第32話:人の根源
「では、その為には何をするべきだと?」
「MLSの欲望の向く先を我々が知ることです。そもそも、なぜMLSという疾患は発生してしまったのか。それを知るには本能を抑え付けずに紐解く他にないのです」
「それは犯罪やMLSの悪化をを容認しろということですか?」
「そうではありません。無論、しばらくは治安維持局による最終発症者への対処は必須でしょう。まずは未来に向けてメディアの在り方、研究の方向性を正します。人々が自身の在り方を考えようとしない現状を憂慮すべきです」
白鷺は自分の茶のカップに口を付け、喉を潤すと話を続けた。
彼の語り口には熱を感じながらも、冷静かつ淡々と自分の信じる所を理路整然と述べ続けている。
「我々は本能を抑え付ける事ばかりを覚え、人々は己の内に強烈な渇望を溜め込んだ。それがMLSの根源でしょう。そして、我々はコミュニケーションの原点を忘れてしまった。考えようとしなくなった」
己の内に悩みを溜め込み、言えないことを閉じ込めて人間は生きてきた。
『気を遣え』『本音を言いすぎるのは悪だ』と抑え付けられた渇望はいつしか肉体を変質させるレベルにまで進化したのだ。
進化とは究極のエゴであり、そこには時代を重ねた渇望が要る。
時間が経つにつれて人間は“そういうもの”になった。
『人が気を遣うのが当たり前』という意識は確かに美しく、コミュニケーションを円滑に進めるルールに近い束縛だ。
だが、時代を経て過剰に変化した集団的な抑圧は、インターネットの普及もあって人間の精神に長期的な負荷をかけ続けたのだ。
己が劣っていると考えるほど、進化の条件は整う。
それが白鷺の考えるMLS発症の根源。
そして、東京第二都市でMLSを前提とした社会が構築されたことが、更にMLSの進行に拍車をかけたと彼は続けた。
「今の東京第二都市はMLSによる犠牲者を除けば、経済的に高水準に見えます。階級差も少なく、貧困層も最低ラインが引き上げられ、人々の就職先も困ることはない。ですが、裏を返せばMLS前提の歪な社会なのです」
白鷺は語るには、人々は己の本能を抑えつけることが正義とされ、知らずに社会に個人の意志を徹底して管理されている。
そして、MLSの存在が多様な職業を生み出す歪な都市がここである。
MLSを利用した人間の精神にまで踏み込んだ管理社会、そして管理する側に多数の権限が付与された格差社会が東京第二都市の正体だ。
それを、すなわち白鷺はこう呼んだ。
「マキャベリスト・ディストピア――とでも呼ぶのがいいのかもしれませんね。この歪な都市を定義づけるとするならば……ね」
「白鷺さんがこの世界を変えるとしたら、どうするつもりですか?」
「人の本質を把握し、互いの本能を特に抑制し、特に容認する。自ら考える力を持ったコミュニティーが完成した都市を目指すでしょうね」
簡単に言えば、『人付き合いの在り方を自分で考え直せ』ということ。
時に自分の意見を述べ、時に相手の意見に反対意見を提示し、自らが考えて他人との接し方を見直す。
MLSのせいだと甘えずに自分の力で人々との新たな接し方を実践する。
「そうした集団の力が必ず、我々をMLSから引き剥がしてくれる。一人の力ではなく、全員の力で。進化の方法としては正統なものでは?」
「……確かに、そうかもしれない」
全く反論の余地はなく、確かにその通りにいけば東京第二都市はMLSの脅威から逃れられると思うには十分だった。
決して一人の人間に責任は押し付けず、人の犠牲も強いることはない。社会全体が現実的な方向で変わって行く、穏健派とも言える思想だ。
講演会を見た時の嫌な雰囲気を今は感じないし、本当に涼の先入観による勘違いに過ぎなかったのか。
「少し話が逸れてしまいました、私の悪い癖で申し訳ない。それでは、少女の起こした事件について言及していきましょうか。そちらが本来のご用件でしたから」
そして、白鷺は本格的に事件について分析を重ねていく。
千花が殺人に至った理由は、涼から渡した情報の一部からもほぼ明らかになっている。しかし、白鷺はそれだけが原因ではないと言い切った。
「彼女が急激にMLSの段階を上げたと考えてはどうでしょう。急激な精神の成長に肉体の進化が遅れた。故に、今の完全ではない検査では拾い切れなかった……と仮説が立ちます。第三者による改竄も可能性はありますが、実行は困難ですね」
確かに筋道は立っているが、嫌な予感が消えないのはなぜだろう。
何故か、今の白鷺が一瞬だけ嗤っていたように見えてしまったのは、本当に気のせいなのだろうか。
対応自体は誠実なものだし、言っていることにも狂気は感じない。
「では、どちらにせよ第三者の関与は疑いないということですか?」
「ほぼ間違いないでしょう。彼女を
心理学者としてMLS研究の第一人者である白鷺がそう言うのだから間違いない。
白鷺には伝えていなかったが、千花の遺体には銃弾の跡も見られているので真犯人は捕まっていないことは明らかになったのだ。
やはり、あの事件はまだ終わっていない。
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