第8話

 冬木は夏岡とカフェでコーヒーを飲んでいる。

 当初の予定では現地集合であったが、抜き打ちで来社した夏岡に付いていくことになり、東京から電車で千葉へ移動し、市川市の八幡にあるコーヒー通の間ではちょっと名の知れた店に案内された。同窓会で利用した店ではなく、冬木は今日初めてここに足を運んだ。店内はアンティークな家具がバランス良く配置され、照明もやや薄暗いセピア調である。しかもモーツァルトの優しい音楽が抑制された響きで聴こえてくるあたり、その癒される空間演出は絶妙であった。


「なかなか良い店じゃないか。コーヒーも美味い。精錬された味だな、これは。俺の会社でさっき飲んだコーヒーとはえらい違いだ。今度、四人だけの同窓会でここ使ってみるか?秋野と春澤は喜ぶだろ」

 そう言った冬木は屈託のない笑顔で、太った体を気持ち良さそうにソファに沈めている。

「ああ、そうだな。ところで、風屋の件なんだが、実はこの店によく現れるらしいんだよ、一人で。それもなぜか木曜日の午後にだけ」

 夏岡のその情報に、冬木は頭から冷水を浴びたようにして我に返った。

「そうなのか。しかし、そこまで知ってるってことは、おまえはもう風屋とコンタクトとったの?」

「いや、まだだ。そんな事実はない」

 では、いったい何が事実だというのか?

「全くの偶然なんだが、俺がコーチを担当してるママさんバレーからでてきた情報さ。要は主婦の女子会が発信源なんだよ。ただ、情報が存在することが事実であって、情報そのものが事実かどうかまではわからない」

 冬木は頭を抱えた。これでは金に困っている人間だからこそ、辿り着いた希望的観測みたいなものだ。

「おまえ、そんな見切り発車で俺を八幡まで連れてきたのかよ。俺も舐められたもんだな。社員の中には仕事で俺が外出したとさえ思ってる連中もいるのに」

「いやいや、これは仕事だよ、冬木。億万長者から大金が調達できれば、立派な仕事じゃないか」

 そう言った夏岡は高校の卒業アルバムを鞄から取り出して、テーブルの上に広げた。そして三年五組の個人写真のページを開いた。そこには一枚の写真が挟まれている。それはこのカフェで撮影されたものであった。四人の主婦がテーブルを囲んで満面の笑みを浮かべている。第一印象だと写っているのは四人の女性だけのようだが、じっくりと目を凝らすと楽し気な彼女らの背後に見えるカウンターで、静かにコーヒーを飲み終えたような男性が一人視界に入った。冬木は瞬間的にその男が風屋健だと確信できた。高校三年生の学生服を着た風屋は正面を向いており、カフェのカウンターにいる風屋は自分たちと同世代の横顔ではあったが、決定的な同じ資質のようなものを感じた。


「この四人のママさんの中の一人が、風屋の近所に住んでたんだ」

「住んでたって?それじゃあ今は」

「今はもう風屋の近所にはいない。旦那が海外転勤になって、オーストラリアへ引っ越した」

「なんだよ。また手掛かりが海外へ逃げたのか。まさか、そのママさんが梅原小百合だったら笑うしかないが」

 冬木が返したその言葉に夏岡は噴き出した。

「違うって。おまえを笑い袋の制作者だと勘違いして憧れてた梅原小百合はもう登場しない筈だよ」

「まあ、そうだろうな。しかし、こんな二つの資料があるんなら、この店のマスターに確認してみるってのはどうかな」

 冬木の提案に夏岡は不満そうに首を横に振った。

「それがダメなんだ。もう既に打診したけど、知らない、関わりたくないの一点張りでね。マスターはお客さんのプライバシーには一切介入しない主義なのさ」

「そうか。昔気質の良い人だな。だから、きっとこんな美味いコーヒーがつくれるんだろう」

 冬木はカウンターの奥で、ぼんやりと新聞を読んでいるマスターの男性に視線を合わせた。黒縁の丸い眼鏡以外は年齢不詳で存在感が薄く、寡黙で植物的な人物に見える。


 夏岡と冬木は日が暮れる迄、このカフェで時間を潰していたが、そろそろ引き上げる準備をはじめた。そしてカウンターでマスターに料金を支払う段になって、夏岡が諦めの悪い質問をした。

「この写真のこの人、今日はここに来てないみたいですね?」

「いや、来てくれましたよ。太陽が西にかなり傾いた夕方くらいかな。あそこでコーヒー一杯飲んで直ぐ帰りました」

 それを聞いた夏岡も冬木も目が点になってしまった。同じ空間にいたのに、気付かなかったとは。多分、柱の影に隠れて死角になっていたのだ。そしてそれだけではない。マスターが風屋の味方であるような気分にもさせられた。二人は顔を見合わせて途方にくれるしかなかった。







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