、堂主はソレルの胸を手で押した。ソレルはされるがままに身を離す。

「すまない。子どものころの夢を見て、……取り乱して、悪かったな。言ったことは忘れてくれ」

「お望みなら、そうします」

 ソレルはそう答えた。すると、堂主は顔を上掛けで拭ってから、にやっと笑った。

「君はいい男だな。そういうところを女の子にちょっとでも見せれば、もてるだろう」

 いつもの堂主が、そこにいた。今の一幕をなかったことにしたいのだろう。ソレルはそれに従うことにした。

「そう言っていただけるのはうれしいのですが、生憎、なかなか女性と縁がありませんね」

「何を言う。パン焼き番の女の子たちはどうだ?」

「それこそ何をおっしゃるやら。みんな堂主さま目当てじゃないですか」

 扉を閉じられた。ソレルはそう感じた。堂主は、心の扉を閉めて、誰も入れないと示しているのだ。望み通りにしようと考えたソレルは、堂主に笑いかけた。

「あれは、……そうだな、旅芸人の看板役者に騒ぐようなものだろう。一過性の熱だよ。……しかし、それにしても腹が減ったな。治癒の術を使うと猛烈に眠くなるし、めちゃくちゃ腹が減るんだ。何か食べたい。君は、どうする。ここで食べて行くか?」

「それはありがたい話ですが、ホーソンに叱られてしまいます。きっと何か用意してくれているでしょうし、無駄にするのも偲びません」

「そうだな。すまない」

 堂主は小窓を見た。「すっかり夜だ。君、夜道はだいじょうぶか。灯りを貸そうか」

 そう言うと、堂主は寝台から脚を出した。よろよろと立ち上がる。まだ横になっていたほうがいいのではないか。ソレルはそう思ったが、止めなかった。おそらく彼女は、弱っている自分を労られたくないのではないか。そんな気がしたのだ。

 扉があいたままの戸口から、堂主は廊下に出た。暗くてもためらいなく歩くのは、住んでいるからだろうか。ソレルは立ち上がるとそれにつづいた。

 寝室を出ると、堂主は左に曲がって、広間のほうへ向かった。広間の出入り口を通り過ぎ、左側の扉をあける。ソレルが追いついて中を見ると、暗いながらも、片隅にある竈の火が見えた。竈の火はどんな家でも可能な限り消されることはない。しかしその火は消えそうだった。

 堂主はゆっくりと竈の前にかがむと、傍らに積まれた薪束から一本抜いて、新しい薪をくべた。すぐに火が薪に移って、ぱちぱちと火の爆ぜる音がした。

 ソレルは黙って見守った。

 堂主は次に、ゆっくりと立ち上がると、片隅にある戸棚に向かった。木製の戸棚の抽斗をあけて、中から何か取り出す。それを手に、再び竈の前に戻ると、しゃがんで手にしたものを火に向けた。ぽっ、とそれに火が付く。白いそれは蝋燭だった。

 それから蝋燭を手にしたものの、堂主はふと笑った。

「燭台を先に持ってくればよかった」

 そう呟くと、蝋燭を手にしたまま再び戸棚の前に戻る。そうするうちに蝋燭から蝋が垂れたが、彼女は顔をぴくりとさせただけで何も言わなかった。

 戸棚から取り出した燭台に蝋燭を刺し、それをそばの卓に置くと、再び竈の前に戻る。今度は薪の束とは別に取り分けられていたものをとって、火をつけた。

「松明だ。持って行きなさい」

 厨房から出てくると、堂主はそう言った。そのまま広間に入り、横切って外に出る。ソレルももちろんつづいて出た。

「堂主さま……ここまでしていただいて、申しわけありません」

「君にそう言われるとこちらが恐縮する。ここまで連れて来てくれたのだろう」

 松明を差し出されたのでソレルはそっと受け取った。きちんと持ち手が処理されていて、持ちやすい。夜道を怖いとは思わないが、足もとが見えないのは、慣れていない道程では躓いて転ぶかもしれないので助かる。

「ありがとうございます。堂主さまも、何か食べて……食べられなかったらせめて水を飲んで、早くお休みくださいね。夜のおつとめをしなくても、神も、きょうの奇蹟に免じておゆるしくださいますよ」

「そうだな。気遣い、ありがとう。きょうの礼は、また改めてする」

 堂主の言葉にうなずくと、ソレルは、墓標のあいだをゆっくりとくだった。

 墓標がなくなったところで振り向くと、堂主はまだ神祇館の前に立っていた。

 闇に浮かび上がる姿が、頼りなく見える。

 ソレルは駆け戻って彼女を抱きしめたいという気持ちを圧しころして、前を向き、官舎へと急いだ。

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