第33話:真実へ踏み込む男
「急激にMLSの段階を上げることが可能なんですか?」
「難しいですが可能だと私は見ています。その逆が有り得るのなら、不可能ではないはずですから」
「その逆……とは?」
その時、講演会で感じた時より更に膨れ上がった悪寒が襲ってくる。
涼と結姫が築き上げてきた領域に他の誰かが踏み込もうとしているような、妙な確信を含んだ予感と言ってもいいものだ。
白鷺は相変わらず柔和で人当たりの良い笑みを浮かべているだけなのに。
そうして、その壁を白鷺はわずか一言のみで踏み越えた。
「―――私は、MLSから生還した者が存在すると確信しました」
表情が変わるのを必死で堪えたものの、隣に座っている結姫の表情までを確認している余裕は涼にも全くなかった。
咄嗟にはっきりとした返事が出ない涼を一瞥しながら白鷺は淡々と続ける。
「今まで、我々はMLSが一方通行の病だと結論付けていました。ですが、無意識にしろ意識的にしろ……生還者はいると確信出来たのです」
「確信する出来事があった、ということですか?」
「ええ、まあ。私もこのような仕事をしていると色々なレアケースに出会うものでしてね。十中八九は確信していますよ」
結姫は最終発症による進化から、完全に生還した唯一の事例だと言われている。
肉体の変質を自身の意志で制御しながら、思考レベルも無発症者と同等の水準を保っている奇跡に近い東京第二都市の希望だ。
なぜ、彼女だけがそうなったのかは涼でも明確な回答は持っていないが、推測程度ならば可能だった。そのMLSの、人の精神の深奥に白鷺は第三者の身で手をかけている。
初めて、この男を危険ではなく恐ろしいと思った。
「そういえば、そちらの女性も皐月さんのご同僚ですか?」
「え、ええ、そんな感じです……!!」
急に話を振られて、若干慌てながらも結姫は辛うじて返答した。
次第に二人とも、白鷺という男が持つ独特の雰囲気に少しずつ呑まれ始めているのを自覚しつつあったのだ。
「そういえば、貴女にはしていない質問でしたね。貴女は自分と他人、どちらが大切だと思いますか?」
結姫に向けられた質問を紡いだ口調はどこか愉悦と期待を含み、彼女の一挙一動を見逃さない視線に結姫は気丈に耐えた。
そして、一つ深呼吸を入れると白鷺へと強い目線を返す。
涼は大切な人間を、一般的な人間は自分が大切だと答えを出すだろうが、結姫がこの場で出した回答はいずれでもなかった。
「どっちもです。私は自分も大切だし、大事な人を失うのも絶対に嫌だから」
「……成程、それでは自分と他人を選択する事態に追い込まれた時は?」
「最後には大事な人を助ける……けど、命を賭けて両方助かる道を探します」
当たり障りがなく、偽善に満ちた答えだと断ずるのは簡単な話だ。
しかし、そう笑い飛ばすにはあまりに結姫が出した答えに込められた意志は力強く、絶対的な生への渇望に満ちていた。
どちらも死なない、それを最後まで貫ける強靭な意志もまた東京第二都市では異常の範囲内に置かれる要素だろう。
自分のみを生かすのも、他人の為だけに命を捨てるのも、理想的な答えの為に全てを投げ捨てられるのも全てに異常性がある。
それでは、この箱庭のような世界の正常とは何なのか。
それはきっと、全てのバランスを取れることなのだろう。
いずれかに偏れば異常者への道を歩むことになる、面倒な世界が東京第二都市を取り巻く現実だ。ここに正義のヒーローが存在しても、特別性という意味では異常者に成り下がる。
そして、その異常性を抱える二人を前にして。
白鷺という男は、くすりと心から愉快そうに笑う。
邪気も何もなく、ただ目の前に存在する興味深い事象への興味を瞳に乗せたままで吐息を漏らす。
「なるほど、良い時間でした。今日はここまでにしましょうか」
白鷺との面会はこうして終わりを告げた。
彼の意見を反映するならば、千花の事件に心理学者が関わっている可能性は真っ向から否定されたと言っていい。
だが、何故か涼は笹川から得られた貴重な手がかりを簡単に手放す気にはならなかった。
「まだ、何かある気がするんだよな……」
そのように、涼が独り言を漏らした頃。
白鷺の事務所内では、事務所の主と一人の女性がデスクの体面に向かい合ってくだけた様子で会話をしていた。
「それで、どうだった?君から見た二人は。あの部屋から聞いていたんだろう?」
白鷺の事務所内には盗聴器に似た機械が設置されており、個室を利用した場合でも音声はPCを通じて聞くことが出来る。
事務局の若い女性は白鷺とは気の置けない仲らしく、上司と部下にも似た上下関係は滲んでいない。
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