第12話



 西に傾いた太陽を背に、夏岡が運転する青い車は冬木を助手席に乗せ、多摩地区から新宿を抜けて成田街道を走っている。目的地は千葉県の佐倉市である。風屋健の家は、京成本線の駅前の大手証券会社の支店から数キロ先の印旛沼を左手に望み、右手には佐倉城跡と国立歴史民俗博物館を望む丘の高台にあるらしい。秋野と春澤は既に風屋とSNSで繋がっているが、夏岡は相変わらず無視されたままであった。従ってこの日に風屋が住む家に夏岡と冬木が招かれる運びになったのは、秋野と春澤のお蔭である。

「おい夏岡、風屋に会ったらどうする?俺は別に彼との交渉の矢面に立つのが俺一人でも構わんが、挨拶ぐらいはまともにしろよ。それも相手へ尊敬の念を込めてな」

 ハンドルを握る夏岡は冬木の質問には答えず苦笑いを浮かべた。

 梅雨の金曜日の夜の同窓会で四人が集合してから、もうかれこれ一ヶ月になる。車内の二人はあの時よりも、随分と畏まった夏物のスーツ姿であった。それが吉と出るか凶と出るかはさておき、流石に億万長者と対面する場合、必要不可欠な気遣いであろう。

「……尊敬の念を込めてか。どうなることやら。こんな時は冬木の方が場数を踏んでるから、俺はこの際、おまえに全てを託したい」

「えらく弱気だな。しかしここは、相手に対して謙虚になるのがベストだよ。仮におまえが俺から借りた金を自力で返済する能力が無くて、風屋から引き出すことになるとしてもだ、彼を騙すわけじゃない。あくまでも俺の事業に彼が興味を示して出資する気になったらの話さ。生憎、俺がおまえに金を出したのは人情だったがね」

 夏岡は焦っていた。相手が超富裕層なら大盤振る舞いで、冬木からの借金も含めた全ての負債を完済し、さらには夏岡と冬木の事業へも投資させる。その為には、肝心の風屋の心が動かねば不可能だ。夏岡にとってその鍵は春澤の存在であった。風屋は高校卒業後にすぐ春澤にラブレターを送っている。しかしこれは風屋の一方的な片思いであった為、何の進展も無いまま真夜中の海で船がすれ違ったようにして有耶無耶になってしまう。そして残念なことに、春澤はそのラブレターを紛失している。ところが悲しいかな四人にとって、同級生であること以外に風屋との接点らしい接点はこれぐらいしかない。ここまでの裏話を夏岡は運転しながら冬木に伝えてみた。案の定、春澤との不倫を察知したらしく、冬木の機嫌は悪くなった。

「おまえ、幾ら何でも虫が良すぎるぞ。まだ春澤との腐れ縁が続いてたのかよ。だらしない。それで春澤と風屋を結婚でもさせて、春澤をトンネルにして継続的に億万長者の海洋金庫から無際限に金を引き出そうなんて魂胆だとしたら、愚か過ぎる。そんなの妄想だ。現実は甘くない」

 今日に限らず、冬木はこんな具合に夏岡に対して、説教したり罵倒したりする機会が増えてきたような気がした。


 大空に壮麗な夏の夕焼けが輝きはじめた頃、夏岡と冬木は目的地に到着した。風屋健の家は丘の上に建った無機的な白い箱型で、緑の芝生に覆われた広い庭の奥に佇立している。窓の少ない三階建てだが、屋上の四方には黒い柵があり、そこから印旛沼やオランダ式風車で有名なふるさと広場の眺望を豊かに味わえる。此処を安息の地に選んだ風屋は恐らく悪い奴じゃない。冬木はそう思った。

 庭に隣接した道に車を止めたところで、春澤から夏岡に連絡が入った。冬木は既に車から降りて辺りを見回している。

「……ごめん。冬木、今日は失敗だ。中止だってさ。あの白い家の中に風屋はいない」

 車内で春澤との通話を終えて残念無念な表情の夏岡の言葉に、冬木は呆れるしかなかった。

「中止って、どういうつもりだい。ちょっと、俺たちは試されてるんじゃないのか。修行の段階を上っていくみたいにさ。それに避けられてる気もするな。これじゃあ、俺たちは常に犯人を取り逃がし続ける間抜けな刑事みたいな笑い者だぜ。おまえ、本当は風屋を虐めたりした過去ってないのか?」

「いや、俺にそんな憶えはない」

 そう断言した夏岡だが、少し表情が強張っている。冬木は不審に思った。しかし誰しも過去の古傷をほじくりだされるのは嫌なものだ。冬木は夏岡にも車から出るよう促した。

「実は居留守で、あの白亜の不愛想な豪邸から風屋はこちらを覗いていたりしてな」

 冬木はそう言いながら笑いだした。それを見た夏岡は気分を害した。

「おいおい、笑ってる場合かよ、従業員が五十人以上いる会社を経営してるおまえの方が、この話は重要なんじゃないのか。確かに俺はおまえから借りた金をまだ一銭も返してない。だがな、おまえだって俺に借りはあるだろ。大学時代、女をナンパする時に必ずおまえは俺を呼び出してたぜ」

「それはちょっと記憶が自分勝手に変容してるぞ。誘うように呼び出されたのは俺の方だ。おまえは女に不自由しないタイプだから、暇つぶしにモテない俺の反応を見て面白がってた。まあ、それでも俺の人生に少な過ぎる恋愛が発生したのは、あの頃ぐらいさ。しかもおまえというイケ面の相棒がいたからこそ、そんな成功例も生まれたわけでね。だから、おまえにはある意味、感謝してる。貸した金も返さなくて結構だ」

 それを聞いた夏岡は胸をなでおろした。冬木の口から債権放棄の徳政令がでた。それを聞けただけでも、今日は此処へ来た甲斐があった。


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