第6話

「なんか、恥ずかしいこと言っちまった気がするな。」

 カイルがポリポリと頭を掻く。確かに恥ずかしいことを言っていた。まぁ、私以外に聞いている人もいないのだから恥じる必要もないと思うが。

「とにかくやってみるよ。でたらめに強い力も貸してもらえるみたいだし、こんな俺でも役に立てるのならやらせて欲しい。」

 彼が少しはにかむ。世界を救うという選択。その動機として最も大きいものはもちろんカイルがもともと持ち合わせていた正義感だろう。ただ、それだけではないような気もする。前世の“彼”が何も成し遂げられなかった人生の代替だいたいとして、何か生きた証を残したくて、カイルを戦いへ駆り立てているような、そんな薄ら寒い予感が私の脳裏のうりにこびりついている。無論、世界を救うというカイルの決断は私の本意である。本来は両手もろてを挙げて歓迎すべきこの状況を、それでも私は心から喜べずにいた。

「どうかしたのか?」

 カイルの声に我に返ると、目の前に右手が差し出されている。その意味を図りかね私はしばしの間その手を見つめてしまった。

「握手だよ。これからよろしくってこと。」

 なるほど、握手を求められたことがなかったので即応出来なかった。そもそも実体のない私には握手など出来ないのだが。

『済みません。私の身体は実体をともなわないので人や物に触れることが出来ないのです。』

 私の言葉にカイルは面食らったようだった。

「実体が無い?こんなにはっきり見えてるのに?」

『私の姿も神の力を持つ者にしか映りません。声もまた同様に神の力無しには聞くことが出来ません。私の存在はそれくらいおぼろげな物なのです。』

 あぁ、とカイルは納得の声を上げる。

「そういえば十八年間俺のことを見てたって言ってたっけ。誰にも気付かれず、そんなに長い間一人で・・・?」

『えぇ、まぁ。女神様との遠隔での会話は可能なので、一人、という感じはしませんでしたが。』

 そうか、とカイルは呟きどこか寂しそうな顔をしてみせる。私の境遇を哀れに思ったのだろうか。人の辛さを思いやれるというのはいい事だが、今回はいささか的外れである。実体がないことは一長一短であり、不幸な事ばかりではない。

『誰にも認知されないというのはそう悪いものではありませんよ。好きな時に好きな場所へ行き好きに話を聞くことができますし、顔を突き合わせて話すよりなまに近い人となりを知ることができます。その気になれば人の思考や記憶を読むこともできますし、この村の人々の直近十八年間に限って言えば誰よりも私が詳しいと自負しています。』

 私が少し得意げに説明する。話を聞いたカイルは少し引きつった笑みを浮かべた。

「そう聞くとなんか・・・十八年間見られてたって、すげぇ恥ずかしいことのような気がしてきた。」

『確かに人に知られたくないであろう貴方の秘密の十や二十は知っているつもりですが、先程申し上げた通り私は貴方以外の人とは会話も出来ないので問題ないかと。』

「十や二十って・・・。一体何を・・・。」

 カイルは頭を掻きながらブツクサと独り言を並べる。きっと今彼は過去の恥を一つ一つ思い出しているのだろう。話題を変えてあげたほうがいいかもしれない。そういえば、と私は切り出す。

『一つありました。人に認知されず実体もないせいで不便に思っていた事が。』

 うつむいていたカイルが顔を上げる。

『私、自分の顔を見たことがないのです。実体がないので鏡に映ることもなく、人に聞くこともできませんでした。手足や体は自分の目で見ることができるのですが、顔だけはどうにも知りようが無かったのです。』

 かつて女神様に私の顔について尋ねたことが一度だけあった。しかしあの人は可愛いだの格好良いだの綺麗だのと具体性の欠片もないことしか言わず、私は自分の顔について一切の情報を得られなかったのだ。

「君の顔、か。・・・よし、じゃあ今度君の絵を描くよ。」

 絵、だと?カイルに絵など描けるわけがない。いや、落書きレベルなら描けようが本人ソックリの似顔絵など到底無理だ。そこで私は思い出した。前世の“彼”はマンガと呼ばれる絵を主体とした書籍の執筆を行っていた。つまり“彼”はかなり高いレベルで絵を描けるということだ。またカイルを通して前世の“彼”が顔を出す。

『そこまでしていただかなくても結構ですよ。ほら、創造の力で私の胸像のようなものを作るとか、そのほうが早いのでは?』

「あぁ、そういうこともできるのか。でも触れられないものを明確にイメージするって結構難しいんだよなぁ。少しバランスが崩れるだけで人の顔の印象ってガラっと変わるし。何よりせっかく作るならあとに残る方がいいじゃないか。」

 カイルはそう言ってニッと笑う。描く気満々じゃあないか。ただその笑顔はいつも見ていたカイルの笑顔そのものであり、別人が顔を出しているようには思えなかった。前世の人格がカイルを侵食する事態は避けねばならないが、前世の知識や技術まで目くじら立てて拒絶する意味は薄いかも知れない。それに正直、私の似顔絵というものに興味を惹かれているのも事実だった。

『ではまぁ・・・時間のあるときにお願いします。』

「よし、期待しててくれよ。」

 えらく自信があるようだ。カイルは笑顔で私の顔を見やる。だがその時何かに気づいたのかカイルがあっと声を上げた。

「いろんな事があってすっかり忘れてた。そういえば俺たちちゃんと自己紹介してなかったな。・・・まぁ、君は俺のこと、俺以上に知ってそうだけど。」

『そうですね。私からも貴方に伝えなければならない私の情報はあらかた伝えたように思います。貴方の導き手となるべく女神様に生み出された聖霊で実体は無く、簡単な魔法なら使えますが直接敵と戦うようなことは出来ませ・・・。』

「いや、そうじゃなくてさ。」

 私の自己紹介をカイルが苦笑しながらさえぎる。

「君の名前をまだ聞いてなかったなって気付いたんだ。」

 名前・・・だと。これは新概念だ。私の名前など考えたこともなかった。私はこの世界唯一の聖霊であり、他と区別するための記号である名前なんて持つ必要が無かったのだ。会話相手が女神様しかいなかったことも原因だろう。とにかく私は自分の名前を知らない。あるかどうかさえ定かでないのだ。

『私、自分の名前を知りません。』

「えッ!」

 カイルが心底驚いたような声を上げる。名前が無い、知らないなんて想像もしていなかったようだ。

『まぁ私を呼ぶときは聖霊と呼んで頂ければ良いかと思います。そもそも名前なんて無いのかもしれませんし。』

「いや、それは、寂しすぎるだろ・・・?」

 カイルが複雑な表情で呟く。名前を持たないことは寂しいことなのだろうか。それとも名前を呼べないことが寂しいことなのかも知れない。自分の名前というのも言われてみれば気になってくるし、ならば取るべき解決策は一つだ。

『分かりました。では女神様に訊いてみますね。』

「あぁ、会話できるって言ってたな、そういえば。」

 私は目を閉じ、女神様へ思念を飛ばす。

『女神様、聞こえますか?』

『へぁ?聖霊さん?おはようございますぅ~。』

 どうやら今の今まで眠っていたらしい。確かに昨日は遅くまで起きていたがそれにしてもよく寝る神様だ。そもそもカイルが宿している維持の力を女神様も持っているはずなので、女神様は寝る必要がない。つまり完全に趣味として睡眠を取っているわけで、それを思うとどうしても文句の一つも言ってやりたくなるが、カイルの前で口論したくないのでここはぐっと我慢する。

 私の名前の件を女神様に尋ねると、返答はあっさりと返ってきた。

『聖霊さんに名前はありませんねぇ。』

 やっぱりだ。想像通りではあるが、なんだか肩透かしを食らった気分だ。かすかに期待して損した。

『私も正式な名前はありませんしぃ、私たち二人の間には名前の必要性はないと思いましたから。でも、そうですね。これからは私よりカイル君たち人間の方々との関わりが増えるでしょうし、名前を持った方が自然かもしれませんねぇ。』

『人間との関わりが増えるといってもカイルとしか話すことはできませんけど。』

『まぁまぁ。それでも人の輪の中で共に生きることに変わりありませんから、名前を持つというのはとってもいいアイディアだと思いますよぅ。』

 それはつまり、今から名前を付けてもらえるということだろうか。

『名前は、そうですねぇ。カイル君に付けてもらうというのはどうでしょうかぁ?』

『カイルに?何故です?』

 私の問いに、女神様はウフフと笑う。

『それはもちろん、聖霊さんとカイル君にもっともっと仲良しになって貰いたいからですよ~。』

 仲良くなるために命名するというのは随分と突飛とっぴな発想に思える。生みの親である女神様が私の名前をつけるのが普通なのではないだろうか。女神様自身が名前というものに関心が薄いから、名付けの権利を容易く人に譲ってしまうのかもしれない。

『私に名前は無いそうですが、女神様が貴方に私の名前を決めて貰えと仰っていっています。』

「え、俺に?なんで?」

 至極真っ当な疑問だ。

『貴方は最も私の名前を呼ぶであろう人物ですし、私も常識の範囲内でならどのように呼ばれようと構いません。貴方の呼びやすいように呼んでいただくのが合理的かと思います。』

 本音を言えば自分の名前はなるべく良いと思えるものでありたい。しかしだからこそ誰かに決めてもらうのが賢明であるように思える。名前に正解などないのだから自分で無駄に考え込むより誰かにパッと決めてもらったほうが案外愛着の持てる名前になるかもしれない。

「本当に俺が君の名前を決めていいのか?」

『私も女神様もそうお願いしているのです。』

 私の言葉を聞いてカイルは少し照れたように頬を掻いた。

「それじゃあ・・・ヘリエル。」

 カイルが私に目を向け顔色をうかが

「ってのは、どうかな?」

『ヘリエルさん・・・。うん、なかなかいい名前じゃありませんか~。』

 女神様は気に入ったようだ。ヘリエル。それが私の名前となるのか。多少の違和感はあるが特別嫌な感じはしない。悪くないようにも思える。ただ気になるのはカイルがそれほど考えた様子もなく、すぐに名前を決めた点だ。

『何か、由来などあるのでしょうか?』

 何の気なしに訊ねてみると、カイルはやはり照れているのか少し視線を外して頭を掻いた。

「いや、大した理由は無いんだけど・・・。神の使いとか、性格とか・・・。まぁとにかく、すごくしっくりくるなぁと思って。」

 なんとも、奥歯に物が挟まったような、歯切れの悪い口ぶりである。ヘリエルという名にまさか悪い意味などないとは思うが、これ程に言い淀むとは何か妙な理由が在るのではといぶかしんでしまう。

「気に入らなかったか?」

 カイルが心配そうに訊ねてくる。別にヘリエルという名前が気に入らなかったのではない。妙な勘ぐりでカイルに要らぬ心労をかけることもあるまいと、私は笑顔で応じる。

『素敵な名前を頂けること、感謝致します。これより私は聖霊“ヘリエル”として、勇者カイルの旅路を照らす光となりましょう。』

 私は胸に手を当てうやうやしく頭を下げてみせる。するとカイルも安心したように笑みをこぼした。もとより名前などなんだって構わないのだ。所詮は個々を識別するための文字列に過ぎない。大切なのは私の名を付けたのがカイルであるという事実なのだ。ヘリエルというこの名が誇らしく感じられるような関係を二人で築くことが大切なのだと、そう思う。

 すると私の前に再びカイルの右手が差し出された。握手を求める動作である。

「触れられないってことは分かったけどさ、やっぱりこれは外せないだろ?」

 手と手を握り合う行為にそもそも合理的な意味付けは薄い。重要なのは両者の気持ちなのだろう。ならば触れ合える手を持たない私が握手をするというのも、そう滑稽こっけいなことではないのかもしれない。

『・・・そう、ですね。それでは・・・。』

 私が少し遠慮がちに右手を差し出すと、カイルはその手を握るかのように手指を動かす。無論私にもカイルにもなんの感触もなく、互いの手のひらはすり抜けて少し重なった。話せるのに触れ合えないその事実が互いの存在の隔絶かくぜつを改めて実感させたが、それでもその握手は私とカイルの新たな関係性の始まりもまた確かに感じさせるものだった。なによりもこの気さくさがカイルらしくて、私の脳裏にこびりついた前世の影は杞憂きゆうであると思わせてくれた。

『宜しくお願いします、カイル。』

「ああ、よろしく、ヘリエル。」

「お待たせ~。たくさん作ってたら時間かかっちゃった・・・。なにやってんの?」

 エプロン姿のリネットが部屋へと戻ってきた。もちろん彼女の眼には私の姿は映らないわけで、宙に手を伸ばすカイルが虚空を見つめている様にしか見えないのだ。そこそこに異様な光景だろう。カイルは苦笑いを浮かべリネットへ視線を向ける。

「あぁ~、うん。・・・説明させてくれ。」


 その後カイルはロムも呼んで、お昼を食べながら二人に全てを説明した。何もかも全て説明したので、多めに作ったお昼を食べきった後も説明はしばらく続いた。前世の話など必ずしも説明の必要はないと私は思ったのだが、カイルは二人に対して隠し事はしたくないとのことだった。

「勇者とか魔王とか、おとぎ話みたい。」

「ああ、あまりに突飛な話だ。」

 二人は口々に感想を口にする。まぁ当然、すんなりと信じられる話ではないだろう。

「まぁ、信じられないよな。こんな話。」

 カイルは少し困ったように頭を掻いた。しかしロムもリネットも揃って首を横に振る。

「信じがたい話ではあるが、信じない訳じゃない。」

「そうだね。何よりアタシは昨日色々見ちゃってるし。夢じゃなかったと分かってスッキリって感じ!」

 あっさりと言ってのける二人にカイルは唖然とする。私も二人の言葉に耳を疑った。

「カイルのつく嘘らしくないからな。リネットの話とも辻褄が合うし、だったら嘘みたいな話でも本当のことなんだろう。」

「っていうかさ、あれ見せてくれない?何かあの、剣みたいなの!」

 何だかリネットは興奮気味だ。確かに勇者の力を二人に見せればカイルの話に真実味も湧くだろう。

「剣って、これか?」

 カイルが創造の力でいつもの狩りに使う剣を出して見せる。突然出現した剣に、ロムとリネットが驚きの声を上げる。

「これは・・・驚いた。どこから出てきた?」

「さっき話した勇者の力の一つだな。何か、何でも出せるとさ。」

「うわぁ、魔法みたい・・・。いや、神様の力なんだから魔法なんかより凄いのかな。」

 リネットが呟いた後、でもと続ける。

「昨日見たのとはちょっと違う気がする。もっとまぶしい、光ってる剣だったと思うんだけど・・・?」

 言いながらリネットは首を傾げてみせる。彼女が見たという剣はつまり正の剣のことだろう。昨日の時点で見たと言っているのだから間違いない。

『リネットのいう剣とは正の剣で間違いないでしょう。昨日の大蜘蛛を倒したときのあれです。』

 私が言うとカイルがこちらに眼を向ける。

「そう言われても昨日のことは無我夢中だったせいか、何だかうろ覚えなんだよなぁ。正直どうやればあの剣を出せるのかよく分からなくて・・・。」

 カイルが困り顔で私に笑いかける。あの力は創造の力で実体ある物を産み出すのと違い、もともと実体のないものに実体を与えるというわざなので少し勝手が違うのだろう。自在に出すのは難しいかもしれない。昨日の様子を見る限り必要な時には出せるだろうし、あまり問題視する必要もないだろうが。

「カイル?誰と話して・・・あ、話にあった聖霊か。」

「ああ、ヘリエルさん・・・だっけ?」

 虚空に向けて会話する(ように見えていただろう)カイルの様子を見て二人が声をかける。

「本当に二人には見えてないんだな。俺にははっきり見えるのに。」

「さっぱり見えん。不思議なものだが、本当にいるんだよな・・・?」

 ロムが右手で何か探るように宙をかく。残念ながらそこに私はいないし、実体のない私に触れることはカイルであっても無理なことだ。何も感じられるはずがない。

「おい、ロム!そんな風に触るのは不躾ぶしつけすぎるだろ!」

「何ッ!済まない、見えなくて・・・!」

 カイルの声を聞いてロムが大慌てで手を引っ込める。いや、私はそこにいないし。意図を測りかねてカイルに目をやると、彼はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべている。それに気付いたリネットが眉を潜めた。

「カイル?あんたもしかして・・・?」

「うっそ~!ホントは俺の隣にいるんだな~。」

 カイルがおどけて声を上げる。騙されたロムが無言でカイルに近づき、平手打ちを見舞った。

「いッ!・・・?」

 全く子供じみた冗談だ。せっかく二人が話を信用してくれているのに騙してどうする。カイルがくだらない冗談を言えないように私は魔法で光球を生み出し自分の位置を二人に示した。

「あ、この光・・・。もしかしてヘリエルさん?」

「ああ、うん。そこにいる。」

 リネットに問われたカイルは、ひっぱたかれた頭に触れながら返事をした。

「俺が生まれてから十八年間、ずっと見てたらしい。二人のこともよく知ってるってさ。」

 カイルの説明にリネットがへぇと声を漏らす。生まれてから今まで見えない存在に監視されていたというのは、どのような気分なのだろうか。カイルはさほど気にしていない様子だったが、普通は気持ちの良いものではないだろう。不気味がるのが自然かもしれない。まぁ私はすべきことをしていたにすぎないのでどう思われようが気にはしないが。

 私はそんなことを思いながらリネットをじっと見つめる。彼女は不思議そうに私の光球を観察すると、少し嬉しそうに呟いた。

「幼馴染がもう一人いたなんて、気付かなかったなぁ。」

 幼馴染。・・・その発想はなかった。確かに私が産み出されてからの年数はカイルの年齢とほぼ変わらないし、ずっと彼らに付きっきりだったのだから幼馴染を名乗る条件は満たしている・・・のか?いや、私に幼い時分など無かったし、今もって彼女らと馴染んでいるとは言いがたい。幼馴染を名乗るには無理がある。

「幼馴染というのは少し馴れ馴れし過ぎないか?神様の眷属けんぞくなんだろう?」

 ロムの発言を聞いてリネットがそう?と振り向いた。意見を求めるようにカイルが私の顔を伺う。

『別に嫌ではないですよ。ただ、予想外だったというか・・・。』

 正直幼馴染という言葉に違和感は拭いきれないが、彼女が私を近しい存在として扱ってくれるのは嬉しくもあった。

『幼馴染といえるかは分かりませんが、そう思って接していただいて構いません。』

「幼馴染でいいってさ。」

 カイルの言葉を聞いてリネットがやったと喜びをあらわにする。何やら先程から彼女の機嫌がいいような、妙に高揚しているような気がするのだが。

「それじゃあ、これからよろしくね!ヘリエルさん!」

 屈託のない笑みを浮かべるリネットになんとなくたじろいでしまう。そもそも宜しくと言われても私はカイルとともに魔王討伐の旅に出なくてはならないわけで、宜しくする暇もないように思うのだが。

「ところで出発はいつ?早いほうがいいよね。明日の朝でいっかな?急いで準備しなきゃ。」

 まくし立てるようにリネットが早口で話す。その言葉に私は違和感を覚えた。同じく不審に感じたらしいカイルが口を挟む。

「ちょっと待て。まさかとは思うが・・・付いてくる気じゃないよな?」

 カイルの物言いにリネットは眉根を寄せていつものしかめっ面を見せる。

「もしかして・・・置いていく気だった?」

 どうやらリネットは魔王討伐の旅に付いてくる気マンマンのようだ。リネットに睨まれたカイルが助けを求めるようにロムに目を向ける。

「実は少し前、リネットに村から出てみたいと相談をされていてな。よその料理を研究したいとかで・・・。近々お前にも声を掛けようとは話していたんだが。」

「しっかり大人になっちゃったらなかなか村を離れられなくなるでしょ?だから一度くらいいろんな場所を旅してみたいじゃない!でも、カイルはあんまり村を離れたがらなそうだし。」

 なんと、そんな話は私も聞いていなかったぞ。趣味が盗み聞きの私の耳をすり抜けるようでは、カイルにとってすれば寝耳に水だろう。

「だからカイルに旅の理由ができたのはちょうど良かったっていうか。その上勇者の力なんてスペシャルなおまけも付いて、旅の安全は保証されたようなものだよね!まさに渡りに船、旅路に勇者ってヤツ?」

 なおも早口で続けるリネットにカイルは言葉を失っている。ロムはクックと笑いながらカイルの肩をポンと叩いた。

「諦めて俺たちも連れて行け。大丈夫。無茶はしないし、させないさ。」

「と、いうわけで・・・。準備してくる!出発は明日の朝ね!寝坊するなよ~!」

 パタパタと駆け足で立ち去るリネットに、ゆったりとした足取りでロムも付いて行く。ひとり残されたカイルはただポリポリと自分の頭を掻くことしかできなかった。


「まぁいいって事にしたよ。俺と君だけじゃ旅の道中が不安といえば不安だったしな。勇者の力があれば宿も飯も不要なんだろうけども。」

 カイルは机に向かったまま横に居る私に話しかける。月の明るい夜だったが室内はやはり暗く、蝋燭ろうそくの明かりだけでは十分とは思えない。目が悪くなるのではと一瞬心配したが、今のカイルには維持の力があるのだった。目が悪くなるなど有り得ない。

『貴方が良いと言うのなら私は構いませんが・・・。遠出に危険は付き物ですし、当然ながら勇者の力は普通の人間には分け与えられません。リネットたちに危険が及ばないように注意する必要があります。』

「二人の旅行の護衛に勇者の力を使わせてもらうってだけさ。危険がありそうなところに二人は連れて行かない。魔物を倒せるのは勇者の力を持っている俺だけなんだしな。」

 そういえば、とカイルは続ける。

「昼間にロムに殴られたとき全く痛みを感じなかったんだけど、これも勇者の力なのか?」

『そうですね。維持の力の効果です。せっかく怪我をしないのに痛みがあるのも嫌でしょう?』

「まぁそうだけど。痛くないのに殴られた感触はあるってのはちょっと気持ち悪いな。」

 カイルは少し笑うとチラリと横目で私の顔を見る。それからまた彼は机に向かった。

「しかし不思議なもんだな。こんな暗い中でも君の顔ははっきり見える。全身がぼんやりと光っているみたいだ。」

『私の姿が見えるというのは通常の視認と違い目に入る光を感じているわけではありません。神の力によって聖霊の形を感じ、それを視覚と統合することで見えているように感じるのです。まぁ、そのせいで鏡に映らないなんてことになるのですが。』

 ふぅんと返事を返すとカイルはそのまま黙って机に向き合う。しばらく静かに彼の作業の終了を待つと、カイルがよしと呟いて机上の紙を手に取った。

「完成だ。まぁ悪くない出来なんじゃないかな。」

 そう言ってカイルはその紙を私に手渡そうとする。

『済みませんが私は物を持てません。』

「ああ、そうか。じゃあ、はい。」

 カイルは両手でその紙を広げ私に見せてくれた。そこに描かれているのは人の顔だ。小綺麗に纏められたショートカットの下に、細いが真っ直ぐ鋭い眉。目はややつり目であり、への字の口と相まって無愛想な印象を与える。まぁ全体に整った顔ではあるが・・・。

『これが私の顔・・・ですか。』

「ちなみに髪は銀色、瞳は黄色い。やっぱりただの人より神秘的というか、そんな印象を受けるな。」

 何だか少しイメージと違った。私は女神様の眷属なのだから、女神様に似た柔和で穏やかな顔だろうと勝手に想像していた。またカイルに対して私はなるべく愛想良くあろうと努力していたのだが、この絵を見る限りどうやらあまり上手くいっていないようである。

『わぁ~!とっても上手ですっ!ヘリエルさんそっくりですねぇ。』

 いつの間にか覗きにきたらしい女神様が歓声を上げる。そうか、そっくりなのか。

『絵はとても上手だと思います。女神様が似ていると言っているので、きっと忠実に描かれているのでしょう。ただ・・・無愛想ですね。』

 私の率直な感想にカイルは首を傾げる。

「いやそれはほら、君の個性というか、表情もあまり変えないし・・・。」

 表情を変えない?バカな、私はその場その場に合わせて適切に表情を変化させてきたはずだ。いやまさか、その気になっていただけなのか?表情は自身の感情を他者へと示す意思疎通手段の一つであり、これまで他者との関わりが無かった私にとっては必要の無かったものだ。表情を変えることが下手であったとしても困らないし気付かなかっただろう。私は意思疎通が不得手だということだろうか。だとしたら少し、いやかなりショックだ。

「まぁほら、あれじゃないか?クールビューティーっていうのか?ミステリアスな魅力ってやつだろ。」

 なにやらカイルがフォローを始めた。別に私は愛嬌が無いことを気にしているわけではない。変えているつもりだった表情が変わっていなかったことがショックなのだ。それにこの物言い。カイルはおそらく一つ思い違いをしている。

『御心遣いありがとうございます。ですがカイル。もしや貴方は私のことを、女性だと思っていませんか?』

「えッ!?」

 カイルは心底驚いたのか、大きな声を上げる。やはり勘違いしていたようだ。

「あ、じゃあ、お・・・男、の?」

 女でなければ男、か。なるほど、いかにも人間らしい発想である。

『まさか。私は姿こそ人間のようではありますが、人間とは大きく異なる聖霊という存在です。実体を持たない純粋な精神体である聖霊には性の種別など存在しないのです。』

 カイルは眼を丸くする。

「そういうものなのか・・・?」

『そういうものですよ。そもそも有性生殖による世代交代を行わないのに性別があっても仕方ないじゃないですか。』

 カイルはしばし唖然としていたが、言われてみればまぁ確かにと納得した様子だった。

「あれ?でも女神様は女性なんだろう?女神というくらいなんだし。」

『女神様は元々人間の女性でしたから、その名残ですね。神となられた今は性別など不要なものですが。』

 カイルはまたも眼を丸くする。今朝から彼は驚きっぱなしだな。

「神様が、もともと人間だったのか?」

『ええ。その昔、ここではない別の世界で彼女は神成かみなりを成したのです。神成りを成した存在はその世界のことわりを脱し新たな世界を創造する神となれるのです。それ以前は女神様もあくまで一人の人間でした。』

 神成り。書いて字のごとく一個の存在が神へと変容する現象。奇跡に奇跡が重なった時にしか起こり得ないと言われる、当の女神様にとっても謎の多い異事いじである。

「すごいな。もしも俺が神になって世界を作れるだけの力を得たとしても、こんな世界を一から作れるとは思えない。地形や気候、生き物の生態、もしかしたら物理法則なんかもか?考えなきゃならないことが山ほどあるだろうに。」

『世界を作れるだけの能力があったから神となったのか、神となったことでそれだけの能力を得たのか。いずれかなのかも分かりませんが、ただ女神様も完全に一からこの世界を作ったわけではないようですよ。女神様は貴方の前世がいた世界を参考に、この世界を創造したとおっしゃっていました。』

 へぇ~とカイルは息を漏らす。

「参考に作った、か。どうりで前の世界と共通点が多いわけだ。」

 カイルは合点がいったという風にゆっくり頷く。それからふと私に笑顔を見せた。

「世界の成り立ちを教えてもらえるなんて、これも勇者の役得かな。」

 まぁ確かに神やその眷属が人間と話す機会など滅多にあることではない。しかし一人間が世界の成り立ちなんぞ知ったところで何の役にも立たなかろう。知的好奇心というやつは満たせるのか。

 ふとカイルは窓の外に眼を向けた。村の人々はすっかり寝静まってしばらく立つが、夜は深く東の空はまだ夜闇に包まれている。

「夜が明けるまではまだまだ時間がありそうだ。寝ずに過ごす夜ってのは長いもんだなぁ。」

『直ぐに慣れますよ。ただ維持の力で寝る必要はありませんが、眠れないわけではありません。寝てしまっても良いのですよ?』

 私の言葉にカイルはうぅんと唸る。

「君の話は興味深いことが多いし、君が寝ないというのに俺だけ寝るのもなぁ。」

『私にとっては慣れっこですので、お気遣いは無用です。それに自宅のベッドで眠るなんて、これからしばらくは出来ませんから。』

 私はカイルに微笑んでみせる。いや、微笑めているかは分からないがとにかくそのつもりでカイルに眼を向けた。

「そう言われると寝ておきたい気もするな。お言葉に甘えさせてもらって今日は休むとするか。」

 カイルがぐっと伸びをする。やたら目につく私が枕元にいたのでは寝るに寝れないだろう。今日までは気にする必要もなかったが、私はカイルの安眠のため部屋を立ち去ることにした。

『それでは御休みなさい、カイル。』

「あぁ、お休み。・・・何だか寝る必要がないのに寝るってのは、贅沢で少し気が引けるけどな。」

 そう言ってカイルは少し笑った。その精神を女神様も少しは見習って欲しいものだ。

 私はついと部屋を抜け出し屋根の上へと腰掛ける。ふぅと私が息を吐くと女神様から思念が届いた。

『お疲れ様です、ヘリエルさん。』

『どうも。今日は随分と大人しかったですね。』

『それはまぁ、ヘリエルさんとカイル君のお話を邪魔してはいけないかな~と思いまして。』

 女神様がうふふと笑う。

『どうですか?皆さんとは仲良く出来そうです?』

『皆、と言われましても私が話せるのはカイルだけです。』

『それでも、これから一緒に旅をするのでしょう?仲良く出来たほうがいいじゃないですか。』

 常識的に考えて見えない、触れない、話せない奴とどう仲良くなるというのか。私が勝手に親愛の情を抱くことは出来ようが、リネットやロムに好かれるなど到底無理な話だろう。幼馴染だと言ってくれはしたが、変な期待はするべきではない。私は頭を振って女神様の質問をうっすらと否定した。仲良くなれるかなど、そんな些末なことに心を揉んでいる暇はない。

 いよいよ旅が始まろうとしている。私の眼下には十八年過ごした村の風景が月明かりに照らしだされていた。その家々の住人達は寝静まっているが、それでも日中の賑やかさをありありと思い浮かべることができる。これまで何度も見てきたカイルの家の屋根から望むこの景色は、私のお気に入りなのだ。

『この景色も見納めですかね~。』

『ですね。』

 そう、恐らく私はもう二度とこの景色を見ることはない。全てが終わった後、私がここに戻ることはないのだ。私はふと夜空を見上げる。

 役目を終えた聖霊は消える。聖霊とはそういう存在であり、神やその眷属にとっては当然の話なのだ。生まれた時から理解しているこの事実に理不尽さを感じたことはいささかも無いが、この景色をもう見られないということには一抹いちまつの寂しさを覚えてしまう。

 十六夜いざよいの月が夜の村を優しく照らし出す。だがその月の光も私を照らすことはなく、私の身体をすり抜けて影すら映さない。表情に乏しいらしい私が今どんな表情をしているのだろうかと疑問に思ったが、その答えを知るすべが無いことだけは明らかだった。


 翌朝、目覚めたカイルと村の入り口へと行くと幾らかの荷物をもったロムが既に待っていた。

「よう。ちゃんと起きたんだな。例の聖霊、ヘリエルに起こしてもらったのか?」

「ちゃ~んと自分で起きたっての。寝起きもスッキリだわ。」

 維持の力があるのだから当然だ。女神様はどういうわけか朝に弱いが。

「で?俺に寝坊するなって言ってたリネットがまだ来てないようだけど?」

「起きてはいるみたいだったが・・・。お、ちょうど来たみたいだぞ。」

 ロムの視線の先でリネットが手を振っていた。何やら大量の荷物を背負っている。

「リネット、お前・・・。何だよ、そのバカデカい荷物。まさか全部持っていく気か?」

「パパとママが心配してさ、あれも持てこれも持てってうるさくって。これでもかなり減らしたんだよ?」

「しかしその量は流石に邪魔になってしまうだろう。もう少し減らせないのか?」

 ロムの言葉にリネットはうぅんと唸る。ロムの言う通りこの量の荷物は旅の邪魔になるだろう。

 そんな事を話しているとリネットの家から彼女の母が出てきた。こちらを見つけ、駆け寄ってくる。

「リネット~!忘れ物~!」

 また荷物が増えるのかとカイルとロムが困り顔で視線を交わす。そんな二人の様子を見たリネットはふぅとため息を吐いて、背負っていた大きな鞄をゆっくり下ろした。

「ママ、やっぱりこの鞄は置いていくよ。邪魔になっちゃうし。」

「あらそう?あなた寝る時はいつもその中の縫いぐるみを―――。」

「わぁわぁ!いいから!ほら、家に置いといて!」

 リネットが鞄をぐいと母に押し付け言葉をさえぎった。おっとと鞄を受け取ると母親はフッと笑顔を見せる。

「そうよね。素敵な男の子が二人も一緒に居てくれるのに、私なんかが心配することなんて無いわよね。」

 そんなんじゃないってば、とリネットは視線をそらす。カイルとロムも気恥ずかしそうに頬を掻いた。

「でもこれは持っていきなさい。ママ手作りの軟膏なんこう。あなたが包丁で指を切る度に使っていた傷薬だから。」

「もう指切ったりなんてしないってば!」

「でも他のことで怪我するかも知れないじゃない。怪我しないでいてくれるのが一番だけれど、それでもお守り代わりに持っていって。」

 そう言ってリネットに木製の小さな薬入れを持たせる。リネットはその薬入れを見つめ、そっとポーチの中へとしまった。

「これで良い?」

 リネットは薬をいれたポーチをポンと叩く。すると突然彼女の母がリネットを強く抱き締めた。

「わわッ!?」

「愛してるわ、リネット。どうか、気を付けて。」

 一瞬気恥ずかしさからその抱擁ほうようから逃れようとしたリネットだったが、すぐこたえるようにキュッと母親を抱き締め返した。

「分かってるよ、ママ。私も愛してる。」

 固く抱き締め合う二人を邪魔すまいと、カイルとロムは少し離れた場所で黙っている。するとそこにカイルの父親もやって来た。カイルは昨日既に事のあらましを父親に説明していたはずだ。恐らく見送りに来たのだろう。

「どうやら間に合ったようだ。急いで回ってきた甲斐があったな。」

 朝の巡回の帰りなのだろう。弓と剣を携え、まだまだ現役の狩人の風貌だ。

「すまない、父さん。しばらく迷惑をかけるけど・・・。」

「なに、この村は平和なものさ。お前がしばらく空けるくらいどうと言うことはない。」

 そう言って柔和に微笑む。だけど、とカイルは言葉を続ける。

「一昨日の化け物はホントにとんでもない奴だったんだ。赤くてでっかい化け物が出たら村の皆とちゃんと逃げて欲しい。」

「ああ、分かった。」

 それからと言葉を繋げようとするカイルに先んじて父親が口を開く。

「耳に傷のあるカウベアの仔熊も見付け次第対処しよう。お前はこちらの事は気にせずに、為すべき事を為しなさい。」

 そう言った後、あぁとカイルの父は声を上げた。

「一つだけ気にすべき事もあったな。カイル、お前は自分の許嫁になにも告げずに出ていくつもりだったのかい?」

 その言葉と同時にカイルの背中にドシンと何かがぶつかってきた。チーコだ。チーコが抱き付いてきたのだ。

 突然の事にカイルは面食らってしどろもどろになっていると、チーコはカイルの腰に顔を埋めながら小さな声で呟いた。

「・・・カイル、いっちゃうの?」

 カイルは困り顔で頭を掻きながら答える。

「あぁ。」

「やだ。」

 返事を聞いたチーコが間髪かんぱついれずに言った。その声は涙声だ。普段本当に子供か疑いたくなるほど聞き分けの良いチーコが駄々をこねている。どうするんだ、カイル。チーコが泣いてしまうぞ。

 カイルはチーコの小さな肩に手を置いてしゃがみこみ、彼女と視線を合わせる。それからゆっくりとチーコの眼を見て語りかけた。

「俺はどうしてもやらなきゃいけない事があって、そのために少しの間村を出なきゃならない。」

 チーコは俯いて黙りこくっている。

「でもなチーコ。俺は村を出ていっても、チーコのそばにもちゃんといるんだよ。」

 そう言ってカイルはチーコが身に付けている首飾りを指差した。先日カイルがプレゼントした、カウベアの爪で作られた首飾りだ。

「この中にも俺がいるんだ。ちゃんと気持ちを込めて、心を込めて作ったからな。」

 チーコは首から下がっているカウベアの爪を手に取り見つめる。

「このなかに・・・?」

「そうだ。だからチーコが寂しくなったり辛くなった時はこの首飾りが助けてくれる。励ましてくれる。俺の代わりにさ。」

 カイルはニッとチーコに笑いかける。黙って聞いていたチーコはカイルの顔に眼を向けた。その瞳はまだ不安げである。

「でもね、たぶんやっぱり、カイルにあいたいって、おもうとおもう。」

 チーコはたどたどしくも素直に自分の気持ちを伝えた。やはりこの子は聡い子だ。カイルはそんな彼女を元気付けようと、少し力強く頭を撫でる。

「ホンのちょっとの間さ。俺たちはすぐに帰ってくる。だから大丈夫だ。だろ?」

「・・・うん。」

 チーコは小さく頷くと、もう一度カイルに抱き付いた。カイルもそれに応じるようにポンポンとチーコの頭を撫でる。

 すると先程からずっと母親と引っ付かれていたリネットが、あぁもうと母の抱擁から逃れた。

「ママもチーコも大袈裟すぎ。戦争に行くわけじゃないんだからさ。カイルだって凄い力を借りてるわけだし、何の心配もいらないって。」

 リネットが能天気な事を言う。一応は世界の危機を救うべく悪と戦いに行くのだが。あるいは心配する二人を安心させるために、あえて呑気に話しているのかも知れない。

「リネットの言う通りさ。ちょいと寂しい想いはさせるかも知れないが、絶対無事に帰ってくる。だからチーコは土産話を楽しみに待っていてくれ。」

 カイルはなおも引っ付いて離れないチーコを両手でぐいと持ち上げて立ち上がった。一度たかいたかいの状態になってからそっと地面に下ろし、彼女の頭をもう一度撫でる。それでもチーコはまだ浮かない表情だった。

 そろそろ出発しようと三人は互いの顔を見やる。するとカイルの父がロムに向かって声をかけてきた。

「二人の事、よろしく頼むよ。ロム。」

「そうね。二人をお願い、ロム。」

 それぞれの親の言葉にカイルとリネットはちょっと待てと物申す。

「俺が頼りないみたいじゃないか!」

「アタシが頼りないみたいに言うの止めてよ!」

 ほとんど同時に発された二人の言葉に、ロムは愉快そうに笑い声を上げた。

「頼りにしてるさ、勿論な。」

「当たり前だ。」

「当たり前よ。」

 またも同時に胸を張る二人の動作がそっくりで、一同は笑い始める。ずっと悲しげだったチーコにも笑顔が戻った。その様子を見てカイルは少し微笑んで、よしっと声を上げる。

「じゃあ、行くか!」

 カイルはくるりと向きを変え、村から外へとのびる道を見やる。その先で待っていた私に眼を向けて力強く頷いた。

 そして三人は歩き始める。村の人々と一時の別れを惜しみながら何度となく手を振り声をかけ、それでも歩みを止めることなく進んでいく。やがて大声で呼び掛けていたチーコの声も聞こえなくなり、振り向いてもその姿が見えない程に遠く離れてしまった。寂しげな沈黙と共に歩みを進める三人。

 すると突然カイルが大きく息を吸い込み右拳を天へ突き上げて叫んだ。

「待ってろ!魔王ッ!」

 キョトンとするリネットとロム。一拍置いてリネットがプッと吹き出した。

「なにそれ!変なの!」

「変じゃないだろ!やっつけてやるぞ、っていう意気込みだよ。」

「いや、それは分かるがな。」

 ロムもクックと笑った。するとリネットが何か思い付いたのかニヤッと笑う。そしてカイルの真似をして天に拳を付き出して叫んだ。

「待ってろ!美味しい料理ッ!」

「何だよそれ!カッコ悪いぞ!」

「アタシの意気込みはこれなの!カイルのだってカッコ良くないし~!」

 リネットはそう言うと今度はロムに向き直る。

「ほらほら!今度はロムの番!」

「やっぱり俺もやるのか。」

「皆やるんだよ!ほら、ビシッと言ってやれ!」

 ふむ、とロムは一瞬考えると二人にならって腕を振り上げて叫んだ。

「待ってろ!まだ見ぬ世界!」

 リネットとカイルはおぉ、と感嘆の声を漏らす。

「なにそれ!カッコいいじゃん!」

「何かズルいぞ!それ!」

 三人は笑い合いながら道を歩む。その光景は私が十八年間見てきた日常と同じで、なんだかとても安心出来るものだった。これまでの日常、その延長がこの先も待っているのではないか。そう思えてしまった。

 だが間違いなくこの時彼らの平穏な日々は終わり始めていた。当時の私はまだ分からなかったが、それはただ気付けていなかっただけなのだ。これまで築いてきた日常やこれから歩む筈だった未来、その何もかもを押し流さんと流れを強める運命に気付けていなかった。

 人間などには抗うべくもないその無慈悲な濁流に、私たちは飲み込まれつつあったというのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る