第5話 緑の星
巴流がうちに来て半月が過ぎた。息子の欲しかった花枝は、歯ブラシからトランクスまで、身の回りの物をひと通り買い揃えた。
「ただいま。二人とも、明日は21時ごろ天文台に行こう」
ここ数日出張で不在だった父親が、帰宅するなり機嫌良く話した。
「明日は20時閉館だよ」
「それが、バレンタイン企画と名打って臨時の星見会をやるらしい。カップル限定ではないから僕らも入れるよ」
「やった。じゃあ先に宿題を済ませておくね」
それならついでに望遠鏡も覗きたい。私はリビングの炬燵に座ると、早速宿題に取りかかった。巴流はというと隣に来て、父に借りた昭和の推理小説を読んでいる。
壁掛け時計の振子が、規則的に時を刻む。彼が来てからというもの、リビングで過ごす時間が増えた。特別な話をしなくても、同じ空間に誰かがいるのは心地良いものだと、最近気づいた。
「あぁ、わからない」
困った素振りを見せると、巴流がノートを覗き込む。近くで見ると切れ長の瞳は睫毛が長く、鼻筋が通っていて、端正な顔立ちである。
彼はノートの端に小さく公式を書き、再び読書し始めた。公式を赤線で囲み、星印をつける。小さな丸文字は一見すると女子が書いたようで愛らしかった。このままここに居てくれたら楽しいのにという考えが浮かんで、首を振った。
翌日、館長に渡すクッキーを焼いた。思い付きでこしらえた土星型のクッキーは、ガリレオが耳だと表現した環の部分が割れてしまった。
「巴流くんには、おばさんからコレ」
困っていると花枝のハート型クッキーが大量に焼き上がったので、その一部をこっそり袋に詰め込むことにした。
「こんなに良いんですか? おじさんの分は」
「あの人にはこっちをあげるから、いいのよ」
花枝はウィンクして、モミの木型に抜いたクッキー生地を見せた。それはクリスマス用の抜型だけれど、クリスチャンじゃないから別にいいか。
夜になって私達は天文台を訪れた。館長は微笑んでくれたけれど、「サークルの皆で戴くとしよう」とクッキーをキャビネットにしまい込んで、父と難しい話をし始めた。
巴流と私は望遠鏡のあるドームに階段で向かった。ところがカップルの列が踊り場まで伸びていたので、脇を通り屋上に出てみると、こちらは無人で南の空にオリオン座とシリウスが瞬いている。
「雪が降らなくて良かったね」
巴流の隣に並ぶ。指先がかじかんで、息を吐く。
「ほら」
貸してくれた右の手袋はブカブカで、指先に空間が出来た。こんな長い指なら片手でボールが掴めるのかもしれないと思った。
「片方だけ? 彼女になら両方貸してあげるんでしょ」
「そりゃそうだ。お前アレだな、告白とかしないのか?」
「あったり前でしょ。見ているだけで幸せなの」
「ところで、遅れて21時に来た訳は何だろう」
「さあ、館長との約束かしら?」
「実はここのところ、方々に出向いて情報収集していたんだよ」
背後から急に父が話し始めて、私はびくりとした。
「学生時代の恩師が、緑の星を見たらしくてな。ちょうど2年前の今日だそうだ」
「緑の、星を……?」
父は頷くと空を仰いだ。恋人達を祝福するように、無数の星が瞬いている。
「21時過ぎだったそうだ。また見られるかもしれないから、いつでも戻れるように、鞄は持っておきなさい」
「え……」
私は思わず声を漏らした。ドクン、ドクンという鼓動が聞こえる。巴流がいないのを想像したら、急に胸が締め付けられた。
「その人も時間旅行を?」
巴流は父の視線の先を見る。
「いや、星を見ただけで何も起こらなかった。奥さんもそこにいたが、彼女が目視する前にそれは消えてしまったらしい」
「……そうですか」
「君と僕に共通点があるのか、座標や軌道に関係しているのか或いは天候条件か……僕は一応は科学者だから、根拠があると思っている」
父はそう説明したけれど、私は呼吸が困難になってそれどころではなかった。視界も何だかぼやけて滲んでいる。
それが涙のせいだと気づいた時、巴流の輪郭は完全に消えて無くなっていた。
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