第3話

 四人は都内のとあるカフェの一角に陣取っている。男二人は仕事帰りのスーツ姿で、女二人は若々しい装いだ。窓の外は梅雨に濡れた都会の夜の風景であった。

「あの笑い袋、茶道教室で畏まってる時に思い出したりしたら不味くないか?」

 冬木が隣の秋野にそう訊ねると、彼女は優雅な手つきでコーヒーを飲みつつ否定した。

「それはないわよ。私があの珍しい体験を思い出す時ってね、それは滅多にないんだけど、人生で辛過ぎる時かしら。他人から理不尽な事を押し付けられたりね。そんな時にあれを思い出すと、辛さで落ち込むのが馬鹿らしくなってやり過ごせる」

 秋野のその答えは意外過ぎた。他の三人には無縁な発想だったからだ。

「なるほど。そんな使い道があったのね。私も今度、やってみよう。でも正直、そんなに面白かったかな、あの笑い袋。あの時は私も確かに大笑いしたけど、真由美につられて笑ってた。あれに一番受けたのは冬木君よ」

 そう言った春澤は隣に座っている夏岡の肩に寄り添った。それは冬木には気になるスキンシップだったかもしれない。実はその昔、春澤と秋野は夏岡とは恋愛関係にあった。秋野は高校時代に、そして春澤は夏岡が三十歳で結婚する迄の間、そこそこ腐れ縁のようにしてくっついたり離れたりを繰り返している。冬木と夏岡は同窓会以外でもたまに連絡を取ったり会ったりしていたが、冬木は時折、夏岡がこの二人の女性と不倫関係にあるのではないかと疑念を感じる瞬間があった。


「あの笑い袋は痛快だった。あれをきっかけに交友が始まった奴もいたくらいだし。が、今だに謎なのは誰がセッティングしたかだよ」

 夏岡が司会者のような口振りで話しだした。仕切り好きの彼らしい。こういう時、冬木は夏岡に対してある種の優越感を抱いてしまう。今の夏岡に部下らしい部下はいない。個人事務所で臨時のアルバイトを雇ったり、ママさんバレーのチームでコーチとしてリーダーシップを発揮したりしていても、所詮は自己満足に等しい。高校時代はバレーボール部のキャプテンで、そればかりか生徒会長を務めたことさえもあったというのに。それが社会人になった途端、うだつの上がらない人生になってしまっている。銀行を辞めたのも出世コースから外れたのが原因のようだ。ところが冬木はその逆であった。云ってみればコインの裏表のように夏岡とは明暗が分かれた。学生時代はパッとしなかったが、社会に出てからの彼は上昇気流に乗った成功者になった。二人共、首都圏の郊外に庭付き一戸建てを所有しているとはいえ、冬木の場合は親から一円も借りずに購入した正真正銘の新築のマイホームだが、夏岡は妻の実家に購入してもらった中古物件を歯科医院と共用になる形にリフォームしたものである。夏岡が同窓会に必ず出席するのは、純粋に旧交を温められるだけではなく、過去の栄光に浸れるからであろう。そして夏岡は冬木に弱みも握られている。夏岡の個人事務所に冬木は資金援助をした過去があった。 


「それって全くもって謎よね。当時の先生方が下らない悪戯をした生徒を庇う意味で、あえて真相を謎のままにしたって説もあったけど、一時は冬木君が笑い袋の制作者だって噂になった」

 秋野が隣の冬木の顔を覗いて言った。

「俺じゃないよ。確かにあのテープを何度も再生したのは俺だ。笑いのツボに嵌っちまって衝動的にそんな行動にでたんだ。それは認める。だがよくよく考えてみると、あの爆笑テープは一度だけ聴いて終わりにはならなかったと思うな。俺が何度も再生しなくても、きっと他の奴がサービス精神を発揮して俺と同じ行動をしてたよ」

 冬木はそう正直に話したが、彼の正面に座っている春澤の表情はどこか複雑であった。彼女は冬木を確りと見据えて口を開いた。

「実はね、あのテープを冬木君が制作したとすっかり信じ込んで、冬木くんにほのかな憧れを抱いた女の子がいたのよ」

「初耳だ、そんなことあったの?」

 首を傾げて疑問符を打ったのは冬木ではなく夏岡である。この日の主催者は夏岡だ。この春澤の発言は彼にとって想定外であった。

「奇特な女子がいたもんだ。俺の高校時代は恋愛とか無縁だったからさ。で、誰?」

「放送部にいた子」

 冬木の肩を叩いて、そう解答したのは秋野であった。

「あれ、その子なら、なんとなく記憶に残ってる。放送部に入った一年生の女子って一人だけだっただろ。しかもその子、夏休みに転校していなくなったよな」

「さすが、夏岡君は女子に目が無いね。そうなの、その子は父親の仕事の都合で海外に移住したから。でも、私も果歩も彼女が冬木君に好意を持ってたことは知ってる。ちょっと変わった子。将来は演劇とかやりたいとか話してたし、だから冬木君があのテープをそれこそ自作自演で制作編集したんなら、チャップリンみたいに才能豊かな人だって感じたんじゃない。名前はなんだったかな。確か私たちのクラスじゃなかったのよね、偶々あの時は私たちの教室の中にいたけど」


「梅原だ。苗字は思い出せた。下の名前はわからない」

 夏岡は宝物を探し当てたように満面の笑みを浮かべている。しかし照明に光っている頭はスキンヘッドに近く、かつてのハンサムな顔立ちも皺が増えた。時は残酷だ。やはり皆、例外なく年老いていく。

「梅原小百合じゃない?」

「そうそう、梅原小百合。どうして出てこなかったのかしら。苗字は違っても日本を代表する大女優と同じ名前なのにね」

 春澤の言葉に秋野と夏岡は納得した様子だが、梅原小百合という女子に好意を寄せられていた当の冬木は、狐につままれたように当惑した表情で宙を仰いでいた。冬木には梅原小百合の記憶は全く無かったのだ。

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