第13話
風屋健の家の前で、夏岡と冬木は暫し佇んでいた。夕陽が沈むにはまだ少し時間が残っている。
「……あの時もこんな長閑な風が吹いていた」
煙草を吸い始めた冬木が唐突に呟いた。夏岡は首を傾げた。意味がわからない。
「あの笑い袋に遭遇した時のことだよ。あの時は春で今は夏だが、異常気象のせいか、今日は暑さも弱まって春のように過ごしやすい気候じゃないか。あの時もこんな風だった。優し気で心地良くてさ。よくよく考えてみれば、あの風屋ってのはどういうつもりで、あんなものを教室に仕掛けたんだろう。全く可笑しな野郎だ……ところで、思うにそもそも笑い袋は風屋健によって本当につくられたのかな?」
「冬木がそれを信じるかどうかは自由だが、俺はそう聞いた。例のママさんバレーに所属してた主婦の夫が直接に風屋から得た情報だぜ」
「それじゃあ、そのママさんの夫は風屋と懇意にしてたの?」
「投資以外にも趣味が合ったそうだ。その人は大学時代に落語研究会にいて、風屋と落語や漫才や喜劇も含めたお笑いに関する話をしたことがあるらしい。当然、あの笑い袋も聴いてる。それで抱腹絶倒の大爆笑。妻のママさんは残念ながら聴けなかったが、そのことが心残りだってさ。どうせなら家族全員で聴いて大笑いしたかったそうだ。ところが、夫の海外赴任が急に決まって聴くタイミングを逃しちまった」
「そこまでの話から推理すると、風屋は普通に近所付き合いもできるような人物ってことか。だったら同窓会くらい顔を出しても良さそうなもんなのに」
「いいや、そんな簡単じゃない。風屋の生活サイクルはかなり独特だ。多忙な勤め人みたいに朝早く家を出て深夜に帰宅する日が続いたかと思えば、一週間ほど自宅に引き籠ったりしてるらしい。ママさんの旦那は落語のネタが共有できるから、この白亜の豪邸の中に入ったことはあっても、女房のママさんは外で挨拶を交わした程度だって」
眩い黄昏の空を背景にした三階建ての白亜の豪邸は、ほぼ左右対称の建築物で簡素ではあっても崇高な雰囲気さえ漂っている。冬木にはやはり風屋健は只者ではないように思えた。
日暮れ時になって、当てが外れた二人は車に乗り込んだ。
「さっき、おまえは風屋を虐めたことがあるんじゃないかって俺に尋ねただろ。ひょっとしたら、あったかもしれない。無論、それを当事者の風屋が虐めだと感じてたらって話。俺もそのことはあまり思い出したくないんだが、自分の中では醜い汚点だよ、きっと」
「汚点か……しかし汚点というなら、おまえの不倫なんか人生の汚点の典型的なものじゃないか。どうせ不倫相手も春澤だけじゃない筈だ」
夏岡は冬木の確信めいた言い方に動じることなく、車のエンジンをかけながら話を続けた。
「風屋ってピアノが弾けるんだろ。高校時代に秋野から風屋のピアノ演奏にえらく感動したって後日談を聞かされた時、無償に腹が立ってさ。それで学校の帰り道、偶然に前方を一人で歩いていた風屋のひ弱な背中へ後ろから体当たり。あいつはふらふらとよろけてたけれど倒れなかったな。俺は何食わぬ顔をして、その場を立ち去った」
「嫌な性格だな。当時、おまえは生徒会長もしてたんじゃないのか。生徒会長にあるまじき行為だ。西部劇でもあるだろ。後ろから拳銃でズドンなんて、卑劣な雑魚がすることだ」
「まだ、生徒会長はしてない時期だったが、我ながら餓鬼っぽいことしたもんだよ」
冬木は夏岡が語ったこのエピソードに、彼の欠陥を見出した。夏岡は音楽も含めた芸術的才能に乏しかった。そこが恐らく彼の劣等感なのだ。歯切れのよい好印象な地声とは裏腹に、カラオケでも歌は上手くない。常に英雄でいられるようなプライドが傷つくことを極度に恐れている。それはある意味、神経症のような病だ。しかし高校生のひ弱な男子に、スポーツ万能な生徒会長の男子が後ろから体当たりしても、それを見た女子はひ弱な男子には決して同情しない。少なくとも冬木には、自分の妻が女子高生の頃、彼ら二人と同じ空間に居たとしても、彼女にひ弱な男子への同情心は生まれないと思った。
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