第10話

「今日、おまえは俺に会って正解だったな」

 冬木は夏岡の顔を真正面から見据えて言い切った。

 二人は夕食を鉄板焼のレストランで済ますと、今度は居酒屋へ移動していた。木曜日の夜にもかかわらず店内は満員盛況で、どうやら酒好きな人間が明日の金曜日まで待ちきれずに来店してしまったかのようである。

「おまえは、あの八幡のカフェへ向かう道すがら、俺に前向きな同意や共感を求めている感じだった。それこそ目を輝かさんばかりにしてな。だから、俺はあえてのらりくらりとかわして相手にしなかった。案の定、カフェに着いたら、おまえの口から出てきたのは安直な希望的観測だ。少しは目を覚ませよ。世の中、うまい話なんてそんなに転がってないんだぜ」

「うまくいくか、どうかなんて、やってみなきゃ、わからん」

 冬木に問い詰められた夏岡は、苦し紛れに開き直った。


「……おまえがどういう作戦を練ってるのかは知らないが、結局、俺の出番は風屋健との直談判だろ。薄々感じてはいたが、おまえはどうも彼とは会いたくないみたいだな?」

 夏岡は言葉を失った。風屋健を虐めたような記憶などないが、超富裕層のかつての同級生を前にしたら今の自分はあまりにも惨め過ぎる。空しいことだが、過去の栄光だけを心の支えにせざるを得ないのが現実だ。

「いつだったか、俺は一度、都内のどこかの体育館で、おまえがバーレーボールの指導をやってる現場に居合わせたことがある。あの時のおまえは王の顔をしていたぞ。そして、例外なくママさんたちは、そんなおまえを尊敬してたよ」

 冬木が語った過去の情景が、夏岡の脳裏にも自然と蘇った。数年前のことだが、そこは彼にとって爽快な充実感に満ち溢れた空間であった。

「主婦にも、いろんなストレスがあるのさ。スポーツで発散するのが一番の解決策ってわけだよ」

 夏岡は幾分、気持ちが落ち着いてきた。そういえば、あの数年前に一緒だったチームのメンバーの中に、風屋健の近所に住む主婦もいた。彼女が夏岡にとっては、貴重な情報の発信元である。夫は商社の営業マンで投資の趣味があり、そして風屋健が巨大な富を生み出した個人投資家になったことを知っている人物であった。しかし今、キーパーソンとなるこの夫婦はもう日本にはいない。


「現時点では、まだ情報不足だよ。流石に、風屋健の超富裕層説が虚構だとは俺も思いたくはない。それに都心に会社を構えてる俺の方が、髪結いの亭主のおまえよりも、降って湧いたようなこの話には魅力がある。つまり重要度が高い」

 夏岡にとって、冬木のその言葉には大きな手応えがあった。望んだ方向に事態は進みつつあるのかもしれない。

「ところで、一つ質問させてくれ。おまえはなぜ、風屋健のことを憶えてたんだ?八幡のカフェだと、まるでありゃあ忍者だよ。完璧に存在感を消し去ってる。高校時代の俺の記憶の中にも、そんな奴はずっといなかった」

「ああ、そのことか。それは俺たちの母校の名前が出てきたからさ。ママさんバレーのチームに所属する一人の旦那が株式投資をやる人で、そこそこ腕達者らしんだが、それを遥かに凌ぐ超人みたいなのが知人にいるって話になったのさ。その超人の母校が、何を隠そう俺たちの母校と同じだった」

「なるほど、そういうことか」

 冬木は納得し、表情を和らげた。そして医者に止められていた筈の煙草を居酒屋の喧騒の中で吸い始めた。


 







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