第14話
俺の心中とは裏腹に、空は透き通るように澄み渡っている。
そんな景色を、教室からぼんやりと眺めていた。
「はあ……」
思わずため息が漏れる。しかし同じため息でも、春先にニニと出会った時のものとは全く意味合いが異なっていた。
五月も近づき、すっかり春の陽気である。もし空気がこの手で触れるのならきっと綿毛のようにふかふかなのだろう、と柄にもなく詩人のようなことを考えていると、
「なーにぼーっとしてんのよー」
「おわっ!」
目の前の景色が急に肌色――顔面に変わった。
「なんだ、切畑屋かよ」
「……あんた、いつも私見てそんな風にしか言わないわよね」
そりゃお前がいつも唐突だからだろう。もう少し年齢並みの行動を心がけたらどうだろうか。
しかし、さすがお嬢様といったところか。こうして至近距離で顔を見てもきれいなものである。唇は適度に潤いを持っており、頬はさくら色。きっといい化粧品を使っているのだろう、男の俺にはよくわからんが。
「……」
「ん? どした、私を見つめて」
「ああ、いや。なんでもない」
いかんいかん、ついまじまじと見てしまった。いや、俺は悪くない。俺の視界に急に入ってきたコイツのせいだ。
「んふふー、そんなに見つめちゃってー。ついに私のかわいさに気がついた?」
「アホかお前は」
本当にかわいい人はそういうことを自分から言ったりしない。
「もーキリちゃん、なにやってるの」
そこへ、枝穂がやって来る。ナイスタイミング! さすが幼なじみだぜ。
「よ、枝穂」
しかし救いの女神はなぜか頬を膨らませて、
「むぅ。実もなんでキリちゃんをじっと見つめてるの?」
苦言を呈されてしまった。なぜに。
「わーっ、ごめんてば枝穂。実は枝穂のものだもんね、ごめんごめん」
「勝手に俺をモノ扱いするな」
「まあでも実さんや? どうせ見つめるなら私なんかより枝穂を見つめたらどうかね?」
からかうように切畑屋が勧めてくる。
「なんでそういうことになるんだよ……」
と、言いつつも俺はなんとなく枝穂の方を向いてみる。
「ちょっ……! み、実ってばこっち見ないでよー!」
かなり慌てて、顔の前で手をあたふたさせ、短いおさげがぴょこぴょこと振り子のように動く。顔なんていつでも見てるだろうに。なんで耳まで赤くさせる必要があるんだ。時々おかしくなるよな、まあ昔からのことだけど。
「はーはははー。今日もあっついねー」
手に持っていたチラシをうちわにしてぱたぱたあおぎだす。
「き、キリちゃん……!」
「たしかに今日は暖かいな。すっかり春だ」
「ははー、君らは相変わらずだねー。ごちそうさまでーす」
何を言ってるかはよくわからない。さっき朝飯でも食べたのだろうか。
――と、そこで俺は切畑屋がうちわ代わりにしているものに目がいった。
「お前、それどうしたんだ?」
「ああこれ? 今朝交差点のところでいつもの予備校の人がチラシ配っててさー。もう何度も何度ももらったんだけど、ついついもらっちゃったよー」
笑いながら、彼女が見せてくるチラシは、俺も聞いたことのある大手の予備校のものだった。たしか駅前に大きな校舎を構えていて、ウチの高校の生徒も数多く通っていると聞く。
「新年度だから新しく受講生を増やしたいのかねー、最近毎日のように見かけるんだよー」
「そうなんだ。わたしはもらったことないなあ……」
枝穂と同じく、俺もあまり見ない。おそらく駅前の近くに家を持つ切畑屋の通学路あたりを配るポイントにしているのだろう。そっちの方が通る生徒も多そうだし。
片や俺たちが住んでいる住宅地は道が網目状になっているため、通学路を一本に絞りにくい。まあ宣伝をする上ではしょうがない。駅前近くの方がよっぽど効率的だ。
駅前。宣伝。人が多い。
「ん……?」
そこで、ひとつの考えが俺の頭の中をよぎる。そしてそれは驚くほどスムーズにわかりやすい形を作っていく。
「これなら、もしかして……」
いけるかもしれない。まだ机上の空論としか言えないが、真っ暗な中に一筋の光明が見えた気がした。
「ん? どした?」
「どうかしたの、実?」
「ああ……いや、なんでもない」
そう言った瞬間、教室内に予鈴のチャイムが鳴り響く。俺の机の近くに集まっていたふたりも特に気にすることなく自分の席へと戻っていく。そんな中、俺と枝穂以外には見えない小さな小さな女の子だけが、俺の近くに残る。
「実、どうしたのじゃ?」
見た目の年相応の、きょとんとした顔で訊ねてくる。銀色の髪が揺れ、翡翠色の瞳が日差しを受けて輝く。
「気にすんな。……俺に任しとけ」
小さな声で、俺は隣の神様に微笑みかけた。
◇
「よろしくお願いしまーす」
翌日の放課後、俺は駅前に立っていた。
普段は買い物や、遠くに出かけるためにしか訪れることはないが、今日俺がここにいる目的はそのどちらでもない。
「よろしければ署名をお願いします!」
夕方から日没に近づくにつれて、だんだんと膨れ上がってきた人ごみに向かって、俺は声を張り上げる。
何のためかといえばもちろん、神社の工事の撤回を申し立てることだ。昨日、切畑屋から予備校のチラシ配りを聞いて、こうして署名活動をすることを思いついたのだ。俺一人の主張ならともかく、ある程度の住民の声となれば自治体も無視はできまい。
正直、どれくらいの人数分集めればいいのかはわからない。とりあえず人通りの多くなる夕方を狙って来てはみたものの、初日なのでいきなりいい結果になるとも限らない。だが、やらなければ何も始まらないのだ。
「お願いしまーす」
そう思って、俺は先ほどよりも音量を上げる。頑張らないことには、せっかく背中を押してくれた人たちにも申し訳ない――。
「お願いしますっ」
いつものように『はなむら』でバイトを終えた俺は、クマちゃんに頭を下げていた。
「しばらくの間、休ませてください」
「ううむ……」
腕組みをして困ったように低く唸るクマちゃん。そりゃそうだろう、バイトがいきなり休みたい、などと言い出したのだから。
少し離れたところでは、枝穂とニニが黙って俺を見つめる。二人には事前にこのことを言ってあり、口出しもしないよう頼んでおいた。枝穂はともかくニニが口を挟んできてもクマちゃんには全く聞こえないのだが。
「少しの間だけでいいんです。お願いします」
俺がこうして休暇願を出しているのは無論、ニニの神社の取り壊しを阻止するために活動する時間を捻出するためだ。すでに決定していることを覆すのだ、やるからには全力でかからないといけない。今日思いついた方法は、どうしても時間が必要となってくる。
「……別に頭ごなしにダメとは言わねえが、急にどうしたんだ? なにか理由があるのか?」
心配そうな顔色を少しだけ垣間見せる。こうやって聞いてくれるあたり、やっぱり優しい人だなと俺は思った。思わず相談したくなる。でも――
「すみません……理由は…………今は言えません」
もちろん話すことができないのは、ニニという俺たちにしか認識できないものを含んでいるから、というのもある。だがクマちゃんのことだ、話したらバカ正直に信じて、そして手伝うと言ってくれるかもしれない。……だからこそ、自分でやらないといけないと俺は感じていた。枝穂の時にそうしたように。
「でもすぐに戻ってきます! 店にかける迷惑も……最小限にします!」
休みたいと言っている時点ですでに『はなむら』にとっては迷惑だろう。決して従業員が多いわけでもないのだ。
「……」
しきりに身体を折り曲げる俺の頭上に、どこかやさしさをはらんだため息が聞こえた。
「俺には話せねえ……けど、実がやるって決めたことなんだな?」
「……ああ」
力強く、返事をする。そこだけは、何一つ間違ってはいない。
すると目の前の、文字通り熊のような巨体をもつ男は小さく笑って、
「それなら思い切りやってこい。好きにやれるなんて若いうちなんだ、男ならぶち当たって砕けるくらいがちょうどいいってもんよ」
「……クマちゃん」
「いくらでも休んでいい……とは言わねえが、気のすむまでやってみろ! それでもし疲れたんなら、客としてここに来い。うまいホットケーキくらいなら何枚でも食わせてやるからよ!」
「ありがとう……クマちゃん……!」
「だから俺のことクマちゃんって呼ぶなっつってんだろ! ホットケーキ食わせてやらねえぞ!」
「署名していただけませんかー」
そうして声を出し続けているうちに、辺りはオレンジから黒にも近い藍色に変化していた。
「……」
結局、今日一日では誰一人として俺の声に応じてくれる人はいなかった。直接話しかけてみても、軽く会釈をされてスルーされるのみ。ある意味、当然の反応。逆の立場だったら俺もそうしていたに違いない。
「実……」
心なしか肩を落としていた俺に、ニニが心配そうに名前を呼んでくる。
「悪いな。長時間こんなところにいさせて」
俺が駅前に来て署名活動を行うとなると、俺から離れられないニニも必然的に駅前にいなければならない。しかも俺と違って何もできない分、辛いだろう。
「構わぬ。これくらいで音を上げるわしではないわ」
強がりを言うが、いつもより力がないようにも見える。
「ともかく、今日は帰ろうぜ。腹減っただろ?」
努めて明るい声で、俺は促す。若干空元気のようになってしまってはいるが、こっちの方がいい。以前の時のように、沈んだニニの姿はあまり見たくない。
「うむ! 今日もうまいのをきたいしておるぞ!」
そうして、二人で帰路につく。歩いてやってきたので、家まではだいたい三十分くらいだ。
駅前のような都市部から住宅街へと移るにつれて、聞こえてくる音も変化してくる。耳にまちわりつくような粘っこい喧騒から、どこか懐かしい家族の笑い声。
「あれ? 実?」
「ん? もしかして枝穂か?」
曲がり角、ちょうど街灯が当たらず暗くなっているところで、俺とニニは幼なじみと出くわした。
「今バイト帰りか?」
「うん。実たちの方はもしかして、駅前から帰ってきたところ?」
「ま、そんなところだな」
「……ど、どうだった?」
期待と不安が混ざった様子で訊ねてくる。俺としてはいい調子だ、と断言できないのが心苦しい。
「まあ……まずます、だな……」
「そっか……。まだ初日だもんね。これからだもんね」
「もちろん。時間はあんまりないけど、すぐに結果出してやるさ」
ただの強がりだったが、半分は自分に言い聞かせるように、俺は言う。
「……あのさ、実」
「なんだ?」
「やっぱりわたしも手伝った方がいい? ほら、二人の方が署名もたくさん集められるかもしれないし」
控えめに提案してくる。やさしいやつだ。そのやさしさに、思わずすがってしまいそうになる。
「……うれしいけど、それだと枝穂まで『はなむら』を休まないといけないだろ? そうなったらクマちゃんだって余計に大変になるからさ」
「うん……そうだね……」
少し残念そうに眉尻を下げる。が、枝穂も断られることはわかっていたのだろう、そこで引き下がった。俺だって手伝いの申し出を無下にしたくはないが、今以上に『はなむら』に迷惑をかけるわけにはいかない。あくまでこれは俺が言い出したことなのだ。
「で、でも! 何かわたしにできることがあったら遠慮なく言ってね? 実には料理も教えてもらってるし……そのお返しもしたいし」
「おう。期待してる」
「気にかけさせてしまってすまんの、枝穂よ」
「ニニちゃんが謝ることないよ。いい子にしてるし、神社はきっと大丈夫だよ」
そう言って屈むと、ほほ笑みながらニニの頭をなでる。ニニも照れくささをはらんだ表情で目を細める。なんだかこうしていると仲のいい姉妹みたいだな。
「それにしてもニニちゃん、すごい服装だね。初めて会った時から思ってたけど」
「む、そうか? そんなに珍妙な格好だとはわしは思わんのだが……」
くるりとその場で回ってみせる。そのせいで、ヒラヒラと下半身をカバーしきれていない着物の裾が揺れ動き、ただでさえ丸見えな太ももが危険ゾーンにまで見えそうになる。
「わ、わ! ニニちゃんだめだよ。そんなことしちゃ見えちゃうから」
「別に実と枝穂にしか見えておらんのじゃ。大丈夫じゃろ?」
「大丈夫じゃないよ! ニニちゃんだって女の子でしょ?」
慌てふためく枝穂。まあ俺は今さら慌てたりしないけどね。もう何度も一緒に風呂に入ったりしちゃってるわけだし。……なんてことは枝穂がいるところでは言えないな。いや、やましいことをしているつもりは全くないですよ?
すると、落ち着いた様子の俺を枝穂が訝しんでくる。
「……もしかしてこの格好、実がさせてるの?」
「んなわけあるか!」
そんなシュミは持ってない! お前は俺をどんなやつだと思ってるんだ!
「俺だって普通の服着ることを提案してるんだぞ? それをコイツが……」
「ふふん、これは神のしょうぞくじゃからの。神聖なものなのじゃ」
誇らしげに胸を張る。残念ながらそこにはまな板しかないが。
「でもずっとその服装ってわけにもいかないだろ。それ一着しかないんだろ?」
以前、身体の清潔さを「力」によって保っていると言っていた。もしかしなくともそれは衣服にも当てはまるのではないのだろうか。とすれば洗濯のためにも少なくとももう一着くらいはあった方がいい。
「そうじゃの……。まあ、おぬしら人間の服にも少し興味がないわけでもないが……」
「ほんと? じゃあ今度わたしのお下がりでよかったら持っていこうか?」
さっきまで俺に半眼を向けてたくせに、急にうれしそうになる枝穂。着せ替え人形じゃないんだからほどほどにしておけよ?
「ニニちゃんかわいいし、何着ても似合うだろうなー」
「そ、そうか? 照れるのう」
「髪もきれいで長いし、やっぱり――」
それを皮切りに、キャッキャしだす女性陣。うーん、俺もそこまで服装に無頓着なわけでもないが、さすがに女性服についての会話についていけるほどではない。
「あっ、すっかり話し込んじゃった。ごめんね、二人とも疲れてるのに」
「いいよ。そっちこそバイトで疲れてるだろ? それに、ここで枝穂に会えてなんだかちょっと和らいだような気もするし」
「ほ、ほんと……? えへへ……」
指をつんつんさせる枝穂。しかし辺りが暗いので表情がよくわからない。
「枝穂も、あんまり遅いとおばさんたちが心配するぞ?」
「あ……そうだね。うん、そろそろ帰るよ」
ん? 若干寂しそうに聞こえた気がしたが、気のせいか。
「また明日、いつものところでいいか?」
「あ……う、うん!」
「じゃあおやすみ」
「うん、おやすみ。ニニちゃんもまたね」
「おやすみ? じゃ!」
そうして幼なじみと別れ、再びそれぞれの帰途につく。
今日から始めた署名活動、あまりうまくはいかなかったけど……枝穂と話していたらなんだか明日もがんばれそうな気がしてきて、彼女に会う前とは少し軽い足取りで俺は家へと帰った。
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