第4話

 突然の魔物の接近に私は内心動揺していた。なにしろこの村は魔王の勢力圏からは遠く離れており、これまで一度として魔物に出会ったことはおろか魔物に関する風聞ふうぶんさえ無かった。なんの前触れもなく唐突に現れるなんて、完全に想定外だ。

『このままでは村に危険が及びます。なにか手立てはありませんか?』

 私はつとめて冷静に女神様に意見を求めたが、女神様はうぅんと困ったようにうなる。

『手立てと言われましてもぉ・・・。私は魔王城に閉じ込められてますし、あなたは人々に認知されませんし・・・。仮に村人に警告できたとしても、魔物は強大です。ただの人間にどうにかできるものではありません。』

 魔王の魔力によって生み出された魔物は、常人には到底敵わない相手だ。逃げるにしてもかなりの速度でこちらに向かってくるあの魔物から村人全員を避難させることは現実的に考えて不可能だろう。

『ならば私が直接奴を倒せば・・・。』

『昔、一度伝えたはずです。今のあなたに戦えるだけの魔力はありません。勇者の力をあなたに預けてしまっているせいで、あなたの魔力は勇者の力の維持にほとんど使用されてしまっています。魔物を倒すなんて、到底無理な話ですよぅ。』

 私に出来ることは何もないということか。ではもうこの村が魔物に蹂躙じゅうりんされるさまを指をくわえて見ているしかないというのだろうか。確かに魔王が暗躍あんやくする昨今、こんな小さな村が滅びるなんてよくある事に違いない。この村が滅ぼうとも勇者の卵であるカイルさえ無事なら大勢に影響はないだろう。しかしだからといってこの村の滅亡を看過かんかしてしまっていいのだろうか。私は確かに村人の誰にも認知されてはいなかったけれど、それでもこの村は私が十八年間過ごしてきた場所であることに間違いはないのだ。そんな村が滅ぶというのは、こう・・・いささか寝覚めが悪い。

『十八年暮らした村の危機に、何も出来ない自分が歯痒はがゆい・・・といった心持ちでしょうか?』

『いえ、そういう訳では・・・。』

 個人的感傷を理由にこの村を特別守りたいと感じてしまうのは世界全てを救う使命を帯びた勇者の導き手として相応しくないと思い、私は女神様の言葉を否定した。それでも、救えるものなら救いたい。

『ただ・・・手の届く場所にある村ひとつ救えず世界を救うなど出来ましょうか?』

 私の言葉を聞いた女神様がウフフと笑う。

『もっと素直になってくれてもいいのに・・・。でも健気な想いは伝わりました!私がなんとかしちゃいましょう!』

 女神様から自信たっぷりな思念が届く。その余裕っぷりに内心穏やかでない私は若干じゃっかんイラッときた。

『出来ることがあるならさっさとしてください。』

『まぁまぁ、私にも準備がありますから。あ、準備が出来るまでにカイル君と魔物を引き合わせておいてくれると助かります。ではでは私はこの辺で・・・。』

 言うことだけ言って話を終えようとする女神様に私は焦って思念を飛ばす。

『ちょっとッ!引き合わせるってどう・・・!いやそもそも何をどうするつもりなんですか!?』

『それ聞いちゃいますぅ?でもまぁ、なんとなく想像ついてるんじゃないですか?』

 まさか・・・。

『満を持して、勇者カイル覚醒かくせいですッ!』

 ドヤ顔が目に浮かぶような思念を最後に、女神様の言葉は聞こえなくなった。確かにカイルが勇者の力に目覚めれば、魔物くらい倒すことは出来るだろう。十八年間待ち続けた瞬間が目前に迫っているわけだが、しかしこうも急に来るとは思いもしなかった。

 私は一瞬呆気あっけに獲られていたが、そんな暇はないとすぐに我に返る。女神様は私にカイルと魔物を引き合わせろといった。そんな事が出来るのだろうか?私は誰からも認知されたことがないが、認知されようとしたこともない。今日までの日々はただカイルの成長を見守っていることだけが使命だったからだ。もしかすると思いっきり自己主張すれば気付いてもらえるかも知れない。

『カイルッ!カイルッ!気付いてください!』

 私はカイルに必死に呼びかけたが、カイルはまるで気づく素振そぶりを見せず剣の手入れを続けるばかりだ。頬を叩いてみようと試してみたが、実体のない私の手はなんの手応えもなくカイルの頬をすりぬけてしまった。

 ダメだ。私は実体がなく認知されないことを今日まで便利に利用してきたが、実際はなんと不便なことか。カイルに村の危機を伝えることさえ出来ない。このままでは魔物とカイルは村の中で出会うことになり、そうなれば村への被害は逃れ得ない。私は何も触れやしない手で、実体のない頭を抱えた。

 その時ふと先ほどの女神様との会話を思い出した。私の魔力は勇者の力の維持にほとんどを使われてしまっており、魔物を倒すことなど到底できない。そう、だ。それはつまり言い換えればほんのちょっとは使える魔力は残っているということで、魔物を倒すことは叶わなくともカイルを導くくらいは出来るのではないか?

 私は何もない空間に手をかざし、意識を集中した。女神様から生まれた聖霊である私は生まれた時から魔法の使い方を知ってはいるが、実際に使うのはこれが生まれて初めてだ。もし出来なければ村に被害が及ぶかも知れないということも相まって、私は柄にもなく緊張していた。

『はッ!』

 私の手から松明たいまつと同じ程度の光の玉が現れ、宙に浮かんだ。成功だ。思ったより簡単だった。熱も実体もないただの光球だがカイルを導くには十分である。

「・・・なんだ?これ。」

 突然現れた謎の光にカイルは目を丸くする。

 どうか付いてきてくれという思いを込めて光球を二三度くるくると回転させた後、魔物が迫ってきている西へ動かした。しかしカイルは呆然ぼうぜんとするのみで動こうとしない。

『付いてきてくださいよっ!』

 苛立ちを込めて光球を上下に激しく動かす。

「付いてこいってことか・・・?」

 やっと動いてくれた。さぁ、急がなくては!


 私とカイルは森の中を西へ西へと駆け抜けた。少しでも村から離れた場所で魔物と対峙しなくてはならない。魔物の殺気が間近に迫った頃、木々のまばらな広場のような場所にでた。そしてちょうどその場に、それは居た。

「なんだ・・・こいつは?」

 一見してそれは蜘蛛くものように見えた。左右四対の脚。頭胸部と腹部に別れた身体。特徴から捉えるならば確かに蜘蛛だろう。しかしそれの身体は赤黒く半透明な物質で構成されており、生物の身体とは思えぬ異様さをかもしている。何より異常なのはその巨体だ。村にあるいずれの建物をも優に越えるその体躯が、それがただの蜘蛛ではないことを物語っていた。間違いない、奴が魔物だ。

 大蜘蛛がカイルに気付いたのかゆっくりと体をこちらに向ける。カイルも危険を察知し、腰にたずさえた剣を抜き放つ。こんな化物を前にして逃げようとしないその気概はさすが狩人といったところか。しかし到底今のカイルに勝ち目のある相手ではない。女神様の準備が整うまで時間を稼いでくれれば良いのだ。私は光球を数mメートルの高さに浮かべて周囲を照らしておいた。さあ、私は言われた通り魔物とカイルを引き合わせた。後は女神様次第である。

 一瞬の静けさの後、突然大蜘蛛がカイルに向かって突進してきた。鋭く尖った脚の一本一本が地面を穿うがちながら迫ってくる。カイルは大蜘蛛の牙を避けるべく右横へ駆け、横っ飛びに飛んだ。

「くッ!」

 かすかに大蜘蛛の脚に触れたのか、カイルのふくらはぎから若干の血が舞った。この大蜘蛛の脚はまるで刃のように鋭く尖っており、触れるものを容赦なく切り裂く。魔物の身体は見た目こそ普通の生き物に似ていることが多いが、その機能は他の命すべてを刈り取ることに最適化されている。鋭い脚も、毒を滴らせるあの牙も、獲物を逃すまいとこちらを捉えているあの眼球も、全ては殺戮のため。全身が凶器であり心に宿すは殺意のみ。それが魔物なのだ。

 大蜘蛛がカイルを行き過ぎてから立ち止まり、カイルの方へ再び向き直る。やはりあの巨体ゆえ重量もかなりあるのだろう。動きながらの方向転換はほとんど出来ず、向きを変えるときは立ち止まる必要があるようだ。突進時の速度には驚かされるが、曲がることが出来ないのなら回避は不可能ではない。

 大蜘蛛が再びカイルへ向かって突進する。カイルも二度目とあって先程よりも初動が早く、反撃に転じるだけの余裕を持って回避が出来た。

「このッ!」

 カイルはすれ違いざまに大蜘蛛の脚目掛けて、思い切り剣を打ち付ける。金属と金属が激しくぶつかりあうような鈍い衝撃音が響き、カイルは後方へと弾き飛ばされた。すぐに受身を取って体勢を立て直したが、カイルの研いだばかりの剣は刃こぼれしてしまったようだ。大蜘蛛の方はというと先程と変わらぬ動きで立ち止まり、同じように向きを変え三度みたびカイルを正面に捉える。見た限り大蜘蛛の脚には一切傷は無い。カイルの剣の様子を見るに、あの刃の如き切れ味を持つ脚は並大抵の金属では傷一つ付けられない程に頑丈なのだろう。

 しかし女神様は何をしているのだ。早くカイルを勇者として目覚めさせなければ、この化物に殺されてしまいかねない。敵の強さは想像以上だ。時間を稼ぐにも限界がある。

 その時、大蜘蛛の体内にキラリと光る何かを見た。蜘蛛の赤黒い半透明の頭胸部、その中央辺りに何やら光沢のある赤色の球体が浮かんでいるようだ。魔物とはそもそも魔王の魔力が実体をもって結晶化し生物などの動きを模して活動している物のことで、本質としては生物よりも魔法に近い存在だ。もともと実体のないものに実体を与えそれを長時間維持するということは通常の魔法では容易ではない。もしかするとあの赤色の球体は魔王の力を結晶化する際の核であり、魔物の実体を維持する役割があるものなのかもしれない。つまりあの球体さえ破壊できれば魔物は実体を維持できず瓦解がかいし消滅する可能性があるということだ。

 いや、弱点を見つけたとしても勇者の力なしで魔物を打ち倒すなんて危険極まりない。もう少し時間を稼いで勇者の力を得たあとであの大蜘蛛を倒す方がよほど安全だろう。いくら女神様が鈍臭かったとしてもさすがにそろそろ準備できる頃だろう。・・・多分。

 私が魔物をどう対処すべきか悩んでいると、森の奥から人の気配を感じた。風に乗って微かに声が聞こえる。

「カイル~?ったくこんな夜中にどこで何して・・・。」

「リネット・・・?なんだってこんな時間に・・・!」

 まだ声の位置は遠いがあの声は確かにリネットだ。遠くに松明らしき光も揺らめいている。おそらくカイルの足跡を追ってきたのだろう、村の方向から真っ直ぐこちらに向かっている。

 するとカイルを睨み付けていた大蜘蛛がぐるりと向きを変え、リネットが歩いてくる方角を正面に捉えた。大蜘蛛も新たな標的に気付いたのだろう、明らかにリネットを狙っている!

「待てッ!」

 カイルが声を上げ大蜘蛛へ駆け寄ろうとする。大蜘蛛はカイルを一瞥いちべつすると腹部後方にある穴から糸を吐き出した。焦ったカイルは意表を突かれ攻撃に対処できず、右足を糸に絡め取られてしまった。

「くそッ!」

 すぐに剣で足の糸を切り払ったが、今度は剣に糸がまとわりつき離れない。大蜘蛛が糸をぐいと引くと、剣はカイルの手からすっぽ抜け大蜘蛛の足下に転がった。

「カイル~・・・?」

 これはまずい。リネットがもうかなり近いところまで来てしまっている。これ以上の時間稼ぎはリネットに危険が及ぶ。このままではカイルもリネットも殺されかねない。村を見捨てて逃げるという選択も、カイルの性格を考えれば有り得ない。あぁ、全く!女神様は何をチンタラしているのだ!

 その時、カイルの顔付きが変わった。覚悟を決めた表情。カイルの考えはおおよそ想像できる。リネットが巻き込まれるその前に、刺し違えてでも大蜘蛛を殺すつもりだ。

 私は明かりとして残しておいた光球をついと動かし、大蜘蛛の体内にある核と思しき球体を指し示した。もう、賭けるしかない。カイルが勇者の力無しでこの魔物を倒すというわずかな可能性に。カイルは光が指し示した大蜘蛛の核を睨みつける。おそらく私の意図は伝わっただろう。

 カイルは大蜘蛛に対し、真正面から突っ込んでいった。大蜘蛛は牙を剥き、カイルのことを正面から待ち受ける。カイルの行動は一見すると愚かな自殺行為に見えるが実のところそうではない。大蜘蛛の正面は牙の危険こそあるが、あの鋭い脚による攻撃は届きづらい場所なのだ。加えて蜘蛛は頭部と胸部が一体になっている体の構造上、頭を自在には動かせない。つまり半端に左右に回り込んで縦横無尽に動き回る四本の脚をかわすより、正面から突っ込んで動きの悪い牙だけを避けて懐に入り込んだほうがよほど安全に魔物の核に近づけるというわけだ。

 大蜘蛛が大口を開けてカイルを待ち受ける。カイルは一切速度を落とさずに駆けていく。両者の距離が十分に近づき、大蜘蛛はカイルの頭部を噛み千切らんと喰いかかった。カイルは上体を後ろに倒し紙一重で牙を交わすと、そのままスライディングしながら落ちていた剣を拾う。大蜘蛛の頭胸部の下を滑走しカイルは魔物の核のちょうど真下に来た。やった!十分に剣が届く距離だ!

「はぁぁぁあああッ!!」

 カイルは渾身の力を込め、剣を魔物の核に向けて突き上げた。

 キィンッと甲高い金属音が鳴り響く。静かな夜の森に反響する快音。カイルの突き上げた剣は見事に魔物の核を破壊した・・・かに思えた。

『・・・えっ?』

 カイルが魔物の核に向けて突き上げた剣は、あろうことか魔物の外殻がいかくにぶつかった衝撃で根元からポッキリ折れてしまっていた。魔物の外殻が硬すぎたのか蜘蛛の糸に腐食性の物質が含まれていたのか、とにかくカイルの剣は魔物の核に届きえず虚しく地面に転がり落ちた。

 大蜘蛛は二三歩後退し、顔の正面でカイルを捉えた。おおいかぶさるような形で仰向けのカイルを睨みつける。カイルに、逃げ場はない。

「くそったれ・・・!」

 大蜘蛛はゆっくりと口を開く。赤黒く鋭い牙が月明かりを反射する。私は何も出来ず、ただ呆然と、その光景を眺めていた。


「嘘・・・。」

 リネットは手に下げていたバスケットをドサリと落とした。バスケットのフタが開き中に入っていたフルーツサンドが醜く形を変え地面に転がる。チーコに作ったケーキの残りで作ったのだろうか。夜遅くまで見張りをしていたカイルへの差し入れのつもりだったのかもしれない。カウベアのミルクから作った真っ白なホイップクリームが今は黒く泥まみれになっている。

 森の広場にたどり着いたリネットの目に飛び込んできたのは、巨大な蜘蛛とそれがくわえている人影だった。脇腹に蜘蛛の巨大な牙が突き刺さり、左腕は食い千切られている。無惨に変わり果てたその人影がカイルであることにリネットはすぐに気付けただろうか。あるいはすぐにカイルであることを理解したが、リネットの心がその結論を受け入れられなかったのかもしれない。リネットはただ立ち尽くし目を丸くしてその光景を見ているだけだった。

「逃げ・・・ろ。リネッ・・・。」

 蚊の鳴くような声でカイルが訴える。もう息もえだ。蜘蛛の牙から毒も回っていることだろう。どう見ても、もう助からない。

「カイ、ル・・・?」

 カイルは大蜘蛛の牙から放され、ドサリと地に落ちた。大蜘蛛はぐるりと向きを変えリネットを睨みつける。あぁ、もうダメだ。リネットも殺されてしまう。村もなにも守れない。私はとても見ていられず、両手で顔を覆い俯いた。

「逃げ・・・ろッ!早、くッ・・・!」

「カイルーッ!!!」

 ―――・・・。

 シンッと静まり返った。リネットがカイルに駆け寄ろうとする音、大蜘蛛がリネットに向かって突進する音、かすかな夜風の音色さえ、一瞬のうちに何も聞こえなくなった。何が起こったのだろう。私は恐る恐る顔を覆っていた手を離した。

 何もかも、止まっていた。リネットの命を刈り取らんと突進する大蜘蛛も、そんなものには目もくれずカイルに走り寄るリネットも、その瞳から宙へ舞った大粒の涙さえもあたかもそれが透明な宝石であるかのように形を変えず停止している。

 何が起きたのか分からず呆然とする私の前に、突然強い光が現れた。目がくらむようなその光に思わず目を細めるが、徐々に光は弱まりその光が人の形をしていることが見て取れるようになった。

『大丈夫・・・。』

 人の形をした光が、一歩二歩とカイルに歩み寄り語りかける。その光は少しずつ色と形を明確にし、その姿が鮮明になりはじめた。まばゆい純白のドレスを身にまとい、その背からは三対の翼が広がっている。歩くたびにひるがえるそのほとんど重さを感じさせない金色の頭髪は、腰まであるその一本一本がほのかに輝いていた。カイルを見つめるあおく透き通った瞳は、慈愛に満ちた微笑みを湛えている。

 女神様だ。もちろん実物ではなく分身や幻覚のようなものなのだろうが、それは間違いなく女神様の姿をしていた。

『あなたには、救うことが出来ます。その力があります。』

 女神様の右手にぽうと白い宝玉のようなものが現れた。女神様はたおやかな仕草でその宝玉を倒れ伏すカイルの胸へと入れ込む。すると私の胸とカイルの胸が一本の光の帯によって結ばれた。私の中にある勇者の力が、カイルの魂と繋がったのだ。

『だってあなたはそのためにこの世界ここに来たのですから。』

 瞬間、カイルの体から凄まじい光が溢れ出した。その光に溶けるように女神様の姿が掻き消えていく。完全に消え去るその一瞬前に女神様は私に向けて微笑みかけたように見えた。

「あぁぁぁぁあああああああッッ!!!」

 カイルの咆哮とともに世界は歯車が噛み合ったかのように突然動きを取り戻した。まばゆい光が収まり周囲の様子が見えてくる。リネットは突然の光に驚いたのかその場にへたり込んでおり、大蜘蛛も突進をやめ何があったのかと周囲を伺っている。私も慌ててカイルの様子を確かめる。

 カイルは立ち上がっていた。カイルの体から発されていた光はもうない。私とカイルを繋ぐ光の帯も見えなくなっていた。ただ、カイルの体から一切の傷が無くなっていた。大蜘蛛の牙によって穿たれた横腹の大穴は跡もなく塞がっており、食い千切られたはずの左腕は始めから何事もなかったかのようにカイルの体にくっついている。ズタズタに切り裂かれた衣服とそれに染み込んだおびただしい量の血がなければ、さっきまでの光景が夢だったのだろうと思える程だ。

 そして彼の右手には剣の形をしたまばゆい光が握り締められていた。

 危険を察したのか大蜘蛛がカイルの方へ向き直り、すぐに牙を剥いて突進を始める。カイルは大蜘蛛の方を見もせずにただ立ち尽くしている。それまで呆然としていたリネットがカイルの危機に悲鳴を上げた。

「嫌ぁッ!!」

 ヒュンと風を切る音がしたかと思うと、気付けばカイルは大蜘蛛の背後に立っている。いつの間に回り込んだのかとそう思ったが、そうでないことにすぐに気付いた。大蜘蛛が縦に両断されている。カイルはあの光の剣によって大蜘蛛を頭から切り裂き、真っ二つに両断して背後から出てきたのだ。核も見事に切り裂かれており、大蜘蛛の身体は空気に溶けるようにサラサラと消えていった。

「・・・カ、カイル?」

 リネットは目を丸くしてカイルを見つめていた。カイルの手から役目を終えた光の剣がスゥッと消え、カイルはただ立ち尽くしている。

 突然カイルががくりと膝をついて倒れた。仰天したリネットが慌てて駆け寄る。

「カイルッ?カイルッ!!」

 どうやら気絶しているだけのようだ。カイルが息をしていることを確認したリネットはふぅと安堵の息を漏らし、精一杯の力を振り絞ってどうにか彼の体を背負うことが出来た。なかば引きずるような形になっているが、なんとか村まで連れ帰ってくれるだろう。

 私はふぅと深い溜息を吐いた。なんともヒヤヒヤさせられたが、どうにかリネットも村も守りカイルは魔物を討ち果たすことが出来た。そして、勇者の力に覚醒することとなった。これでもうカイルはただの狩人ではいられず、勇者としての宿命に身を投じることとなる。もちろん初めからそのつもりでカイルの監視役を勤めていたのだが、何故だろうか。私の胸中に微かな不安と言い知れぬ寂しさが渦を巻いて、私は天を仰いでいた。

 この日の丸々とした満月は、救世の勇者カイルの誕生を祝福していたのか、普通の青年としてのカイルの死をいたんでいたのか、私には分からなかった。

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