第11話

「なんだ。枝穂のやつ、もう帰っちまったのか」


 カウンター内でグラスを拭きながら、クマちゃんは言った。


「最近バイトが終わったら雑談もせずにすぐに出ていくが……なんか用事でもあんのか?」

「さあ……」


 店先の掃除を終えて店内に戻った俺は、言葉を濁す。


 結局、今日も今日とて枝穂は俺と顔を合わせる間もなく去っていった。

 今朝はついに待ち合わせ場所にすら姿を現さなくなったし……。


「仕事はちゃんとしてくれるのはいいが、どっか元気がないようにも見えるんだよなあ」


 さすがのクマちゃんも、枝穂の様子がおかしいことに気づき始めているようだ。これだけ同じ時間を過ごしているのだ、ある意味当然ではあるが。


「そ、それよりクマちゃん」


 あまり心配をかけたくないので(ニニのような神様が絡んでくるので説明しづらいというのもあるが)俺は話題をそらすことにする。


「クマちゃん言うなってんだろ、ったく……で、なんだ?」

「いやー……この店も長いことやってるみたいだけど、いつからなのかなーと思って」


 単に話題を変えるためだけではなく、それは俺が以前から気になっていたことでもあった。先ほど店先を掃除していた時に見た『はなむら』と書かれた看板はけっこう古くなっていて、年季を感じさせる。


「あー、そうだな……」


 そう言うと、クマちゃんは顔を上げて天井を見上げる。


「もう十五年にもなるな」

「へー、けっこう長いんだな」


 俺の年齢とほぼ同じじゃないか。まさかそんなに昔からやっているなんて。


「マスターと呼ばれるのは伊達じゃないってことか」


 あえて『マスター』という単語を使ってからかったつもりだったが、


「いや……俺なんてまだまださ」


 返ってきたのは自らを謙遜するような声だった。

 驚いた。てっきり「そうだろうそうだろう!」みたいな調子のいい言葉が返ってくるとばかり思っていた。


 俺が少しばかり呆気にとられていると、


「ま、十五年とは言ったが、俺が切り盛りしてるのは実際五年かそこいらなんだよ」

「? どういう意味だ?」


 クマちゃんは五年前までクマちゃんではなかったということか? いや、それもよくわからない表現だが。


 俺が言葉の真意を訊ねると、クマちゃんは「ふう」と小さく息を吐く。


「……あんまり話すことでもないと思っているんだが、実にはこの前に借りがあるからな。いい機会だから話すとするか」


 クマちゃんは少し真剣な表情になり、思わず俺は姿勢を正す。適当に振っただけだったのに、まさかこんなマジメな話になるとは。


「……」


 気づけば、俺の隣にはふわふわとかんざしを揺らす銀髪の幼女が。その様子はどこか遠慮がちである。単に俺を待ちきれなくなったのか、それともクマちゃんの話が気になったのか……。


「最初はこの店は、俺と姉貴の二人で始めた店だったんだ」

「お姉さん……と?」


 初耳だ。約一年ここでバイトしているが、クマちゃんに姉がいるなんて初めて知った。


「ああ、もともと姉貴が喫茶店をやりたいって言っててな。男手がいるだろうって俺も大学を卒業して手伝うことにしたってわけさ」


 言われてみれば、店のそこかしこにあるリースやドライフラワーのおかげでどこか女性的な雰囲気を醸し出しているようにも思える。女性が入りやすくするためにそういう装飾をしている、というわけではなくお姉さんの趣味ということか。


「手伝うってのは、厨房をってことか?」


 色黒で筋骨隆々の男が給仕をしているというのも異様な図だ。客寄せどころか人が寄り付かなくなる恐れだってある。どう考えてもクマちゃんはホール向きではない。


「ははは、まさか! 俺だってハナからできたわけじゃないさ。最初はそりゃあもうひどかったんだぜ? 姉貴にさんざん怒られてな」


 いつものように豪快に笑う。が、それはなぜか寂しさを含んでいるような気がした。


「じゃあ元々料理を振る舞っていたのはお姉さんだったのか」

「おう。姉貴はそのつもりで店を開いたわけだしな」

「へえ……」

「あのホットケーキだって、姉貴に教わったんだぜ?」

「そうなのか?」

「おうとも。姉貴のホットケーキはそりゃあ美味くてよ。俺のなんか目じゃないくらいだ」

「クマちゃんよりってすごいな……」


 あのクマちゃんを上回る料理の腕前に、クマちゃんを尻に敷けるほどの力量。きっとすごい人に違いない。そしてそのタッグならきっと『はなむら』はこの街一番の喫茶店だっただろう。


「でも……なんで今はクマちゃんひとりなんだ……?」


 聞くべきかどうか。俺は逡巡したが訊ねることにした。


 先ほどから度々話の中に登場するクマちゃんのお姉さん。クマちゃんに料理を教え、『はなむら』を開いた張本人。しかし、それならばどうして今もこの場にいないのだろうか。


「……丁度、五年前の今ごろだったか」


 少しデリカシーに欠けた質問だったかな。言ってしまってからそのことに気づき、申し訳なく思えてきた。しかし、特に気を悪くする素振りもなく、クマちゃんは答えてくれる。


「俺の……俺たちの親父が実家で倒れてな。おふくろも随分前にいなくなっちまってるから、姉貴が実家に戻ることになったんだ」


 ゆっくりと話しながら、クマちゃんはどこからか氷とビンを取り出すと、先ほど拭き終えたグラスに注いでいく。


「俺が実家に帰るって言ったんだがな……姉貴には『アンタが帰ってもお父さんの世話してやれないでしょ』って言われちまってな。まあ当たってるから全く言い返せなかったんだけどよ」


 グラスの氷にヒビが入り、どこか心地よい音を立てる。


「姉貴はあっさり実家に帰っていったさ『私が戻ってくるまで店をよろしく』って言ってな」

「お姉さんとは、連絡とってないのか?」

「一応電話のやり取りとかはしているさ。親父も元気っちゃあ元気なんだが、やっぱり姉貴がいないとダメみたいでな」


 グラスの麦色の液体を一口飲むと、クマちゃんは「ぷはあっ」と豪快に声をあげる。


「姉貴はこの店と、来てくれる人たちが大好きでな。それこそ自分の体調が悪いのに店に出ようとしてたくらいだ。……まあしかし、今になって姉貴の気持ちがわかったような気がするな。やっぱり愛着ってもんが湧くんだな」

「だから、ぎっくり腰になった時も店を閉めようとしなかったんだな」


 あの時の頑ななクマちゃんの態度。それはきっと、クマちゃんのお姉さんからきているのだろう。


「しょうがねえだろ? 姉貴に『店を頼む』って言われてんだ。滅多なことはできねえさ」

「じゃあ自分の身体の管理くらい、ちゃんとしないとな」


 ぎっくり腰はともかく、クマちゃんだってそれなりに年齢を重ねてきてるんだ。


「うっせえ」


 クマちゃんは笑う。


「……まさか、実にこんな話をするとはな」

「俺だってびっくりだよ。しかも『はなむら』にそんな過去があったなんてな」


 再びグラスをあおると、クマちゃんは頭に巻いたタオルをほどく。清潔感溢れる白い布の下からは、見事なスキンヘッドが顔をのぞかせた。


「あんまり言いふらすなよ。特にあの切畑屋とかいうガキんちょにはな」

「わかってるよ」


 こんな話、そうやすやすと他人に話せるものではない。


「そんなわけで俺は実は仮初のマスターなんだな。ははは、これじゃあマスターと呼べなんて滑稽だぜ」

「そんなことないだろ。昔はどうかは知らないけど、今じゃ『はなむら』の主はクマちゃんだよ。ここに来ている人たちだって、きっとそう思ってる」

「へっ、調子のいいこと言いやがって。そう思ってんなら俺のことちゃんとマスターって呼ぶことだな」

「まあ……それはそれ、これはこれ、だ」


 そうしてどちらからともなく笑う。


「ま、そう言ってくれるのはありがたいぜ。やってやるぞって気になるしな」


 三度グラスを傾け、中身を空にする。


「実も飲むか?」

「あほか。俺はまだ未成年だぞ?」

「何言ってんだ。これは麦茶だ」

「……ならなんでそんなに酒っぽく飲むんだよ」

「まだ仕事中だからな。酒飲むわけにはいかねえだろ」


 そんなことを言いつつ、二杯目を注いでいく。本当にお茶だろうな……? まさか同じ麦でも麦酒じゃないだろうな。

 俺たち以外に誰もおらず、店主であるクマちゃんがグラスを揺らす度に立てる音だけが静かに響く。これなら夜はバーとしてやっていけるのではないだろうか。照明を暗くすれば、そこそこいい雰囲気になりそうだし。


「それにしても、クマちゃんが最初は料理が苦手だったんだってな」


 厨房を一手に引き受けるクマちゃんの今の姿からは想像もつかない。

 しかし、逆に考えるとニニの力で俺にもそれができてしまったことがどこか申し訳なく思えてくる。


「がはは、まあ誰しも初めからうまくはいかねえってことさ!」

「はは、そうだな……」


 俺に話をして少し気を良くしたのか、豪快に笑うクマちゃん。そして隣では、ニニが黙ってクマちゃんの話を聞いていた。

 そんな様子を見ながら、俺は頭の中でクマちゃんの言葉を反芻する。


 最初からはうまくいかない、ね……。


 ◇


 そこは人気のない場所。昼間だというのに、静けさしか感じ取ることはできない。


「ほら、足こっちに出せよ」

「う、うむ……」


 半ば強引に引き寄せた彼女の足は、幼女の見た目にそぐわずスベスベもちもちとしている。


「あ、あまりじろじろ見るでない……」


 そう言って恥ずかしがるニニだが、見ないことには俺も今の彼女の状態をどうしてやることもできない。それに、元々の服装が、足を大きく露出しているものなのだ。太ももまでばっちり見えてしまっている。


 周囲に生い茂る木々が日差しを遮り、辺りはどうも薄暗い。


「やっぱり赤くなってるな……」


 俺は凝視する。これは俺が早くなんとかして沈めてやらないといけない。


「あんまり騒いだりジタバタするなよ?」

「わ、わかっておるわ……じゃが……」

「じゃが?」

「痛いことはするでないぞ……?」


 おそるおそる、訊ねてくる。


 そんな様子に俺は笑って、


「大丈夫、そんなことするかよ」

「ならば……おぬしに任せよう」

「了解っと」


 無事、ニニからの同意を得たので俺は先ほどから見ている場所に手を伸ばす。彼女を怖がらせないためにもゆっくりと、優しくなでるようにその赤くなった場所に触れ――


 膝に絆創膏を貼ってやった。


「ほら、これでオッケーだ」

「む、もうよいのか?」

「まあな。風呂に入るときにしみるかもしれないけど、それは我慢しろよ」


 俺は立ち上がり、膝についた埃を手で払う。


「……さっきまでヒリヒリしておったのがなくなっとる……ばんそうこう?とやらはさすがじゃな!」


 膝に貼られた絆創膏を珍しそうに見つめながら、ニニは言う。


「久しぶりの我が家だからって、はしゃぎすぎだ」


 バイトが休みの放課後、俺たちはニニの実家(?)である神社に来ていた。

 枝穂のことがあってニニも沈みがちだし、どうせ幼女のことだからそろそろホームシックになりそう頃合いかと思って提案し、ニニもうれしそうに承諾した。


 まあ、そこまではよかったのだが、久しぶりに帰ってきたことに喜びすぎてはしゃいでいたニニが境内で盛大に転んでしまったのだ。

 幼女の見た目だからといってやることなすことまで幼女っぽくならなくてもいいのに。神様が自分の神社の境内で転ぶとか、滑稽にもほどがあるぞ。


 まったく、運よく俺の財布の中に絆創膏が入っていたからよかったものの……。


「テンション上がるのはわかるけど、気をつけろよ」

「わ、わかっておる。おぬしにいわれなくとも……」


 そう思うならはしゃいで境内を走り回るとかはやめろよな。


「しかしいつ来ても思うんだが……俺以外にここに来る人間って本当にいるのか?」


 境内を見回しながら来るたびに浮かぶ疑問を口にする。


「き、来とるに決まっておるではないか! わが社はゆいしょ正しき神社じゃと、前々から言っておろうに!」

「じゃあ、例えば誰が来てたんだよ、お前がまだここにいたとき」

「うっ……」


 ニニは背を向けると、極めて小さな声で、


「近所のばあさんとかじゃな……たまに、そうたまにじゃが……」

「ほらみろ、ほとんど誰も来てないじゃねーか」


 そうなると由緒正しいとか言ってるコイツの言葉もあやしくなってきたぞ……。

 本当にコイツ人間の信仰を集めて力を取り戻せるのか?


「まあいいか。とりあえず、せっかく来たからお参りでもしていくか」


 小さく嘆息してから、俺は社の方へと向かう。

 前回ニニと来たときはお参りせずに帰ってしまったから、実質今年の初詣以来か。


「おお! どんどん参るがよい!」


 うれしそうに神社の主はついてくる。そして、俺たちは社――賽銭箱の前に並ぶ。

 なんでもいいが、お参りしにきてるのに祈られる側の神様が隣にいるというのはどうなんだろう。


「それじゃまあ、まずはお賽銭っと……」


 財布にあった十円玉を手に取り、賽銭箱に入れようとしたとき、思わず俺の手が止まる。


「……」

「なんじゃ?」


 左に立つ幼女を見て、俺は財布からもう一枚十円玉を取り出すと、今度は二枚まとめて投げ入れる。俺の行動に驚いたのか、ニニは目を丸くした。


「お前の分の賽銭も入れてやったから、お前もお願いしろよ。まあ、お前お願いされる側だからここでお祈りしたところで何の効果もないかもしれないけど……」

「……」

「な、なんだよ」


 すると幼女は見た目相応な無垢な笑みを浮かべて、


「なんでもない。では遠慮なく、わしも願わせてもらうとしよう」


 ニニは社の方を見据えると、パンパンと手を合わせて目を閉じる。

 俺もそれに倣って、同じようにして目を瞑る。


 そして考える。

 隣で彼女は一体何を願っているのだろう。

 俺は一体何を願うのだろう。

 初詣で来た時は、その答えはわからなかった。


 だけど。

 今はなんだか、わかりそうな気がした。



 ひとしきり願ったあと、どちらともなく目を開く。


「ちゃんとお願いしたか?」

「もちろんじゃとも。なにせ願いを聞いたのはこのわしじゃからな。叶うに決まっとる」


 自信満々なニニ。


「そう言うおぬしはどうなのじゃ?」

「俺もちゃんとお祈りしたぞ。神様がきちんと聞いてくれたかどうかは話は別だけどな」

「むむむ……からかいおってからに。わしが神社に戻ったときは覚えておれ」

「はは、楽しみにしてるよ」


 彼女の文句を軽く笑い飛ばして、俺は頭を撫でてやる。

 それは、とても自然だった。だが、自然であるがゆえに、俺は頭に引っ掛かりを覚えた。


 あれ……? 

 まるで、何度もしたことがある、習慣のような行動。


「懐かしいの」


 頭を撫でられて、目を細めながらニニは言う。


「昔からおぬしはここでこうしてあの娘の頭を撫でてやっておったの。まさか、このわしが見ている側からされる側になるとはの」

「俺が……枝穂の?」


 思わず聞き返す。


「そんなに昔から来てたか?」

「うむ。おぬしらがもっと小さき時には今よりずっとたくさん来ておったぞ」

「……」

「認めたくはないが、ここにやってくる人間は少ないからの。おぬしらのことはよーく覚えとる」


 そしてよくおぬしはあの娘の頭を撫でてやっておったものじゃ、とニニは懐かしむ。


「俺が……」


 その言葉で、だんだんと思い出してくる。俺と枝穂が子どものころ、何度もこの神社を訪れた思い出を。


「……!」


 そして、気づく。俺が今、彼女にどうしてやるのが一番なのかを。


「実よ、どうかしたのか?」


 不思議がるニニには目もくれず、俺はスマホを取り出す。ワンコールで出た相手に、俺はこう言った。


「少し頼みたいことがあるんだけど――」

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