第12話 晩夏の喫茶室
朝からクマ蝉が求愛にいそしんでいる。
私は天文台のある図書館に併設の喫茶店で二杯目の珈琲を飲んでいた。店内は空調が効いているが、窓から差し込む光が眩しく、じわりと汗ばんでくる。
「海野可鈴さん?」
掠れた声がして顔を上げると、茶色い巻き髪の女性が現れた。
「は、はい!」
慌てて立ち上がった瞬間に、膝をテーブルの脚にぶつけて悶えると、女性は上品に微笑む。
「ふふ。緊張しなくて良いのよ。はじめまして、
西下春は、まつ毛が濃くぽってりした唇の、梔子の香りのする女性であった。
「あら、サービスの良いお店ね」
「この町の喫茶店はこれが定番なんです」
アイス珈琲にはモーニングサービスで、クロワッサンと、ポテトサラダとわらび餅がついてきた。
「この量が普通なの?」
「ドーナツや茶碗蒸しがついてくることも」
「羨ましいわ……可鈴ちゃんて呼んでいいかしら?」
「はい」
彼女は珈琲を一口のんでから、ポテトサラダを口に運び、「おいしい!」と目を見開いた。年の頃は四十位にみえるが、愛らしい女性である。
「可鈴ちゃんは、私に質問があるのよね?」
「はい、その……」
「遠慮しないで良いのよ」
「西下さんは、緑の星を見てタイムスリップした経験がおありだと……」
「そうよ。貴方のお父様と同じ 。20年未来に飛んだわ」
彼女は即答すると、クロワッサンを艶めいた唇へと運んだ。胸元が開いた大胆なカットソーの下に、黒い花柄模様のキャミソールが透けている。
「その……どうでしたか?」
「そうね。良い経験をしたと思っているわ。可鈴ちゃんも緑の星を見たいのかしら?」
「はい。父は反対していますが、過去に行きたいと思っています」
「なぜ?」
「……実は5年程前に、巴流くんという高校生が過去からやって来ました」
名前を口にすると、巴流の笑った顔が思い出された。
「ええ、お父様から聞いているわ」
「その子はうちに半月ほど滞在して、1993年に戻った後、船の事故で亡くなりました」
脈拍が速くなる。胸の風穴から感情が涌き出てくる。
「彼を助けたいの? 歴史は変えるべきではないわ」
彼女はわらび餅の楊枝を置いて、私の目を見た。
「はい、でも……」
重々承知している。頭ではわかっている。
「でも?」
「どうしても彼を失いたくないんです。たとえっ、会えなくても、死ななぃで……ほし……」
涙が溢れてうまく言葉を紡ぐ事ができない。
「泣かないで。可鈴ちゃんは彼の事が好きなのね?」
「うっうっ……」
いつからこんな事になってしまったのだろう。巴流は親友だと思っていた。誤解していたのは父さんではなくて、私の方だったのか。
「……いいわ。本当の事を話します」
彼女はハンカチを差し出すと、周囲を確認してからゆっくりと話し始めた。
「私は今ちょうど40歳だけど、生まれは西暦1960年なの」
「え……」
耳を疑った。単純な足し算を間違えるはずがない。
「そう、私は過去に戻ってないの。今は偽名で生きているわ」
「どうして」
「結婚したの。正確には事実婚ね」
「え……?」
「私はね、緑の星を見たあの日、本当は自殺しようとしていたの。唯一の家族だった義父に暴力を受けていた。それで故意に戻らなかったの。だから本当は、私に歴史をとやかく言う資格はないの。ごめんなさいね」
大したことではないかのように、彼女は笑顔で話した。
「そう、ですか」
「でもね、貴方には優しい家族がいるでしょう? だから、無理にお父様の研究結果を望んでは駄目よ」
優しく頭を撫でられて、また涙が溢れた。借りたハンカチは、彼女と同じ梔子の香りがした。
西下春は、落ち着くまでずっと髪を撫でてくれた。しばらくして私は矛盾に気づいた。
「常盤さんは、あなたが過去に戻られたと……」
「ええ、彼の話は嘘よ」
「嘘?」
「そう。私は口裏合わせを頼まれていたけれど、貴方が巴流くんを思う気持ちを尊重したいから、本当の事を伝えたの。あとは常盤さんに聞くといいわ」
そう言って彼女は微笑むとまた、わらび餅を口に運んだ。
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