第7話

 それは突然の出来事だった。


「あでででででででででででで!!」


 夕方の『はなむら』でいきなり響き渡る悲鳴ともとれる大きな声。

「どうした! なにかあったのか!?」

「大丈夫?」


 今日も今日とてバイトに来ていた俺と枝穂は、慌てて声のしたカウンターの向こう、厨房へと駆けこむ。そこには、うずくまる大きな熊、もといクマちゃんがいた。


「どこか怪我でもしたのか?」

「い、いや……今この荷物を棚に直そうと思って持ち上げたらよ、急に腰が痛みやがってな……」


 苦悶の表情を浮かべながら、クマちゃんは己の腰のあたりをさする。


「腰、ってことは……」

「おーい、だいじょーぶ?」


 ひょい、とカウンターからこちらの様子をうかがいながら切畑屋が訊ねてきた。常連としても、店主がいきなりいつもとは違う大声を上げたとなれば心配にでもなるのだろうか。


「なんだ、切畑屋か」

「なんだとはなによー。失礼しちゃうわねー……で、どうかしたの?」

「まあ……たぶん、ぎっくり腰だろうよ」


 俺は推測したことをそのまま述べた。

 中年男性。重い荷物。持ち上げる。これだけの条件がそろって腰に急な痛みが走るとなれば、ぎっくり腰と結論づけるのが妥当だろう。


「ほえーぎっくりかー……」

「ま、クマちゃんももう歳ってことだな」

「うるせえ! 人を年寄り呼ばわりすんな! あとクマちゃんって呼ぶなっ……あいててて」

「クマ……マスター、安静にしていないと」


 再び痛みを訴えたクマちゃんに、枝穂が近寄る。


「一応、腰以外は元気みたいだな」


 いつものあだ名にも敏感に反応するし、そこまで大事には至らなさそうだ。だが枝穂の言うとおり安静にしておくべきだろう。


 ひとまず肩を貸し、店の奥のクマちゃんの自宅の方まで連れていく。なぜか切畑屋までついてきていたが、それについてはとやかく言ってもしょうがない。


「……」


 言ってもしょうがないのは、更衣室から顔だけのぞかせているニニも同じだった。まあ俺以外には見えないのだから何の心配もいらないのだが。


「……?」

「し、枝穂? どうした?」

「あ、ううん。なんでもないよ」


 枝穂が不思議そうに更衣室の方を見るもんだから、一瞬肝が冷えた。まさか枝穂にはアイツが見えてるんじゃないか、なんて思ってしまったじゃないか。まさかそんなことはないだろう。

見られるが嫌なのだろう、ニニの方もすぐに顔を引っ込めていった。もう大人しくしていてくれ。晩飯たくさん食わせてやるから。


 そんなことより、だ。


「問題は店をどうするか、だよな……」


 ざっと店内を見回しても、客の数は決して少なくない。しかし、ここでクマちゃんが厨房に立つのは無理がある。


「心配すんな。今日くらいやりきって――いっつつ……」

「まだ立ち上がっちゃだめだって」

「悪いことは言わないから今日は寝てた方がいいって」


 ここで無理して悪化させるよりかはずっとマシだ。


「さて、どうすっかなあ……」


 クマちゃんを休ませることは決定事項として、今日の店の行く先についてはまだなにも決まっていない。


「普通に考えて、今日はもう閉めた方がいいよな」


 時刻は夕方にさしかかった頃合い。そして今日は土曜日。これから午後を部活に費やした俺たちの学校の生徒がやってくる可能性が高い。厨房が機能しない状況ではまず乗り切れない。


「まー一日くらい休んだってダイジョブっしょー」

「そうだよね……残念だけど、今日は……」

「いや……待ってくれ」


 しょんぼりする枝穂の言葉を遮ったのは、クマちゃんだった。


「店は、閉めない」


 念を押すように、クマちゃんは言う。


「閉めるなって言われても、店に出るのは俺と枝穂だけだぞ? 言っておくけど、クマちゃんは安静にさせるからな」

「それはいい。俺も今は大人しくしていよう。だが、店を閉めることだけは……やめてくれないか」


 真剣な眼で訴えてくる。冗談ではないらしい。

 そんなに店を閉めることに、なにか躊躇いがあるのか……?


 数秒経って、俺は押し負けたように嘆息した。


「わかったよ……。でも閉めないのはいいとして、厨房はどうするんだ?」

「……それはだな……」


 歯切れ悪く言うクマちゃん。そりゃそうだ。喫茶店とはいえ、厨房は店の要。いつもいる人間がいなくなったらどうなることか。


 ううむ、と唸るクマちゃん。しかし次にその口から衝撃の言葉が発せられた。


「実、お前がやってくれ」

「そ、それ……本気で言ってんのか?」


 耳を疑った。バイトで厨房の仕事をやったことなんて、片手で数えられるくらいしかないんだぞ。いくらなんでも無茶だろ。


「ああ、大真面目だ」


 それでも、返ってくるのは頗る真剣な言葉。


「……」

「……わかったよ。だけど、どうなるかは知らないぞ?」

「もちろんお前のできる範囲でいい。もしダメそうだったら提供するメニューを飲み物だけに切り替えてもいい。それなら大丈夫だろ?」

「りょーかい。ってかそうなる確率の方が高そうだけどな」


 だが、あくまでも店は開いたままってことか。


「マ、マスター! じゃあわたしも厨房に入る!」


 すると突然、枝穂が調理する仕事に名乗りを上げた。その顔は緊張で少し強張っているものの、やる気に満ちた眼差しだけははっきりと伝わってくる。


 が、クマちゃんはゆっくりと首を横に振り、いいや、と呟いてから、


「枝穂は引き続きホールをやってくれ。お前まで厨房に行ったら誰も注文を受けるやつがいないだろ?」

「そ、そっか……わかりました……」


 小さくうなだれる枝穂。


 まあ、この中で厨房役を頼むってなったら俺が一番の適任だろう。バイトしたことのない切畑屋は論外として、破壊的な料理スキルの枝穂に頼むのは現実的ではない。俺が適任になるっていう時点で詰んでるような気もしなくはないが。


 しかし、自分から厨房役を買って出るなんて……枝穂らしくないように思える。料理に自信(過信ともいうが)があるのは知ってるがどちらかというと、焦って発言したようにも見えた。


「じゃあ、頼んだぞ……あってて……」

「任せとけって」


 言って、親指を立てる。


 さて、ここからが勝負だ。まずは――


「んじゃーぱぱっとやりますかっ!」

「ちょっと待て」

「ん? なにが?」

「なにが、じゃねえよ。なんでお前まで従業員のエプロン装着してんだ」


 いつの間に着替えたのか、切畑屋は俺たちと同じ格好をしている。大体どっから持ってきたんだ。サイズもぴったりみたいだし。


「だって枝穂ひとりじゃホール大変かもしれないでしょ? 微力は承知なりともこの不肖切畑屋花織、お手伝いさせていただきます」

「……いいのかよ」


 俺はリビングのイスに座りなおしているクマちゃんに半眼で視線を送る。


「かわまん。今は猫の手も借りたいからな。コイツならウチの常連だし、ある程度勝手は把握してるだろ」

「へっへーありがとクマちゃん」

「だからクマちゃんって呼ぶなっ……あっつつ」

「もうツッコむのはいいから安静にしてろって」


 もう定着してるんだから律儀に反応しなくていいんだぞ?


「ったく……。お前ら、頼んだぞ」


 クマちゃんのその言葉を背に、俺たち『はなむら』臨時スタッフは再び店へと戻るのであった。



「とりあえず、今は注文入ってないね」

「だな」


 店に戻った俺たちはその場にいた客たちに事情を説明した。この店は比較的常連が多いので、「それなら今日は飲み物だけにしておこうかな」と協力してくれた。せっかく来てくれているのにこんな対応しかできなくて心苦しい気持ちになるが、今は仕方ない。


「問題はここからなんだよなあ」

「だよねー」


 おそらくもうすぐウチの高校の連中が部活終わりでたくさんやってくる。いくらみんなが協力的といっても、物理的な多さは強敵となる。そこを乗り切れるかが勝負だ。


「今のうちに厨房の勝手を復習しておくか」


 何がどこにあってどうすればいいか、はクマちゃんからさっき軽くレクチャーを受けたけど、実際に見てみるのとはまた違う。俺は厨房のあれこれを確認しながら、来るべき決戦に備える。


「ところでさー」


 すると、カウンターの向こうからいつもの少し間延びした声が。


「なんだよ、今は忙しくないからってサボるなよ」

「サボりませんとも。それよりさーせっかく女の子が普段とは違う格好してるんだよ? 男として何か言うことないの?」


 言って、切畑屋はクルリとその場で一回転してみせる。


「ほらー、どうどう?」

「どうって言われてもな……」


 別にオシャレしたわけでもなく、ただ単に制服の上からエプロン着ただけだしなあ。普通のエプロンとは違って多少フリフリが多くついてはいるが正直、特にこれといった感想は出てこない。そもそも相手が切畑屋だし。


 だがしかし、ここで思ったことをそのまま口にするとうるさいので遠慮なく建前を使わせてもらうが。


「あー、いい感じだな。良く似合ってると思うよ」


 あくまで自然に、それでいていい感じに棒セリフで、そう言ってやる。


「やったー。実に褒められたー」


 簡単なヤツめ。そういう素直なところはまだかわいらしいんだがなあ。

 これも思っていても言わないが。


「むー」

「なんだよ、枝穂」


 気が付けば、枝穂までこちらを見ている。しかもなんだかふくれっ面で。おい、お前ら仕事しろって。


「実がキリちゃんだけ褒めてる……ずるい」

「なにがずるいんだ……大体お前のエプロン姿なんて毎日のように見てるだろ」


 なんで今さら感想を言わないといけないんだよ。


「それでもキリちゃんだけなんてー」


 むーっと唇を尖らせる。


「はあ……」


 なんでまたこんなことに……。

 だけどまあ、コイツを安心させてやるのは俺の役目だからな。昔から。


 俺は枝穂に近づき、頭に手を乗せる。


「安心しろ。お前もちゃんと似合ってるから」

「…………ほんと?」

「ああ、本当だ。嘘は言わねえよ」


 実際似合ってるのは間違いない。自覚はないだろうが一応枝穂は『はなむら』の看板娘的存在でもあるのだから。


「えへへ……そっか、えへへ」


 くすぐったそうに目を細める枝穂。

 こんなことで喜ぶなんて、コイツもコイツで簡単というか、チョロいというか……。


「いやーお熱いですなー二人ともー」

「なにニヤニヤ見てんだ。もうすぐ客がいっぱい来るんだ。ちゃんと仕事しとけ」

「はーい」

「枝穂も。今日はいつも以上に忙しくなるから気をつけとけよ」

「……うんっ」


 釘を刺すつもりで言ったのに、返ってきたその笑顔に、俺は毒気をすっかり抜かれてしまったのだった。


 ◇


 今日は大波乱になる。


 誰もがそう予想していた。『はなむら』の店主であり店の要であるクマちゃんの突然の負傷。いくら切畑屋を助っ人として迎え入れてもてんやわんやの大忙し、最悪ひどい失敗を犯すことだってありえる。


 しかし――


「がはは! いやーまさか実の奴がここまでうまくやるとはな!」


 相変わらずの大声が部屋中に響き渡る。腰に負担をかけないように今は布団で横になっているというのに、スタミナは満タンのようだ。


「ほんとほんとー。実ってば料理うまかったんだねー」


 隣に座る切畑屋も、上機嫌でバシバシと俺の背中を叩いてくる。痛い痛い。


「俺もさすがに今日はグダグダしたまま閉店時間を迎えることもやむなしと覚悟していたが、そんなことは全然、全くなかったな! さすがに驚いたぞ!」

「ははは……」


 そんなこと言われてもな。一番驚いているのは、他ならぬ俺なのだ。


 普段料理をしない俺が、いきなり喫茶店のキッチンを任される。それでうまくやれるはずがない。それなのに。


 現実はまさに予想とは裏返しのように違っていた。


 多少手間取ることはあっても、あれから大勢やって来た客の注文も全てこなし、特に大きな失敗もしなかった。


「おまけにお客さんに『おいしー』って言われてたもんねー」

「俺もまさかそこまで言われるとは思ってなかったよ……」

「ま、俺のホットケーキにはまだまだ敵わねえがな! うはははは!」

「でも途中にこっそりつまみ食いしたけど、本当おいしかったよー? これはクマちゃん危ういんじゃないー?」

「うっせえクソガキ。あとマスターって呼べ」

「というかお前いつの間につまみ食いなんかしてたんだよ……」


 いつもの応酬にも、どこか和やかな雰囲気がある。当然だろう、いきなり訪れた苦難を、ひとまず乗り切ることができたのだから。


「……」


 そんな戦に勝利したような空気の中、ひとりだけ何やら浮かない顔をしている人間がいた。


「……枝穂、どうかしたのか?」

「えっ!? う、ううん! なんでもないよ?」


 と、言う割にはどこか落ち込み気味な気がした。さっきまではエプロンがどうとか、いつもどおりだったのに。


「じゃ、じゃあわたし、先に帰るね」

「あれ、枝穂もう帰っちゃうの? 今日くらいちょっと祝杯あげようよー」


 そう言って、切畑屋はくいっと酒でも飲むような仕草をする。


「おい、未成年が何言ってやがる。あとウチは喫茶店だ。酒なんか置いてねえよ」

「ちぇー」

「あはは……お先に失礼します」

「おう、気をつけてな」


 ぺこり、と頭を下げて枝穂は部屋から出ていく。


「……枝穂?」

「疲れちまったのか?」

「俺……ちょっと見てくる」


 気づけば枝穂を追いかけていた。


「おーい、枝穂」


 すでに店の外に出ていた彼女を呼び止める。


「どうか……したのか?」

「今日の実……すごかったね」


 俺の質問には答えず、そして振り返らず、枝穂は言う。


「いつの間に料理なんかできるようになったのさ。もーわたしビックリしちゃったよ」

「枝穂……?」

「ほんとはわたしもちょっとは手伝おうかなーとか思ってたのに、ひとりで全部こなしちゃうんだもん。さすがだよ、実」


 すでに日が沈んでしまっている薄暗い空間が、俺の中に生まれてきた不安な気持ちが大きくなるのをかき立てる。


「これじゃあ、わたしはもう……いいのかな……」

「どういう、ことだ?」

「ううん、なんでもないの。じゃあまた明日ね」


 そう言い残して、彼女は去っていく。まだ話したい、そう思ったのに俺の足は動かず、ただただ遠ざかる姿を見ることしかできなかった。


 去り際に振り返った彼女が見せた笑顔が、まるで泣いているように、脆く見えたから。

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