よっちゃんの家

@chizurosen

よっちゃんの家 ~一生忘れられない顔がある~ 一話完結

私の次女、真亞子(帰国子女)の国立大学受験に付き添って富山へ行った時の話だ。

北陸新幹線で富山駅に着いたのが午後三時前。富山駅から路面電車に一駅乗り、富山大学生協推奨旅館の芳原へチェックインすると、既に館内は受験の親子で満室に近い。天気予報は曇りのち雪。晴れていると壮麗な景観の立山連峰も一切見えない。頭上にのしかかる暗雲。富山は一年中雨が多い。「一年間に快晴の日は十日とちょっと。」と、魚津出身の友人が言っていた。冬は雨が雪になる。除雪や融雪のインフラは大層整っている。普通の家の門前にも自動で流れる融雪装置が備えられている。芳原旅館のフロントで、「明日が大雪になった場合でも、富山大学まで路面電車は動きますか?」と聞いたら、「動きます。」と、即答された。

真亜子と私、二人には広過ぎる二間の部屋。八畳の座卓の間、六畳の寝間、どちらにも床の間が付いている。ティーバッグの緑茶を淹れ、ずっとそこにあったような最中を食べ終わり、早速大浴場に行きますか、と言う真亜子に、私は絆創膏を手渡す。NY育ちの真亜子の心臓の上辺りには、小さな稲妻を握る手のタトゥーがある。こんな少女の入れ墨を取り締まるのは馬鹿げていると思いつつ、念の為、肌色の絆創膏を貼るよう勧めたのだが、浴場に行ってみると無人であった。暗い浴場の紺のタイル。旅館の名入りの白いタオル。熱い湯に十分温まり、浴衣の上に丹前を着ても、暗い廊下を戻る間に身体が冷えてしまう。中庭の低い松に雪がうっすら積っている。やはり雪になった。

大広間に見渡す限りの台付の膳の前に、母と息子、母と娘、の二人組が合わせ鏡の様にどこまでも向かい合って座って居る。父親は皆無。丹前姿で座って居るのは私と真亜子くらいで、大方は洋服と制服の母子。これでは子連れで来たPTA会合に居るみたい、折角の夕飯がくつろげない、と私は思った。だが、台の上の膳を見た途端に私はくつろいだ。高級でない旅館の普通の献立でありながら、富山湾の海の幸が当たり前の様に並んでいる。のどぐろの刺身、甘海老の刺身、白海老の天ぷら、寒鰤のミニしゃぶしゃぶ、そして紅ズワイガニ。

「すみません。息子は蟹が苦手なので、違う物に替えて頂けませんか?」

私の隣に居るニットスーツを着た母親が、小鍋に火を点けて回っている仲居さんにそう頼むのを聞いて、「じゃ、私がカニ頂きましょう。このポテトサラダと交換で?」と言いそうになったが、神経質そうな母親の吊り上った目を見て止した。代わりに、「あ、ここ、熱燗一本お願い!」と、仲居さんに声をかけた。「はいはい!」と、仲居さんはこちらに笑顔を向け、神経質そうな母親には、「料理長に聞いて参ります。」と慇懃に答えている。しばらくして仲居さんが熱燗一本持って戻り、当たり前の様に私と真亜子の前に一個ずつお猪口を置いた。見渡す限りの受験母子一行の中で、アルコール飲料を頼んだのは私だけなので、自動的に真亜子は受験生とみなされなかった。あるいは外国人のように浴衣の襟を抜いて着ている真亜子が大人びて見えたか。蟹の苦手な息子の前には、ローストビーフ三切れとパセリの入った小鉢が置かれた。息子が、「ローストビーフも要らない。」と言うのを聞き、真亜子がちらりと男の子の顔を見た。中々整った顔立ち。少年も、熱燗を手酌でやっている私と真亜子の顔をちらりちらりと見返した。ローストビーフを箸に挟んで持ち上げて神経質そうな尖った鼻で匂っていた母親は、結局三切れとも食べてしまった。

部屋に戻ると、二組の布団が並べて敷かれてある。真亜子と畳の上に布団で寝るのは何年振りか。真亜子たちが小学生の時、元家族四人で私の郷里家串へ行った時以来か。

「だめ。緊張してきた。お母さん。何か面白い話して、リラックスさせて。」

知っている限りのジョークをつらつら思い出してみるに、“ユダヤ人は乗用車に何人乗れるか?”というユダヤ自虐ジョークか、“マルティーニを頼む尼さん”というアル中ジョークか、“世の男は一つの脳を共有している”という逆性差別ジョーク、くらいしか思いつかない。受験生向きじゃないし、日本語でうまく言える自信も無い。普段ジョークを言う相手は娘ではなく、外国人のミュージシャンの夫の悪友どもなので無理も無いのだ。黙っている私を見て真亜子は、「じゃあ、恋話は? 」と話題を変えてくれた。布団や畳の上では滑るので、足袋を脱ぎ、寝室の床の間に上がり、プランクをしながら、まず真亜子が自分の恋話をした。一つ話が終わるまでプランクを続ける。娘の恋話をラインで報告でなく、ちゃんと聞くのは初めて。私の胸がえらく切なくなり、最後は大笑いをした。恋話をコンパクトにまとめて、笑いも取るなんて、中々のもんだと思った。次は私の番だ。しかし、真亜子の父親との大阪城句会での出会い話や、ヴィオラを担いで来た父親に一目惚れした話や、佐渡島への婚前吟行などの話はさんざんし尽くしている。再婚したニックとの恋話や、真亜子の父親以前の恋話は不適切だし、さてどうしたものか。

「恋話でなくても、怪談でもいい?」

私が切り出すと、真亜子は、「あまり怖過ぎると眠れなくなって駄目だけど、都市伝説系ならいいよ。」と言う。都市伝説とは、口コミで噂が広がった出所不明の怪談のことらしい。

「都市伝説じゃないけど、私の実体験だけど……」

と言いつつ、はや私の脳裏に忘れがたい一つの顔が思い浮かぶ。長い話になりそうだからと、プランクは一時休憩し、ティーバッグのほうじ茶を淹れて来て床の間に座ったまま、私は語り始めた。

「真亜子は、“麗子像”って知ってる? 日本の教科書にはよく出てくるんだけど、大正時代の画家に岸田劉生という鬼才がいてね。娘の麗子の肖像を五十点くらい残したという……。」


麗子像と聞くだけで、暗い背景に浮かぶおかっぱの髪と、着物の上に羽織った赤っぽい毛糸のショールと、こけしのように目を細めて微笑む、少女の顔が浮かぶ。考えてみれば、昭和時代の小学校には学級に一人くらい必ず麗子像に似た顔の子がいた。やーい、麗子像、とからかわれていた。麗子は美人とも不美人とも言えない。微笑むと愛嬌がある。だが、泣くと恐ろしい顔になりそうだ。民俗学者柳田國男の『妖怪談義』に出てくる“小泣き爺”のような顔。老人の姿ながら夜道で赤子のような泣き声をあげる妖怪、小泣き爺は、水木しげるの漫画“ゲゲゲの鬼太郎”で知られるが、実は民間伝承、つまりは都市伝説である。

私は真亜子にスマホで麗子像の画像を見せてから、話を続けた。真亜子はすっかりリラックスして布団にうつ伏せに寝ころがり、私がおやつに持参した海苔巻き煎餅の包みを一つずつ開いては、ぽりぽり齧っている。


私の郷里の愛媛県南予地方の愛南町。昔は内海村家串と呼ばれていた漁村で、私は麗子像に瓜二つの子供を見た。今の真亜子とほぼ同い年、大学生になったばかりの十八歳の夏休み、家串に帰省していた私は、村の郵便局で働く叔母の娘、つまり私の従妹の子守をしていた。五時過ぎに帰って来る叔母に、一歳数か月の従妹を引き渡した後でも眼を閉じると赤ちゃんの笑顔や泣き顔が瞼に浮かぶほど、私は真面目な子守だった。叔母が仕事の後、村の寄り合いで遅くなったある夜、叔母の家から戻る途中の四つ辻で子供が泣いていた。


「お母さん、急に、わあっ、とか大声で脅かすのは無しね? 」

真亜子が不安そうに頼んでくる。

「大丈夫。そんなことしない。」と、私は真亜子の側に寝ころんで話を続ける。


路地を出た四つ辻の角の電信柱に、裸電球が点いていた。その周りだけぼうっと明るくて、周囲は暗い。電信柱の根元に女の子は立ち、両手に顔を当て、あーん、あーんと声を上げて泣いている。

「どうしたん? お母さんはどこ?」

その子の前にしゃがんで聞くと、子供は顔を上げた。暗い背景に浮かぶ、おかっぱの髪。浴衣の上に羽織った赤っぽいジャンパー。こけしのように目を細めた泣き顔を見て私は、麗子像、と呟き、ぎょっとして後ずさった。私が離れたのを感知して、わーん、と再び泣き始めたその顔はなんと、子泣き爺にそっくり。大学生の私は、いかん、大人げない、と自分を叱咤し、子供の前にもう一度しゃがんだ。

「お母さんは?」

すると子供は黙って、農協の方を指さす。さっきまで叔母が参加していた村の寄り合いの灯が、農協の二階にまだ点いている。

「ああ、あんたのお母さん、寄り合いに行ったんやね?」

「なんであんたは、ここにおるの?」

「お母さん、まだ帰らんの?」

次々と質問しても、首を縦に振ったり、横に振ったり、ちっとも喋らない。七歳くらいか。いや五歳くらいか。寄り合いの部屋へ連れて行ってみようか、それとも?

「家はどこ? じいちゃんか、ばあちゃんはおるん?」

「あんたの名前は何?」

私が名前を聞くと、子供は初めて喋った。

「よっちゃんの家あっち。じいちゃん、ばあちゃんも、あっち。」

と、今私が来た方の暗い路地を指さす。祖父母の居る家に連れて帰ろうか。どうせそう遠くはない。寄り合いに連れて出た子を母親が一人で帰すくらい近所なのだから。

「よっちゃんの家に帰る? それともお母さんの所へ行く?」

と最後に私が聞くと、子供は迷いなく家の方を指さし、私の手をぎゅっとつかんだ。


「いやあ、お母さん、怖い! よっちゃん怖い!」と真亜子が叫んだ。

「今夜はこれでやめとく? 続きは入学式の夜に聞く?」

「……いや、やっぱり今、聞く。」と、真亜子は言い、布団を頭から被って目だけ出す。


よっちゃんに手を引かれ、私は元来た路地を戻って行った。叔母の家は、家串の住民全員が檀家となっている寺へ行く途中にある。寺の裏には、寺山と呼ばれる墓地がある。寺山に桜を植えるために山を掘り返すと、ざくざく刀が出て来たそうだ。瀬戸内海の島々には、源平合戦に敗れた平家の落人が漁師や百姓となって棲みついた、海賊となって海を荒らし回った、などという伝説がどこの島にもある。家串もその一つ。落人伝説を聞いて以来、寺山の桜が今まで以上に美しく見えるようになったものだ。

よっちゃんは、寺山の方角を目指し、ずんずん歩いて行く。叔母の家の方に曲がる細道の入り口を過ぎる時、私はよっちゃんに聞いた。

「本当にこっちなん? この角を通り過ぎると、後はお寺しか無いんよ?」

よっちゃんは黙って私の手を握ったまま、寺の方へ進んで行く。小さな子にしては足が速く、手の力も強い。よっちゃんと私は、すぐに寺の山門へ着いた。

「ああ、もしかして、よっちゃんは、お寺の子なん?」

よっちゃんは首を横に振り、寺の山門の石段を登らず、その先へ、と進もうとする。

「待って、よっちゃん。そこから先に家は無いんよ。そこから先はお墓よ。」

怖くなった私は、よっちゃんの手を振りほどいた。よっちゃんは又、わーん、と泣き、

「よっちゃんの家あっち、じいちゃん、ばあちゃん、あっち。」と、お墓を指さした。

麗子像に似た顔が歪み、老人のように見えていた。

私はもう我慢できず、「ごめん、ごめん。」と叫びながら、墓の入り口によっちゃんを置いまま逃げた。一目散に路地を駆け抜け、叔母の家の細道の角を走り過ぎ、海沿いの村道を飛ぶように走り、郵便局の裏にある実家へ逃げ帰った。よっちゃんとの一部始終を話すと、バーバは事もなげにこう言った。

「ああ、それならトンネル下の家の子やろ。」

墓山の横に家串と平碆という二つの集落をつなぐトンネルがある。墓へ続く山道を墓に入らずそのまま登って行くと、村道のトンネルに出る。トンネルに出る前に家が一軒ある。「たった五百ほどの人口やけど、よそから来た嫁とは昔のようなつきあいができんけん、どの子がどこの子かみなは知らん。けどお墓まで帰ったら、あともうちょっとやけん、自分でいんだ(帰った)やろ、その子。」

バーバはそう言って、私を慰めてくれた。よっちゃんは、本当によっちゃんの家を指さしたのだ。たまたまよっちゃんの家が、墓の背後にあっただけなのだ。

その夜布団の中で目を閉じると、麗子像とよっちゃんの顔が二重写しに後から後から、暗い瞼の内側に赤い丸となって、ぽこりぽこりと浮かんできた。 


「お母さん、もう! 怖すぎるよ。今夜わたしが眠れなくて、明日受験失敗したら、お母さんのせいだからね。だから一緒に寝てね、一緒のお布団で。」

 ちゃっかりと腕枕をせがむ真亜子の髪を撫でながら、

「後日談あるけど、じゃもう話さないね?」と聞くと、

「いや、そう言われると気になって逆に眠れない。」と、真亜子が言うので、私は手短に語り終えることにした。

よっちゃんを初めて見てから三十数年の月日が流れ、真亜子のお父さんと離婚し、ニックと再婚し、五十一歳の夏だった。私はまた実家に帰省した。ニックと一緒に墓を洗い、樒や百合を飾り、お線香をあげ、合掌するという、日本式の墓参を体験させた。寺山の斜面に段々畑のように並ぶジージの墓から、夕陽の沈む入江を見下ろした。その夜盆踊りをした帰り、例の四つ辻の電柱にさしかかった時、その下に子供の姿が見えたから、私は、ぎくりとした。何も知らないニックは、にこにこと、電柱の下に立つ子供の前にしゃがんで、片言の日本語で、「ダイジョウブデスカ? イエハドコデスカ?」と話しかけた。

顔を上げたその子供は、よっちゃんだった。忘れようとしても忘れられない麗子像にそっくりのよっちゃんは、ニックの顔を見てわっと驚き、子泣き爺の顔になって泣きながら、そのまま墓の方へ暗い道を駆けて行った。

「どういうこと?」と、真亜子が聞く。

「よっちゃんの子供じゃないかと思う。」

「よっちゃんの子供が、偶然その電柱の下に立ってた?」

「そうとしか考えられない。そうでなければ、よっちゃんは四つ辻に出る妖怪とか? 」

「四つ辻の妖怪だから、よっちゃん? もしそうだとしたら、妖怪を泣かせたニックってすごいね。」と真亜子が言い、二人でげらげら笑った。

「お母さんが将来お婆さんになって家串に里帰りした時、四つ辻の電柱の下にまた、よっちゃんが立ってたら?」

真亜子はそう言って、麗子像のように目を細め、ふふん、と鼻で笑った。


翌朝は大雪が積っていたが、旅館の人は正しかった。大通りへ出ると除雪は完了し、何事もなく車が行き交い、路面電車もごとごと走っている。手袋の手を振り、路面電車の停留所へと四つ辻を渡る真亜子の背中を見送りながら、私は目に見えない力に合格を祈った。

(終)

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