第14話 からくり
奥の部屋の扉が開いて、両手に麦茶のグラスを持った彼が戻ってくる。
「巴流……」
涙で視界が滲んで、私は写真を絨毯に落とした。眼鏡を外し、もじゃもじゃの髭をさっぱりと剃った彼は、間違いなく西本巴流だった。私は巴流の胸に飛び込み、彼は麦茶を半分くらいこぼした。
「巴流は船の事故に遭ったって父さんが……」
私は彼が居なくならないよう、ぴたりとくっついて座った。
「事故に遭って、家族の中で俺だけが助かった。しばらくは自分が誰なのか分からなくて、現地の漁師の家で世話になったんだ」
彼は立ち上がると赤茶けた写真を拾い「若いなぁ」と笑った。
「記憶が?」
「数年かかった。ポケットのクリアケースに入っていたこの写真が心の支えだった」
それは母が記念にと、裏庭のトネリコの木の下で撮ったものだった。
「記憶を取り戻してからは、もう一度君に会いたくて、天文学を志した」
声が僅かに震えている。少し猫背な後ろ姿が、自転車のあの広い背中に重なって見える。
「だが天文台の仕事に没頭するある日、愕然とした。今さら未来に行けたとしても、もうあの時の自分には戻れない。俺は、君に会うにはもう歳をとり過ぎていた」
巴流は写真をコルク板に丁寧に戻した。
「それからは漫然と生きてきた。ところが何年かして、海野教授が天文台にやってきた。教授は俺に気付き、研究に誘ってくれたんだ」
そういえば父親が豪州に出張したことがあった。先住民アボリジニの木製のブーメランを27本も買ってきて、花枝に叱られていたことを覚えている。
「俺は誘いを断った。教授の元へ行けば、否応なしに君に会うことになる。二十以上も歳の離れたおっさんは迷惑な存在になると思った。それで手元の資料を託したいと願い出たが、教授は受け取ってはくれなかった」
巴流は一旦奥へ行くと、麦茶の代わりに冷えた珈琲の缶を持ってきた。
「教授の意思は固かった。天文学に携わる者なら、緑の星を研究すべきだとね。俺は正体を明かさないことを条件に帰国した。まぁ、以前から北半球の空を勉強したい思いはあったし、君がもう俺の事なんか忘れているとも考えたわけだ」
「それで……常磐万作?」
私はクスッと笑った。なぜ気づかなかったんだろう。トキワマンサクと言ったらうちの生け垣の名前ではないか。春に無数の桃色の花をつける。
「そんな
巴流はさっぱりとした自身の顎を擦りながら笑った。
「西下春さんは、結婚して幸せそうだったわ。なぜ嘘をついたの?」
「事実が君の気持ちに発破をかけてしまうと思ったから、否定的な事を言った。でも、あれは嘘であって嘘じゃない。飛んだ事のある者の本音だよ。俺自身のね」
彼は部屋の隅にあったバスケットボールを私に渡した。年季の入った革ボールは特有のワックスの香りがする。
「君を忘れられなかった。これでも、数々の誘いを断って来たんだぜ」
ああ、笑い皺が出来ても、やっぱり西本巴流だ。
「もう正体がばれたから、私たち大丈夫よね?」
胸の穴に涼やかな風が吹き込んでくる。彼は思い出を、古いボールを手入れするように大切にしてくれていたのだ。
「ごめん、君と付き合うことは出来ない」
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