2 婚約破棄をしました(注・あくまでも私から)
大広間は、まるで煮詰まったシチューのようにどろりとした空気に包まれていた。
夜の庭の清涼な空気を求め、私はバルコニーによろめき出る。
「あぁーもうー」
思わず、うめき声がもれた。
(何なのいったい。お父様が公爵になった時の比じゃないわ。挨拶に来る人来る人、みーんなイヤミばっか!)
『女のあなたに、公爵位なんて重い荷を負わせるとは。陛下も何を考えておいでなのか』
『議席もなく、剣を帯びることすら許されていない女の身で、公爵。それは色々と不自由もおありでしょう、力をお貸ししますよ』
『女の独り身でこの年になられたと思ったら、名誉な驚きが待っておりましたな。おめでとうございます』
オーデン公オーデン公と持ち上げつつ、同情する振りをして見下してくる(ついでに婚期に遅れがちな年齢をチクチクつついてくる)男性陣の態度に、私はすっかりへきえきしていた。
(形ばかりの爵位でしょうが。私、あなた方に偉そうにした? これからだって、偉そうにするつもりないんですけど?)
ため息をついていると──
──王宮の使用人が近寄ってきた。差し出されたトレイに、小さな封筒が載っている。
「オーデン公、お手紙です」
「ありがとう」
受け取って、開く。
あ、と目を見開いた。
(コベック!)
そこには、私の婚約者が庭で待っているというメッセージが書かれていた。
急いで、庭のあずまやに駆けつける。彼はそこで待っていた。
「コベック!」
私は思わず、彼の腕にすがっていた。
「やっと会えた。ああ、こんなことになるなんて……もう大変なのよ、聞いてちょうだい」
令嬢たちから妬まれている私にとって、彼は唯一、グチを言える相手だったのだ。
「ルナータ。ちゃんとお悔やみを言うこともできず、悪かったね」
コベックはただ、私にすがられるままにうなずいた。
私は何とか声を落ち着けながら、首を横に振る。
「いいの、こちらこそバタバタしてしまって。でも、今日で一区切りついたから」
疲れてはいたけれど、私は微笑んで見せた。
「父の喪が明けたら、私たちのこと、きちんとしましょうね」
「…………」
コベックはふと、視線を逸らす。
「……ルナータ」
「何?」
「君と婚約して、しばらく経つ。僕がどんな男か、君にもそろそろわかってきた頃だろう」
その淡々とした口調に、私は嫌な予感を募らせながら彼を見つめた。
「ええ……そうね、そのつもり」
「それなら、これから僕が言うことも、わかってくれると思う」
コベックは私から、手を離した。
「男はね。女に上に立たれるのが嫌なんだよ。ましてや、一番身近な女……妻に、上に立たれるとね。矜持を傷つけられる」
「…………あ、ええ、その……わかるわ」
動揺を抑え、私はかろうじてうなずく。
「でも、大げさよね、私が公爵だなんて。議席もないのよ? こんな形だけの──」
「形だけでも、嫌なんだよ。他の男がどうなのかは知らないけれど、僕はね」
彼は一歩、私から距離を置いた。
「君ならもちろん、わかってくれると、僕は思っていた。だから、僕の言うとおりにしてほしい。……君の方から、婚約を解消してほしいんだ」
「……何ですって?」
私は目を見開いた。
「婚約を、解消?」
「君は、今や公爵だ。僕のような、侯爵家の次男で爵位も継がないような男なんて、釣り合わない。そうだろう?」
コベックは、ゆがんだ笑みを浮かべる。
「だから、君から陛下に言ってくれればいい。『もっとふさわしい家柄の人と結婚したい』と。実際、その方がいいだろう? 何もおかしいことじゃない。僕の父も、君から言われれば納得せざるを得ない。何しろ君は、僕の父よりも身分が高いんだからね」
「待って」
私は思わず、一歩踏み出した。
「どうしてそんなこと言うの? 私、きっと、あなたが支えてくれるって」
「君を支える? 逆だ、と申し上げているんですよ、オーデン公。僕は、僕を立てて、支えてくれる人を妻にしたいんです」
急に口調を変えたコベックは、まるで私がものわかりの悪い女であるかのように、困った笑みを浮かべた。
「いや、でもよくわかります、オーデン公も支えがほしいというのは」
「そうよ、それなら」
「どうでしょう、百戦錬磨の年上の男に、色々と相談してみては? 実はネート公爵が、ルナータとゆっくり話をしてみたいと客室でお待ちなんです。お連れしましょう」
私はようやく、今の状況を理解した。
婚約者に一方的にフラれた上、他の男を勝手に世話されようとしている。父とほとんど年齢の変わらない男を。
──認めよう。本当はずっと、イヤな予感から目を逸らしていた。
彼に手紙を書いても、ひとことふたことのそっけない返事しか来なかったんだから、覚悟しているべきだったのだ。
急に、表面を取り繕っている自分が滑稽に感じられた。
(ここは、キレてもいい場面ではないかしら? ええ、そうよね?)
「……わかったわ、コベック」
私は微笑んだ。
コベックも、ホッとしたように笑みを返す。
「さすがはオーデン公、賢くておいでだ。それでは、ネート公爵のところに──」
「待って。最後に、私からの贈り物を受け取ってほしいの」
私は、スッと左足を一歩引いた。
右手の平を、コベックに向けて突き出す。
精霊語を放った。
〈ドレヴェーネ・コル・ナインス、コールド!〉
グワッ、と二人の間の地面が盛り上がって割れ、木の根がねじりあわされながら宙を走った。
「わああ!?」
まるで拳で殴られるかのように、木の根の固まりに吹っ飛ばされたコベックは、一気にバルコニーから広間の中へと突っ込んだ。
何人かの悲鳴が上がるのを聞きながら、私は右手をひらりと払い、木の根を地中に戻す。
ゆっくりと後を追って広間に入っていくと、人の輪の中にコベックがひっくり返っていた。
(コベック。あなたのお望み通りにしてあげるわ)
呆然とする彼の脇に立って、私は周囲の人々に微笑みかけた。ゆったりと、余裕を持って語りかける。
「お騒がせしまして、ごめんなさい。……コベック」
彼を見下ろすと、コベックはビクッと身体を引いた。
私は笑みを崩さない。
「あなたの身分もそうだけど……やっぱりこの有様では、ねえ。あなたが私を支えるなんて、とうてい無理みたいね。婚約は、解消しましょう。……あなたに良縁がありますように」
彼は呆然としたまま、目をぱちくりさせた。
私は彼の反応を待たずに身を翻すと、大広間を──王宮を後にした。
〈ふん。大事なところを踏みつぶしてやればよかったわ〉
うっかり精霊語で言ったためか、土の精霊たちが反応し、私が踏んだ跡にそってバキバキと地割れを起こす。周囲の人たちが小さく悲鳴を上げるのも聞こえたけれど、知ったことじゃない。
一人、馬車に乗り、王都のノストナ家のタウンハウスに戻る。
待っていた侍女のセティスが着替えを手伝おうとするのも断り、一人で部屋に入った。ランプをつけないまま、窓のカーテンを開ける。
空は曇り、星は見えなかった。
「…………」
私はいったん息を整えてから、淡々と、天国の父に語りかける。
「お父様、ごめんなさい。婚約は解消しました」
しかも、私の方が居丈高にコベックを捨てるところを、人々に見せつけるようにして。
「人前で男性に恥をかかせたのだから、今後も結婚のお話は来ないと思うわ。オーデン公爵は二代で終わりです」
話しているうちに悔しさが沸き起こり、目頭が熱くなる。
取り澄ましていた声が、乱れた。
「いいのよこれでっ。あんな人と結婚したら不幸になる! 私は間違ってないんだから! うわああああん!」
ベッドに倒れ伏し、私はひとしきり泣いて泣いて泣きまくった。
そして。
(早く領地に戻ろう。もう男なんてこりごり。私にはあの子たちがいるんだから!)
がば、と私は起きあがる。
「可愛いニノとトーマスとエバとクララとブランコとアンドリューとマルティナ! すぐに帰るわ、待っててね!」
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