第17話

 家中を駆けずり回る。


 こんなに慌ただしく家の中を走り回るのは初めてだ。


「ニニ! どこにいるんだ!?」


 リビング。キッチン。和室。トイレ。風呂。庭。

 探せど探せど、その姿はどこにもない。


「おい……どこいったっていうんだよ……」


 たしかに昨夜、一緒に寝たはずだ。並んでベッドで眠りについたはずだ。


「それに……俺から離れられないんじゃなかったのかよ……」


 ニニは言っていた。今の自分には力がなく、実に存在を認識してもらうことで、自身の存在を保っていられるほどの力を有しているのだと。


「まさか……消えたなんてこと……ないよな……」


 まだ神社の工事には日にちがある。それに今この時だって、俺は彼女のことをきちんと認識している。それなら、いきなり消えてしまうことなんてないはずだ。


「ニニ! いたら返事しろ! おにぎり食わせてやるから!」


 家中に届くように声を張り上げるが、返事はない。まるで、最初からこの家には俺一人しかいなかったかのように。


 外から聞こえる激しい雨の音が俺の心に渦巻く不安を余計に増幅させていく。

 まさか、本当に彼女は……。


 刹那。


 ピンポーン。


「!」


 鳴り響くインターホンの音。俺は急いで玄関へと向かう。


「ニニか!?」

「きゃっ、実……?」


 勢いよくドアを開けるも、そこには先ほどから血眼になって探している神様幼女ではなく、幼なじみの姿があった。


「枝穂……?」

「ど、どうしたのそんなに慌てて……。なにかあったの……?」


 心配そうな視線を向けてくる。彼女は黄緑色の合羽に身を包んでいるものの、その姿はびしょ濡れ、と表現するのが正しい。


「お、お前こそどうしたんだこんな朝から……」


 まだ学校に行くような時間ではない。迎えに来るにしては早すぎる。


「あっ! そ、そうだ実! テレビ見てないの? 今このあたりに避難勧告が出てるみたいなの」

「避難……勧告……?」

「うん、昨日の夜中から雨が激しくなっていろんな警報も出たみたいで……さっき避難勧告も出たって……」


 いきなり避難勧告という、自分とは無縁のような単語を耳にして、狼狽する。


「さっきから電話しても全然出なかったから心配になってきて……よかった無事で……」


 ほっ、と胸をなでおろす枝穂。


「悪いな心配かけて……」

「ううん。さ、早く行こう? ウチの学校が雛居場所みたいだから、貴重品だけまとめて避難した方がいいよ」


 枝穂の後ろ――外は雨風が凄まじい音を立てている。まるで猛獣が何匹もいるかのような轟音が耳朶を打つ。まさに自然の猛威だ。


「ああ、わかっ……」


 頷きかけて、我に返る。直前まで探し回っていた彼女のことを思い出す。


「いや、ちょっと待ってくれ」

「な……何言ってるの実。危ないから早く行かないと――」

「ニニがいないんだ」

「え……? ニニちゃん、が……?」

「ああ。朝起きたらどこにもいなくて……」


 家の中は隅々まで探した。返事をしろと声を上げた。しかし、いなかったのだ。


「アイツは俺から離れられないのに……本当に消えちまったのか……?」

「実……」

「ニニが見つからないことには……どこに行ったのかわからないことには、避難なんてできねえよ……」


 拳を握る。唇をかむ。


 ここは普通に避難しに行くのが正解なのかもしれない。人間の俺にとっては、それが正しい選択かもしれない。そもそも傍から見れば神様がいなくなったらなどと言っている時点で、頭のおかしい人だ。

 それでも、今の俺にとってはニニのことを忘れてしまったのように放って――見放してしまうことが正解だとは思えない。


 しかし、彼女がどこにいるのか、どこに行ってしまったのか、わからない。どうすればいいのか、どこに行けばいいのか、わからない。


「神社……」


 するとポツリ、と枝穂の口からとある場所がこぼれ出た。


「枝穂……?」

「もしかしたらニニちゃん、あの神社にいるんじゃないのかな」


 と言う。


「なにか根拠があるとか……そういうわけじゃないんだけど……なんだかわたしには、そんな気がするの」


 確証はない。あのさびれた神社だ。行ってもなにもないのが関の山かもしれない。


 だけど。


「……そうだな」


 俺にはそこにニニがいると信じられるようななにかがあった。


「じゃあ俺は行ってくる。危ないから枝穂は――」

「わたしも行く」


 力強く、言う。断言する。


「わたしだってニニちゃんの友達だもん。それに、実も心配だし」

「枝穂……」


 神様と友達とは大きく出たな。


「行こう? はい、これ」


 そう言って水色の合羽を渡してくる。ちゃんと大人用の、俺に合ったサイズのものだ。


 俺は思わず笑ってしまう。


「お前……準備よすぎ」

「ふふ、何年幼なじみやってると思ってるの? これくらいは当然だよ」

「……ありがとな」


 まったく、できた幼なじみだよお前は。


「それじゃ行きますか」


 枝穂が用意してくれた合羽を着こむと、間髪を入れずに俺は家を出る。


 きっと神様のいる、あの神社へと。


 ◇


 避難勧告が出ているだけあって、雨風は本当にひどい。


「枝穂……しっかり握ってろよ……」

「うん……」


 俺と枝穂は風で飛ばされたり、転んだりしないようしっかりと手を握り、神社へと向かった。


 そして予想以上に時間をとられながらも、目的地に到着。


 以前見た、関係者以外を入れないようにしていた工事のフェンスは運よく雨風でバラバラになっており、俺たちはすんなりとくぐって神社の敷地内へと足を踏み入れる。申し訳程度の数段の石段を上り、境内に這入ると――。


「!!」


 やはり、いた。


 朝から俺が必死になって探していた神様の姿が、そこにはあった。


「ニニちゃん……」


 社の前で傘もささず、佇んでいる。水分をたっぷり吸った髪と着物が肌にぴっちりと張り付いているものの、当の本人は全く気に留めずただぼんやりと空を眺めている。


 そんな様子にある種畏怖念を抱き、俺は一瞬ためらってしまう。が、すぐに気を取り直して、雨風の音に負けないよう彼女に向かって声を張り上げる。


「ニニ!!」

「!」


 俺の声に気づき、ゆっくりと首を回してこちらを見てくる。だがその顔は、いつもの元気なそれではなく、なにかを悟ったような、諦観したようなものだ。


「実……」

「お前、どうして勝手にいなくなったんだよ……。俺から離れられないんじゃなかったのかよ……」


 独白のように、眼前の彼女に訊ねる。そして少しずつ、近づいていく。


「……!」


 そこで、俺は目にする。


「なんだよこれ……」


 今にも壊れそうな社の姿を。


「ひ、ひどい……」


 遅れて俺の隣に立つ枝穂も、両手を口に当てて驚愕の意を露わにする。


 神社の境内を囲うようにして立っていた木々のうちの一本が風で倒れたのだろう、まるで押しつぶすかのように社に対して横たわっている。これが自然の力というものか。

 もしかしてニニはこのことを予期して神社までやってきたのか。俺から離れると消えてしまうかもしれないというリスクを冒してまで。


 だが力を失っている彼女にとって、これはどうすることもできない状態である。さぞ、心が痛んでいることだろう。


「ニニ……」


 肩に手を置こうとして、さらに近づくと、


「もうよいのじゃ……」


 彼女の口からこぼれるように出てきたのは、諦めの意思を表すものだった。


「もういいって、お前……!」


 どういうことか問い詰めようとして、俺は言葉を、失ってしまった。


「…………」


 俺の目線の先には。


 本来見えるはずのないニニの向こう側にある地面が、見えていた。


「す、透けてる……?」

「ニニちゃん……これ……」


 枝穂も気づき、じっと彼女を見つめる。


 まるで幽霊さながらに、その姿がぼんやりと、透けている。今までこんなことはなかったのに。

 俺は反射的に彼女の肩に触れる。幸い、するりとすり抜けるという最悪の事態ではなく、ちゃんと触ることができた。見れば雨粒も彼女の身体に当たっており、まだ実体はある。


 だが今にも消えていなくなってしまいそう。そんな風にしか俺には見えなかった。


「まさか、俺から離れたからこうなったのか……? 一体どうして……」


 訊ねると、ニニはバツが悪そうに顔を逸らし、唇を引き結ぶ。


「話してくれよ……。隠し事するなって言ったのはお前だろ……?」


 この神社の工事が行われる話を聞いたとき、ニニは俺にそう言った。枝穂の時のように黙っているのはよくない、と。

 俺たちが待っていると、やがてゆっくりと口を開いて話し始めてくれる。


「……すまぬ」


 最初に聞こえてきたのは謝罪の言葉だった。出会ってから、何度も聞いてきた言葉。


「……わしは己の務めを、怠っておったのじゃ。じゃからこうなることは、わしにとって報いなのじゃよ……」

「務め? 報い? ……どういうことなんだよ」


 いきなりすぎてなにがなんだかわからない。彼女は一体何のことを言っているのだ?


「わしは本来、社から離れてはいかんかったのじゃ……。おぬしら人間のために」

「ニニ……?」


 話し始めてくれたものの、まだいまいちピンとこない。


「あ……」


 すると、何かを思い出したように枝穂が声を漏らす。


「小さい頃に聞いたことがある……。この神社は、ここの神様はわたしたちのことを守ってくれる、守り神なんだって……」

「……そうなのか?」


 再びニニの方を向き、訊ねると、


「……枝穂の言うとおりじゃ。わしはここの土地の神。そして、この地がいついかなる時も荒れ果てぬよう、守るのが土地神であるわしの務めなのじゃ」


 初めて聞いた事実であるものの、どこかすんなりと受け入れることができた。そうであることが当たり前であるかのように。


「じゃあ、今町に避難勧告が出て危なくなっているのはもしかして……」

「わしのせいじゃ」


 きっぱりと、断言する。


「わしが力を失っておぬしの……実のところにおったせいで、町を守るものが不在の状態になった。その結果が、今じゃ」


 そのことに気づいたのは、つい昨日のことじゃがの……、と消え入るように付け加える。


 しかし、納得がいくところもある。最近になって急に増えてきた豪雨は、神社の神様不在によって町に危険が迫っていることの予兆だったということか。


「で、でも今こうしてニニが神社にいるってことは、もう大丈夫なんだよな? ひとまず危機は回避できるってことだよな?」


 希望的観測。そんな俺の問いに、ニニは静かに首を振る。


「俺から離れると消えてしまうから無理だっていうのか? だったら数日くらいここで一緒にいてやるよ。だったらいけるだろ?」

「……」


 それでも、彼女は首を横に振るのみ。


「そんな……」


 じゃあどうすればいいというのだ。何をすることが正しいというのか。何がおれたちを正解へと導いてくれる。


「もう、町は壊れちゃうの……?」


 震えがちな声で、枝穂が言う。そうだ、このままでは避難している町の人たちも危ないかもしれないのではないか。


「……そうじゃな。今のまま放っておけば、この町は崩壊するじゃろう」

「崩……壊……」


 文字通り、崩れて、壊れるというのか。俺たちが生まれた時から住んでいるこの町が。


「……じゃから」


 俺と枝穂が呆然としていると、ニニがつぶやく。小さく、だが今まで聞いたことのないような力強さを持って。


「わしが……わしの最後の力でこの町を守る」


 ザアザアと鳴る雨音がおれの思考を阻害する。……いや、そうじゃない。俺が考えることを放棄したがっているのだ。考えたくないと、心が叫んでいる。


「ま、守るって……」


 ニニの言葉を反芻するように俺はつぶやく。

 言葉の意味は理解できる。だが、彼女は言った。


 最後の力、と――。


「ちょ、ちょっと待てよ! そうなったらお前は……」

「そうだよ! ニニちゃんは……」


 その先を、言うことができない。わかっていても。だってその結果迎える結末は。


「消えるじゃろうな」


 まるで他人事のように、ニニは言う。


「そんなっ……」

「おぬしらもよく考えるのじゃ。わしがやらねば町が壊れてしまうのじゃぞ? それでもいいのか?」


「……」

「……」


 ニニの問いに、二の句が継げなくなる。


 たしかにそうだ。この町には、大切な人たちがいる。クマちゃん、切畑屋。そして……目の前の幼なじみ。

 かけがえのない町と人。目の前の小さな女の子の神様。どちらかを選べば、どちらかが消えてなくなる。どちらかを、選ばなくてはならない。


「本当はおぬしらに知られぬうちにやるつもりじゃったんじゃがの……。まさか見つかってしまうとは……さすがじゃな、実」


 伊達にともに生活をしたわけではないな、と彼女は笑う。


「ニニ……」


 立ち尽くす俺に容赦のない雨粒と風が叩きつけられる。時折風で飛んでくる木の葉や小さな石が俺の身体を打ち付ける。


 しかし、そんなことは微塵も気にならない。与えられているはずの寒さや痛みが脳に届いてこない。

 パンクしてしまいそうなほどに俺の頭を占めているのは、二つの消失。

 いや、彼女はもう心に決めているのだ。自分が犠牲になる、と。

 消える。壊れる。なくなる。


 俺の前から、いなくなる。


「すまんの、実」


 どこか優しげな声で、俺は我に返る。


 前を向くと、こちらに微笑みかけるニニ。寂しそうに、笑う神様。


「思えばおぬしには迷惑ばかりかけておったの。初めて会ったあの夜から……」

「おい……やめろよ……」


 そんな柄にもないこと言うなよ。まるで今生の別れみたいじゃないか。


「枝穂もすまんかった。おぬしの願いを……ちゃんと叶えてやることができなくて……許してくれ……」

「いいよそんなこと……だから……消えないでよ、ニニちゃん……」


 途切れ途切れに言葉を発する枝穂の目には雨の滴とは違う、涙がはっきりと浮かんでいる。

 俺の視界も徐々に揺らいで、滲んでいく。


 すると、目の前から鼻をすする音が聞こえてくる。


「……思えば、もう一度くらい……おぬしの握り飯が食べたかったのう……」


 こちらを向くニニの顔はもうぐしゃぐしゃだ。俺の眼に涙が溜まっているのもあってその顔をはっきり見れない。


「ははっ、こういう時まで食い意地はりやがって……」


 言って、くしゃくしゃの笑顔を向け合う。


「おにぎりくらい、神社にいくらでもお供えしてやるよ。絶対に」

「……それはっ……楽しみじゃなあ……っ」

「……っ、……」


 すると、不意にニニの身体が宙に浮かぶ。それと同時に、彼女の表情も引き締まる。


「ニニ……」

「ニニちゃん……」


 雨風に打たれ続けながらも、ニニはふわりと浮かんでいく。そして、十メートルはあろうかという高さで止まった。


「……っ!」


 ニニは俺たちから空へと顔を向けると、おもむろに頭のかんざしに触れる。するり、とかんざしを抜き取り、その手に握りしめる。


 銀の髪が、なびく。雨にも風にも負けないその美しさは、まさにこう表現するのがふさわしい。

 神々しい、と。


 そして彼女は手に持ったかんざしを空に掲げる。かんざしにはめこまれた赤い宝石がキラリ、と光る。


「……はぁっ!」


 すると。


 ニニが声を発すると同時、かんざしを空に放つ。まるで彼女が放り投げたとは思えないスピードで、それは天に届く。


 その瞬間。


「うわっ!」

「きゃっ」


 光る。空が。ニニが。


 世界が包まれる。その光に。


「……!」


 眩しさに目をつぶりそうになった時、俺はその光を見る。その光には見覚えがあった。


 ニニと初めて出会った時、彼女が発した光。願いを叶えるために、力を使った時に放った光。


「ニニ……!」


 次第に光が強くなる。目を開けていられなくなる。


 ダメだ。目を閉じてしまえば、ニニの姿をもう見ることができなくなる。そんな気がして俺は必死に目を閉じないようにする。


 が、そこでより一層、光が強くなった。まるで太陽を直視しているかのような、強烈な発光。


「…………っ!」


 さすがに、目を閉じてしまう。これ以上は目を開けていることができない。


 その時。


「……ありがとう、実」


 声が、聞こえた。耳元でささやかれるように。

 間違いなくニニの声。


 そしてそれは初めて聞く、最初で最後の、感謝の言葉だった。


 ………………。

 …………。

 ……。


 やがて、光が弱まっていく。

 あたりの景色すら見えなくするような強烈な光はなくなり、視界が戻ってくる。


「……」

「……」


 無言でたたずむ俺と枝穂。


 そこには、さっきまでが嘘のような青空。穏やかな、陽気。

 雨雲はきれいさっぱり消え去っていた。


 そして。

 俺たちを守ってくれた小さな小さな女の子の神様の姿も、消えてなくなっていた。

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